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もしもこのとき、幽魔王がもっと別の言葉――たとえば〝友人〟や〝仲間〟――を遣っていたなら、彼は幽魔王を失わずに済んでいたかもしれなかった。
幽魔王が選んだのは、〝恋人〟や〝家族〟と同じくらい最悪のものだった。
「どういう意味だ。それは」
硬い声で自分が問うのを彼は聞いた。
意味など知っていた。これはただの決まり文句だ。幽魔王に言い直す猶予を与えるための。
「おまえはベターハーフ思想を知らないか?」
だが、幽魔王はさらに最悪の選択をした。呆れたような笑みすら浮かべて。
「〝よりよい半身〟。そういう意味だよ」
「おまえも欲しいのか。それが」
幽魔王から笑顔が消えた。
やっと彼の異常に気づいたのだ。同時に、自分が禁句を口にしてしまったことも。
「そんなことは言っていない」
眉をひそめてそう答える幽魔王は、もう以前のあの冷ややかな空気をまとっていた。
これまでの彼ならあわてて弁解し、幽魔王の機嫌を直そうとしただろう。また幽魔王もそれを期待していたに違いない。
しかし、彼は引き下がらなかった。立ち上がり、ソファに座っている幽魔王の近くに歩み寄る。
ほの暗いルームライトに照らし出されている幽魔王は凶悪なまでに美しい。思わず見とれてしまい、彼はあわてて気を引きしめた。
「それは、人間なのか?」
「僕にわかるはずがないだろう」
幽魔王はますます不快げな表情になる。ついさっきまで、あれほど優しく微笑んでいたのに。
逆に言えば、あまりに気分がよかったからこそ、うっかり彼に〝半身〟の存在を話してしまったのだろう。
このときの幽魔王は、彼に対してというよりも、軽率だった自分に対して憤っていたのかもしれない。人間に深入りする幽魔王に妖魔王たちが神経を尖らせていることは、幽魔王自身がいちばんよく知っていたはずだ。
「だが、おまえは人間だと思っているだろう?」
図星を突かれて幽魔王は顔をしかめた。
魔族と違い、幽魔王は嘘をつくのが苦手だ。そうするくらいなら沈黙を守る。このときも幽魔王はそうした。
「俺では、駄目なのか?」
いけない、ともう一人の彼が心の中で叫んだ。それを言ってしまえば、今まで苦労して積み重ねてきたものが崩れ去ってしまう。
何も聞かなかったことにして、今日はこのまま帰るのだ。同胞たちに特に人間と親しくしている幽魔王がいないか訊き、見つけしだい、その人間をうまく遠ざけさせ、幽魔王の怒りのほとぼりが醒めた頃、上質な酒を手土産に、何食わぬ顔で再び訪ねる。
簡単なことだ。今まで何度も繰り返してきたことではないか。幽魔王はつれないが、冷酷ではない。嫌そうな顔をしながらも、なかったことにしてくれるだろう。そうすれば、これまでどおり幽魔王のそばにいられる――
「俺では、おまえの〝半身〟にはなれないのか?」
――終わりだ。
こういうとき、人間たちは〝たががはずれた〟というのだろう。いったんはずれてしまえば、もう元には戻れない。最後まで一気に壊れていくだけだ。
幽魔王は大きく目を見張っていた。が、何も言わず、苦い笑みを浮かべた。
幽魔王が何を思ってそんな表情をしたのか、今となってはよくわかる。だが、このときの彼には、いかにも自分を嘲笑っているように見えて、とっさに幽魔王の細い手首をつかんだ。
初めてのことだった。
そして、そのあまりの冷たさに、怒りを忘れて慄然とした。
「冷たいだろう?」
彼の表情でわかったのか、幽魔王は動じることなく穏やかに言った。
「ここだけじゃない。体中がいつもこうだ。火に当たっても、決して温まることはない。おかげで、暑い思いをしたこともないけどね」
「なぜ、こんな……」
どう考えても、これは尋常な人間の体温ではなかった。たとえるなら、溶けることのない氷。長く触れていると、そこから自分の体温まで奪われていくような心地がする。長年焦がれつづけた幽魔王に、今ようやく触れられたのだという喜びさえ。
「僕の魂のせいだ」
自分の手首をつかんでいる彼の手に、幽魔王はさらにもう一方の手を重ねた。冷たさが倍になった。
「どの魂も負の性質を持っている。でも、その器である肉体は正だ。互いに引かれあっているが、同時に反発もしあっている。だから、魂は長く肉体の中に留まることができないんだ。僕の魂はね、負の中の負なんだよ。本来なら正であるはずの肉体まで負にねじ曲げてしまうほど。そうでなかったら、五百年も使いつづけることはできないよ」
「しかし、だからと言って、これほど冷たくなるものなのか? これではまるで、死――」
言いかけて、彼は口ごもった。幽魔王の美しい顔が、ほんのわずかだがこわばったのを見てしまったからだった。
「なぜ、そこでやめるんだ?」
幽魔王は自虐的に笑った。
