偽神伝(ぎしんでん)

邦幸恵紀

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序章

3 不本意な契約

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 恭司の部屋は、岡崎の部屋と比べれば格段にすっきりしていた。
 だが、居間の中央には季節はずれなコタツが鎮座していた。
 恭司は部屋に入ると、まず蛍光灯をつけ、次にそのコタツの電源を入れて足を入れた。
 冷え性ではないが寒がりなので、コタツに布団を掛けていないのは、一年のうちたった二ヶ月ほどである。

「とりあえず、座ったら?」

 玄関で立ち往生している男に、恭司はコタツにあたったまま声をかけた。

「あ、でも、ちゃんと靴は脱いで上がれよ。それくらいの常識はあるんだろ?」

 人間にそんなことを言われたのは、これが初めてだったに違いない。
 しかし、男は神妙な面持ちで靴を脱ぎ――靴下も黒だった――コタツには入らず、その前であぐらをかいた。

「まったく、今日はあんたのせいで、大学行けなくなっちまったよ。生でスプラッタは見せられるし」

 さらに、恭司は追い打ちをかけた。
 さすがに男も嫌そうな顔をしていたが、恭司に危害を加えるつもりはないらしい。最初こそあんなことを言ったものの、男は恭司に押され気味だった。
 と。

「どうして岡崎を殺した?」

 まさか、これほど直截に来るとは思っていなかったのだろう。男の顔には驚愕が浮かんでいた。

「岡崎に用があったんだろ? それなのに、どうして殺した? ……ああ、先に言っとくが、殺すために来たっていうのはなしだぜ。今朝じゃなくても、夕べのうちにいくらでも殺せたはずだからな。まさか、俺への見せしめのためだけに殺したのか?」

 男は答えなかった。
 それがすでに、一つの答えとなっていた。

「どうして?」

 軽い調子で恭司は訊ねた。

「岡崎に何か問題でもあったのか? あんた、岡崎に何をやらせようとしてた?」
「驚いたな」

 ようやく、男はそう口を開いた。

「おまえが、そんな人間だとは思わなかった」
「じゃあ、どんな人間だと思ってたんだ? 興味あるね」

 片肘をついて、恭司はにやにやした。
 それを横目で見ながら、男が苦い顔になる。

「少なくとも、そんなことを言う人間だとは思わなかった」
「なら、俺じゃなくて、別な人間にしろよ。何させるつもりだか知らないけど、俺は面倒は大嫌いなんだよ。人に押しつけられたのは特にね」
「殺されたいか?」

 恭司は笑うのをやめて、そっぽを向いた。

「で、俺に何をしろって?」
「……小説を書いてもらいたい」
「人選ミスだ」

 間髪を入れず、恭司。

「それこそ、どうして岡崎を殺した、だ。俺は読む専門で、書いたことなんか一度もねえよ。あんただって、岡崎が小説書きだからわざわざ訪ねてきたんだろ? いったい岡崎のどこが気に食わなかったんだ? 顔はともかく、書くほうはいい線いってたと思うけど?」

 再び、男は返答に窮した。
 こんなはずではなかったとでも言いたげに、端整な顔を歪ませる。

「おまえが知る必要はない」

 ようやく返ってきた答えは、まったく理由になっていなかった。

「さいですか」

 だが、恭司はおどけて肩をすくめるだけに留めた。
 追いつめすぎても厄介だ。何しろ向こうには、〝殺されたいか?〟という、文字どおり、殺し文句がある。

「でも、これは知る必要があるよな。――どんな小説を書かせるつもりだったんだ?」

 これにも男は答えられなかった。
 何と説明したらいいものか、考えあぐねているようでもある。
 恭司はそれをにやにやと眺めていた。殺されたくはないが、唯々諾々と従いたくもない。

「何もそんなに悩むことないだろ? それでよく俺に協力しろなんて言えたもんだな。そんなに言いにくいんなら、素直に岡崎にしとけばよかったのに」

 男が渋い顔をする。しかし、まだ何も言わない。
 もともと恭司の気は長くない。呆れて溜め息をつくと、自分の背後にあったカラーボックスの中から文庫本を取り出し、コタツの天板の上に無造作に置いた。

