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1 登録所にて
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その二人連れが現れたのは、ジャドとの決戦を明日に控えた初夏の昼下がりのことだった。
ケミネの森の近くに臨時に設けられた傭兵登録所の周辺には、すでに登録を済ませた荒くれ男たちがたむろしていたが、彼らは二人に気づくと一瞬あっけにとられ、ついで冷やかしの口笛をいくつも上げた。
彼らにそうさせたのは、正確には二人ではなく、そのうちの一人だった。長剣を背中に負い、革製の鎧を身につけてはいたが、小柄な体は細く、小さな顔は精緻といってもいいほど整っている。まさに、物語の中から抜け出てきたような〝少女傭兵〟。中でも、男たちの目を奪ったのは、鮮血を浴びたような見事な赤毛だった。首の後ろでぞんざいに一つに結ばれてはいたが。
そんなわけで、男たちの関心はもっぱらこの少女傭兵に向けられていたのだが、彼女の背後を守るように歩く人物に目を留めた者は怪訝な呟きを漏らした。
「暁教団……?」
それはこの大陸を二分する、二大宗教団体の一つだった。その勢力範囲から、俗に〝北の暁・南の十字〟と呼ばれている。
もともとは同じ一つの宗教から分かれた宗派で、どちらも一神教であるが、双方とも自分たちのほうが古く、それゆえに正統であると主張している。が、真偽のほどは定かではない。
十字教団も暁教団も、都市はもちろんのこと、辺境の村にも教会を建て、そこに神父を置いている。それぞれ神父服も定められており、十字教団が赤を基調としているのに対して、暁教団は青を基調としていた。
赤毛の少女傭兵の後方を歩く長身の人物が身にまとっていたのは、まさにこの暁教団のシンボルである三日月と六芒星の金の縫いとりが施された濃青の外套だった。右肩に担ぐようにして持っている黒っぽい長い棒は、頭から手元まで薄汚れた厚手の布に覆われている。頭の部分がふくらんでいるところを見ると、そこに荷物を入れているのだろう。
旅の神父が駐屯地を訪ねることはまずないが、神父が駐屯地にいるのはそう珍しくはない。いわゆる従軍神父だ。戦いの前に自らの生還を神に願いたいと思う兵士や傭兵もいるし、その願いが聞き届けられなかったときには速やかに神の御許へ行けるよう、今度は神父が祈る。
しかし、今この駐屯地に神父はいない。三日前の夜、彼自身が救いを求めてここから逃げ出してしまった。誰も腹を立てたりはしなかったが、彼に死という救いが与えられるよう心の底から祈ってやった。そんなわけで、暁教団の神父のほうは、傭兵ではなく従軍神父としてなら採用されるかもしれない。
だが、少女傭兵も神父も、周囲の騒音や視線など、まったく意にも介していなかった。
少女傭兵は無表情のまま、神父は穏やかな笑顔のまま、悠然とまっすぐ歩きつづけ――登録所の天幕の中で手持ち無沙汰にしていた受付係の机の前で立ち止まった。
「迷子かい? お嬢ちゃん」
受付係の中年男は、いかつい顔を下卑た笑みで歪めた。
近くで見ると、この少女傭兵は人形のように美しかった。
多少日焼けはしているものの、肌はきめ細かく傷一つない。こんなところで傭兵の真似事をしているよりも、街で花でも売っていたほうが、よほど本人や男どものためになるだろう。
しかし、この少女傭兵には致命的な欠点があった。
――表情がない。
受付係の侮蔑を受けても眉の一筋も動かさない。硝子玉のような紺碧の瞳でじっと見つめ返すだけだ。
人形のようではなく、本当に人形を相手にしているようだ。受付係は薄気味悪くなって笑みを消した。
「ここで傭兵の登録をしていると聞いた」
その低い声が目の前の少女傭兵の口から発せられたのだと受付係が気づくまで、しばらく時間がかかった。
そして、それに気づいたとき、自分が決定的な間違いを犯していたことを知った。
少女傭兵は、少年傭兵だった。
「確かに、受付はしている」
ばつの悪さをごまかすために、受付係はわざと尊大にふるまった。
「だが、本当に傭兵か? 我々が雇いたいのは、本物の傭兵だ」
「おや。僕はともかく、彼は本当に傭兵ですよ?」
からかうようにそう答えたのは、少年傭兵ではなく、その背後に立っていた暁教団の神父だった。
少年傭兵よりは年上だが、彼もまた若く端整な顔立ちをしている。金糸のような髪と緑柱石のような瞳。ごく普通に教会にいれば、女どもが一日中入り浸るだろう。
「それに、今は選り好みをしてる余裕はないのでは? 一人でも多く人員が欲しいのでしょう?」
受付係は思わず顔を歪めた。
この優男風の神父が言うとおり、事態は切迫していた。こうして戦地で傭兵を募らなければならないほどに。
今回の戦いは、表向きは小国同士のよくある領地争いだ。だが、その実態は西のファイス帝国と東のラリオン帝国のこれまたよくある代理戦争の一つだった。
このアバリシア王国はファイス帝国の実質的な支配下にある。しかし、ファイスはいくら援助してやっても勝利をものにできないアバリシアにとうとう見切りをつけた。ファイスにとっては、アバリシアはなくしてもさして困らない小国の一つにすぎない。
梯子を外された形となったアバリシアは大いにあわてた。ファイスの後ろ盾があったからこそ、今まで何とか持ちこたえてきたのだ。それを失ってしまっては、今度こそ本当に敗北してしまう。相手国ジャドも、ファイスに見限られたアバリシアと終戦条約など結ぶ気もないだろう。
今のアバリシアに残された道は、二つに一つだった。
一つ。降伏して、今度はラリオン帝国の支配下に入る。
二つ。徹底抗戦して、再びファイス帝国の援助をとりつける。
アバリシアは徹底抗戦する道を選択した。主人に捨てられた飼い犬は、かつて与えられた命令どおり健気に戦いつづけることによって、もう一度主人に拾ってもらおうと考えたのだった。
だが、ファイスからの援助を打ち切られたアバリシアは、兵力的にも財政的にも逼迫していた。
ことに深刻なのが兵力だった。アバリシアは、国民のほとんどが農業に従事している典型的な農業国である。彼らを戦争に駆り出しては、国そのものが成り立たなくなる。
そのため、戦地には王国軍と傭兵――どちらもファイスの息がかかっていた――を送りこんでいたのだが、時勢に鼻のきく有力な傭兵たちはとうにアバリシアを離れており、新たな募集に応じる者もいなかった。
そこで今回、アバリシアは破格の条件をつけた。
――戦いの勝敗にかかわらず、生き残った者には報酬を与える。
つまり、積極的に戦わずとも、生き残りさえすればいい。
アバリシアの目論見どおり、傭兵たちは次々とこの登録所へとやってきた。――目先の欲にとらわれた自称傭兵たちが。
本物の傭兵が欲しいと言いつつも、本物がこんなところに来るはずもないことは、下っ端でも軍人のはしくれである受付係自身がよくわかっていた。ただ、小娘や神父では足手まといになる。そう考えただけだ。小娘改めこの小僧なら、夜の天幕の中で男たちの役には立ちそうだが。
――とにかく、この神父の言うとおり、頭数だけでもそろえておくか。
受付係が嘆息して羽根ペンを握りかけたとき、神父たちのさらに背後から野太い男の声が上がった。
「待てよ」
神父と少年傭兵は、声がした方向を振り返った。
いつのまにかできていた人の輪の中から、傭兵というより猟師のような風情の男が抜け出てきて、神父と少年傭兵をねめつけた。
二十代後半くらいか。肌は浅黒く、艶のない黒髪を短く刈り上げている。
「何か?」
神父は小首をかしげて男に訊ねた。
