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第一章 暗黒古書《あんこくこしょ》
3 火野克彦
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「よう。今日は来たな」
学生のまばらな朝の大教室で、昨晩強制的にはめさせられた銀の指輪を何とか外せないものかとあきらめ悪くいじっていると、背後からそんな声をかけられた。
今春入学してからますます面倒くさがり度が増大している恭司――髪を伸ばしはじめたのも、単に切りにいくのが面倒くさくなったからだ――には、現在友人と言えるような人間はほとんどいない。したがって、大学でこのように恭司に話しかけてくる人間も限られており、はっきり言えば、たった一人しかいなかった。
「家にいるほうが嫌だったんだ」
当然のように隣の空席に腰を下ろした同級生に恭司はそっけなく答えた。
名前を火野克彦という。入学式のとき、会場の場所を訊かれて知り合った。常に丸レンズのサングラスをかけている火野は、恭司とは違い、いくつかのサークルにも所属しており、友人も少なくはない。だが、どういうわけかこの男は妙に恭司を気に入っていて、構内で恭司を見かけると、必ず今のように声をかけてくる。たとえ彼女らしき女と一緒に歩いているときでもだ。
正直、うるさく思うときもあるのだが、天気が悪いだけで講義をサボる気のある恭司にはこの男のノートはとても魅力的だった。何かを得ようとするならば何かを支払わなければならない。恭司にとってはこの男の話に付き合ってやることが唯一の代価だった。
「へえ。引きこもりのおまえが珍しいな。何かあったのか?」
恭司の面倒くさがりをよく知っている火野はにやにやしながら冷やかしたが、そのサングラスごしの目が恭司の左の薬指に留まって動かなくなった。
「それ……シルバーか?」
「え? ああ、これか。……たぶん」
恭司はいじるのをやめ、改めて指輪を眺めた。原形は銀の鍵なのだから(そのさらに原形は、この世にあるはずのない魔道書なのだが)、これもきっと銀でできているのだろう。
「どうしたんだ、それ? 確か、アクセサリーは鬱陶しいから嫌いだとか言ってなかったか?」
「今だって嫌いだよ」
「じゃあ、何ではめてるんだ?」
もっともな疑問だが、正直に〈這い寄る混沌〉という化け物に押しつけられたのだと言うわけにもいかない。ここは適当なことを言ってごまかしておこうと恭司は考えた。
「昨日、露店でこれをふざけてはめたら、そのまま抜けなくなっちまってさ。幸い、値段も高くなかったし、しょうがないから買って帰ったんだ。もう少し痩せたら抜けるんじゃないかと思ってるんだけど」
「露店で買った? どこの?」
その声がいつになく真剣だったので、恭司は訝しく思って火野を見やった。火野は恭司の指輪を食い入るように見ている。
「どこのって……何、おまえ、これが欲しいわけ?」
「ああ……欲しいな。何か、気になる。どこの露店だよ。俺も買いに行くから」
――弱ったな。
指輪をいじりながら恭司は内心ぼやいた。こんなことなら兄からのプレゼントだとでも言っておいたほうがよかったか。
しかし、すでに言ってしまったものは仕方がない。最後まで嘘を貫くまでだ。
「S駅前の露店。でも、まだ同じのが売ってるかどうかはわからないぜ」
「だろうな。しかもそれ、一点物っぽいもんな」
火野はなおも熱心に指輪を見ている。こんな指輪、恭司もすぐに外して火野に譲ってやりたいのだが、どうしても指から抜きとれない。あの〈這い寄る混沌〉のように鍵の形に戻すことができればいいのだが。
「悪いな。指から外せるんなら、おまえにただでやってもいいんだけどな」
そうすれば、もしかしたらあの蕃神と縁が切れるかもしれない。――あまり期待はしていないが。
「ほんとに抜けないのか?」
「なら、試してみろよ、ほら」
恭司は左手を無造作に火野の前へ差し出した。一瞬ためらうような間を置いて、火野は恭司の左手に右手を伸ばした。が。
「あちっ」
一声叫ぶと、恭司はあわてて左手を引っこめてその手を右手で押さえた。火野も声こそ出さなかったものの、恭司と同じような痛みを感じたようで、やはり恭司に触れた手をもう一方の手でしっかりと覆っている。
「何だ、今の……静電気か?」
指輪をさすりながら恭司が言うと、火野はしかめ面をしてうなずいた。
「そうかもな。……悪い。急用思い出した。俺、今日はこれで帰るわ」
火野は右手を握りしめたまま立ち上がった。火野がこんなふうに講義をサボるのは非常に珍しい。恭司ならいくらでもあるが。
「どうした? 静電気で火傷でもしたか?」
もちろん冗談のつもりだった。火野もそんなわけあるかと笑って答えた。だが、火野が教室のドアを開けて出ていくとき、ちらりとだが体の陰から彼の右手が見えた。
――異常なほど黒ずんだ、炭のような右手。
思わず立ち上がったが、火野とすれ違うようにして、講師が教室へ入ってきた。
気にはなる。しかし、恭司の見間違いである可能性のほうがはるかに高い。
結局、恭司は座り直し、あとで火野に見せるため、真面目にノートをとった。
ここへ入学してから、初めてのことだった。
学生のまばらな朝の大教室で、昨晩強制的にはめさせられた銀の指輪を何とか外せないものかとあきらめ悪くいじっていると、背後からそんな声をかけられた。
今春入学してからますます面倒くさがり度が増大している恭司――髪を伸ばしはじめたのも、単に切りにいくのが面倒くさくなったからだ――には、現在友人と言えるような人間はほとんどいない。したがって、大学でこのように恭司に話しかけてくる人間も限られており、はっきり言えば、たった一人しかいなかった。
「家にいるほうが嫌だったんだ」
当然のように隣の空席に腰を下ろした同級生に恭司はそっけなく答えた。
名前を火野克彦という。入学式のとき、会場の場所を訊かれて知り合った。常に丸レンズのサングラスをかけている火野は、恭司とは違い、いくつかのサークルにも所属しており、友人も少なくはない。だが、どういうわけかこの男は妙に恭司を気に入っていて、構内で恭司を見かけると、必ず今のように声をかけてくる。たとえ彼女らしき女と一緒に歩いているときでもだ。
正直、うるさく思うときもあるのだが、天気が悪いだけで講義をサボる気のある恭司にはこの男のノートはとても魅力的だった。何かを得ようとするならば何かを支払わなければならない。恭司にとってはこの男の話に付き合ってやることが唯一の代価だった。
「へえ。引きこもりのおまえが珍しいな。何かあったのか?」
恭司の面倒くさがりをよく知っている火野はにやにやしながら冷やかしたが、そのサングラスごしの目が恭司の左の薬指に留まって動かなくなった。
「それ……シルバーか?」
「え? ああ、これか。……たぶん」
恭司はいじるのをやめ、改めて指輪を眺めた。原形は銀の鍵なのだから(そのさらに原形は、この世にあるはずのない魔道書なのだが)、これもきっと銀でできているのだろう。
「どうしたんだ、それ? 確か、アクセサリーは鬱陶しいから嫌いだとか言ってなかったか?」
「今だって嫌いだよ」
「じゃあ、何ではめてるんだ?」
もっともな疑問だが、正直に〈這い寄る混沌〉という化け物に押しつけられたのだと言うわけにもいかない。ここは適当なことを言ってごまかしておこうと恭司は考えた。
「昨日、露店でこれをふざけてはめたら、そのまま抜けなくなっちまってさ。幸い、値段も高くなかったし、しょうがないから買って帰ったんだ。もう少し痩せたら抜けるんじゃないかと思ってるんだけど」
「露店で買った? どこの?」
その声がいつになく真剣だったので、恭司は訝しく思って火野を見やった。火野は恭司の指輪を食い入るように見ている。
「どこのって……何、おまえ、これが欲しいわけ?」
「ああ……欲しいな。何か、気になる。どこの露店だよ。俺も買いに行くから」
――弱ったな。
指輪をいじりながら恭司は内心ぼやいた。こんなことなら兄からのプレゼントだとでも言っておいたほうがよかったか。
しかし、すでに言ってしまったものは仕方がない。最後まで嘘を貫くまでだ。
「S駅前の露店。でも、まだ同じのが売ってるかどうかはわからないぜ」
「だろうな。しかもそれ、一点物っぽいもんな」
火野はなおも熱心に指輪を見ている。こんな指輪、恭司もすぐに外して火野に譲ってやりたいのだが、どうしても指から抜きとれない。あの〈這い寄る混沌〉のように鍵の形に戻すことができればいいのだが。
「悪いな。指から外せるんなら、おまえにただでやってもいいんだけどな」
そうすれば、もしかしたらあの蕃神と縁が切れるかもしれない。――あまり期待はしていないが。
「ほんとに抜けないのか?」
「なら、試してみろよ、ほら」
恭司は左手を無造作に火野の前へ差し出した。一瞬ためらうような間を置いて、火野は恭司の左手に右手を伸ばした。が。
「あちっ」
一声叫ぶと、恭司はあわてて左手を引っこめてその手を右手で押さえた。火野も声こそ出さなかったものの、恭司と同じような痛みを感じたようで、やはり恭司に触れた手をもう一方の手でしっかりと覆っている。
「何だ、今の……静電気か?」
指輪をさすりながら恭司が言うと、火野はしかめ面をしてうなずいた。
「そうかもな。……悪い。急用思い出した。俺、今日はこれで帰るわ」
火野は右手を握りしめたまま立ち上がった。火野がこんなふうに講義をサボるのは非常に珍しい。恭司ならいくらでもあるが。
「どうした? 静電気で火傷でもしたか?」
もちろん冗談のつもりだった。火野もそんなわけあるかと笑って答えた。だが、火野が教室のドアを開けて出ていくとき、ちらりとだが体の陰から彼の右手が見えた。
――異常なほど黒ずんだ、炭のような右手。
思わず立ち上がったが、火野とすれ違うようにして、講師が教室へ入ってきた。
気にはなる。しかし、恭司の見間違いである可能性のほうがはるかに高い。
結局、恭司は座り直し、あとで火野に見せるため、真面目にノートをとった。
ここへ入学してから、初めてのことだった。
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