【完結】虚無の王

邦幸恵紀

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第三章 魔窟逍遥《まくつしょうよう》

1 黒い蟇蛙

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 暑くなく寒すぎない晩秋は、恭司が一年のうちで初夏の次に好きな季節だ。
 しかし、自分の大学のキャンパス内で見覚えのある黒い影を見つけてしまったとき、恭司の機嫌は急降下した。
 恭司以外の学生たちは、何か信じがたいものを見てしまったかのような顔をしてそれを遠まきにしている。その反応は正しい。あれは化け物なのだから。
 そんな周囲の反応など最初から知ったことではないそれは、まっすぐ恭司に向かって歩いてきて、彼の前で立ち止まった。

「迎えにきた」

 黒いトレンチコート姿のその男はそれだけを恭司に告げた。
 陽光の下で、それもキャンパスの中で改めて見ると、腰まで黒髪を長く伸ばしている外国人というのはかなり異様だった。たとえその顔がどれほど整っていたとしても。恭司は無言で男を見上げると、今度は男の足元を見た。

「どうした?」
「いや……やっぱり靴は履いてるなと」
「何を当たり前のことを……」
「何でここまで?」
「どこにいても迎えにいくと言っただろう」

 悠然と男――〈這い寄る混沌〉は答えた。どこか面白がっているようでもある。

「あんたの都合でだろ? 悪いけど、俺、今からどうしてもサボれない講義があるんだ。用があるんなら、せめてそれが終わってからにしてくれないか? そしたら、どこにでも行ってやるから」

 恭司は蕃神の横をすり抜けて立ち去ろうとした。あわてて蕃神が恭司の腕をつかむ。

「恭司、待て」
「何だよ? 勝手に来たのはそっちだろ。あんたにもあんたの都合ってもんがあるんだろうが、俺にも俺の都合ってもんがあるんだよ。何なら俺の時間割、あんたにも渡しとこうか?」

 〈這い寄る混沌〉は渋い顔をしたまま何も言わなかったが、恭司の腕をつかんだまま人気のない校舎の陰まで引っ張っていき、ようやく立ち止まった。

「何だよ」

 ふてくされて恭司が問うと。

「悪かった」

 恭司は我が耳を疑ってまじまじと〈這い寄る混沌〉を見た。蕃神は決まり悪そうに恭司から目をそらせている。

「今後はおまえの都合も考慮する。だから……怒るな」

 ――ますます弱腰になってきてるな。
 不本意だが、恭司はこの蕃神に同情のようなものを覚えた。
 何がどうよかったのか恭司にはさっぱりわからないのだが、どうやらこの蕃神は本気で恭司に惚れているらしい。一応、恭司を訪ねてきた理由は〝第二のラヴクラフトとして小説を書かせて〈旧支配者〉を自由にするため〟なのだが、そこからしてすでに怪しいと恭司は思っている。自分に小説など書けないことは、この蕃神なら最初からわかっていたはずなのだから。
 その証拠に、恭司が小説は書けないからと断っても、さらに、それを理由に殺されてもかまわないと言っても、いっこうにあきらめようとしなかった。挙げ句の果てには、小説は書かなくてもいいから〈旧支配者〉を自由に動けるようにしてくれればいいと言い出す始末。まったく手に負えない。
 だが、その特典として普通は見られないものを見られるのは悪くない。ひとまずそう妥協することにしたのだ。自分が飽きるか嫌になるまでは。

「で? 今度はどこ? まさか、またあんなエロオヤジじゃないだろうな?」

 あきらめて訊ねると、〈這い寄る混沌〉はようやくほっとしたような顔になった。

「いや。食うことと寝ることにしか興味がない奴だ」
「もしかして、土星から飛んできたっていう、あの?」
「予備知識はあまりないほうがいいと思うのだがな」
「そりゃ無理だ。〈クトゥルー神話〉を知らなかったら、あんたのこともわからなかった」
「なるほど。それは仕方ないな」

 〈這い寄る混沌〉はあっさり認めてから、恭司を抱き寄せて時空を跳んだ。

 ***

 跳んだ先は、またしても闇だった。
 しかし、今回は地面があった。とても凹凸の激しい、岩山のような地面が。
 それほど足元が悪いとまったく予想していなかった恭司は転びそうになったが、それを〈這い寄る混沌〉が彼を抱えこむことによって防いだ。

