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第五章 海妖霧散《かいようむさん》
3 大祭司
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最初に出現したのは、巨大な白いロープ状の触手だった。
どこかで見たそれが、海中を泳ぐようにするすると円を描いたかと思うと、その円の内側から眩い光の固まりが抜け出てきたのである。
「おいおいおい……」
目を覆いながら、呆れて恭司は呟いた。
「そりゃ、どこでもいいとは思ってたけど……何もこんなとこに通すことはないだろ……」
恭司に詰られるのを恐れたわけではあるまいが、〝門の守護者〟は通すだけ通してしまうと、さっさと触手を引っこめて退散してしまった。
確かに、〝とりあえず通して〟やったのだ。たとえ、通した先が地球の海の底――しかもルルイエ――であったとしても、誰にも責められる筋合いはないだろう。恭司にも、フォマルハウトの炎の精にも。
――ぐあああああ。
ようやく自由になれた歓喜からか、それとも突然水中に放たれた苦痛からか、クトゥグアが絶叫を上げていた。
普通の炎であったなら、一瞬のうちに消えていただろう。
だが、その炎は生きていた。プランクトンを呑むこむ鯨のように、深きものどもを焼きながら、海水を蒸気に変えながら、なおも燃えつづけていた。
さながら、海の中で輝く太陽。
恭司は安全なシールドの中で、この世にはありえない光景に見入っていた。
――大祭司様! 大祭司様!
どこにいるのかはわからないが、恐慌状態に陥ったダゴンが助けを求めているのが恭司にも聞こえた。
――どうかお助けくださいませ! このままでは我らは滅びてしまいます! どうか……!
念波は唐突に切れた。
クトゥグアは狂ったように叫びながらも、少しずつ確実に膨れ上がってきていた。このまま行けば、地球上の海水すべてを蒸発させてしまうかもしれない。
それもまあ面白いか。他人事のように恭司が思ったとき、今は動けないはずのものが動いた。
はじめはクトゥグアが勝手に分裂したかと思われた。黒い裂け目ができたかと思うと、次々と細分化していく。小さくなった炎はもはや海水に対抗できず、あっというまに消え去っていった。
――やめろ、やめてくれえええ。
哀れっぽくクトゥグアが命乞いをする。しかし、その相手はまったく聞く耳を持たなかった。
岩山から全身を現すことなく、黒い触腕だけを容赦なく振り回しつづけ、ついにクトゥグアを漁火ほどの大きさにまで小さくしてしまうと、触腕を巻きつけて一気に握り潰す。
――ぐぎゃっ。
その声を最後に、ルルイエは元の闇と静寂を取り戻した。そして。
触腕は岩山へと音もなく戻り、そのまま二度と動かなかった。
「もしかして……」
眉をひそめて恭司は呟く。
「クトゥグアがうるさかったから、目覚まし壊す感覚で、叩き潰しただけのことなのか?」
「たぶんな」
あっさり〈這い寄る混沌〉は同意した。
「あれにとっては、寝返りを打った程度のことだ。もっとも、それだけで夢にも現にも甚大な被害を与えているがな」
「じゃあ、今ので地上にも……」
「感受性の強い者なら何人かは狂死しただろうな。だが、医者には原因が何かはわからないだろうよ」
〈這い寄る混沌〉は皮肉げに笑うと、恭司の腕を取った。
「ところで恭司。もう帰ってもいいだろう?」
周囲は暗くよどみ、生命の気配はまったく感じられなくなっていた。
深きものどもはともかく、ダゴンやヒュドラはどうなってしまったのか。クトゥグアに焼かれて死んでしまったのか。
だが、それでも〝大祭司〟――クトゥルーは眠りつづけるのだ。
自分を熱望するものたちがすべて滅び去っても、目覚める〝時〟が来るまでは。何事もなかったかのように、ずっと。
「いいよ」
答えて恭司は目を閉じた。
もう、壊れ物は見たくない。