「ようするに、これだろ? ――『クトゥルー神話』」



 男の驚きは、たとえようもなかった。
 それを見て、恭司がにたりと笑う。
 男を驚かせるのは、恭司の楽しみとなりつつあった。

「なぜ……」
「なーに、単純単純」

 恭司はにやにやしながら、自分のこめかみを突っついた。

「岡崎がハマってたのがそれだったからさ。ちなみに、この本も岡崎から借りた。……もう一生返せなくなっちまったけどな」

 男にはそう言ったが、実際はもっと単純だった。
 昨夜、この男が来る直前まで岡崎が話していた小説のアイデアが、まさしくこの「クトゥルー神話」関連だったのだ。
 だが、それは今は明かさないほうがいいと恭司は判断した。あれは岡崎の〝遺言〟だ。

「それだけで?」
「それだけでだよ。あんたがいつどこで岡崎のことを知ったんだか知らないが、岡崎に書かせるような小説っていったらそれくらいしかないだろ。まさか、あの岡崎に恋愛小説はないだろ?」

 もっともだと思ったのか、男はそれ以上は追及してこなかった。

「でも、わかんないな。どうして今、わざわざそんなものを書かせようとするのか。あんたが直接スカウトしなくても、書いてる奴はいくらでもいるだろ。いや、それより、どうしてそんな小説が必要なんだ? あんたたちにとっては、人に知られないほうがいいんじゃないのか?」
「逆よ」

 と、男はなぜか自嘲に似た笑みを浮かべた。

「人に知られるのはいっこうにかまわぬ。ただ、その在り方が問題なのだ」
「ははあ。なるほどなるほど」

 人を小馬鹿にしたように、恭司は何度もうなずいてみせた。

「つまり、あんたらは、これまで書かれた『クトゥルー神話』が気に入らないわけね」
「その、『クトゥルー神話』という名称自体、我は気に食わぬ」

 本当に不満そうに、男は顔をしかめた。

「まるであれが主神のようではないか。あの男はそのように書いてはおらぬのに」
「あの男……H・P・ラヴクラフトか?」

 男との会話の中で、初めて恭司の表情が輝いた。
 H・P・ラヴクラフト――ハワード・フィリップス=ラヴクラフトは、一八九〇年八月二十日に生まれ、一九三七年三月十五日に死んだ、アメリカの怪奇幻想作家である。
 生前は決して恵まれていたとはいえないこの男は、「クトゥルー神話」と呼ばれる架空の神話体系の創始者として名を残した。
 その基本設定はこうである。

 ――人類発生以前の太古の昔、地球には〈クトゥルー〉、〈大いなる種族〉、〈古のもの〉などといった〈旧支配者〉が君臨していた。やがて彼らは地上から姿を消したが、滅びたわけでは決してなく、邪悪な人間どもの力を借りるなどして、再び地球の支配者たらんと、復活のときを窺っている……

 この異様な神話世界は、ラヴクラフト存命中から数々の作家を魅了し、彼らによって「クトゥルー神話」は、現在もなお増殖を続けている。
 しかし、少なくとも日本の場合、一般人にはほとんど知られていない。まさに、知る人ぞ知る、というのがこの「クトゥルー神話」であり、ラヴクラフトであった。

「確か、『クトゥルー神話』ってのは後の人間がつけた名前で、本人はクトゥルーものの神話とか何とか言ってたんだよな? よく覚えてないけど」

 目を閉じて、恭司は自分の額に手をやった。

「んで、あんたは何か? 俺にラヴクラフトが書いたような『クトゥルー神話』……もとい、とりあえず『神話』を書けっていうわけか?」
「おまえが言うと、何か違うような気がするが……まあ、そうだ」
「こんなこと言うと、また怒られるかもしんないけどさあ」

