【完結】虚無の王

邦幸恵紀

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第五章 海妖霧散《かいようむさん》

1 銀の指輪

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 ――面倒だな。
 行きつけのコンビニでマンガ雑誌を立ち読みしながら、恭司はいつもの口癖を心の中で呟いた。最近は特に、一日に十回以上は確実に呟いているような気がする。
 火野に死なれて――こちらの世界では〈這い寄る混沌〉に死体を消されていたのでまだ失踪扱いになっているが――結局いちばん困ったのは、間違いなく恭司だった。もう大学の講義をサボっても、代わりにノートをとってくれる奇特な人間はいない。
 だが、いなければいないで何とかしてしまうのも人間だ。恭司は面倒だと思いながらも、サボってもどうにかなりそうな講義以外は真面目に出ていた。あの蕃神が大学卒業前に安楽死させてくれるという保証はどこにもない。

「すいません」

 左側から声をかけられて、恭司は雑誌から顔を上げた。
 これといった特徴のない若い男が、申し訳なさそうに笑いながら立っていた。
 知らない顔だが、服装からするとフリーターか大学生のようだ。

「はあ……何ですか?」

 男はさらに近づくと、いきなり恭司の左腕をつかんで、小脇に抱えていたスポーツバッグを放り投げた。
 男の右手には一撃で頭もかち割れそうな鉈があった。それをそのまま恭司の左手に向けて振り下ろす。

「これはもらってく……」

 歓喜の笑みを浮かべていた男の顔が、突如、激痛に歪んだ。

「自分がやられて嫌なことは、人にはするなって教わらなかったか?」

 のんびりそう言いながら、恭司は雑誌を元の場所に戻した。

「麻酔なしで腕を切られたら痛いだろ?」

 男は自分の右腕を押さえて床を転げ回っていた。
 周りにいた客たちが何事かと目を剥いている。
 男の右の二の腕から先は、ちぎりとられたように何もなかった。

「救急車、呼んであげてください」

 まだ何が起こったか理解できていない店員にそう言い残すと、恭司は悠々とそのコンビニを出た。これでもうこの店には来れなくなったなと思いながら。



 火野が言いふらしたのか、それとも、すでに時間の問題だったのか。
 見ず知らずの人間に襲われかけたのは、これで実に三度目だ。さすがにいきなり左手を切り落とそうとした猛者はいなかったが。
 一度目は路地裏でサラリーマン風の男二人に。二度目は住宅街の真ん中で黒服の男たちメン・イン・ブラックに(このときは思わず笑ってしまった)。
 だが、どうやらこの指輪には、恭司に危害を加えようとする者を自動的に攻撃するというオート機能も備わっているようで、特に恭司が考えなくても、勝手に相手の手や腕をどこかへ飛ばしてしまう。全身を押さえこまれそうになったときには、その人間ごといなくなっていた。
 たぶん、そのたび呼べば、すぐにあの蕃神は飛んでくるのだろうが、呼んだほうがもっと面倒になりそうなので、あえて呼ばずにいる。
 しかし、いくら命の危険はないとはいえ――その気になれば、自分の部屋に飛ぶこともできるのだ。集中力が必要なので、滅多にはやらないが――こうもちょっかいを出されると、鬱陶しくて仕方がない。
 今はまだ下っ端で様子を見ているようだが、敵――おそらく一派ではあるまい――の攻撃はさらにエスカレートしていくだろう。
 それもこれも、この指輪が抜けないのがいけないのだ。何とか、元の本か鍵の形に戻せないものだろうか。

「あー……面倒くさ」

 恭司はぼやきながら、いっそこの左手だけをどこかに飛ばせないものかとふと考えた。痛そうだからすぐにあきらめたが。

 ***

 呼び鈴が鳴ったとき、恭司はコタツで居眠りをしかけていた。
 いつもなら相手の正体を確かめてからドアを開ける。が、今の恭司は声を出すことすら面倒になっていた。ので、迷わず居留守を決めこむ。
 しかし、客はもう一度呼び鈴を鳴らすと、ドアの向こうから遠慮がちに声をかけてきた。

