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02 ついに来たか
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「何だ、忘れ物か?」
一戸建ての自宅の玄関ドアを思いきり閉めると、リビングから鏡太郎がのそのそと現れた。
その見慣れた姿に、不覚にも紀里は少し涙ぐんでしまった。そして、自分がひどく不安になっていたことに、このときようやく気がついた。
いつもの自分だったら、〝ああ、そうなの〟と愛想笑いをしながら、同じ逃げるでも学校のほうに向かって走っていったと思う。
だが、紀里は自宅に帰ることしか考えていなかった。ここに逃げこめば何とかなる。何の根拠もなく、そう思いこんでいた。
「いや……忘れ物っていうか……」
正直に話したものかどうか迷って、紀里は長めの前髪をかきあげた。
鏡太郎のことだ、ヘンな外人の女の子が怖くて逃げ出してきたと知ったら、きっと大笑いするだろう。
しかし、どういうわけか、これだけは黙ったままでいられそうになかった。紀里は笑われるのを覚悟すると、廊下で怪訝そうな顔をしている父親を見上げた。
今年で四十二歳になる鏡太郎だが、すでに髪や鼻の下の口髭には白いものが交じりはじめている。〝昔はモテてモテてしょうがなかった〟と自慢するからあまり認めたくはないが、確かに整った顔立ちをしてはいる。中年太りもしていないし、身長も日本人としては高い部類に入るだろう。紀里はまだ父を見下ろせない。
そんな鏡太郎の職業は一応〝作家〟で、買い物以外はほとんど自宅にいる。
だが、鏡太郎は紀里の前では作家らしい仕事をしない。手隙になるとリビングで煎餅をかじりながらテレビを見ている。
感覚的には父親というより母親のようで、そのせいなのかどうなのか、紀里は自分が赤ん坊の頃に病死したという母親を恋しいと思ったことがなかった。
「実はさ……俺、いま学校に行く途中で、外人の女の子に会ったんだ……」
「ほー。で? 恋でも芽生えたか?」
「親父……頼むから真面目に聞いてくれよ」
紀里は話そうと思ったことを少し後悔しながら鏡太郎を睨んだ。
「それならそうと最初から言えよ。で? その外人の女の子がどうした?」
「うん……俺はその子と会った覚えはないんだけど、向こうは俺のこと知ってるみたいで……わけのわかんない、変なことばかり言うんだ」
「変なこと? 下着の色は何色ですか、とか?」
「だから、真面目に聞いてくれって」
紀里は鏡太郎のこういうところが少し嫌いだ。
「ああ、悪かった。聞くよ聞くよ。で? その子はどんな変なことを言ったんだ?」
「うん……俺ももうよく覚えてないんだけど……いきなりギソウがうまいって言われて……そんなにうまくギソウしてたら、並のサー何とかじゃとても見つけられなかっただろうって……今の俺は、本当にここの人間みたいだって言うんだ。……変だろ?」
同意を求めて訊ねると、意外にも鏡太郎はこれまで紀里が見たことがないほど真剣な顔をしていた。真面目に聞けと言ったのは自分だが、実際にそうされると戸惑ってしまう。
「あの……親父?」
「ああ、聞いてるよ。そりゃ確かに変だな。それで? 他に何かその子は言ってたか?」
「うん……俺を迎えにきたんだって言ってた。このまま一緒に帰ってくれれば、何もしないって……」
「迎え、ね」
一言そう呟いて、鏡太郎は考えこむように両腕を組んでしまった。
こんな反応はまったく予想していなかった。てっきり、それは災難だったなとか言って、笑い飛ばしてくれるかと思っていた。
なぜか不安がこみ上げてきて、紀里は自分からは言うまいと思っていたことまで口にしてしまった。
「それで俺……何か怖くなっちゃって……隙を見て、逃げ出してきたんだ。……おかしいだろ? 親父」
「いや、正しい判断だ」
鏡太郎は真顔でうなずいた。
「下手に街中や学校なんかに行かれるより、ずっとましだ。……そうか。ついに来たか。意外と遅かったというか、早かったというか……」
しみじみと呟く鏡太郎を、紀里は唖然として眺めた。
「親父?」
「とりあえず、上がったらどうだ?」
そう言って、鏡太郎はリビングへ戻ろうとする。
「上がったらって……学校はどうするんだよ!」
あわてて紀里が叫ぶと、鏡太郎は振り返りもせずに答えた。
「今から行ったってどうせ遅刻だろうが。今日はもう休んじまえ」
紀里は呆れて、二の句が継げなかった。
「あんた……いっつもそうだよな……親ならもっと学校に行けって言わないか?」
しかし、紀里自身、学校へ行くのはもう億劫になっていた。立ったままスニーカーを脱いで家に上がる。
「俺がしつこく言わなくても、行きたきゃおまえは行くだろ? 何せ、学校に行きたいって言ったのは、俺じゃなくておまえだ」
「そりゃまあ、そうだけど……」
確かに、この男は一言も紀里に高校へ行けとは言わなかったが。
「それにしたって……」
なおも文句を言おうと、紀里は鏡太郎の後を追ってリビングに入ろうとした。
が、鏡太郎が急に立ち止まったせいで、彼の背中に顔をぶつけてしまった。
「何だよ、親父! 急に立ち止まるな……」
言いかけて、鏡太郎の視線の先を追った紀里は、なぜ鏡太郎が足を止めたのか、その理由を知った。