 額を覆ったまま、いかにも無駄だとわかっているような顔で男を見やる。

「そんなもん、今さら書いてどうすんの? ラヴクラフトのコピーなら、オリジナルだけで充分だろ? いくらうまく書いたって、しょせん本物にゃかなわないんだから」
「ならば、おまえが〝本物〟を作ればよい」

 酷薄に男は笑った。
 恐ろしく冷ややかでありながら、同じくらい魅惑に満ちた笑み。

「我が〝本物〟を見せてやる。おまえはそれをもとに書けばよい。それで今度はそれが〝本物〟になる。何もそう難しいことではなかろう?」

 甘やかな低い声で男は囁いた。
 この声で首を切れと囁かれれば、人は迷わず己の首に刃を立ててしまうだろう。
 今まで調子を狂わされていたが、本来、男はこういう存在だった。相手をうなずかせることなど、造作もないことのはずだった。

「あんた、そりゃ小説に対する冒涜だよ」

 だが、さも軽蔑しきったように、恭司はそう返してきた。
 思ってもみなかった反応に、男は一瞬唖然とし、そして頭を抱えこんだ。
 脅しも賺しも通じないとあっては、他に打つ手がない。まったく、厄介な人間であった。

「なに落ちこんでんだよ。そうしたいのはこっちのほうだ。あんた、全然聞こうとしないけど、俺びは小説なんて書けないし、書く気もまったくないんだ。それに、まだ肝心なことを訊いてない。――どうして、ラヴクラフト以外の〝本物〟が必要になったんだ?」

 男は顔を上げ、流れ落ちる髪の間からじっと恭司を見た。

「おまえ、どこまで知っている?」

 つとめて冷静な声音であった。
 しかし、注意深く観察すれば、男の目に今までなかったものがあることに気づいたはずだ。
 およそ、この男にはふさわしくないもの。
 〝恐れ〟であった。

「どこまでって?」

 額から手を離した恭司は、コタツに寄りかかりながらとぼけた。

「それじゃあ、何が何だかわからないぜ? 『クトゥルー神話』? ラヴクラフト? それとも、それ以外?」

 いざそう言われると、男は言葉に詰まってしまった。まさに墓穴である。
 もっとも、訊かれてまずいことばかりの男に、最初から恭司に問いただすことなどできるはずもなかった。だからこそ、何も訊ねさせずに言うことをきかせたかったのだろうが。

「あんたと話してると、話が続かなくて困るな」

 そうしているのは自分のくせに、恭司は呆れたように笑った。
 だが、今までのような皮肉めいた笑みではない。男は幾分うろたえたように恭司から目をそらした。

「結局さ、いくら俺が書けないって言っても、あんたはあきらめてくんないわけ?」

 この質問には即答した。

「そうだ」
「しょうがねえなあ」

 恭司はあからさまに顔をしかめたが、「じゃあ、こういうことにしないか?」と男のほうに身を乗り出した。

「俺はどうしたって小説なんか書けない。でも、俺の兄貴は一応プロの作家なんだ。そこでだ。俺は見たものをレポートの形にして兄貴に渡す。兄貴はそれをもとに小説を書く。それをその後……どうするんだ? そういや、それ訊いてなかったな。あんたらが自費出版でもしてくれるのか?」
「それは後で考えるが……」

 せっかく恭司が妥協案を出したというのに、男は浮かぬ顔をしている。

「何だよ。文句あるのか? もちろん、兄貴にあんたのことは言わねえよ。できた小説も俺がチェックするし、何も問題はないだろ? それが嫌なら他をあたれ。俺にはこれ以外どうしようもない」
「……わかった。それでよい」

 不承不承、男はうなずいた。どうあっても、恭司以外にやらせるつもりはないらしい。

「ところで……その兄というのは、おまえに似ているのか?」

 何の脈絡もない質問だった。思わず恭司は鳶色の目を見張る。

「いや、全然。人から義理の兄弟じゃないかって言われるくらい。写真ないから見せられないけど……それがどうかしたのか?」
「いや、特にどうということもないが……他に兄弟はいないのか?」
「いないよ」

