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偽神伝/アザトース

偽神伝/アザトース

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「おまえには、まるでアザトースの奪われた知性が備わっているかのようだ」

 苦い笑みを浮かべて、〈這い寄る混沌〉は言った。

「バーカ言え。そんなんだったら、東大現役で入ってるよ」

 しかし、きょうは明るく笑い飛ばす。
 この先、恭司が何と言うつもりかわかっている。
 これでもう用済みだろう――早く現実に帰してくれ。
 何の未練もなく、また明日会えるかのような気安さで、恭司は彼に永遠の別れを告げるのだ。
 ここにこのまま恭司を留めることはたやすい。
 だが、そんなことをすれば、恭司は彼を嫌うだろう――二度とこんなふうに微笑みかけてはくれないだろう。あくまで恭司には、自ら望んでここに残ってもらわなければならぬ。
 しかし、その可能性は、クトゥルーの復活以上になかった。

「帰してくれないか」

 案の定、恭司は何気なくそう切り出した。

「もうこっちでの用は済んだはずだ。帰ってレポート書かなきゃならん。たぶん、一週間くらいでレポートも身辺整理も終わらせられると思う。そしたら、迎えにきてくれ」
「……迎え?」

 その言葉に、彼があきらめきっていたことを期待して、その端整な顔をほころばせかけたとき、恭司はまったく彼が予想もしていなかった答えを返してきた。

「忘れたのか? おまえ、ぜんぶ事が済んだら、俺を安楽死させてくれるって言ったじゃないか」

 ――彼は、暗澹とした。
 確かにあの日、本来ならあの男――おかざきひでにやらせるはずだった仕事をするように迫ったとき、恭司はそれと引き換えに、自分を安楽死させることを彼に約束させた。忘れていたわけではない。恭司の言ったことなら、彼は一言一句正確に覚えている。だが、それは恭司独特の冗談だとばかり思っていたのだ。

「冗談ではなかったのか?」

 彼は思ったままを口にした。

「本気だよ、もちろん」

 平然と恭司はそう答えた。

「なぜだ?」

 困惑して、彼は眉をひそめた。

「おまえは若い。なのになぜ、かくも死にたがる?」
「俺はせっかちでね――」

 目元にかかる栗色の髪を掻き上げながら、恭司はうっすらと笑った。

「どうせ死ぬんなら、早いほうがいい。それも楽に死ねるんならね」
「……なぜ、死に急ぐ」
「無意味だからだ」

 あっけなく恭司は言った。

「俺の存在なんて、あってもなくても同じようなもんだ。それならいっそ、ないほうがいい」
「無意味だと? おまえが?」

 思わず、彼は顔と声とを険しくさせた。恭司が無意味ならば、この宇宙に意味のあるものなど、何一つなくなってしまう。たとえ本人の口から出た言葉でも、いや本人だからこそなおのこと、彼には許せなかった。

「そうだ」

 しかし、恭司はいささかも怯んだ様子も見せず、ベッドに腰かけたまま、彼をまっすぐに見上げた。
 いつもそうだ。怒りを忘れて、彼はそんな恭司に見入った。こんなふうに彼を見ることができるのは、この恭司くらいのものだ。彼もまた、恭司以外にこのような態度をとることは許さない。恭司だけだ。本当に、彼には恭司だけだ。

「……だが、少なくとも我は、おまえを必要としている」

 恭司の眼差しに、彼のほうが先に屈して、縞瑪瑙の黒い床に目を落とす。

「そうだろうな」

 少し意地の悪い笑みを浮かべて、恭司は彼を見やった。

「いま俺に死なれたら、さぞかしおまえは困るだろう。何しろ、一度作られた自我が崩壊するんだからな」
「恭司――!」

 彼はあわてて恭司を見た。違うと言おうと思った。自分は純粋に、おまえに会えなくなるのが嫌なのだと。もう自身の属性――時と場合によって、いかようにも己を変えられること――すら忘れ果ててしまうほどに、彼は今の自我を堅固なものにしてしまっていた。彼が恭司を死なせたくないのは、それによって自分が滅びてしまうからではない。あくまでも、自分が恭司に会えなくなるからなのだ。

「……なんて顔してる。神様だろう?」

 ふいに恭司は優しく笑った。こんなふうに彼に微笑むことができるのも恭司だけだ。恭司は、彼が自我崩壊への恐怖のために苦悶していると信じこんでいるらしかった。

「俺はおまえと心中なんてするつもりはないよ。人間にそれほど恩はない。――ナイアーラ。俺はおまえの仲間になる気は毛頭ないし、おまえにも化け物はやめてもらいたくない。そこで提案だ」

 恭司は悪戯っぽく笑って、人差指を立てた。

「時間を戻して、最初の計画どおり、岡崎にクトゥルー小説を書かせろ」

 彼は驚きのあまり、声も出なかった。

、簡単にできるはずだな、ナイアーラ。そうすりゃ万事うまくいくんだ。俺はおまえに関わり合いにならなくて済むし、おまえは計画どおり事が運べて万々歳だ。その結果、人類が滅び去ろうがどうなろうが俺の知ったことじゃない。しょせん一人の人間がどうこうできる問題じゃないからな。それに記憶もなくなるから、俺も良心の呵責ってやつに苦しまなくて済む。――いいことずくめだろう?」

