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01 偽装がうまいわね
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なぜ毎朝寝坊するのかと問われれば、向井紀里はこう答えるだろう。
「あの、くそ親父ッ! 何でいっつも起こしてくれねえんだよ!」
無論、紀里も自分で起きようと努力はしてみた。しかし、いろいろ試してみた結果、そのためには徹夜をするしかないという結論にたどりついた。
何しろ、いったん眠りについたらアラームの音も聞こえないのだ。残る手段は誰かに叩き起こしてもらうしかないのだが、紀里の唯一の家族である父・鏡太郎は、義務教育期間までしかそうしてくれなかった。
――いやー、気持ちよさそうに寝てたからな。そっとしておいてやったんだ。
そう言って、鏡太郎が明るく笑ったその日は高校の入学式だった。
以来、一ヶ月以上、紀里は寝坊しつづけている。
それでも、何とか閉門までに間に合っているのは、紀里の驚異的な脚力のおかげだった。特に鍛えたわけでもない、生まれつきのものである。中一のとき、仕方なく陸上部に入部したことがあるが、上下関係が嫌ですぐにやめた。それ以降、宝の持ち腐れと言われつつも帰宅部を貫いている。
紀里は今、薄い緑色の金網フェンスに囲まれた空き地の脇を走っていた。昔、よく遊んだ空き地だが、近日中にマンションが建つという。だが、感傷に浸っている余裕などなどない。黒いリュックサックを背負い、ただひたすら脇目も振らず走るのみである。
だから、紀里がその人物に気づかなかったのも、無理もないことだったかもしれない。
「うわっ!」
慣性の法則で、紀里は急には止まれない。結果、その人物とぶつかりそうになったが、その前に紀里が跳ね飛ばされた。
痛さよりも、驚きのほうが先に立った。アスファルトを転がった紀里は、いったい何が起こったのかわからないまま頭を上げた。
少女が立っていた。
初夏の朝の光を浴びて、長い金髪がきらめいている。
紀里とさして年は変わるまい。灰色の大きめのパーカーに青い細身のジーンズ。額には赤いバンダナを巻いている。
なかなかの美少女だったが、しかし、紀里を見下ろしている緑の瞳はひどく冷たかった。紀里とぶつかりそうになったのが、それほど腹立たしいことだったのだろうか。
「ごめん」
日本人である紀里は、とりあえず先手を打って謝った。日本語が通じるかどうかはわからなかったが、何も言わないよりはましだろう。
「俺、急いでて気づかなくて……怪我は……ないよな」
むしろ、怪我をしたのは紀里のほうである。右手がじんじん痛むと思ったら少しすりむいていた。紺色の制服もどこか破けているかもしれない。
「さすがに偽装がうまいわね」
それが、少女が初めて発した言葉だった。
見た目よりも声音は低かったが、流暢な日本語だ。だが、紀里はすぐに理解できなかった。
「何だって?」
「捜し出すのにずいぶん時間がかかったわ。確かに、ここまで完璧に偽装していたら、並のサーヴではとても見つけられなかったでしょうね。今のあなたは、本当にここの人間みたいだもの」
やはり日本語だ。しかし、わけがわからないという点では外国語と大差なかった。
紀里は背筋が寒くなった。自分は何か、とんでもなく面倒な人間に関わってしまったのではないか。
「別に、何もしやしないわ」
紀里の表情を見て何を考えているかわかったのか、少女はかすかに苦笑を漏らした。
「私はあなたを迎えにきただけ。このまま一緒に帰ってくれれば、それでいいの」
それじゃあ何もしていないことにならないじゃないか、という反論は心の中だけでしておいた。こういう手合いは下手に刺激しないほうがいいのだ。
紀里は黙って立ち上がった。多少体が痛んだが、あえて顔には出さなかった。
少女は灰色のパーカーのポケットに両手を突っこんだまま、泰然と紀里を眺めている。身長は紀里よりやや低い程度だが、体つきはずっと華奢だ。腕力なら明らかに紀里のほうが上だろうに、まったく身構えていない。絶対に紀里に勝てるという自信があるのだろう。
そういえば、この少女にはぶつからなかったのに弾き飛ばされた。まるで目に見えない大きな手で押されたかのように。
「一つ、訊いてもいいかな?」
慎重に紀里は口を開いた。
「かまわないわよ。何?」
鷹揚に少女は応じた。
「俺の帰るとこって、いったいどこ?」
「外見だけじゃなくて、記憶も操作しているの? もちろん――」
だが、紀里は最後まで少女の答えを聞かなかった。
否。そもそも最初から聞くつもりはなかったのだ。紀里はただ、きっかけが欲しかっただけだった。一瞬でも、少女の注意をそらすための。
「ま……!」
待って、とでも言いたかったのか。とにかく少女が声を上げたときには、紀里は身を翻して、元来た道を逆走していた。
――三十六計逃げるにしかず。
鏡太郎のポリシーの一つである。
悔しいが、非常に不本意だが、本当にそのとおりであると思う。いくらヘンな外人の女の子でも、殴り倒すわけにもいかない。かといって、つきあう気にもなれなければ、もう逃げるしかないではないか。
