【完結】虚無の王

邦幸恵紀

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第四章 炎魔消失《えんましょうしつ》

2 炎の精

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 炎を見た瞬間、反射的に恭司が思ったのは、火傷したくないな、だった。
 その願いが通じたのか、それともこれも銀の指輪の効果なのか、恭司は火傷はせずに済んだ。
 本当に、それだけだった。
 恭司の周りでは無数の小さな炎が蛍のように飛び交っており、彼に向かってきてはぶつかる寸前に消し飛んでいた。熱くはないが、精神衛生上はよろしくない。
 おまけに、その小さな炎の群れの向こうでは、視界を覆うほどの巨大な炎の固まりが音もなく燃えさかっていたのである。

 ――忌々しい指輪だ。

 誰かが恭司に対して言った。
 否。正しくは〝意志〟を伝えたのだ。音声や言語を使わずに。

 ――確かに〈門〉は開けるが、おまえを移動させる役にしか立たない。かといって、おまえから奪おうとすれば、そのたび周囲の空間を捻じ曲げていく。おまえもいつまでもそんなところにいたくはあるまい?

「ああ、いたくないね。トイレにも行かなきゃなんないし」

 そう言いながら、恭司は指輪をいじった。
 回すことも上に動かすこともできない。これではニッパーで切断するのも難しそうだ。

 ――ならば、その指輪ごと左手を切り落とし、我に渡せ。さすれば、すぐにでもおまえをここから解放しよう。

「何で俺があんたのために、そんな痛い思いしなきゃならねえんだよ?」

 恭司は不愉快きわまりない顔で、を睨みつけた。
 もしも〈這い寄る混沌〉がこう言われていたら、血相を変えて逃げ出していただろう。しかし、は怯むどころか、怒りもしなかった。
 地球より約二十五光年離れた、フォマルハウト星に棲むという炎の精。
 ラヴクラフトの〝不肖の弟子〟オーガスト・ダーレスは、それを〝クトゥグア〟と呼んだ。

 ――それでは、おまえの命が絶えるまで、そこにそうしていてもらうしかないな。おまえが攻撃されている間中、その指輪は空間を捻じ曲げつづけるだろうが、同時に〈門〉は開けられない。我はただ待てばよい。

「そんなにこの指輪が欲しいのか?」

 恭司は左手の甲をクトゥグアへ向けた。

「でも、こいつは確か、地球の人間にしか使えないんじゃなかったか? あんたが持ってても宝の持ち腐れってやつだろ」

 ――残念だったな。それを使える。どこの〈門〉でも、自由にこじ開けられる。

「その〈門〉の意志には関係なく、か?」

 ――そんなもの。問題にもならん。

「なら、しょうがないな。俺は自分の布団の中で、眠ったまま死ぬのが唯一の夢なんだ。焼死も餓死もしたくない。――ナイア。俺との約束を破る気か?」
「ならば、すぐに我を呼べ」

 そんな不満そうな男の声が返ってきたかと思うと、恭司は後ろから黒衣の腕に抱きすくめられた。

「もう数瞬早かったら間に合ったのに。おまえは我を呼ぶのが遅すぎる。それほど我を呼びたくないか?」
「用がなければな」
「恭司ぃ」

 炎の集中豪雨をまったく無視して――そもそも、視界にすら入っていなかったのかもしれない――〈這い寄る混沌〉は恭司の髪に頬擦りする。恭司は辟易しながら耐えた。背に腹は替えられない。

 ――貴様ぁぁぁ!

 クトゥグアの怒声に合わせて、さらに炎球えんきゅうが降り注いだが、それらはすべてぶつかる前にことごとく吹き消されていく。確か、このクトゥグアは〈這い寄る混沌〉のほとんど唯一の〝天敵〟だったはずなのだが。

「恭司、怪我はないか?」
「おかげさまで」
「……嫌味か?」
「前から言おうと思ってたけど、この指輪。どうして俺には自由に使えないんだ?」

 〈這い寄る混沌〉の目の前に、恭司は左手の指輪を突きつけた。
 蕃神は少しだけ不服そうに顔をしかめたが、恭司の左手を取って指輪を撫でた。

「おまえが自由に使えないと思っているからだ。言っただろう? おまえが望めば、この指輪はどこへでもおまえを導く」
「俺が今まで行ったことがないところでもか?」
「無論。だが、よほど明確なイメージを持たないと、それは難しいぞ」
「わかった。じゃあ、最初は行ったことがあるところにしよう」

 〈這い寄る混沌〉の手を振りほどき、自分の左手を右手で握る。その直後、恭司の姿は消えていた。
 つい先ほどまで恭司がいたはずの空間を、蕃神は茫然と見つめていた。が、額に手をやり、深い溜め息をつく。

「貴様のせいで、知らなくてもいいことまで教える羽目になったわ」

 その声音は恭司と対していたときとまるで異なっていた。
 聞いただけで鼓膜を切り裂きそうな、凍てついた声。

「まったく、ランプはランプらしく、宇宙そらのはずれで細々と燃えておればよいものを」

 ――貴様のせいだ!

