【完結】虚無の王

邦幸恵紀

文字の大きさ
上 下
6 / 22
第二章 秘鑰開封《ひやくかいふう》

2 導くもの

しおりを挟む
 ――〈門〉が開かれたのだ。
 目には見えなかったが、恭司にもそう認識できた。そして、その〈門〉からは、あたかもパンドラの箱から解き放たれた災いのように、無数のイメージが溢れ出ていた。
 それは悪夢めいた奇怪な植物であったり、化け物としか形容のしようのない有翼の生物であったり、水面を天に戴く海底都市であったりした。
 しかし、それらは互いに何の関連も持っておらず、また恭司とも何の関係も持っていなかった。それらはただそこにあり、これからもありつづけるのだった。利用者のいない図書館のように。

「恭司」

 驚くほど近くで若い男の声がした。誰を呼んでいるのか恭司にはわからなかったが、もう一度言われて、ようやくそれが自分の名前であることを思い出した。

「……何?」

 顔を上げると、浅黒い肌の男が心配げに恭司を覗きこんでいた。
 こちらも少しの間、誰なのか思い出せなかった。表情でそうとわかったのか、男があせったように恭司の肩をつかむ。

「恭司、大丈夫か?」
「何が?」
「何がって……」
「それより、あそこで誰か待ってるみたいだけど?」

 恭司は右の人差指で前方を指さした。
 そこは闇ではなかった。何色ともつかない空から現実世界ではありえない様々な角度から光がさしいり、でたらめに配置されているとしか思えない巨大な石の集合体を照らし出していた。
 象形文字の刻まれた巨大な台座はすべて六角形に近く、そこには衣服にすっぽり身を包んだ異形のものたちが座している。それらの台座の下では、普通の人間の半分ほどの大きさの、やはり台座の上のもののように判然としない色の織物で全身を覆ったものたちが、海月のように漂っていた。
 そのとき、誰かが恭司に話しかけてきた。目の前の男ではない誰かが。それは音声によるものではなかったが、少なくとも恭司に悪感情は持っていなかった。
 この場で恭司に話しかけるようなものといえば、消去法で織物を被った異形のものたちしか考えられなかったが、さて、その中のどれがというと彼にはわからなかった。
 だが、すでに記憶の混乱の収まった恭司は、その〝意志〟を放射しているのが誰かは知っていた。〝ランドルフ・カーター〟は言う。
「それというのもこの異形のものは、ロマール大陸が海底より隆起し、〈猛燎もうりょうたる霧の末裔まつえい〉が地球に到来して〈往古の知識〉を人間に教えて以来、全世界が恐れている存在にほかならなかったからである。まさしく恐るべき〈導くもの〉にして〈門をまもるもの〉――写字者によって延命せられしものとあらわされる古のものウムル・アト=タウィル――にほかならなかった。」

「いかにも、我は〈古ぶるしきもの〉なり」

 音声を伴わない〝意志〟は、ようやく恭司の頭の中で言葉の形をとった。

「おまえは鍵を持ち、〈第一の門〉を開け放った。この先には〈窮極きゅうきょくの門〉がある。このまま進むか。それとも引き返すか。どちらでもおまえの望むほうを選ぶがよい」
「へえ。俺にも選択の余地があるんだ?」

 おどけたように恭司は言い、ここへ自分を連れてきた浅黒い肌の男――〈這い寄る混沌〉を見上げた。
 蕃神は何も言わなかったが、おまえの好きなほうを選べとでもいうように小さくうなずいた。それを確認してから異形のものたちへと向き直る。

「なら、俺は引き返す。俺は過去に戻りたいとは思わないし、原型論を探究する気もさらさらない。そんなもの、知ってどうする?」

 異形のものたちは、一瞬、身動ぎした。

「知りたくはないと?」
「ああ。そのことは知りたくない。でも、訊きたいことなら一つだけあるね。まあ、答えられないなら訊かないけど」
「……聞こう」
「そうして導いて、あんたに何の得がある?」

 しばしの沈黙の後、〈導くもの〉が苦々しげに答える。

「低俗な問いだ。物事を損益で量るとは」
「低俗で結構。俺の信条はギブ・アンド・テイクだ。何かを知りたいなら何かしらの代価を支払わなきゃならない。それとも、あんたはボランティアでもれなく時空の旅をプレゼントしてやってるのか?」
「不遜な輩めが」

 今や〈導くもの〉の放射には突き刺すような怒りが含まれていた。

「使者よ。何ゆえこの者を選んだ?」
「今までにないタイプだろう?」

 〝蕃神どもの魂魄にして使者〟はのうのうと答えると、再び恭司の腕をつかんだ。

「では、恭司。おまえはもうここに興味はなさそうだから、他へ移動しようか?」
「おいおい。ほんとに興味がなかったら見なくていいのか?」

 まさか本当にそれで済まされるとは思っていなかった恭司は、半ば呆れて〈這い寄る混沌〉を見やった。

「かまわぬ。おまえが興味ないなら、それは
「いらないって、あんた」
「そもそも〈門〉の局面は無数にある。ここはそのうちの一つにすぎない。何なら、また別の局面を見せようか?」

 なぜか蕃神は機嫌よく笑うと、恭司の腕を引いてどこかへ歩き出そうとした。

「待て。それはおまえの権限ではない」

 〈導くもの〉がいささかあせったように〈這い寄る混沌〉を引き止める。

「権限?」

 〈這い寄る混沌〉は足を止め、異形のものたちを振り返った。

「この我に、おまえがそれを言うか?」

 〈這い寄る混沌〉の陰になって、恭司からは異形のものたち――そして、その中にいるはずの〈導くもの〉――は見えなかった。しかし、あの〈導くもの〉が、いま恭司の腕を握っている長身の男に対して、これまでにない恐れを抱いていることは恭司にもわかった。

