4 / 22
第一章 暗黒古書《あんこくこしょ》
3 火野克彦
しおりを挟む
「よう。今日は来たな」
学生のまばらな朝の大教室で、昨晩強制的にはめさせられた銀の指輪を何とか外せないものかとあきらめ悪くいじっていると、背後からそんな声をかけられた。
今春入学してからますます面倒くさがり度が増大している恭司――髪を伸ばしはじめたのも、単に切りにいくのが面倒くさくなったからだ――には、現在友人と言えるような人間はほとんどいない。したがって、大学でこのように恭司に話しかけてくる人間も限られており、はっきり言えば、たった一人しかいなかった。
「家にいるほうが嫌だったんだ」
当然のように隣の空席に腰を下ろした同級生に恭司はそっけなく答えた。
名前を火野克彦という。入学式のとき、会場の場所を訊かれて知り合った。常に丸レンズのサングラスをかけている火野は、恭司とは違い、いくつかのサークルにも所属しており、友人も少なくはない。だが、どういうわけかこの男は妙に恭司を気に入っていて、構内で恭司を見かけると、必ず今のように声をかけてくる。たとえ彼女らしき女と一緒に歩いているときでもだ。
正直、うるさく思うときもあるのだが、天気が悪いだけで講義をサボる気のある恭司にはこの男のノートはとても魅力的だった。何かを得ようとするならば何かを支払わなければならない。恭司にとってはこの男の話に付き合ってやることが唯一の代価だった。
「へえ。引きこもりのおまえが珍しいな。何かあったのか?」
恭司の面倒くさがりをよく知っている火野はにやにやしながら冷やかしたが、そのサングラスごしの目が恭司の左の薬指に留まって動かなくなった。
「それ……シルバーか?」
「え? ああ、これか。……たぶん」
恭司はいじるのをやめ、改めて指輪を眺めた。原形は銀の鍵なのだから(そのさらに原形は、この世にあるはずのない魔道書なのだが)、これもきっと銀でできているのだろう。
「どうしたんだ、それ? 確か、アクセサリーは鬱陶しいから嫌いだとか言ってなかったか?」
「今だって嫌いだよ」
「じゃあ、何ではめてるんだ?」
もっともな疑問だが、正直に〈這い寄る混沌〉という化け物に押しつけられたのだと言うわけにもいかない。ここは適当なことを言ってごまかしておこうと恭司は考えた。
「昨日、露店でこれをふざけてはめたら、そのまま抜けなくなっちまってさ。幸い、値段も高くなかったし、しょうがないから買って帰ったんだ。もう少し痩せたら抜けるんじゃないかと思ってるんだけど」
「露店で買った? どこの?」
その声がいつになく真剣だったので、恭司は訝しく思って火野を見やった。火野は恭司の指輪を食い入るように見ている。
「どこのって……何、おまえ、これが欲しいわけ?」
「ああ……欲しいな。何か、気になる。どこの露店だよ。俺も買いに行くから」
――弱ったな。
指輪をいじりながら恭司は内心ぼやいた。こんなことなら兄からのプレゼントだとでも言っておいたほうがよかったか。
しかし、すでに言ってしまったものは仕方がない。最後まで嘘を貫くまでだ。
「S駅前の露店。でも、まだ同じのが売ってるかどうかはわからないぜ」
「だろうな。しかもそれ、一点物っぽいもんな」
火野はなおも熱心に指輪を見ている。こんな指輪、恭司もすぐに外して火野に譲ってやりたいのだが、どうしても指から抜きとれない。あの〈這い寄る混沌〉のように鍵の形に戻すことができればいいのだが。
「悪いな。指から外せるんなら、おまえにただでやってもいいんだけどな」
そうすれば、もしかしたらあの蕃神と縁が切れるかもしれない。――あまり期待はしていないが。
「ほんとに抜けないのか?」
「なら、試してみろよ、ほら」
恭司は左手を無造作に火野の前へ差し出した。一瞬ためらうような間を置いて、火野は恭司の左手に右手を伸ばした。が。
「あちっ」
一声叫ぶと、恭司はあわてて左手を引っこめてその手を右手で押さえた。火野も声こそ出さなかったものの、恭司と同じような痛みを感じたようで、やはり恭司に触れた手をもう一方の手でしっかりと覆っている。
「何だ、今の……静電気か?」
指輪をさすりながら恭司が言うと、火野はしかめ面をしてうなずいた。
「そうかもな。……悪い。急用思い出した。俺、今日はこれで帰るわ」
火野は右手を握りしめたまま立ち上がった。火野がこんなふうに講義をサボるのは非常に珍しい。恭司ならいくらでもあるが。