 そう答えてから、男の意図を察した恭司はにやにやした。

「姉も妹も弟も……俺の代わりになるようなのは、一人もいねえよ」
「我は別に、そういうつもりで訊いたわけでは……」

 男はすぐに言い訳したが、その顔は明らかに動揺している。

「じゃあ、どういうつもりだったんだ? 聞かせてもらいたいもんだな」
「どういうつもりも……ただ、興味があったから訊いただけだ」

 冷やかすような恭司の視線を受けて、男は苦しまぎれに答えた。
 だが、男の答えを聞いた恭司は、いかにも意外そうな、少し嘲るような顔になった。

「興味? ずいぶん人間くさいことを言うもんだな」
「……どういう意味だ?」

 男が素に戻る。本当に、その意味がわからなかったのだ。
 ついでに言えば、なぜ恭司がそんなことを言うのかも。

「別に? 言葉どおりの意味だけど?」

 悪戯っぽく笑って、恭司ははぐらかした。

「それより、このまま俺が引き受けるとして、あんたたちはその見返りに何をくれるんだ?」
「見返り?」

 続けて何か言おうとしていた男は、あっけにとられて問い返した。

「おいおい。いくらやんなきゃ殺されるっていったって、ただ働きじゃやる気になんないだろ? それとも、そうするつもりだったのか?」

 男は何も言えずに恭司の顔を眺めていた。が、これなら懐柔できると気づいたのか、嬉しそうに破顔した。

「ならば、おまえはいったい何が欲しい? おまえの望むことなら、何でも叶えてやるぞ」
「何でも?」

 上目使いで恭司が男を見やる。

「ああ――何でも」

 奇妙な熱っぽさがあった。
 まるで、見返りという意味でなくとも、おまえのためなら何でもしてやるとでもいうように。

「言ったな。じゃあ、叶えてくれ」

 軽く恭司は笑った。

「安楽死だ」



 何を言われたかわからず、男は一拍置いてから呟いた。

「何?」
「あ、ん、ら、く、し。具体的には眠ったまま死ぬことだな。そして、もし転生というものがあるんなら、俺は二度とこの世に生まれてきたくない。まあ、そこまではあんたに頼まないけど、小説ができたら、俺を眠ったまま死なせてくれ。俺の望みはそれだけだ」
「なぜ?」

 眉をひそめて、男は呻いた。

「おまえは自殺志願者か?」
「そんなんだったら、わざわざあんたに頼まないよ」
「では、なぜそのようなことを言う? 殺されたくないと言いながら死にたがる? ――わからぬ。おまえの考えていることは、我にはわからぬ」
「安心しろよ」

 途方に暮れる男に、恭司はにこやかに微笑んだ。

「俺もあんたにわかってもらおうなんて、これっぽっちも思っちゃいないから。それでも理解しがたいって言うんなら、何度も言ってるとおり、他の人間にするんだな。俺のいちばんの望みって言ったら、ほんとはそれなんだから。それにあんた、用が済んだら俺を殺すつもりだったんだろ? 一石二鳥じゃないか」

 これには男は猛然と叫んだ。

「そんなつもりはない!」
「あれ、違うの? 俺はてっきりそうなるもんだと思ってたよ。やばいのを書いた人間は、行方不明になったり、無残な死を遂げたりするのがセオリーだから」

 男の反応に驚きはしたものの、恭司はのうのうとそう答えた。
 男は悔しげに自分の膝を握りしめたが、結局、何一つ反論することはできなかった。
 考えてみれば、不思議なことだった。
 恭司を従わせたいのなら、手っ取り早く暴力で脅すこともできたはずである。しかし、現在に至るまで、男は恭司に指一本触れていない。恭司に言いたい放題言われても、苦い顔をするだけだ。
 つまり、どういうわけかこの男は、恭司に嫌われることを恐れているのだ。
 人一人殺して恭司を脅そうとした以上、好かれようとは思っていなかったはずなのだが、恭司と話しているうちに気が変わってしまったらしい。

