【完結】白鹿

邦幸恵紀

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 ***

 狩人は森の中を歩いていた。
 日中はよく晴れていたのに、夕方近くなって雲行きが怪しくなっていた。

「まったく……」

 狩人は舌打ちした。今日は朝から兎一羽さえ仕留めていない。
 ふと、前方で物音がした。狩人はとっさにそこへ銃口を向けた。
 白鹿だった。
 狩人は銃を下ろした。しかし、その表情は険しいままだった。
 白鹿もまた、木々の間に立ちつくしたまま、狩人から逃れようとも、かといって近寄ろうともしなかった。

「〝約束〟を覚えているな?」

 静かに狩人は言った。人語を話せるはずの白鹿は、言葉で答える代わりに、軽く頭を下げた。

「もう二度と会わないと。会えば獲物として撃つと。――忘れてはいないな?」

 再び、白鹿は頷いた。

「そうか。ならいい。――行け」

 その声に弾かれたように、白鹿は狩人から飛び離れていった。
 美しい鹿だった。走る様さえ優美だった。
 この鹿を、父や村人たちのように、素直に神の使いとして崇めることができていたら。
 また、狩人の猟犬たちのように、飼い馴らすことができていたら。
 だが、狩人も白鹿も、それを望まなかった。――対等ではなかったから。
 狩人は再び銃を構えた。そして、その銃口をもう見えなくなる寸前の白鹿に向け、何の迷いもなく引き金を引いた。
 静かな森にただ一発、銃声が響いた。
 狙いは正確だった。不思議と白鹿の悲鳴はなかった。
 狩人はゆっくりと歩いた。茂みをかきわけ、草むらに倒れている白鹿が完全に事切れているのを確かめると、両手で抱き上げた。
 狩人の手はすぐに赤く染まった。

「なあ……」

 聞かせる相手もなく、狩人は呟いた。

「本当に、これでよかったのか? おまえは、満足なのか? ……俺にはわからんよ、白鹿」

 あの日のように、しかし、今度は白鹿の死体を担いで、狩人は歩き出した。
 狩人が歩を進めるたび、白鹿の血が大地に滴り落ちる。
 やがて、どんよりとした空から大きな雨粒がいくつかぱらつきはじめた。だが、狩人はそのまま歩きつづけた。
 雨は森を濡らし、白鹿を濡らし、狩人の頬を濡らした。




「白鹿じゃないか!」

 先日結婚式を挙げたばかりの狩人の幼なじみが、森から帰って来た狩人に非難の声を上げた。ほどなく、村中の人々が彼と同じことをするだろう。狩人と白鹿との間に何があったのかを一生知ることなく。

「何てことを、白鹿は……!」
「白鹿じゃない」

 白鹿を担いだまま、狩人は答えた。

「ただの鹿だ」

  ―了―
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