「どうした? 静電気で火傷でもしたか?」
もちろん冗談のつもりだった。火野もそんなわけあるかと笑って答えた。だが、火野が教室のドアを開けて出ていくとき、ちらりとだが体の陰から彼の右手が見えた。
――異常なほど黒ずんだ、炭のような右手。
思わず立ち上がったが、火野とすれ違うようにして、講師が教室へ入ってきた。
気にはなる。しかし、恭司の見間違いである可能性のほうがはるかに高い。
結局、恭司は座り直し、あとで火野に見せるため、真面目にノートをとった。
ここへ入学してから、初めてのことだった。
学生のまばらな朝の大教室で、昨晩強制的にはめさせられた銀の指輪を何とか外せないものかとあきらめ悪くいじっていると、背後からそんな声をかけられた。
今春入学してからますます面倒くさがり度が増大している恭司――髪を伸ばしはじめたのも、単に切りにいくのが面倒くさくなったからだ――には、現在友人と言えるような人間はほとんどいない。したがって、大学でこのように恭司に話しかけてくる人間も限られており、はっきり言えば、たった一人しかいなかった。
「家にいるほうが嫌だったんだ」
当然のように隣の空席に腰を下ろした同級生に恭司はそっけなく答えた。
名前を火野克彦という。入学式のとき、会場の場所を訊かれて知り合った。常に丸レンズのサングラスをかけている火野は、恭司とは違い、いくつかのサークルにも所属しており、友人も少なくはない。だが、どういうわけかこの男は妙に恭司を気に入っていて、構内で恭司を見かけると、必ず今のように声をかけてくる。たとえ彼女らしき女と一緒に歩いているときでもだ。
正直、うるさく思うときもあるのだが、天気が悪いだけで講義をサボる気のある恭司にはこの男のノートはとても魅力的だった。何かを得ようとするならば何かを支払わなければならない。恭司にとってはこの男の話に付き合ってやることが唯一の代価だった。
「へえ。引きこもりのおまえが珍しいな。何かあったのか?」
恭司の面倒くさがりをよく知っている火野はにやにやしながら冷やかしたが、そのサングラスごしの目が恭司の左の薬指に留まって動かなくなった。
「それ……シルバーか?」
「え? ああ、これか。……たぶん」
恭司はいじるのをやめ、改めて指輪を眺めた。原形は銀の鍵なのだから(そのさらに原形は、この世にあるはずのない魔道書なのだが)、これもきっと銀でできているのだろう。
「どうしたんだ、それ? 確か、アクセサリーは鬱陶しいから嫌いだとか言ってなかったか?」
「今だって嫌いだよ」
「じゃあ、何ではめてるんだ?」
もっともな疑問だが、正直に〈這い寄る混沌〉という化け物に押しつけられたのだと言うわけにもいかない。ここは適当なことを言ってごまかしておこうと恭司は考えた。
「昨日、露店でこれをふざけてはめたら、そのまま抜けなくなっちまってさ。幸い、値段も高くなかったし、しょうがないから買って帰ったんだ。もう少し痩せたら抜けるんじゃないかと思ってるんだけど」
「露店で買った? どこの?」
その声がいつになく真剣だったので、恭司は訝しく思って火野を見やった。火野は恭司の指輪を食い入るように見ている。
「どこのって……何、おまえ、これが欲しいわけ?」
「ああ……欲しいな。何か、気になる。どこの露店だよ。俺も買いに行くから」
――弱ったな。
指輪をいじりながら恭司は内心ぼやいた。こんなことなら兄からのプレゼントだとでも言っておいたほうがよかったか。
しかし、すでに言ってしまったものは仕方がない。最後まで嘘を貫くまでだ。
「S駅前の露店。でも、まだ同じのが売ってるかどうかはわからないぜ」
「だろうな。しかもそれ、一点物っぽいもんな」
火野はなおも熱心に指輪を見ている。こんな指輪、恭司もすぐに外して火野に譲ってやりたいのだが、どうしても指から抜きとれない。あの〈這い寄る混沌〉のように鍵の形に戻すことができればいいのだが。
「悪いな。指から外せるんなら、おまえにただでやってもいいんだけどな」
そうすれば、もしかしたらあの蕃神と縁が切れるかもしれない。――あまり期待はしていないが。
「ほんとに抜けないのか?」
「なら、試してみろよ、ほら」
恭司は左手を無造作に火野の前へ差し出した。一瞬ためらうような間を置いて、火野は恭司の左手に右手を伸ばした。が。
「あちっ」
一声叫ぶと、恭司はあわてて左手を引っこめてその手を右手で押さえた。火野も声こそ出さなかったものの、恭司と同じような痛みを感じたようで、やはり恭司に触れた手をもう一方の手でしっかりと覆っている。