 恭司は陽気に笑った。そんな恭司を、彼は恨めしく見た。

「どうして……」

 呻くように彼は言った。

「恭司、我はおまえが命じさえすれば、逆に二度ときゃつらが復活できぬようにすることもできるのだぞ? なぜ望まぬ? そう言わぬ? おまえのためなら我は何でもできる――おまえと別れる以外のことならば」
「……相手が化け物でも、口説かれると悪い気はしないな」

 真剣な彼をはぐらかすように、恭司はにやにや笑った。だが、やがてその笑みは、静かな微笑へと変わった。

「でも、俺はもう、そんなおまえは見たくない。俺にも、美学ってもんがあるんだよ、ナイアーラ。神様に、こんなちっぽけな人間相手に、おろおろなんかしてもらいたくない」
「ならば、我は神でなくていい! 神であるためにおまえのそばにいられないのなら、我は喜んで神の名を返上してやる!」

 おそらく、彼は初めて感情の激するままに叫んだ。ナイアーラトテップとしての威厳や尊厳など、もうありはしなかった。恭司のそばにいられるためなら、彼は何でも捨てられた。恭司なくして、いったいどこに自分があるというのだろう。

「……せっかくだけど」

 あっけにとられたような顔をしたのもつかのま、恭司は聞き分けのない子供を前にした大人のように苦笑した。

「俺は神でないおまえになんか、何の興味もないんだよ。おまえは神だからこそ――化け物だからこそ価値がある。単なる人間になったおまえなんか、俺はいらない」
「だったら……!」

 自分の胸に食いこむほど爪を立てて彼は絶叫した。

「どうしたら、おまえは我のそばにいてくれる? 我のものになってくれる? 我はおまえさえいればよい。他には何もいらぬ。おまえの望むことなら何でも叶える。何でもする。だから……恭司。我のそばにいてくれ。頼む。我を見捨てないでくれ……」

 ――もう、哀願する以外に手立ては見つからなかった。
 こういう彼を見たくなくて、恭司は彼から離れようとしていたのに、これでは余計に恭司に嫌われるだろうと自分でも思った。
 しかし、どうしても恭司を失いたくない彼に、他にどんな手段があったというのだろう。――恭司を自我のない人形にする? まさに自殺行為だ。彼の思いどおりになる恭司など、何の魅力もありはしない。そんなことで満足できるものならば、ここまで引きずられはしなかったのだ。

「……神が、人間にすがるのか?」

 はっと彼は顔を上げた。
 意外なことに、恭司は彼を嘲笑ってはいなかった。それどころか、どこか哀れむような微笑を浮かべて彼を見ていた。

「我は神ではないし、そなたは人間ではない」

 苦く笑って、彼は恭司の足元に跪いた。
 ベッドの縁にかけられた恭司の手をうやうやしく取ると、その手の甲にそっと口づける。

「我にとっては、そなたが神よ」
「――馬鹿が」
「馬鹿でもいい……我はそなたを失いたくない……」

 今度は両手で恭司の手を包み、再び接吻する。
 このとき――彼は神であることをやめた。
 屈辱も後悔も感じなかった。むしろ、誇らしかった。
 〈大いなる使者〉ナイアーラトテップは、初めて己の意志で己の拠所となるものを選び、それを得たのである。
 この新たな〝神〟のためならば、彼はさらに強大になれるだろう。この〝神〟は、あの狂えるもののような御仕着せではない。彼自身が仕えることを決めた、真の主なのだ。
 しかし、そんな喜びの絶頂にいる彼を、〝神〟は悲しげな顔をして見下ろしていた。
 もしも、人に親切にすることを優しさというなら、恭司は決して彼には優しくなかったし、彼もまた、それを恭司に求めようなどとは思っていなかった。
 だが、自分のために、しだいしだいに神らしさを失っていく彼を、恭司はいつでも憂えていた。
 恭司が命じれば、彼は何でもしただろう。人類を守り、〈旧支配者〉を滅ぼすことも辞さなかったはずだ。
 なのに、恭司は言わなかった。今も言わない。おまえのことなど知ったことじゃない、今すぐ帰せと言われれば、彼もそうせざるを得ないのに、恭司は言わない。
 かわいそうに。この夢の国へ来てから、恭司はたびたびそう彼を哀れんだ。なぜそんなことを言うのか、彼は今までよくわからずにいた。
 優しい恭司。たとえそれが化け物でも、自分に引きずられて神でなくなってしまうことに、恭司は耐えられなかったのだ。
 本当に、恭司は彼がそうなることを望んでいなかったのだろう。でなければ、もっと彼を利用している。
 いいのにと彼は思った。彼には自分が堕してしまったという気はまったくしなかった。それどころか、これほど満ち足りたことはついぞなかった。
 すがるものがあるということは、何と心地よいことなのだろう。



 黄昏の赤い光が立ちこめる縞瑪瑙の城の一室で、かつて神と呼ばれた彼にそのほっそりとした手を預けた〝神〟は、怒りによく似た哀れみの表情を美しい顔に浮かべ、ただ彼を見下ろしていた。
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