帰った先は、もちろん元いた恭司の部屋の中だった。すぐに〈這い寄る混沌〉の足元を確認したが、すでに靴は履いていなかった。恭司に怒られたのがよほど応えたのか、この点だけは頑なに守っている。
「あー、疲れた」
ろくなことはしてこなかったが、背伸びしてからコタツに入る。このとき、テレビでは太平洋上で海底火山の爆発が原因と思われる巨大な水蒸気が発生したとの速報で流されていたが、テレビの電源は入れなかった恭司が知ることはついになかった。
恭司がコタツの前に座ったのを見届けてから、〈這い寄る混沌〉は畳の上に腰を下ろした。もう用は済んだはずなのだが。
そんな蕃神を恭司は露骨に嫌そうな顔をして見ていた。が、ふと口角を上げると、甘えるような声を出した。
「なあ、ナイア」
「な……何だ?」
これまでがこれまでだけに、〈這い寄る混沌〉は照れる前に怯えた。
その高い鼻先に、恭司は例の銀の指輪を突きつける。
「これは、俺のものなんだよな?」
「何を今さら……」
「じゃあ、どうして俺の意志で形を変えられないんだ?」
「それは……」
「俺のもの、なんだよな?」
〈這い寄る混沌〉を睨みつけながら、もう一度問う。
「たとえ本になっても、鍵になっても、俺の思いどおりに使えるんだよな?」
「無論そうだ。だが……」
「俺、もともとこういう指輪とか腕時計とかつけるの、大嫌いなんだよ」
思いきり顔をしかめて、抜けない指輪を抜こうとする。
「こいつのせいで、手だってきちんと洗えない。とりあえず、今すぐ本の形に戻してくれ。でなかったら、自分で自分の左手切り落としちまいそうだ」
「わ、わかった。わかったから」
冗談や脅しでなく、本気で思っているのが伝わったのか、〈這い寄る混沌〉はあせって恭司の左手をつかんだ。
「でも、今だけだぞ?」
そう念押しして、恭司の薬指にはまっている指輪を撫でる。
指輪は今度は鍵の形態には戻らず、そのままあの黒い本へと姿を変えて、蕃神の手の中に収まった。
「……とれた!」
恭司はそれはそれは嬉しそうに笑って――まだ不服そうだった〈這い寄る混沌〉がつられて笑ってしまったほどだ――数週間ぶりに拘束から解放された自分の左手をさすった。
あれほどしっかりはまっていたのに、恭司の薬指には何の跡もなかった。傍目には指輪にしか見えなかったが、やはり普通の指輪ではなかったということなのだろう。
「よし、手洗うぞ!」
恭司はそう宣言して流し台に行き、薬用石鹸を使って丁寧に洗った。
「それほど嫌だったのか?」
その姿を見て、蕃神は傷ついたようだ。
「嫌だったよ。だけど、あんたが無視したんじゃねえか」
タオルで手を拭きながら、恭司は部屋の中に戻ってまたコタツの前に座る。
「おかげで、その本の中身もまともに見れなかった」
「見たかったのか?」
意外そうに〈這い寄る混沌〉は言い、手に持っていた黒い本――『死霊秘法』を恭司に差し出した。
「そりゃ、売っ払うこともできないんなら見てみたいよ。どうせ読めないけどな」
恭司はタオルで左手を覆ったまま――再び指輪をはめられないように――本を受け取り、右手で中を開く。
「いや。それは所有者だけに読めるようにできている。おまえには読めるはずだ」
「……なるほど。何語かはわからなくても、意味はわかるな」
数ページ読んでみてから恭司は同意した。こんな調子で英語のテキストも読めたらいいのにと思いながら。
「でも、ナイア。これっておかしくないか?」
「何がだ?」
「最初にこれを見せられたとき、俺は読めなかったぜ?」
〈這い寄る混沌〉は一瞬言葉に詰まった。
「あのときは、まだ……」
「そう。あのときはまだ、〝所有者は言語を問わず読むことができる〟っていうルールができてなかったんだ」
そう言って、本を閉じる。
「そして、たった今、おまえがそのルールを作った。俺が読みたいって言ったから」
「…………」