「何だ、今の……静電気か?」
指輪をさすりながら恭司が言うと、火野はしかめ面をしてうなずいた。
「そうかもな。……悪い。急用思い出した。俺、今日はこれで帰るわ」
火野は右手を握りしめたまま立ち上がった。火野がこんなふうに講義をサボるのは非常に珍しい。恭司ならいくらでもあるが。
「どうした? 静電気で火傷でもしたか?」
もちろん冗談のつもりだった。火野もそんなわけあるかと笑って答えた。だが、火野が教室のドアを開けて出ていくとき、ちらりとだが体の陰から彼の右手が見えた。
――異常なほど黒ずんだ、炭のような右手。
思わず立ち上がったが、火野とすれ違うようにして、講師が教室へ入ってきた。
気にはなる。しかし、恭司の見間違いである可能性のほうがはるかに高い。
結局、恭司は座り直し、あとで火野に見せるため、真面目にノートをとった。
ここへ入学してから、初めてのことだった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
MIDNIGHT
邦幸恵紀
キャラ文芸
【現代ファンタジー/外面のいい会社員×ツンデレ一見美少年/友人以上恋人未満】
「真夜中にはあまり出歩かないほうがいい」。
三月のある深夜、会社員・鬼頭和臣は、黒ずくめの美少年・霧河雅美にそう忠告される。
未成年に説教される筋合いはないと鬼頭は反発するが、その出会いが、その後の彼の人生を大きく変えてしまうのだった。
◆「第6回キャラ文芸大賞」で奨励賞をいただきました。ありがとうございました。
【完結】電脳探偵Y
邦幸恵紀
現代文学
【SF(すこしふしぎ)/人捜し専門探偵事務所/ホラー?】
人捜し専門の探偵事務所「MSS」。しかし、その業務のほとんどは所長の渡辺由貴ではなく、彼の大学時代からの友人・吉野拓己が一手に引き受けている。吉野はどんな人間でもまたたくまに見つけ出す。そこに電脳空間へと通じる扉があるかぎり。
※表紙のロゴは遠野まさみ様(@masami_h1115)に作成していただきました。ありがとうございました。
おっ☆パラ
うらたきよひこ
キャラ文芸
こんなハーレム展開あり? これがおっさんパラダイスか!?
新米サラリーマンの佐藤一真がなぜかおじさんたちにモテまくる。大学教授やガテン系現場監督、エリートコンサル、老舗料理長、はたまた流浪のバーテンダーまで、個性派ぞろい。どこがそんなに“おじさん心”をくすぐるのか? その天賦の“モテ力”をご覧あれ!
隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち
鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。
心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。
悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。
辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。
それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。
社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ!
食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて……
神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!
想妖匣-ソウヨウハコ-
桜桃-サクランボ-
キャラ文芸
深い闇が広がる林の奥には、"ハコ"を持った者しか辿り着けない、古びた小屋がある。
そこには、紳士的な男性、筺鍵明人《きょうがいあきと》が依頼人として来る人を待ち続けていた。
「貴方の匣、開けてみませんか?」
匣とは何か、開けた先に何が待ち受けているのか。
「俺に記憶の為に、お前の"ハコ"を頂くぞ」
※小説家になろう・エブリスタ・カクヨムでも連載しております
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる