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第二章 秘鑰開封《ひやくかいふう》
1 銀の鍵
しおりを挟む〈這い寄る混沌〉が出現したのは、流し台の前の狭い空間だった。
ちょうどそのとき、遅い朝食のインスタントラーメンをコタツですすっていた恭司は、一瞥はしたが何も言わなかった。
「迎えにきた……」
そう言いかけた蕃神の足元を、恭司は手に持っていた箸で勢いよく指した。
「靴!」
「は?」
恭司の鋭い怒声に、〈這い寄る混沌〉は文字どおり跳び上がった。
「土足で上がるな。それと、来るときは呼び鈴鳴らして玄関から来い。今度やったら協力なんかしてやらないからな」
蕃神は渋い顔をして恭司を睨んだ。
「おまえは本当に、我が誰なのかわかっているのか?」
「あんたがナイアガラでもポテトチップでもかまわないが、自分の家に勝手に入られるのは不愉快だ」
「……ナイアーラトテップだ」
そう訂正を入れつつも、〈這い寄る混沌〉は素直に黒い革靴を脱ぎ、それを素手の指先に掛けてぶら下げた。
「あ、そう。で、これからどこに行くんだ?」
ラーメンを食べ終えた恭司は器を持って立ち上がると、〈這い寄る混沌〉の横をすり抜けて、流し台の三角コーナーにラーメンの残り汁を捨てた。すぐに手早く器と箸を洗い水切りへ置く。
その一連の作業を物珍しそうに脇から眺めていた蕃神は、恭司の怪訝な視線に気がついて、あわてて我に返ったように答えた。
「〈門〉だ」
「……どこの?」
「行けばわかる」
「あ、そう。で、どうやって?」
これには答えず、〈這い寄る混沌〉は恭司の左腕をつかむと、今度はその手に目を落とした。細くて長い薬指には例の銀の指輪がはまっている。蕃神はそれを満足そうに眺めた。
「何だよ?」
「いや、別に」
「あ、そうだ。思い出した。あんたが来たら、訊こうと思ってたことがあったんだ」
「何だ?」
心なしか、〈這い寄る混沌〉の声が弾んでいる。
「この指輪。俺以外の人間が触れると、どうにかなるのか?」
恭司がそんなことを思ったのも、あれ以来、三日も大学で火野の姿を見ていないからだ。
一応、恭司よりずっと親しそうな人間にも何人か訊いてみたのだが、彼らも火野が休んでいる理由を知らないし、携帯電話でも連絡がとれないという。むしろ、恭司のほうが知っているのではないかと逆に問い返されたほどだった。
周りには恭司がいちばん火野と親しいように思われていたらしい。実際には火野の住所も連絡先も知らなかったのだが。
ちなみに、恭司は携帯電話は持っていない。拘束されたくないから。
――つーか、火野。俺らが沼田に声かけようとすると怒ったよな?
同級生の一人はそんなことも言った。
――そうそう。あいつはすごく人見知りするからって。大学来なくなるかもしれないから、そっとしといてやってくれってさ。でも……フツー……だよな? こうして会話できてんだし。ほんとに人見知り激しいのか?