「おっと。取り消しはもうきかないぞ。それは俺の言ったことを証明することにしかならない」
凍りつく蕃神に、恭司は楽しげに笑った。
どこかで見たそれが、海中を泳ぐようにするすると円を描いたかと思うと、その円の内側から眩い光の固まりが抜け出てきたのである。
「おいおいおい……」
目を覆いながら、呆れて恭司は呟いた。
「そりゃ、どこでもいいとは思ってたけど……何もこんなとこに通すことはないだろ……」
恭司に詰られるのを恐れたわけではあるまいが、〝門の守護者〟は通すだけ通してしまうと、さっさと触手を引っこめて退散してしまった。
確かに、〝とりあえず通して〟やったのだ。たとえ、通した先が地球の海の底――しかもルルイエ――であったとしても、誰にも責められる筋合いはないだろう。恭司にも、フォマルハウトの炎の精にも。
――ぐあああああ。
ようやく自由になれた歓喜からか、それとも突然水中に放たれた苦痛からか、クトゥグアが絶叫を上げていた。
普通の炎であったなら、一瞬のうちに消えていただろう。
だが、その炎は生きていた。プランクトンを呑むこむ鯨のように、深きものどもを焼きながら、海水を蒸気に変えながら、なおも燃えつづけていた。
さながら、海の中で輝く太陽。
恭司は安全なシールドの中で、この世にはありえない光景に見入っていた。
――大祭司様! 大祭司様!
どこにいるのかはわからないが、恐慌状態に陥ったダゴンが助けを求めているのが恭司にも聞こえた。
――どうかお助けくださいませ! このままでは我らは滅びてしまいます! どうか……!
念波は唐突に切れた。
クトゥグアは狂ったように叫びながらも、少しずつ確実に膨れ上がってきていた。このまま行けば、地球上の海水すべてを蒸発させてしまうかもしれない。
それもまあ面白いか。他人事のように恭司が思ったとき、今は動けないはずのものが動いた。
はじめはクトゥグアが勝手に分裂したかと思われた。黒い裂け目ができたかと思うと、次々と細分化していく。小さくなった炎はもはや海水に対抗できず、あっというまに消え去っていった。
――やめろ、やめてくれえええ。
哀れっぽくクトゥグアが命乞いをする。しかし、その相手はまったく聞く耳を持たなかった。
岩山から全身を現すことなく、黒い触腕だけを容赦なく振り回しつづけ、ついにクトゥグアを漁火ほどの大きさにまで小さくしてしまうと、触腕を巻きつけて一気に握り潰す。
――ぐぎゃっ。
その声を最後に、ルルイエは元の闇と静寂を取り戻した。そして。
触腕は岩山へと音もなく戻り、そのまま二度と動かなかった。
「もしかして……」
眉をひそめて恭司は呟く。
「クトゥグアがうるさかったから、目覚まし壊す感覚で、叩き潰しただけのことなのか?」
「たぶんな」
あっさり〈這い寄る混沌〉は同意した。
「あれにとっては、寝返りを打った程度のことだ。もっとも、それだけで夢にも現にも甚大な被害を与えているがな」
「じゃあ、今ので地上にも……」
「感受性の強い者なら何人かは狂死しただろうな。だが、医者には原因が何かはわからないだろうよ」
〈這い寄る混沌〉は皮肉げに笑うと、恭司の腕を取った。
「ところで恭司。もう帰ってもいいだろう?」
周囲は暗くよどみ、生命の気配はまったく感じられなくなっていた。
深きものどもはともかく、ダゴンやヒュドラはどうなってしまったのか。クトゥグアに焼かれて死んでしまったのか。
だが、それでも〝大祭司〟――クトゥルーは眠りつづけるのだ。
自分を熱望するものたちがすべて滅び去っても、目覚める〝時〟が来るまでは。何事もなかったかのように、ずっと。
「いいよ」
答えて恭司は目を閉じた。
もう、壊れ物は見たくない。
帰った先は、もちろん元いた恭司の部屋の中だった。すぐに〈這い寄る混沌〉の足元を確認したが、すでに靴は履いていなかった。恭司に怒られたのがよほど応えたのか、この点だけは頑なに守っている。
「あー、疲れた」