「で、どうなんだ? 俺の望みは叶えてくれるのか? 言っとくけど、これ以外に俺が望むことは何もない」

 そんな男に、恭司はずいぶん残酷なことを言った。
 恭司はわかっている。男が自分に腕力や人外の力は振るえないことを。
 そうとわかっていれば、この男はさほど恐ろしい存在ではない。

「わかった。必ず叶える」

 案の定、男は観念したようにそう答えた。

「じゃあ、契約成立だな。契約書でも書こうか?」
「我は悪魔ではないぞ」

 何がそれほど気に障ったのか、男はむっとして恭司を見やった。

「似たようなもんだと思うけど。で、俺はこれからどうすればいいんだ?」
「まずは、我がおまえを〈旧支配者〉の許ヘと案内する。おまえはその見聞をもとに自由に書けばよい。……どうした?」

 急に恭司が笑い出したのに気がついて、今までが今までだけに、男は不安そうな表情を作った。

「いや、何……まるでダンテの『神曲』みたいだなと思ってさ。さしずめあんたは、ダンテを地獄へと導くウェルギリウスだな」
「なるほど、違いない」

 男にもそれだけの知識はあったのか、合点がいったように微笑んだ。
 実は『ファウスト』のメフィストフェレスみたいだとも言いたかったのだが、それは言わなくて正解だったかもしれない。あれは悪魔だ。

「じゃあ、今からさっそく地獄めぐりの旅とあいなるのかな、ウェルギリウス先生?」
「いや、後日改めて来る。我にも都合というものがある」
「俺にも、都合というものがあるんですがね、先生」

 ふてくされて恭司が言うと、男は気まずそうに顔をしかめたが、黙殺して立ち上がった。

「言い忘れていたが」

 傲岸に男は恭司を見下ろした。
 蛍光灯にまともに照らし出された男の顔は、やはり整いすぎるほど整っていた。

「このことは他言無用。一言でも漏らせば即刻おまえを殺す。そのことゆめゆめ忘れるな」
「はいはい。それはもう」

 うるさそうに恭司はうなずいて、コタツにうつぶせた。

「頼まれたって言わないよ。頭おかしいと思われるだけだから」

 確かに他言しないと言っているのだが、男の眉間に深い縦皺が寄った。

「おまえがどこにいても迎えに行く」

 そう言い残して、男は大股に玄関のほうへと歩いていった。

「あ、そう」

 それで恭司は納得したのだが、男は急に足を止めて振り返った。

「おまえ、我の名を知りたくはないのか?」
「別に。知らなくても、俺はまったく全然これっぽっちも困らないし。でも、名乗りたいんなら訊いてやるよ。俺は沼田恭司。あんたは?」

 男は憮然としていたが、何事か呟いた。
 とたんに恭司が眉をひそめる。

「何て言った? 聞き取れなかった」
「人には発声できぬ」

 ようやく優越感を覚えてか、男の顔に笑みが浮かんだ。

「せいぜいその音を真似ることしかな」
「じゃあ、訊いても無駄じゃねえか。訊いて損した」

 顔をそむけて、男に聞こえるように愚痴る。
 男の笑顔が一瞬のうちに消え去った。

「ナイアーラトテップ」

 靴を履き、玄関のドアノブに手を掛けて、男は控え目に口にした。

「日本人のおまえには、これがいちばん言いやすかろう」

 だが、恭司の意見は聞きたくなかったのか、男はすぐにドアを開け、その向こうへと消えてしまった。

「確かに、ナイアルラトホテップは言いづらいわな」

 そう独りごちてから、恭司はコタツに肘をつき、長い前髪を掻き上げた。

「許せ、兄貴」

 しかし、その口許は、楽しげな笑いに歪んでいる。

「今さら、『クトゥルー神話』だ」



 かくして、恭司にまったく不利と思える〝契約〟は結ばれた。
 その先にあるものは、まだ誰も知らない。

  ―序章・了―
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