その後、どこかに食いにいこうと誘われて面倒になった恭司は、一定時間以上人と一緒にいると死にたくなるからと適当なことを言って断った。
なるほど。大学で火野以外の人間に話しかけられなかったのは、火野が陰でそういうことを言っていたせいもあったらしい。道理で恭司が声をかけると、皆一瞬信じられないような顔をしたわけだ。
確かに、火野がそうしてくれて結果的には助かったのだが、その一方でどうして恭司が頼んでもいないのに自発的にそんなことをしたのかと訝しくも思う。しかし、今のところ火野は恭司にとって〝役に立つ〟人間で、だからこそ火野の怪我(?)の具合も気にかかっていたのだ。
「触れた者がいるのか?」
一転して、〈這い寄る混沌〉の態度は冷然としたものに変わった。恭司が知りたいのは触れたらどうなるのかという結果なのに、この存在にとっては誰が触れたかという主体のほうが重要らしい。
「ああ。大学の同級生だよ。この指輪がすごく気に入ったっていうから触らせたんだ」
本当は抜きとらせようとしていたのだが(しかも、抜きとれたらくれてやろうとしていたのだが)、後々面倒なことになりそうなので、そこはごまかす。
「そしたら、静電気が起きたみたいにビリッとなって。俺はそれだけで何ともなかったんだけど、その同級生が触った手を押さえて帰っちまったから。これからも偶然触られることがないとも限らないから、一応あんたに確認しておこうと思って」
これ以上この蕃神の機嫌を損ねないよう恭司は慎重に言葉を選んだ。〈這い寄る混沌〉はまだ不満そうだったが、それでも幾分表情をやわらげて、先ほどからつかんだままの恭司の腕をさらに自分の近くに引き寄せた。
「おまえと同じ〝人間〟なら、多少の痺れは残るかもしれないが、怪我まですることはありえないな。これが影響を及ぼすのは〈門〉に対してだけだ。――誰だ? おまえに触れたのは?」
「俺は怪我をしたとは一言も言ってないぜ?」
火野のことを追及されたくなかった恭司は、ことさら不愉快そうに蕃神を睨み返した。とたんに〈這い寄る混沌〉は狼狽して目をそらせる。
「そ……そうだったな。いずれにしろ、それは他人には触れさせないことだ。おまえも痛い思いはしたくなかろう。ところで、我に訊きたいこととはそれだけか?」
「それだけだ」
「……どうやって行くかだったな。こうやって、だ」
蕃神は指輪ごと恭司の左手を握った。反射的に恭司は目をつぶり、すぐにまた開いたが。
世界は、その姿を変えていた。
***
「そのときおこったことはとても言葉ではあらわせない。覚醒時の人生では存在する余地さえないものの、限定された因果律と三次元の論法に基づく、偏狭、厳格、客観的な世界に立ち返るまで、現実の人生より奔放な夢にみなぎり、当然のものとしてうけとめられているような、そういう矛盾、逆説、変則性に満ちみちていた。」
H・P・ラヴクラフトは、その著作『銀の鍵の門を越えて』の中でそのように述べている。
しかし、自分が理解できないことは自分が知らなくてもよいことだと考えている恭司は、一応『銀の鍵の門を越えて』に目を通したことはあったのだが、その韜晦な文章と内容とに辟易し、出だしを少し読んだだけであとは飛ばし読みしてしまった。だから、おおよそのあらすじとオチは知っているのだが、細部はほとんど頭に入っていない。
「確か、回して呪文を唱えてたよな」
薬指にはまっている銀の指輪を眺めながら恭司は独りごちた。
「何だ?」
怪訝そうに〈這い寄る混沌〉が訊ねてくる。そのときになって、恭司は今、自分が蕃神に両腕で体を抱えこまれていることを知った。おまけに、脱いでいたはずの靴もいつのまにか元どおり履いている。
「どうでもいいけど、この手はもう離してもいいんじゃないのか?」
冷ややかに〈這い寄る混沌〉の大きな手――その手の温度と感触から、今日は素手であることにこのときようやく気がついた――を見やると、とっさに蕃神は手を離しかけたが、すぐにまた戻した上、先ほどよりも強く恭司の肩を抱いた。
「そういうわけにはいかぬ。ここでおまえを離したら、はぐれてしまうからな」