「これはどうも、ご親切に」

 一応助けてもらったことには違いないので、不承不承そう言うと、蕃神はなぜかうろたえたように顔をそらせた。

「いや……おまえに怪我でもされたら困るしな……」

 だが、用が済んでも〈這い寄る混沌〉の腕が恭司から離れる気配はない。恭司は憤然として蕃神の大きな手を見やった。もしその手で体を撫で回してくるようだったら、即、引っぱたいてやろうと狙っているのだが、すでにそれを見越しているのか、〈這い寄る混沌〉は触れる以上のことはしてこない。今のところ。

「んで? ここはどこなんだ?」

 業を煮やした恭司は、とうとう自分から〈這い寄る混沌〉の手を押しのけて、不機嫌に周囲を見渡した。蕃神は少しだけ傷ついたような顔をしたが、恭司に払われた手を自分のコートのポケットの中に収めた。

「ン・カイだ」
「それって、国で言うとどこ?」

 〈這い寄る混沌〉は呆れたように笑った。しかし、それは嘲笑ではなく、冷笑でもなかった。子供の突拍子もない発言に、呆れながらも和まされた、そんな笑み。

「今はどの国のものでもない。おそらくこれからも」
「曖昧な表現だな。まあ、どこでもいいか。どうせ俺一人じゃ来られない」

 恭司は肩をすくめると、前方の闇に目を巡らせた。
 高さも広さもはっきりしない。それでも互いの顔はわかるというのは、いったいどうしたわけだろう。

「で? 御大はこの奥か?」
「わかるか?」

 何が嬉しかったのか、蕃神は少し表情をゆるませた。

「これだけでかいいびき立てられちゃ、嫌でもわかる」

 まるで無呼吸症候群の親父たちが千人くらい集まって寝ているかのようだ。あまり気は進まなかったが、〈這い寄る混沌〉に手を引かれたくはなかったので、恭司は自分からそちらへ向かって歩き出した。
 耳障りな音の波は、一歩近づくごとに大きさを増し、恭司の体を震わせる。それと共に、あのエロオヤジよりはましだが不快な臭いが鼻をつきはじめた。だが、鼾のほうが耐えがたい。途中で恭司は両耳をふさいだが、隣の蕃神はすでに慣れているのか感じていないのか、まったく普段どおりだった。
 やがて、闇の中にわだかまる、さらに濃い闇が現れた。生臭い暴風はそこから発生していた。

「起きろ」

 〈這い寄る混沌〉は日本語で横柄にそう声をかけた。鼾の音に掻き消されて聞こえないかと思われたが、意外なことにその一言で轟音はぴたりとやんだ。

「客だ。しばらく起きていろ」
「……客?」

 岩が言葉を発したなら、きっとこんな声音に違いない。闇を震わせた低い声は、驚いたことに日本語だった。
 ラヴクラフトの友人、クラーク・アシュトン・スミスによって伝えられた、太古の昔に土星から地球へやってきたという邪神。〝ツァトゥグア〟とも〝ゾタクア〟とも呼ばれるその邪神の容貌を、スミスは『七つの呪い』という作品の中でこう描写している。
「その塊はかすかに身じろぎし、このうえなくゆっくりした動作で蟇蛙に似た巨大な頭をおこした。そしてまどろみから半分目覚めたかのように、目をごくかすかに開けたが、その目は額のない黒い顔の中で燐光を放つ二つのすきまのように見えた。」

「どうも。初めまして」

 その巨大な黒い塊に、恭司は軽く会釈した。
 返事はかなり遅れて返ってきた。

「……ん」

 それだけだった。まだ何か言うかと思ってしばらく待ってみたが、結局、それ以上の言葉は出てこなかった。
 恭司は案内者たる〈這い寄る混沌〉を横目で睨んだが、蕃神は積極的に紹介する気も会話させる気もないらしく、気づかないふりをして無視をした。

「いったい何のために連れてきたんだよ」

 大事な講義をサボらされた恨みもこめて非難すると。

「まったくだ」

 もう一柱の神がいかにも眠たげな声で同意する。

「前にも言った。我はおまえたちのすることに何の興味も関心もない。腹を満たし、眠ることができればそれでよい。今、我の腹は満ちている。あとは眠る以外にすべきことは何もない」

 ――まったくだ。
 恭司は深く共感した。この神とはとても気が合いそうだ。ただし、どちらも互いに興味も関心もないが。
 おそらく、ここでもう帰らせてくれと言えば、〈這い寄る混沌〉はすぐに元の場所へ帰してくれるだろう。しかし、このまま何もしないで帰るのも癪だ。恭司はツァトゥグアのさらに奥にある暗闇を指さしながら、傍らの蕃神に訊ねた。

