無敵でなんかいられない【R18】

邦幸恵紀

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第2章 契約成立

2 奢りではなく差し入れ

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 佐京と奇妙な契約を結んだその翌日。
 朝一の講義が行われる教室で、いつもの通路側の席に座った新藤は、案の定、三浦に絡まれていたが、ふと気がつくと、佐京がA4版の茶封筒を持ってそばに立っていた。
 どうやら無事に帰宅できたようだ。内心ほっとして、おはようと言おうとしたが、佐京はそれを遮るように、茶封筒を新藤の前に置いた。

「昨日言っていた雇用契約書だ。正と副、二部入っている。今日中に目を通して返事をくれ」
「おいおい……本当に作ってきたのか?」

 呆れて封筒から文書を引っ張り出した新藤は、まずその文面の美しさに驚かされた。
 ワープロで作成された文書はレイアウトが適切でとても読みやすい。このまま雇用契約書の見本にしたいくらいだ。
 新藤が文書に見入っている間に、佐京は新藤より後方の席に座っていた。
 そういえば、いつも佐京は自分より後ろにいるような気がする。教室で佐京の背中を見た記憶がほとんどない。

「何だ何だ、ラブレターか?」

 たいていいつも新藤の隣席にいる三浦が、ただでさえ細い目をさらに細めて冷やかしてくる。

(ラブレター……)

 そう言われればそんな気がしないでもないが、普通ラブレターに時給は書かれていないだろう。

「ただの雇用契約書だよ」

 そっけなく答えて、新藤は文書を封筒の中に戻した。
 隣にこの三浦がいては、講義を聴いているふりをして読むこともできない。昼休みにでも一人で熟読するとしよう。

「雇用って……おまえ、バイト先のパチンコ屋で、昨日佐京と何かしたんだろ? 検証がどうとかこうとかって言ってさ。まさか、それがこれか?」
「まさに、これがそれだ」

 にやけていた三浦が、一瞬で真顔になる。

「雇い主はどっちだ?」
「俺に佐京を雇う金も理由もあると思うか?」
「わかってたけど念のため。で? 佐京はおまえを雇って、いったい何を検証したいって?」
「簡単に言うと、俺が本当に〝貧乏神〟かどうかだな」
「何?」
「佐京はギャンブルが〝特技〟なんだと。嘘かほんとか知らないが、今まで負けたことがないらしい。でも、先月たまたま俺がバイトしてるパチンコ屋に遊びにきて、バイト中の俺に近づかれたとき、初めて負けそうになったんだそうだ。俺はただの偶然だろうって言ったんだが、奴にはどうしても俺が原因に思えたらしくてな。それをはっきりさせるために、俺は奴に雇われて、これから一緒に賭博場巡りだ」
「あの佐京がギャンブルねえ……人は見かけによらねえなあ……」

 しみじみと三浦が呟いたとき、講義の担当教授が十分遅れで入室してきた。
 今のつたない説明で、はたして三浦は納得してくれただろうか。新藤は三浦には見えないよう、こっそり溜め息をついた。

 ***

 梅雨の晴れ間は、ほぼ夏である。
 しかし、戸外の空気が吸いたかった新藤は、木陰の下のベンチを陣取って、昼食の菓子パンをかじりながら、佐京の作った雇用契約書を読んでいた。
 と、新藤の右隣に人が座る気配がした。

(他にベンチはいくらでもあるだろうが。なんでわざわざここに座るんだよ)

 新藤は顔をしかめてそちらを見やったが、菓子パンをくわえたまま固まってしまった。
 佐京だった。
 ただ座っているだけで汗ばんでくるような陽気なのに、この男だけはクーラーの効いた室内にいるかのように涼しげだ。
 だが、本当に暑さを感じていないわけではないようで、ジャケットは脱いでベンチの背もたれに掛けていた。
 新藤は菓子パンを噛みちぎってから、再び契約書のほうに目を戻した。

「よく俺がここにいるってわかったな」
「あんたはどこにいても目立つから」
「それ、そっくりそのままおまえに返してやるよ」

 そのとき、隣でプルタブを開ける音がして、また新藤は気を散らされた。
 音がしたほうに目をやると、自分と佐京との間に、開栓されたブラックの缶コーヒーが一本置かれていた。
 怪訝に思って佐京を見れば、ベンチにあるのと同じ缶コーヒーのプルタブを開けて、今まさに飲もうとしているところだった。

「これは?」
「差し入れだ。よく何も飲まないでパンなんか食っていられるな。見ているだけでこっちの口の中がぱさついてくる」
「俺はおまえに差し入れされるようなことは何一つしてないぞ」
「いいから飲め。飲まなきゃ捨てる」

 きっと、佐京は昨夜のファミレスで、新藤が自分におごられたくないと思っているのを察したのだろう。〝おごり〟ではなく〝差し入れ〟と言えば、新藤も断りにくいと考えたに違いない。
 やはり狡猾な男だと警戒しながらも、実は新藤も水分を欲していた。急いで菓子パンの残りを口の中に押しこむと、「もったいないからもらっておく」と素直に礼を言わずに缶コーヒーを手に取った。
 自販機から買ってきたばかりと思しきその缶コーヒーは、とてもよく冷えていて、悔しいが一息に飲み干してしまった。
 佐京はそれを、ちびりちびりと缶コーヒーを飲みながら眺めていたが、新藤がまた契約書を読みはじめると、「あとどれくらいで読み終わる?」と訊ねてきた。