「逃げても無駄よ」
やはり滑らかな日本語で、金髪の美少女は言った。
「一度会えば、私はどこまでも追っていける。この星の上にいる限り」
一戸建ての自宅の玄関ドアを思いきり閉めると、リビングから鏡太郎がのそのそと現れた。
その見慣れた姿に、不覚にも紀里は少し涙ぐんでしまった。そして、自分がひどく不安になっていたことに、このときようやく気がついた。
いつもの自分だったら、〝ああ、そうなの〟と愛想笑いをしながら、同じ逃げるでも学校のほうに向かって走っていったと思う。
だが、紀里は自宅に帰ることしか考えていなかった。ここに逃げこめば何とかなる。何の根拠もなく、そう思いこんでいた。
「いや……忘れ物っていうか……」
正直に話したものかどうか迷って、紀里は長めの前髪をかきあげた。
鏡太郎のことだ、ヘンな外人の女の子が怖くて逃げ出してきたと知ったら、きっと大笑いするだろう。
しかし、どういうわけか、これだけは黙ったままでいられそうになかった。紀里は笑われるのを覚悟すると、廊下で怪訝そうな顔をしている父親を見上げた。
今年で四十二歳になる鏡太郎だが、すでに髪や鼻の下の口髭には白いものが交じりはじめている。〝昔はモテてモテてしょうがなかった〟と自慢するからあまり認めたくはないが、確かに整った顔立ちをしてはいる。中年太りもしていないし、身長も日本人としては高い部類に入るだろう。紀里はまだ父を見下ろせない。
そんな鏡太郎の職業は一応〝作家〟で、買い物以外はほとんど自宅にいる。
だが、鏡太郎は紀里の前では作家らしい仕事をしない。手隙になるとリビングで煎餅をかじりながらテレビを見ている。
感覚的には父親というより母親のようで、そのせいなのかどうなのか、紀里は自分が赤ん坊の頃に病死したという母親を恋しいと思ったことがなかった。
「実はさ……俺、いま学校に行く途中で、外人の女の子に会ったんだ……」
「ほー。で? 恋でも芽生えたか?」
「親父……頼むから真面目に聞いてくれよ」
紀里は話そうと思ったことを少し後悔しながら鏡太郎を睨んだ。
「それならそうと最初から言えよ。で? その外人の女の子がどうした?」
「うん……俺はその子と会った覚えはないんだけど、向こうは俺のこと知ってるみたいで……わけのわかんない、変なことばかり言うんだ」
「変なこと? 下着の色は何色ですか、とか?」
「だから、真面目に聞いてくれって」
紀里は鏡太郎のこういうところが少し嫌いだ。
「ああ、悪かった。聞くよ聞くよ。で? その子はどんな変なことを言ったんだ?」
「うん……俺ももうよく覚えてないんだけど……いきなりギソウがうまいって言われて……そんなにうまくギソウしてたら、並のサー何とかじゃとても見つけられなかっただろうって……今の俺は、本当にここの人間みたいだって言うんだ。……変だろ?」
同意を求めて訊ねると、意外にも鏡太郎はこれまで紀里が見たことがないほど真剣な顔をしていた。真面目に聞けと言ったのは自分だが、実際にそうされると戸惑ってしまう。
「あの……親父?」
「ああ、聞いてるよ。そりゃ確かに変だな。それで? 他に何かその子は言ってたか?」
「うん……俺を迎えにきたんだって言ってた。このまま一緒に帰ってくれれば、何もしないって……」
「迎え、ね」
一言そう呟いて、鏡太郎は考えこむように両腕を組んでしまった。
こんな反応はまったく予想していなかった。てっきり、それは災難だったなとか言って、笑い飛ばしてくれるかと思っていた。
なぜか不安がこみ上げてきて、紀里は自分からは言うまいと思っていたことまで口にしてしまった。
「それで俺……何か怖くなっちゃって……隙を見て、逃げ出してきたんだ。……おかしいだろ? 親父」
「いや、正しい判断だ」
鏡太郎は真顔でうなずいた。
「下手に街中や学校なんかに行かれるより、ずっとましだ。……そうか。ついに来たか。意外と遅かったというか、早かったというか……」
しみじみと呟く鏡太郎を、紀里は唖然として眺めた。
「親父?」
「とりあえず、上がったらどうだ?」
そう言って、鏡太郎はリビングへ戻ろうとする。
「上がったらって……学校はどうするんだよ!」
あわてて紀里が叫ぶと、鏡太郎は振り返りもせずに答えた。
「今から行ったってどうせ遅刻だろうが。今日はもう休んじまえ」
紀里は呆れて、二の句が継げなかった。
「あんた……いっつもそうだよな……親ならもっと学校に行けって言わないか?」
しかし、紀里自身、学校へ行くのはもう億劫になっていた。立ったままスニーカーを脱いで家に上がる。
「俺がしつこく言わなくても、行きたきゃおまえは行くだろ? 何せ、学校に行きたいって言ったのは、俺じゃなくておまえだ」
「そりゃまあ、そうだけど……」
確かに、この男は一言も紀里に高校へ行けとは言わなかったが。
「それにしたって……」
なおも文句を言おうと、紀里は鏡太郎の後を追ってリビングに入ろうとした。
が、鏡太郎が急に立ち止まったせいで、彼の背中に顔をぶつけてしまった。
「何だよ、親父! 急に立ち止まるな……」
言いかけて、鏡太郎の視線の先を追った紀里は、なぜ鏡太郎が足を止めたのか、その理由を知った。
「逃げても無駄よ」
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