「おまえの言うとおりだよ。この体はね、死んでいるんだよ。僕の魂が入りこんだとき、すでにね」
幽魔王が選んだのは、〝恋人〟や〝家族〟と同じくらい最悪のものだった。
「どういう意味だ。それは」
硬い声で自分が問うのを彼は聞いた。
意味など知っていた。これはただの決まり文句だ。幽魔王に言い直す猶予を与えるための。
「おまえはベターハーフ思想を知らないか?」
だが、幽魔王はさらに最悪の選択をした。呆れたような笑みすら浮かべて。
「〝よりよい半身〟。そういう意味だよ」
「おまえも欲しいのか。それが」
幽魔王から笑顔が消えた。
やっと彼の異常に気づいたのだ。同時に、自分が禁句を口にしてしまったことも。
「そんなことは言っていない」
眉をひそめてそう答える幽魔王は、もう以前のあの冷ややかな空気をまとっていた。
これまでの彼ならあわてて弁解し、幽魔王の機嫌を直そうとしただろう。また幽魔王もそれを期待していたに違いない。
しかし、彼は引き下がらなかった。立ち上がり、ソファに座っている幽魔王の近くに歩み寄る。
ほの暗いルームライトに照らし出されている幽魔王は凶悪なまでに美しい。思わず見とれてしまい、彼はあわてて気を引きしめた。
「それは、人間なのか?」
「僕にわかるはずがないだろう」
幽魔王はますます不快げな表情になる。ついさっきまで、あれほど優しく微笑んでいたのに。
逆に言えば、あまりに気分がよかったからこそ、うっかり彼に〝半身〟の存在を話してしまったのだろう。
このときの幽魔王は、彼に対してというよりも、軽率だった自分に対して憤っていたのかもしれない。人間に深入りする幽魔王に妖魔王たちが神経を尖らせていることは、幽魔王自身がいちばんよく知っていたはずだ。
「だが、おまえは人間だと思っているだろう?」
図星を突かれて幽魔王は顔をしかめた。
魔族と違い、幽魔王は嘘をつくのが苦手だ。そうするくらいなら沈黙を守る。このときも幽魔王はそうした。
「俺では、駄目なのか?」
いけない、ともう一人の彼が心の中で叫んだ。それを言ってしまえば、今まで苦労して積み重ねてきたものが崩れ去ってしまう。
何も聞かなかったことにして、今日はこのまま帰るのだ。同胞たちに特に人間と親しくしている幽魔王がいないか訊き、見つけしだい、その人間をうまく遠ざけさせ、幽魔王の怒りのほとぼりが醒めた頃、上質な酒を手土産に、何食わぬ顔で再び訪ねる。
簡単なことだ。今まで何度も繰り返してきたことではないか。幽魔王はつれないが、冷酷ではない。嫌そうな顔をしながらも、なかったことにしてくれるだろう。そうすれば、これまでどおり幽魔王のそばにいられる――
「俺では、おまえの〝半身〟にはなれないのか?」
――終わりだ。
こういうとき、人間たちは〝たががはずれた〟というのだろう。いったんはずれてしまえば、もう元には戻れない。最後まで一気に壊れていくだけだ。
幽魔王は大きく目を見張っていた。が、何も言わず、苦い笑みを浮かべた。
幽魔王が何を思ってそんな表情をしたのか、今となってはよくわかる。だが、このときの彼には、いかにも自分を嘲笑っているように見えて、とっさに幽魔王の細い手首をつかんだ。
初めてのことだった。
そして、そのあまりの冷たさに、怒りを忘れて慄然とした。
「冷たいだろう?」
彼の表情でわかったのか、幽魔王は動じることなく穏やかに言った。
「ここだけじゃない。体中がいつもこうだ。火に当たっても、決して温まることはない。おかげで、暑い思いをしたこともないけどね」
「なぜ、こんな……」
どう考えても、これは尋常な人間の体温ではなかった。たとえるなら、溶けることのない氷。長く触れていると、そこから自分の体温まで奪われていくような心地がする。長年焦がれつづけた幽魔王に、今ようやく触れられたのだという喜びさえ。
「僕の魂のせいだ」
自分の手首をつかんでいる彼の手に、幽魔王はさらにもう一方の手を重ねた。冷たさが倍になった。
「どの魂も負の性質を持っている。でも、その器である肉体は正だ。互いに引かれあっているが、同時に反発もしあっている。だから、魂は長く肉体の中に留まることができないんだ。僕の魂はね、負の中の負なんだよ。本来なら正であるはずの肉体まで負にねじ曲げてしまうほど。そうでなかったら、五百年も使いつづけることはできないよ」
「しかし、だからと言って、これほど冷たくなるものなのか? これではまるで、死――」
言いかけて、彼は口ごもった。幽魔王の美しい顔が、ほんのわずかだがこわばったのを見てしまったからだった。
「なぜ、そこでやめるんだ?」
幽魔王は自虐的に笑った。
「おまえの言うとおりだよ。この体はね、死んでいるんだよ。僕の魂が入りこんだとき、すでにね」
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