しかし、男は腰に吊していた剣を鞘から引き抜くと、その鋭い切っ先を迷いなく神父へと向けた。
「役立たずはいらねえ。俺と勝負して、負けたら二人とも登録しないで帰れ」
「は?」
と言ったのは、剣で指されている神父ではなく受付係だった。
「ここはあの人に勝たないと登録できない決まりになっているんですか?」
困惑したように神父に訊かれて、受付係もまた困惑した。
「そんなことはない――」
受付係がそう答えかけたとき、男はもう神父に向かって大剣を振り上げていた。
「なるほど。さすがは本物。迷いなく隙を突かれますね」
にこやかに神父は笑った。
その場にいた誰もが神父を切り裂いただろうと予測した男の剣は、神父が手にしていた長い棒――金属製だが剣よりもはるかに細い――で止められていた。
さらに驚くべきことには、男が両手で剣の柄を握っているのに対して、神父は右手一本でその棒を持っていた。しかも、ぴくりとも動かない。
「うーん……どうしましょうかねえ……」
無精髭を生やした顔面をこわばらせている男に対して、神父は相変わらず微笑んでいる。だが、その棒はじりじりと確実に男に近づいていた。
「やめろ」
まったく感情はこもっていなかったが、少年傭兵のその一声で、神父はぴたりと動きを止めた。
「ここは戦場じゃない。……約束を忘れたか?」
神父は少年傭兵を横目で見て、これ見よがしに溜め息をついた。
「はいはい。覚えていますよ。でも、ここで黙って切られるわけにもいかないでしょう?」
「わかった! 登録はするから、騒ぎを起こすのはやめてくれ!」
受付係が悲鳴のような声を上げた、同時に男は周囲の人間によって神父から引き離された。
男は恐怖に凍てついた褐色の目を神父に向けた。
本気で切り殺したかったわけではない。が、これで死ぬなら戦場でも死ぬだろうと思っていた。
しかし、あの神父は男の剣を棒一本であっさりと受け止め、さらには押し返そうとした。最初はともかく、渾身の力をこめていた男の剣をだ。
男はいまだ握ったままの自分の剣を見た。
よく見れば精緻な彫刻が施されていたあの棒は、いったいどんな金属で作られているのだろう。
決して安物でもなく、手入れも怠っていなかった男の剣は、刃こぼれを起こしていた。
「騒ぎを起こしたのはあちらでしょう。心外ですね」
神父は少し機嫌を損ねたように言ったが、少年傭兵に無言で睨まれて、おどけたように肩をすくめてみせた。
「登録……名前だけでよろしいですか?」
「ああ、名前だけでいい」
さらに補足するなら、それは本名でなくてもいい。
名前と容貌。それを記録するのが受付係の仕事であり、傭兵同士のいざこざの仲裁はその中には含まれていない。
「では、まず僕から。僕はクラウド。教団でいただいた名前です」
神父はそう名乗って、暁教団の三点拝――額、左肩、右肩の順に指先を置く――をした。
「神父が傭兵なんかしていいのか?」
ふと疑問に思って訊ねると、神父――クラウドはにこりと笑った。
「ええ。〝元〟ですから」
元神父が神父服を着続けてもいいのかと反射的に受付係は思ったが、これ以上この二人組に深入りしたくなかった彼は、何も言わずに〝暁教団元神父〟と名簿の備考欄につけくわえた。
「それで……その……」
受付係は上目使いでおそるおそる少年傭兵を見た。
傭兵の剣を棒一本で止めたクラウドより、この人形のような少年傭兵のほうがなぜか恐ろしい。
いや、理由はあるのだ。
そんなクラウドを、この少年傭兵は言葉だけで止めた。
あのとき、彼が何も言わなかったら、クラウドは何らかの方法で、確実にあの傭兵を殺していただろう。
「ラン」
少年傭兵の口から出た言葉は、あまりに短く唐突すぎて、受付係には聞きとれなかった。
「何だって? もう一回言ってくれ」
わずかにだが、少年傭兵は面倒くさそうな表情を見せた。