 クトゥグアは爆発的に広がり、〈這い寄る混沌〉を呑みこもうとした。しかし、〈這い寄る混沌〉の周囲にあった闇に逆に蝕まれ、急速に元の大きさに戻っていく。

 ――我がここから動けぬのは、貴様が人間どもを唆したからだ!

「聞き飽きた」

 黒き蕃神は形のいい耳をいじりながら一笑に付した。

「そこから吹き消されないだけましだと思え。我は貴様などいなくてもよいと思っている。貴様を望む物好きな人間がいることに、せいぜい感謝するのだな」
「俺も望んじゃいないけどね」
「恭司! どこに行っていた!」

 口こそ恭司を責めていたものの、〈這い寄る混沌〉の表情は明らかに彼の帰還を喜んでいた。

「いや、よく考えてみたら、俺が移動する必要はなかったんだ。行ってから気がついて、あわてて引き返してきた」

 ちょうど〈這い寄る混沌〉とクトゥグアの中間に現れた恭司は、左手にはまっている指輪を撫でながら答える。

「要は、あれだろ? とにかくそこから移動できればいいんだろ? それなら俺がでっかくて立派な〈門〉を開けてやるよ。まあ、開いてくれるかどうかは、やってみなくちゃわかんないけど」
「恭司……まさか」
「これは、どんな〈門〉でも開けてくれるんだろ?」

 にっこり笑い、左手を頭上に掲げる。

「たとえそれが〝神様〟でも?」
「恭司!」

 〈這い寄る混沌〉があせって声を上げた、そのときにはもうあの薄明が広がりはじめていた。
 ――と。
 薄明の中心を突き破るようにして、白くて巨大なロープ状の触手が一本現れた。粘液を滴らせながら、こちら側の様子を窺うように蠢いている。
 〈這い寄る混沌〉は小さく舌打ちすると、すばやく恭司に近づいて、彼を触手から遠く離れた場所まで移動させた。

「よう、エロオヤジ」

 蕃神に抱きしめられながら、涼しい顔で恭司は言った。

「フォマルハウトの炎の精が自由にお出かけしたいそうだ。どこに行きたいかは知らないが、とりあえず通してやってくれないか? それであのときのおさわり代はチャラだ」
「恭司……」

 〈這い寄る混沌〉は心底呆れたようだったが、それ以上は何も言わず、恭司の頭を抱き寄せた。
 はたして、恭司の言うことを了解したのか、巨大な触手は大きくうねると、空中に円を作って静止した。
 それから数秒。
 その円から目の眩むような白い光が噴き出し、薄闇を真昼に変えた。

 ――おおおおお。

 クトゥグアが歓喜とも恐怖ともつかない雄叫びを上げる。その周りを飛んでいた小さな炎の群れは、円の中の巨大な光に引き寄せられ、次々と吸いこまれていた。

「さあ、望みどおり、そこからどこへでも好きなところに行け!」

 〈這い寄る混沌〉の腕の中で、笑いながら恭司が叫ぶ。

「たぶん、これが最初で最後のチャンスだ! 俺はもう二度とそいつに触られるつもりはないからな!」

 クトゥグアからの返答はなかった。しかし、生ける巨大な炎の固まりは、確実に門の守護者の作った円へと近づき、その中をくぐり抜けた。
 そして。
 クトゥグアが完全に円をくぐり終えたとき、そこは光が現れる前の薄闇に戻っていた。触手はうねりながら円を崩すと、するすると空中に消えた。薄闇は濃い闇となり、すべてを押し包んだ。

「……馬鹿な」

 〈這い寄る混沌〉は信じられないように呟いた。

「なぜ、あれがおまえの言うことをきく?」
「別に俺の言うことをきいてるわけじゃないだろ」

 そっけなく恭司は否定する。

「たまたまやりたいことが一致しただけだ。エロオヤジも今は通してやりたかったんだろ。どこへ通したのかまでは知らないが」
「それはそうかもしれないが……鍵を使ってこんなことをしたのは、おまえが初めてだ、恭司」
「俺に言わせりゃ、やろうとしないほうがおかしい。それと疑問だ。普通、鍵ってのは開けるのにも使うが、閉めるのにも使わないか?」

 〈這い寄る混沌〉は理解しがたいように眉をひそめたが。

「まあ……理屈上はな」
「だったら、この鍵を使えば、二度と誰にも開けられないようにすることもできるはずじゃないか?」
「……恭司。何を考えている?」
「たぶん、あんたが考えてることと同じだよ」

 恭司はにやりと笑うと、銀の指輪で蕃神の腕を叩いた。

「でも、その前に、俺がいいかげん離してほしいって考えてたの、あんた知ってた?」
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