ろくなことはしてこなかったが、背伸びしてからコタツに入る。このとき、テレビでは太平洋上で海底火山の爆発が原因と思われる巨大な水蒸気が発生したとの速報で流されていたが、テレビの電源は入れなかった恭司が知ることはついになかった。
恭司がコタツの前に座ったのを見届けてから、〈這い寄る混沌〉は畳の上に腰を下ろした。もう用は済んだはずなのだが。
そんな蕃神を恭司は露骨に嫌そうな顔をして見ていた。が、ふと口角を上げると、甘えるような声を出した。
「なあ、ナイア」
「な……何だ?」
これまでがこれまでだけに、〈這い寄る混沌〉は照れる前に怯えた。
その高い鼻先に、恭司は例の銀の指輪を突きつける。
「これは、俺のものなんだよな?」
「何を今さら……」
「じゃあ、どうして俺の意志で形を変えられないんだ?」
「それは……」
「俺のもの、なんだよな?」
〈這い寄る混沌〉を睨みつけながら、もう一度問う。
「たとえ本になっても、鍵になっても、俺の思いどおりに使えるんだよな?」
「無論そうだ。だが……」
「俺、もともとこういう指輪とか腕時計とかつけるの、大嫌いなんだよ」
思いきり顔をしかめて、抜けない指輪を抜こうとする。
「こいつのせいで、手だってきちんと洗えない。とりあえず、今すぐ本の形に戻してくれ。でなかったら、自分で自分の左手切り落としちまいそうだ」
「わ、わかった。わかったから」
冗談や脅しでなく、本気で思っているのが伝わったのか、〈這い寄る混沌〉はあせって恭司の左手をつかんだ。
「でも、今だけだぞ?」
そう念押しして、恭司の薬指にはまっている指輪を撫でる。
指輪は今度は鍵の形態には戻らず、そのままあの黒い本へと姿を変えて、蕃神の手の中に収まった。
「……とれた!」
恭司はそれはそれは嬉しそうに笑って――まだ不服そうだった〈這い寄る混沌〉がつられて笑ってしまったほどだ――数週間ぶりに拘束から解放された自分の左手をさすった。
あれほどしっかりはまっていたのに、恭司の薬指には何の跡もなかった。傍目には指輪にしか見えなかったが、やはり普通の指輪ではなかったということなのだろう。
「よし、手洗うぞ!」
恭司はそう宣言して流し台に行き、薬用石鹸を使って丁寧に洗った。
「それほど嫌だったのか?」
その姿を見て、蕃神は傷ついたようだ。
「嫌だったよ。だけど、あんたが無視したんじゃねえか」
タオルで手を拭きながら、恭司は部屋の中に戻ってまたコタツの前に座る。
「おかげで、その本の中身もまともに見れなかった」
「見たかったのか?」
意外そうに〈這い寄る混沌〉は言い、手に持っていた黒い本――『死霊秘法』を恭司に差し出した。
「そりゃ、売っ払うこともできないんなら見てみたいよ。どうせ読めないけどな」
恭司はタオルで左手を覆ったまま――再び指輪をはめられないように――本を受け取り、右手で中を開く。
「いや。それは所有者だけに読めるようにできている。おまえには読めるはずだ」
「……なるほど。何語かはわからなくても、意味はわかるな」
数ページ読んでみてから恭司は同意した。こんな調子で英語のテキストも読めたらいいのにと思いながら。
「でも、ナイア。これっておかしくないか?」
「何がだ?」
「最初にこれを見せられたとき、俺は読めなかったぜ?」
〈這い寄る混沌〉は一瞬言葉に詰まった。
「あのときは、まだ……」
「そう。あのときはまだ、〝所有者は言語を問わず読むことができる〟っていうルールができてなかったんだ」
そう言って、本を閉じる。
「そして、たった今、おまえがそのルールを作った。俺が読みたいって言ったから」
「…………」
「おっと。取り消しはもうきかないぞ。それは俺の言ったことを証明することにしかならない」
凍りつく蕃神に、恭司は楽しげに笑った。
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