だが、彼もまた面倒を起こしたいとは思っていないらしく、素直にもう一度名乗った。
「ラン。俺の名前はランだ」
少年傭兵――ランは、その一言を最後に、二度と口を開かなかった。
ケミネの森の近くに臨時に設けられた傭兵登録所の周辺には、すでに登録を済ませた荒くれ男たちがたむろしていたが、彼らは二人に気づくと一瞬あっけにとられ、ついで冷やかしの口笛をいくつも上げた。
彼らにそうさせたのは、正確には二人ではなく、そのうちの一人だった。長剣を背中に負い、革製の鎧を身につけてはいたが、小柄な体は細く、小さな顔は精緻といってもいいほど整っている。まさに、物語の中から抜け出てきたような〝少女傭兵〟。中でも、男たちの目を奪ったのは、鮮血を浴びたような見事な赤毛だった。首の後ろでぞんざいに一つに結ばれてはいたが。
そんなわけで、男たちの関心はもっぱらこの少女傭兵に向けられていたのだが、彼女の背後を守るように歩く人物に目を留めた者は怪訝な呟きを漏らした。
「暁教団……?」
それはこの大陸を二分する、二大宗教団体の一つだった。その勢力範囲から、俗に〝北の暁・南の十字〟と呼ばれている。
もともとは同じ一つの宗教から分かれた宗派で、どちらも一神教であるが、双方とも自分たちのほうが古く、それゆえに正統であると主張している。が、真偽のほどは定かではない。
十字教団も暁教団も、都市はもちろんのこと、辺境の村にも教会を建て、そこに神父を置いている。それぞれ神父服も定められており、十字教団が赤を基調としているのに対して、暁教団は青を基調としていた。
赤毛の少女傭兵の後方を歩く長身の人物が身にまとっていたのは、まさにこの暁教団のシンボルである三日月と六芒星の金の縫いとりが施された濃青の外套だった。右肩に担ぐようにして持っている黒っぽい長い棒は、頭から手元まで薄汚れた厚手の布に覆われている。頭の部分がふくらんでいるところを見ると、そこに荷物を入れているのだろう。
旅の神父が駐屯地を訪ねることはまずないが、神父が駐屯地にいるのはそう珍しくはない。いわゆる従軍神父だ。戦いの前に自らの生還を神に願いたいと思う兵士や傭兵もいるし、その願いが聞き届けられなかったときには速やかに神の御許へ行けるよう、今度は神父が祈る。
しかし、今この駐屯地に神父はいない。三日前の夜、彼自身が救いを求めてここから逃げ出してしまった。誰も腹を立てたりはしなかったが、彼に死という救いが与えられるよう心の底から祈ってやった。そんなわけで、暁教団の神父のほうは、傭兵ではなく従軍神父としてなら採用されるかもしれない。
だが、少女傭兵も神父も、周囲の騒音や視線など、まったく意にも介していなかった。
少女傭兵は無表情のまま、神父は穏やかな笑顔のまま、悠然とまっすぐ歩きつづけ――登録所の天幕の中で手持ち無沙汰にしていた受付係の机の前で立ち止まった。
「迷子かい? お嬢ちゃん」
受付係の中年男は、いかつい顔を下卑た笑みで歪めた。
近くで見ると、この少女傭兵は人形のように美しかった。
多少日焼けはしているものの、肌はきめ細かく傷一つない。こんなところで傭兵の真似事をしているよりも、街で花でも売っていたほうが、よほど本人や男どものためになるだろう。
しかし、この少女傭兵には致命的な欠点があった。
――表情がない。
受付係の侮蔑を受けても眉の一筋も動かさない。硝子玉のような紺碧の瞳でじっと見つめ返すだけだ。
人形のようではなく、本当に人形を相手にしているようだ。受付係は薄気味悪くなって笑みを消した。
「ここで傭兵の登録をしていると聞いた」
その低い声が目の前の少女傭兵の口から発せられたのだと受付係が気づくまで、しばらく時間がかかった。
そして、それに気づいたとき、自分が決定的な間違いを犯していたことを知った。
少女傭兵は、少年傭兵だった。
「確かに、受付はしている」