「恭司。……私だ」

 〝ワタシ〟などという知り合いはいないが、その低い声の持ち主には心当たりがあった。顔を思いきりしかめ、ドアに向かって叫ぶ。

「勝手に入れ! できるだろ?」
「勝手に入られるのは嫌だと言っただろうが……」

 客はぶつぶつ言いながらもドアの内側に現れた。ドアもノブもいっさい動かすことなく。

「俺が寝たいときに来るんじゃねえ」

 コタツ布団を被り直しながら悪態をつく。怒るかと思いきや、客――〈這い寄る混沌〉は苦笑いして靴を脱いだ。

「それはすまなかったな。いくら私でも、そこまではわからんのでな」

 蕃神は部屋に上がりこむと、恭司のそばに座りこんだ。てっきり起きろとでも言うかと思っていたが、恭司が横になっていてもずっと黙っている。すっかり眠気が覚めてしまった恭司は、舌打ちしてむくりと起き上がった。

「寝るんじゃなかったのか?」

 〈這い寄る混沌〉は意外そうに恭司を見た。用があったから来たのだろうに、恭司が起きるまで待つつもりだったようだ。
 気が長いのか、そもそも用などなかったのか。
 ゴム紐がとれてばらけてしまった髪を掻きながら、恭司はコタツから立ち上がった。

「どこへ行く?」
「玄関から来た客には茶くらい出してやるよ。缶だけど」

 恭司は冷蔵庫を開けて缶入り緑茶を二本取り出すと、一本を蕃神に差し出し、残りの一本のプルタブを開けて飲んだ。

「そ、そうか……」

 〈這い寄る混沌〉は嬉しそうに缶は受け取ったが、プルタブを開けて飲もうとはしなかった。

「で? 今日はどこに行くんだ?」

 今まで寝ていた席に戻ってそう訊ねると、蕃神は恭司が予想もしていなかった言葉を返してきた。

「いや、おまえが行きたくないなら行かなくてもいい」

 ちょうど緑茶を飲んでいた恭司は思わずむせた。

「大丈夫か?」
「何とか……って、あんたこそ、大丈夫か?」
「何がだ?」

 蕃神はきょとんとして恭司を見つめ返す。

「あんたらとしては、ちゃっちゃっと予定をこなして、さくさく計画を進めたいんじゃないの?」
「別に。そんなことはない」

 あっさり〈這い寄る混沌〉は否定した。

「おまえが行きたくないのなら、いくらでも先に延ばせる」
「行きたくないことはないけどさ……」

 呆れて恭司は眉をひそめる。

「もし俺が行きたくないって言ったら、あんた、すぐに帰るのか?」

 蕃神は沈黙した。行かなくてもいいが、すぐに帰りたくはないようだ。
 恭司は顔をそらせて嘆息すると、コタツの天板に両手をつき、勢いをつけて立ち上がった。

「行くよ。ほら、さっさと案内してくれよ」
「別に無理にとは……」
「無理じゃないよ。っていうか、さっさと終わらせたい」

 〈這い寄る混沌〉は憮然としていたが、結局、何も言わずに自分も腰を上げた。

「ところで。それ、飲まないの?」

 蕃神がいまだに緑茶の缶を持ったままでいるので、気になって目で指すと。

「あ、ああ……持って帰る」

 飲まないのなら返せと言われることを恐れたのだろうか。〈這い寄る混沌〉はその缶をすばやく自分のコートのポケットの中にしまいこんでしまった。

「あ、そう」

 実は返せと言おうと思っていた恭司は、先を越されてそう答えるしかなかった。
 これが人間相手なら〝せこい〟と思うが、〈這い寄る混沌〉が缶を持ち帰ろうとするのは経費削減のためではなく、初めて恭司からもらったものだからだろう。
 こんなことをされるくらいなら、またインスタントコーヒー(当然ブラック)でも出しておけばよかった。緑茶一缶、無駄にした。

「で、今日はどこに?」

 どうせまた〝行けばわかる〟とか何とか言われるだろう。恭司はそう思っていた。
 しかし、〈這い寄る混沌〉は恭司の左手を取ると、またしても彼の予想に反した回答を返してきた。

「海の底だ」
「は?」

 だが、そのときにはもういつものように、蕃神に抱きすくめられていた。
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