MIDNIGHT

邦幸恵紀

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第10話 デス

3 幽

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 駅のロッカーに荷物を預けてから、鬼頭が雅美を連れて向かった先は、駅の近くにある百貨店の紳士服売り場、それも手袋が置かれている一角だった。
 よく考えてみると、鬼頭は雅美と食事をすることはあっても(もっとも、食べているのは鬼頭だけだが)、買い物をしたことはほとんどなかった。
 ゆえに今日、二人でスーパーへ行ったのも初めてなら、デパートに来たのもこれが初めてなのだった。

「手袋なんて買うのか?」

 目的地を知った雅美は、不思議そうに鬼頭を見上げた。

「ああ。おまえのな」
「どうして?」

 当たり前だがそう返されて、鬼頭は答えに詰まってしまった。
 しいて言うなら、雅美の手があまりにも冷たかったからだ。しかし、だから手袋を買ってやりたいというのは、我ながら安直すぎると思う。

「俺には夜なべして、手袋は編んでやれないからな……」
「は?」
「つまり、おまえの手が冷たくて、かわいそうだと思ったから、手袋を買ってやりたいと思ったんだ」

 一瞬、雅美は目を見張ったが、困惑したようにうつむいた。

「これは、生まれつきだって……」
「そうだろうけど、今、俺がおまえに買ってやりたいんだ。使いたくないなら使わなくていい」
「別に、使いたくないとは」

 あわてて雅美が答える。そんなものはいらないと突っぱねはしなかったのが、鬼頭にはかなり意外だった。

「じゃあ、好きなの選んでくれよ。こういうの、実際つけてみないとわからないだろ?」

 雅美は悩むように眉をひそめていたが、このまま押し問答を続けていても仕方がないと思ったのか、商品棚から黒い革手袋を一組取り出すと、それを慎重に両手にはめて、何度か開閉を繰り返した。

「これでいい」

 あっさりそう言われて、鬼頭は雅美をまじまじと見た。

「本当にそれでいいのか?」

 すぐに決めてもらえたのはありがたいが、これほど簡単だとかえって不安になる。

「ああ。いい」

 雅美は自分の両手にはめた手袋を、気に入った様子で眺めていた。何でもいいから適当に選んだ、というわけでもないようだ。

「まあ、おまえがいいって言うんなら、それでいいけど……」

 もう少し迷ってもいいんじゃないかと思いつつも、鬼頭は雅美からその手袋を受け取り、レジに向かった。
 この売り場を選んだ時点で、ある程度の出費は覚悟していたのだが、雅美が選んだ手袋は、幸いなことに鬼頭の予算額をはるかに下回っていた。
 しかし、贈り物ですかとレジの店員に訊ねられたとき、鬼頭はこれを雅美の誕生日プレゼントにすればよかったのだと初めて気がついた。

「いえ、すぐに使いますから。袋もいりません」

 だが、鬼頭はそうすることをあえてやめた。誕生日プレゼントなら、やはり誕生日当日に渡せるものなら渡してやりたい。この手袋は、いま雅美につけさせてやりたいのだ。

「雅美、これ」

 店員にタグをはずしてもらった手袋を、鬼頭は無造作に雅美に手渡した。
 雅美はその手袋をしばらく無言で見ていたが、結局、両手にはめてコートのポケットの中に入れた。

「んじゃあ、帰るか」

 そう声をかけて歩き出そうとすると、突然、雅美が鬼頭の名を呼んだ。

「何だ?」

 名前を呼んだものの、雅美はしばらくためらっていた。が、鬼頭に視線でうながされて、ようやく口を開いた。

「これ……ありがとう」

 あまりに予想外の言葉すぎて、鬼頭はすぐには何を言われたのかわからなかった。

「あ……ああ、どういたしまして。おまえに礼なんて言われたのは、これが初めてだな」

 雅美は心外そうな顔をしたが、自分でもそのとおりだと思ったのか、それについては何も言わなかった。
 暖房の効いた百貨店から一歩外に出ると、夜風の冷たさがいっそう身に染みた。
 雅美のと一緒に、自分の分の手袋――もちろんもっと安物で――も買えばよかったかと、鬼頭は少しだけ後悔した。
 何はともあれ、これで用事はすべて済んだ。あとは駅に戻って帰るだけだ。鬼頭は駅へ向かって歩き出した。
 当然、雅美もその後をついてくるものだと思いこんでいたのだが、ふと振り返ってみれば、雅美は足を止めて、人混みのどこか一角を見つめていた。