「おまえの権限など、全体のほんの一部にすぎない。我はおまえにその微々たる権限を与えたものの〝総意〟だ。我を制すはを制すも同じとなるが、それでもよいか?」

 〈這い寄る混沌〉の低い恫喝に〈導くもの〉は何も答えなかった。
 よくわからないが、〈旧支配者〉と一口に言っても、その中では上下関係があるらしい。さらに、この〈這い寄る混沌〉は〈旧支配者〉の中ではかなり上位に入るらしい。――自分に対する態度を見ていると、とてもそうは思えないが。
 そんなことを考えていると、いったい何を思いついたのか、突然〈這い寄る混沌〉が楽しげに笑いかけてきた。

「恭司。先ほどのおまえの疑問に、我が代わりに答えてやろう」

 それは以前、従わなければおまえを殺すと恭司に囁いたときと同じ表情だった。

「これはな。、その存在理由を失うのだ」
「何を言う!」

 心外なとでも言いたげに〈導くもの〉は叫んだが、その叫びに恐怖心が含まれているのを恭司は感じとった。

「導くものがなければ、これは存在しないも同然――無に帰すのだよ。かつて己を生み出した混沌に返るのだ。だから本当はおまえに断られては困る。〈導くもの〉が導かないことになるのだからな」
「貴様……!」

 もはや〈導くもの〉の〝声〟は呪詛のようだった。だが、〈這い寄る混沌〉は涼しい顔でそれを無視した。

「さて、あまり時間もないことだし、次へ行くか」

 秀麗な異国の男の姿をした邪神は、恭司だけを見つめて手を引いた。知ることは拒否できても、この手を払う自由は恭司にはない。ここへ来たときのように、また〈這い寄る混沌〉の腕に抱きこまれたとき、恭司は目の端で異形のものたちの台座が次々と闇に呑まれていくのを見た。
 彼らは台座からは離れられないようだ。声なき悲鳴を上げながら、助けを求めるように、衣服に覆われた手らしきものをこちらへ向かって伸ばしている。
 〈這い寄る混沌〉の腕の下から、恭司は反射的に彼らのほうへ手を伸ばしかけた。しかし、すぐに蕃神に気づかれて、その手を強引に押さえつけられてしまった。

「おまえは悪くない」

 恭司の耳許で〈這い寄る混沌〉はそう囁いた。

「だから、我の前で二度とこのような真似はするな」

 何がこの蕃神を不快にさせたのか、恭司にはよくわからなかった。ただ一つ確かだったのは、恭司が呈した疑問に乗じて〈這い寄る混沌〉が〈導くもの〉を滅ぼしたということだけだった。
 少しだけ〈導くもの〉に対して罪悪感を覚えつつ、また自分を抱いて時空を跳ぼうとしているこの蕃神の属性を今さらながら思い出す。
 愚弄と嘲笑。皮肉と欺瞞。気まぐれだけで眷族すら滅ぼす。
 〈這い寄る混沌〉――ナイアーラトテップ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】永遠の旅人

邦幸恵紀
SF
高校生・椎名達也は、未来人が創設した〈時間旅行者協会〉の職員ライアンに腕時計型タイム・マシンを使われ、強引に〈協会〉本部へと連れてこられる。実は達也はマシンなしで時空間移動ができる〝時間跳躍者〟で、ライアンはかつて別時空の達也と偶然会っていた。以来、執念深く達也を捜しつづけたライアンの目的とは。

MIDNIGHT

邦幸恵紀
キャラ文芸
【現代ファンタジー/外面のいい会社員×ツンデレ一見美少年/友人以上恋人未満】 「真夜中にはあまり出歩かないほうがいい」。 三月のある深夜、会社員・鬼頭和臣は、黒ずくめの美少年・霧河雅美にそう忠告される。 未成年に説教される筋合いはないと鬼頭は反発するが、その出会いが、その後の彼の人生を大きく変えてしまうのだった。 ◆「第6回キャラ文芸大賞」で奨励賞をいただきました。ありがとうございました。

熱砂のシャザール

春川桜
キャラ文芸
日本の大学生・瞳が、異国の地で貴人・シャザールと出会って始まる物語

世迷ビト

脱兎だう
キャラ文芸
赤い瞳は呪いの証。 そう決めつけたせいで魔女に「昼は平常、夜になると狂人と化す」呪いをかけられた村に住む少年・マーク。 彼がいつも気に掛ける友人・イリシェは二年前に村にやって来たよそ者だった。 魔女と呼ばれるイリシェとマークの話。 ※合同誌で掲載していた短編になります。完結済み。 ※過去話追加予定。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

後宮の裏絵師〜しんねりの美術師〜

あきゅう
キャラ文芸
【女絵師×理系官吏が、後宮に隠された謎を解く!】  姫棋(キキ)は、小さな頃から絵師になることを夢みてきた。彼女は絵さえ描けるなら、たとえ後宮だろうと地獄だろうとどこへだって行くし、友人も恋人もいらないと、ずっとそう思って生きてきた。  だが人生とは、まったくもって何が起こるか分からないものである。  夏后国の後宮へ来たことで、姫棋の運命は百八十度変わってしまったのだった。

おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜

瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。 大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。 そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。 第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。

追憶の剣聖姫〜剣導部外伝〜

九重死処/shiori
キャラ文芸
脅威の戦跡を刻む神住の原点のお話 本編では語られない神住の秘密が明らかに――

処理中です...