ばつの悪さをごまかすために、受付係はわざと尊大にふるまった。
「だが、本当に傭兵か? 我々が雇いたいのは、本物の傭兵だ」
「おや。僕はともかく、彼は本当に傭兵ですよ?」
からかうようにそう答えたのは、少年傭兵ではなく、その背後に立っていた暁教団の神父だった。
少年傭兵よりは年上だが、彼もまた若く端整な顔立ちをしている。金糸のような髪と緑柱石のような瞳。ごく普通に教会にいれば、女どもが一日中入り浸るだろう。
「それに、今は選り好みをしてる余裕はないのでは? 一人でも多く人員が欲しいのでしょう?」
受付係は思わず顔を歪めた。
この優男風の神父が言うとおり、事態は切迫していた。こうして戦地で傭兵を募らなければならないほどに。
今回の戦いは、表向きは小国同士のよくある領地争いだ。だが、その実態は西のファイス帝国と東のラリオン帝国のこれまたよくある代理戦争の一つだった。
このアバリシア王国はファイス帝国の実質的な支配下にある。しかし、ファイスはいくら援助してやっても勝利をものにできないアバリシアにとうとう見切りをつけた。ファイスにとっては、アバリシアはなくしてもさして困らない小国の一つにすぎない。
梯子を外された形となったアバリシアは大いにあわてた。ファイスの後ろ盾があったからこそ、今まで何とか持ちこたえてきたのだ。それを失ってしまっては、今度こそ本当に敗北してしまう。相手国ジャドも、ファイスに見限られたアバリシアと終戦条約など結ぶ気もないだろう。
今のアバリシアに残された道は、二つに一つだった。
一つ。降伏して、今度はラリオン帝国の支配下に入る。
二つ。徹底抗戦して、再びファイス帝国の援助をとりつける。
アバリシアは徹底抗戦する道を選択した。主人に捨てられた飼い犬は、かつて与えられた命令どおり健気に戦いつづけることによって、もう一度主人に拾ってもらおうと考えたのだった。
だが、ファイスからの援助を打ち切られたアバリシアは、兵力的にも財政的にも逼迫していた。
ことに深刻なのが兵力だった。アバリシアは、国民のほとんどが農業に従事している典型的な農業国である。彼らを戦争に駆り出しては、国そのものが成り立たなくなる。
そのため、戦地には王国軍と傭兵――どちらもファイスの息がかかっていた――を送りこんでいたのだが、時勢に鼻のきく有力な傭兵たちはとうにアバリシアを離れており、新たな募集に応じる者もいなかった。
そこで今回、アバリシアは破格の条件をつけた。
――戦いの勝敗にかかわらず、生き残った者には報酬を与える。
つまり、積極的に戦わずとも、生き残りさえすればいい。
アバリシアの目論見どおり、傭兵たちは次々とこの登録所へとやってきた。――目先の欲にとらわれた自称傭兵たちが。
本物の傭兵が欲しいと言いつつも、本物がこんなところに来るはずもないことは、下っ端でも軍人のはしくれである受付係自身がよくわかっていた。ただ、小娘や神父では足手まといになる。そう考えただけだ。小娘改めこの小僧なら、夜の天幕の中で男たちの役には立ちそうだが。
――とにかく、この神父の言うとおり、頭数だけでもそろえておくか。
受付係が嘆息して羽根ペンを握りかけたとき、神父たちのさらに背後から野太い男の声が上がった。
「待てよ」
神父と少年傭兵は、声がした方向を振り返った。
いつのまにかできていた人の輪の中から、傭兵というより猟師のような風情の男が抜け出てきて、神父と少年傭兵をねめつけた。
二十代後半くらいか。肌は浅黒く、艶のない黒髪を短く刈り上げている。
「何か?」
神父は小首をかしげて男に訊ねた。
しかし、男は腰に吊していた剣を鞘から引き抜くと、その鋭い切っ先を迷いなく神父へと向けた。
「役立たずはいらねえ。俺と勝負して、負けたら二人とも登録しないで帰れ」
「は?」
と言ったのは、剣で指されている神父ではなく受付係だった。