紀里はまったく後ろを振り返らず、来たとき以上の速さで自宅に駆け戻った。
「あの、くそ親父ッ! 何でいっつも起こしてくれねえんだよ!」
無論、紀里も自分で起きようと努力はしてみた。しかし、いろいろ試してみた結果、そのためには徹夜をするしかないという結論にたどりついた。
何しろ、いったん眠りについたらアラームの音も聞こえないのだ。残る手段は誰かに叩き起こしてもらうしかないのだが、紀里の唯一の家族である父・鏡太郎は、義務教育期間までしかそうしてくれなかった。
――いやー、気持ちよさそうに寝てたからな。そっとしておいてやったんだ。
そう言って、鏡太郎が明るく笑ったその日は高校の入学式だった。
以来、一ヶ月以上、紀里は寝坊しつづけている。
それでも、何とか閉門までに間に合っているのは、紀里の驚異的な脚力のおかげだった。特に鍛えたわけでもない、生まれつきのものである。中一のとき、仕方なく陸上部に入部したことがあるが、上下関係が嫌ですぐにやめた。それ以降、宝の持ち腐れと言われつつも帰宅部を貫いている。
紀里は今、薄い緑色の金網フェンスに囲まれた空き地の脇を走っていた。昔、よく遊んだ空き地だが、近日中にマンションが建つという。だが、感傷に浸っている余裕などなどない。黒いリュックサックを背負い、ただひたすら脇目も振らず走るのみである。
だから、紀里がその人物に気づかなかったのも、無理もないことだったかもしれない。
「うわっ!」
慣性の法則で、紀里は急には止まれない。結果、その人物とぶつかりそうになったが、その前に紀里が跳ね飛ばされた。
痛さよりも、驚きのほうが先に立った。アスファルトを転がった紀里は、いったい何が起こったのかわからないまま頭を上げた。
少女が立っていた。
初夏の朝の光を浴びて、長い金髪がきらめいている。
紀里とさして年は変わるまい。灰色の大きめのパーカーに青い細身のジーンズ。額には赤いバンダナを巻いている。
なかなかの美少女だったが、しかし、紀里を見下ろしている緑の瞳はひどく冷たかった。紀里とぶつかりそうになったのが、それほど腹立たしいことだったのだろうか。
「ごめん」
日本人である紀里は、とりあえず先手を打って謝った。日本語が通じるかどうかはわからなかったが、何も言わないよりはましだろう。
「俺、急いでて気づかなくて……怪我は……ないよな」
むしろ、怪我をしたのは紀里のほうである。右手がじんじん痛むと思ったら少しすりむいていた。紺色の制服もどこか破けているかもしれない。
「さすがに偽装がうまいわね」
それが、少女が初めて発した言葉だった。
見た目よりも声音は低かったが、流暢な日本語だ。だが、紀里はすぐに理解できなかった。
「何だって?」
「捜し出すのにずいぶん時間がかかったわ。確かに、ここまで完璧に偽装していたら、並のサーヴではとても見つけられなかったでしょうね。今のあなたは、本当にここの人間みたいだもの」
やはり日本語だ。しかし、わけがわからないという点では外国語と大差なかった。
紀里は背筋が寒くなった。自分は何か、とんでもなく面倒な人間に関わってしまったのではないか。
「別に、何もしやしないわ」
紀里の表情を見て何を考えているかわかったのか、少女はかすかに苦笑を漏らした。
「私はあなたを迎えにきただけ。このまま一緒に帰ってくれれば、それでいいの」
それじゃあ何もしていないことにならないじゃないか、という反論は心の中だけでしておいた。こういう手合いは下手に刺激しないほうがいいのだ。
紀里は黙って立ち上がった。多少体が痛んだが、あえて顔には出さなかった。
少女は灰色のパーカーのポケットに両手を突っこんだまま、泰然と紀里を眺めている。身長は紀里よりやや低い程度だが、体つきはずっと華奢だ。腕力なら明らかに紀里のほうが上だろうに、まったく身構えていない。絶対に紀里に勝てるという自信があるのだろう。
そういえば、この少女にはぶつからなかったのに弾き飛ばされた。まるで目に見えない大きな手で押されたかのように。
「一つ、訊いてもいいかな?」
慎重に紀里は口を開いた。
「かまわないわよ。何?」
鷹揚に少女は応じた。
「俺の帰るとこって、いったいどこ?」
「外見だけじゃなくて、記憶も操作しているの? もちろん――」
だが、紀里は最後まで少女の答えを聞かなかった。
否。そもそも最初から聞くつもりはなかったのだ。紀里はただ、きっかけが欲しかっただけだった。一瞬でも、少女の注意をそらすための。
「ま……!」
待って、とでも言いたかったのか。とにかく少女が声を上げたときには、紀里は身を翻して、元来た道を逆走していた。
――三十六計逃げるにしかず。
鏡太郎のポリシーの一つである。
悔しいが、非常に不本意だが、本当にそのとおりであると思う。いくらヘンな外人の女の子でも、殴り倒すわけにもいかない。かといって、つきあう気にもなれなければ、もう逃げるしかないではないか。
紀里はまったく後ろを振り返らず、来たとき以上の速さで自宅に駆け戻った。
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