「あと少しだ。しかしおまえ、昨日、家に帰ってからこれ作ったのか? 寝たのいったい何時だよ?」
「そんな書類くらい、ネットで調べれば、誰だって簡単に作れる」

 むしろ作れないほうがおかしいと、佐京の口調は言っていた。

「まあ、そうなんだろうな。いいな、自宅でネットができる奴は。……俺はパソコン本体すら買えねえよ」

 最後は小声で愚痴りながら、新藤はようやく契約書から目を上げた。

「読み終わった」
「どこか不備や不満な点はあったか?」
「そうだな。一点……いや、二点か」
「どことどこだ?」
「まず一点め。集合・解散場所が大学前になってるとこ。事前に行き先を決めておけば、現地集合・現地解散でかまわないはずだ。それに関連して二点め。始業・終業時刻は、大学前での集合・解散時刻じゃなくて、現地での集合・解散時刻でいい。もちろん、その行き帰りの交通費はきっちり払ってもらうけどな」
「でも、それだと拘束時間が大幅に減って、あんたに支払うバイト料も減るぞ」

 新藤は思わず佐京を見つめた。
 新藤の視線に気がついた佐京は、思い出したように缶コーヒーを飲んだ。

(もしかして……俺への支払いを増やすためにこうしたのか?)

 もらえる金は多いに越したことはないが、そこまで気を遣われると、感謝よりも後ろめたさのほうが先に立つ。
 そもそも、新藤は佐京の一応同級生なのだから、食事をおごらせる程度で付き合ってやるのが当たり前で、こんな堅苦しい雇用契約を結ばせるほうがどうかしている。
 そうなってしまった原因は、間接的には佐京、直接的には新藤にある。ほんの二、三回付き合ってやればそれで済む話だったのに、新藤が佐京の強引な話の進め方に反発して、彼の頼みを突っぱねてしまったのだ。
 それで諦めてくれるだろうと新藤は思っていたのだが、自分が言い訳に使ったバイトを逆手に取られて、かえって断れない状況に追いこまれる羽目になってしまった。

(でも、今さらタダで付き合ってやるとも言えないしなあ……)

 契約書を持ったまま新藤が悩んでいると、佐京が脇から手を伸ばしてきて、それをさらいとってしまった。

「佐京?」
「あんたがそうしたいんなら、そのように作り直してくる。もう一部あっただろう。封筒と一緒に返してくれ」
「あ、ああ……」

 言われるまま新藤は、自分の脇に置いていた茶封筒を佐京に返した。佐京はその中に新藤から奪った契約書を入れると、ジャケットと手提げのバッグとを小脇に抱えて立ち上がった。

(よかれと思ってそうしてくれたんだろうに、俺がケチをつけて怒らせちまったかな)

 佐京はほとんど表情が変わらないので、いま怒っているかどうかもわかりにくい。が、面白くは思っていないだろうと新藤は推測した。
 しかし、佐京は例の黒い瞳で新藤を見下ろすと、想定外のことを訊いてきた。

「今夜もあのパチンコ屋でバイトか?」
「え? あ、ああ……まあ、そうだな。辞める話もしなきゃなんないし」
「……俺のせいか?」

 わずかに眉をひそめて首を傾げる。
 まさしくそのとおりだったのだが、新藤はあわてて、いやいやそうじゃないと否定した。

「おまえは全然関係ない。もともと俺にパチンコ屋は向いてなかったんだ」

 何しろおまえに目をつけられちまったし――というのは、さすがに言いすぎだと思ったので、口には出さないでおいた。

「そうかもな。新藤はギャンブルは嫌いだろう?」
「ああ。俺は一攫千金なんて狙わない。地味にコツコツ稼いでいくのが性に合ってる」
「その見た目で?」
「見た目のことでは、おまえにとやかく言われたくねえな」
「今夜のバイトも、昨日と同じ時間に終わるのか?」
「何も問題が起こらなければ、たぶんな」
「なら、その頃、作り直した契約書を持って、昨日のファミレスに行ってる」
「……何?」
「来るまでずっと待ってるからな。絶対自分の判子を忘れるな」

 佐京はそう言い捨てると、いつもより早足で立ち去っていった。――やはり、怒っていたのかもしれない。

(明日も講義はあるんだから、何も今夜、わざわざあそこまで来る必要はないよな?)

 佐京の姿が見えなくなってから、新藤はようやくそのことに思い至った。
 だが、新藤にそう言われていたとしても、佐京は今夜あのファミレスで待っていると言ってきかなかったと思う。そんな気がものすごくする。
 何はともあれ、雇用契約書のチェックは終わった。
 新藤は思いきり背伸びをしてから、食後の一服をしようと煙草を取り出しかけたが、そのとき、佐京が座っていた場所に彼が飲んでいた缶コーヒーがぽつんと取り残されているのに気がついた。

「まったく近頃の若いもんは……ゴミはちゃんと片づけていきなさいよ」

 ふざけて独りごちたが〝差し入れ〟してもらった恩もある。自分の分と一緒にゴミ箱に捨ててやろうと佐京の缶コーヒーをつかんだ新藤は、予想外の重さに驚いて、思わず缶の中を覗きこんだ。

(何だ、まだ半分以上も残ってるじゃないか)

 たとえ他に気をとられていたとしても、何かを飲み残して帰るなど、新藤にはとうてい考えられない。
 とはいえ、今から佐京を追いかけるのも面倒だ。新藤は缶を空にしてから捨てようとベンチの足元で傾けかけたが、どうしても中身がこぼれるまで傾けることはできなかった。

(畜生! 飲み切れなかったんなら、まだ冷たいうちに俺に譲っていけ!)

 結局、新藤は佐京の飲み残した缶コーヒーを一気飲みして、自分の缶と一緒にゴミ箱に捨てた。
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