どうだか、と恭司は思ったが、確かにこの黒で塗りつぶされた虚空の中を一人で漂っていなければならないのは、いくら彼でも不安ではあった。ここは我慢だとあきらめることにして、〈這い寄る混沌〉に自分の左手を突きつける。
「これ、同じ物かどうかは知らないけど、あのランドルフ・カーターの〝銀の鍵〟なんだろ? なら、〈門〉に行くには、これを回して何か呪文を唱えなきゃならないんじゃなかったか? 確か、ランドルフ・カーターはそうしてたぜ?」
その箇所までは何とか読めていたので、恭司は自信を持って言えた。
ちなみに、〝ランドルフ・カーター〟とは、ラヴクラフトの作中人物であり、彼が所持する〝銀の鍵〟は、夢の世界を含む異世界への〈門〉を開けるアイテムである――ということに作品の中ではなっている。
〈這い寄る混沌〉はじっと恭司を見つめていたが、ふいに微笑むと彼の左手を取って指輪を撫でた。しまった。恭司は顔をしかめた。またこいつに触らせるきっかけを自分で作っちまった。
「呪文や儀式など、実は不要だ」
しっかり恭司の肩を抱いたまま、蕃神は耳許で囁いた。
「そうしなければならないと思うから、呪文や儀式が必要となる。必要ないと思えば、どこへでも行けるし、何でも呼び出せる。だが、普通の人間にはまずそこまで思いきることはできない。だからこそ、難解な呪文や厄介な儀式を必要としたがるのだ。これだけのことをしたのだから、必ず叶うはずだと思うためにな」
「なるほど。それはわかった。でも、俺の質問には答えてないな」
自分の左手を握る手をさりげなく振りほどきながら、恭司は〈這い寄る混沌〉を睨んだ。
「俺は呪文や儀式が必要だと思ってた。でも、実際には何もせずにここまで来てる。ってことは、ここにはあんたの力で来たってことだよな? 〈這い寄る混沌〉」
蕃神はしばらく黙っていた。どこか不満そうな、恭司に何か言いたそうな顔をしている。
「何だよ? 何か反論したいことでもあるのか?」
「……なぜ、我をそう呼ぶ?」
「はい?」
意味がわからず、恭司は首をかしげた。
「我は最初に名乗ったはずだ。おまえにもそう呼べと言った。だが、おまえはまだ一度しかその名で我を呼んでいない」
――何だかなあ。
返す言葉を失って自分の頭を掻く。
確かに名乗られた。日本人にはこちらのほうが呼びやすいだろうと御自ら選択もしていただいた。しかし、実際それで呼ぶかどうかは恭司の自由ではないのか。
「だいたい、あんたの名前、無駄に長いんだよ」
面倒になった恭司は、軽く苛立ってそう答えた。
「は?」
「あんたの名前。長すぎる」
〈這い寄る混沌〉はあっけにとられたように恭司を見た。そんなことを言われたのは、おそらく今が初めてだろう。
「いや……しかし、長すぎると言われても……」
「よし、わかった」
蕃神を無視して恭司はうなずいた。
「じゃあ、これからあんたを〝ナイア〟って呼ぶ」
「〝ナイア〟?」
「そう。これなら三文字で済む。毎度毎度〝ナイアーラトテップ〟なんて呼べると思うか? 舌噛んで死ぬわ」
吐き捨てるように答えた恭司を、〈這い寄る混沌〉は呆然と眺めていた。が、怒るどころか、逆に笑い出した。
「わかった。それでよい。おまえになら、そう呼ばれてもかまわない」
――何か……また間違えたか、俺。
ひそかに恭司は思ったが、フルネームを呼ぶのはやはり面倒だ。これも仕方がないと思ってあきらめよう。
「それならさっさと用事を済まそうぜ。せっかくの休みをこんなことで潰されたくない」
「……わかった」
連れ出したのは自分のくせに、蕃神は気乗りしない様子で再び恭司の左手を取ると、虚空へ向けて捧げ持った。薬指にはまった銀の指輪が鈍く光り出す。それを見上げながら恭司は訊ねた。
「この指輪、元の鍵の状態にも戻せるんだよな?」
「無論」
「だったら、今だけでも戻してくれないか?」
「駄目だ」
「どうして?」
〈這い寄る混沌〉は一瞬言葉に詰まったが。
「邪魔になる」
――嘘だ。絶対に嘘だ。
恭司は心の中で即座に否定した。口には出さなかったのは、蕃神を恐れたためではまったくなく、本来なら鍵の形をしているはずの銀の指輪が、その持てる力を発揮しだしたからだった。
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