「どうした?」

 引き返して覗きこむと、雅美は不快そうに顔をしかめている。

「何でもない」

 前方を向いたまま雅美はそう答えたが、その表情を見るかぎり、何でもないとはとても思えない。不審に思った鬼頭は、雅美の視線の先を追って目を巡らせた。
 そこには、会社帰りの人々でごった返す交差点があった。その中の誰を雅美が見ているのかはわからなかったが、鬼頭の目はある人物にすぐに引き寄せられた。
 ――黒いコート姿の、明らかに外国人。
 血の気のない白い肌。波打つ豪奢な金髪。そして、雅美に匹敵するほど美しい顔立ち。
 見とれはしなかったが――雅美でかなり耐性がついてしまったようだ――いるところにはいるものだと鬼頭は感心した。
 だが、ただでさえ目立つ外見をしている上に、歩道の真ん中で立ち止まっているこの傍迷惑な青年に、周囲を歩く人々はまったく関心を払っていない。
 それにもかかわらず、彼とぶつかりそうになって避ける者も一人もいないのだ。まるで青年がそこに立っていることを、無意識のうちに感じとっているかのように。

「あれが見えるのか?」

 鬼頭を一瞥してから、雅美がそう訊ねてきた。

「あれって……もしかして、あの金髪の?」

 とっさに口にすると、雅美はなぜか苦々しそうに、そうだと答えた。

「俺の目には、白人で、おまえより少し年上の若い男に見えるが……それで合ってるか?」

 重ねて言ってから、何がどう合っているのかと我ながらおかしく思ったが、雅美はにこりともしなかった。

「正解だ」

 鬼頭が生者と幽霊の見分けがつかない人間であることは、雅美もよく知っている。ということは、あの金髪の青年は少なくとも生者ではないのだろう。
 しかし、鬼頭の記憶が確かなら、雅美が幽霊に対してこれほど厳しい目を向けたことはない。

「鬼頭さん」

 正体不明の青年を睨んだまま、雅美は言った。

「悪いが、駅へは一人で行ってくれないか」

 ありえない。
 鬼頭は驚きのあまり、雅美を凝視した。
 雅美が自分からこんなことを言い出したことなど、はっきり言って皆無だ。いつも鬼頭は別れの言葉を切り出すタイミングに悩まされている。
 ただし、帰ったほうがいいと言ったことはある。あのとき、二人の前にいたのは、鬼頭のかつての幼なじみで、そのときすでに死体だった――

「知り合いなのか?」

 この距離で聞こえるとは思えなかったが――聞こえたとしても、日本語がわかるとも思えないが――つい声を潜めて雅美に問うと、彼は肯定とも否定ともつかない、曖昧なうなずきを返した。

「詳しいことは話せないが、あんたを巻きこみたくない。また明日連絡する」

 せっかく雅美のほうから言ってくれたのだ。そうか、わかったとすぐに帰ってしまえばいいのに、なぜか鬼頭はその場を離れることができなかった。
 鬼頭が逡巡している間に、歩道の青信号が点滅しはじめた。
 青年はちらりと信号機を見やってから、こちらへ向かって歩いてきた。まるで周りに見えない壁があるかのように、人々はまったく彼にぶつかることなく通りすぎていく。
 雅美の一メートルほど手前で青年は足を止めた。雅美が険しい表情をしているのとは対照的に、青年は穏やかに微笑んでいる。
 何か挨拶の言葉でも口にするのかと思ったが、青年は鮮やかな紅い唇を動かすかわりに、透き通った緑色の瞳を雅美から鬼頭へと向けた。
 思わずたじろいだが、青年の眼差しに悪感情のようなものは含まれていない。むしろ好意的な興味といった感情が窺える。だが、雅美はその目線を遮るように、鬼頭の前に立った。

「用があるのは俺にだろう」

 不機嫌そうに雅美は言った。自分よりも鬼頭に関心を持たれたのが我慢ならなかったようだ。

「場所を変えよう。ここは人が多すぎる」

 確かにそのとおりなのだが、道を歩く人々の目は、雅美と鬼頭だけに集中している。青年は同意はしなかったが、嫌だとも答えなかった。

「いつまでここにいる」

 青年を見すえたまま、雅美は今度は自分の後ろにいる鬼頭を低く恫喝した。

「早く立ち去れ」
「でも……」

 ――本当に、このまま帰ってしまっていいのか?
 おそらく、この青年は幽霊か何か――とにかく、人外の者なのだろう。周りにいる人々の反応からすると、その姿は雅美と鬼頭の二人にしか見えていない。
 人外の者なら、雅美の専門分野だ。鬼頭がいても何の役にも立たない。それどころか、足手まといになる。そうとわかっているのに、どうしてこうも雅美の言葉に従う気になれないのか。
 そういう鬼頭の心情を察したのか、それとも単に痺れを切らしただけか、雅美は何も言わずに踵を返すと、駅とは逆方向に向かって歩き出した。
 ついてこいとは言わなかったが、青年はちらりと鬼頭を見やってから、雅美の後を追った。
 反射的に鬼頭も二人についていこうとしたが、思い直して足を止めた。

「どうしたもんかな……」

 髪の色を除けば、よく似た二人の後ろ姿を見送りながら、鬼頭は独りごちた。
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