「ここはあの人に勝たないと登録できない決まりになっているんですか?」
困惑したように神父に訊かれて、受付係もまた困惑した。
「そんなことはない――」
受付係がそう答えかけたとき、男はもう神父に向かって大剣を振り上げていた。
「なるほど。さすがは本物。迷いなく隙を突かれますね」
にこやかに神父は笑った。
その場にいた誰もが神父を切り裂いただろうと予測した男の剣は、神父が手にしていた長い棒――金属製だが剣よりもはるかに細い――で止められていた。
さらに驚くべきことには、男が両手で剣の柄を握っているのに対して、神父は右手一本でその棒を持っていた。しかも、ぴくりとも動かない。
「うーん……どうしましょうかねえ……」
無精髭を生やした顔面をこわばらせている男に対して、神父は相変わらず微笑んでいる。だが、その棒はじりじりと確実に男に近づいていた。
「やめろ」
まったく感情はこもっていなかったが、少年傭兵のその一声で、神父はぴたりと動きを止めた。
「ここは戦場じゃない。……約束を忘れたか?」
神父は少年傭兵を横目で見て、これ見よがしに溜め息をついた。
「はいはい。覚えていますよ。でも、ここで黙って切られるわけにもいかないでしょう?」
「わかった! 登録はするから、騒ぎを起こすのはやめてくれ!」
受付係が悲鳴のような声を上げた、同時に男は周囲の人間によって神父から引き離された。
男は恐怖に凍てついた褐色の目を神父に向けた。
本気で切り殺したかったわけではない。が、これで死ぬなら戦場でも死ぬだろうと思っていた。
しかし、あの神父は男の剣を棒一本であっさりと受け止め、さらには押し返そうとした。最初はともかく、渾身の力をこめていた男の剣をだ。
男はいまだ握ったままの自分の剣を見た。
よく見れば精緻な彫刻が施されていたあの棒は、いったいどんな金属で作られているのだろう。
決して安物でもなく、手入れも怠っていなかった男の剣は、刃こぼれを起こしていた。
「騒ぎを起こしたのはあちらでしょう。心外ですね」
神父は少し機嫌を損ねたように言ったが、少年傭兵に無言で睨まれて、おどけたように肩をすくめてみせた。
「登録……名前だけでよろしいですか?」
「ああ、名前だけでいい」
さらに補足するなら、それは本名でなくてもいい。
名前と容貌。それを記録するのが受付係の仕事であり、傭兵同士のいざこざの仲裁はその中には含まれていない。
「では、まず僕から。僕はクラウド。教団でいただいた名前です」
神父はそう名乗って、暁教団の三点拝――額、左肩、右肩の順に指先を置く――をした。
「神父が傭兵なんかしていいのか?」
ふと疑問に思って訊ねると、神父――クラウドはにこりと笑った。
「ええ。〝元〟ですから」
元神父が神父服を着続けてもいいのかと反射的に受付係は思ったが、これ以上この二人組に深入りしたくなかった彼は、何も言わずに〝暁教団元神父〟と名簿の備考欄につけくわえた。
「それで……その……」
受付係は上目使いでおそるおそる少年傭兵を見た。
傭兵の剣を棒一本で止めたクラウドより、この人形のような少年傭兵のほうがなぜか恐ろしい。
いや、理由はあるのだ。
そんなクラウドを、この少年傭兵は言葉だけで止めた。
あのとき、彼が何も言わなかったら、クラウドは何らかの方法で、確実にあの傭兵を殺していただろう。
「ラン」
少年傭兵の口から出た言葉は、あまりに短く唐突すぎて、受付係には聞きとれなかった。
「何だって? もう一回言ってくれ」
わずかにだが、少年傭兵は面倒くさそうな表情を見せた。
だが、彼もまた面倒を起こしたいとは思っていないらしく、素直にもう一度名乗った。
「ラン。俺の名前はランだ」
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