「なあ。この奥にも何かあるのか?」
「それは……」

 と言いかけた〈這い寄る混沌〉を、地を抉るような低い声が遮った。

「ある」

 恭司はその声の主――眠る以外のことはしたくなかったはずだが――を見上げたが、またしてもそれきり終わってしまったので、今はとりあえず人型をしている蕃神のほうへ目を戻した。

「なら、ちょっと見てきてもいいか?」
「ああ、かまわん」

 そう言って、当然のようについてこようとした〈這い寄る混沌〉を恭司は手で押し留めた。

「いいよ。俺一人で行くよ。地面はあるんだろ?」
「それはそうだが……」

 蕃神はかなり不服そうだ。どうしても恭司についていきたいらしい。案内役を自任しているのか、単に恭司から離れたくないだけか。だが、あからさまに迷惑そうな顔をしている恭司を見て蕃神は溜め息をついた。

「わかった。道案内を用意する。だが、危険を感じたらすぐに我を呼べ」

 〈這い寄る混沌〉が左手で何かを招くような仕草をした。すると、遠くのほうでカラスのような鳴き声が上がり、何かがこちらに向かって飛んできた。それはしばらく空中で円を描いていたが――止まり木になるようなものを探していたのかもしれない――ごつごつとした地面に舞い降りてきた。
 無理に分類するなら、鳥ということになるのだろう。蛇のように長い首。蜥蜴のような尾。漆黒の翼には指があり、くちばしには歯がついていて、目は一つしかなかった。

「どちら様?」

 思わず恭司が呟くと、〈這い寄る混沌〉は苦笑した。

「名はラフトンティス。始祖鳥の使い魔だ。今はもう主はいないがな」

 それを聞いて恭司は生真面目に言った。

「〝ラフちゃん〟だな」
「二文字しか覚えられないのか。それに、なぜ〝ちゃん〟をつける?」
「日本では、鳥の名前には〝ちゃん〟をつけることになってるんだ。〝キューちゃん〟とか〝ピーちゃん〟とか」

 どこまでも真面目に答えてから、隻眼の始祖鳥の前にしゃがみこむ。

「じゃあ、ラフちゃん。悪いけど、案内頼む。ただし、俺がしたいのは散歩であって冒険じゃない。そこんとこよろしく」

 恭司の言葉を理解したのかどうかはわからないが、ラフトンティスは短く鳴くと、大きな翼を広げて飛び立った。

「それじゃ、行ってくる」

 立ち上がった恭司は、あっけにとられている様子の〈這い寄る混沌〉に左手を上げ、鼾はかいていないからまだ起きていると思われるもう一柱の神に右手を上げて、始祖鳥の後を追った。

「なるほど」

 恭司の姿が見えなくなってから、冷やかすようにツァトゥグアは言った。

「あの客のために、わざわざここを〝大掃除〟させたのか」
「我が見せたいのは〈旧支配者〉であって、〈旧支配者〉の食い散らかした跡ではないからな」

 苦々しげに〈這い寄る混沌〉が答える。

「あの使い魔なら、安全な場所だけを案内するだろうとは思うが……」
「それほど心配なら、最初からここに連れてこなければよいものを」
「……我の案内をあれほど嫌がるとは思わなかった」
「まともに案内をしないからだろう」
「余計なお世話だ」
「確かに、我にはどうでもよい。だが、あれに振り回されているおまえを見るのは、少し面白い」
「我はおまえの暇つぶしにきたわけではないぞ」

 〈這い寄る混沌〉はさらに表情を険しくさせ、怠惰な邪神を睨みつける。

「では、何をしにきた? 我はここから動けるようになりたいとは思っておらぬ」
「恭司はおまえを気に入ったようだ」

 いかにも不満そうに〈這い寄る混沌〉は言った。

「だから、消滅させるわけにはいかん」
「やれやれ。まだ我は〝飼い殺し〟にされるのか」
「好きで引きこもっているんだろう」
「つまらんからさ」

 黒い巨大な蟇蛙はにたりと笑った。

「我はもう飽いたのだよ。神であることに。あやつらとて同じだろう。自ら白痴となったり、惰眠を貪ったり。不死の身には〝支配者〟であることは退屈でしかない。何度でも死ねるおまえにはわかるまいがな」
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