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第9話 タクシー
2 まるで遠足
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結局、〝緑が多いところ〟というのが決め手となって、そのものずばり、市内の植物園へ行くことになった。
その植物園の存在を鬼頭も雅美も知ってはいたが、訪ねたことは一度もなかった。こういう機会がなかったら、おそらく一生行くことはなかったに違いない。
鬼頭は自分の車を出すつもりでいたのだが、雅美がなるべく歩いていきたいと言ったため、駅で待ち合わせてバスに乗った。昼食はバスに乗る前に済ませたが、行き先が行き先だけに、まるで遠足に行くような気分になった。
来園者は決して少なくはなかったが、遊園地などに比べればはるかに空いていた。鬼頭はまずそのことにほっとした。
植物園はいくつかの温室と庭園とで構成されている。雅美はそのすべてをじっくり見て回った。
「植物が好きなのか?」
食い入るように見ているのでそう訊ねると、雅美は鬼頭を一瞥することなく「いや、特には」と答えた。
「そのわりに、熱心に見てるじゃないか」
「昼の光の下では、あまり見たことがないから」
なるほど、と鬼頭は納得した。夜の緑は黒いだけだし、花の色もろくにわかりはしない。
蒸し暑い温室の中では、むせるような緑と極彩色の花々が、やわらかい秋の日差しを弾いて咲き乱れていた。彼らはまさしく昼の生き物であり、雅美とは正反対の世界の住人だった。雅美はそれらを、物珍しそうに、どこかうらやましそうに眺めているのだった。
そんな雅美を見ていると、一人でいたなら何の感慨もなく見過ごしていたはずのこの光景が、ひどく貴く美しいもののように思えてくる。
昼も夜も味わえる人間は、実はとても贅沢をしているのではないか。そのために、かえって昼や夜の美しさに鈍感になってしまっているのではないか。
そういえば、雅美と夜の街を歩いているときには、闇を恐ろしいと思ったことは一度もなかった。むしろ、闇に親しみさえ覚えたこともあった。
雅美は夜の生き物だ。そして、その生き物を望むと望まざるとにかかわらず太陽の下に引きずり出してしまったのは自分だ。
無理やり〝友情〟ということにしてしまっている今のこの関係が、これから先どのくらい続いていくのかわからないが、たとえどのように変わったとしても、やはり雅美を傷つけるのは嫌だなと、雅美の後ろ姿を見ながら鬼頭は思った。
***
二人が植物園を出たのは、暮れ残る閉園時間間際だった。
しかし、実際に植物を見ていた時間よりも、日当たりのいいベンチに座ってボーッとしていた時間のほうが、ずっと長かったような気がする。
たぶん、最初から好かれるつもりがなかったせいなのだろうが、鬼頭は雅美に対しては、無理にしゃべろうという気が起こらない。気が向かなければ、いつまでも黙ったままでいられる。
雅美のほうも、鬼頭が話したくないと思っているときには不思議と話しかけてこない。だから、時には他の人間とだったら考えられないほど長い沈黙状態が続くこともある。
それでも、気まずくはならない。鬼頭が他人の目を気にしつつも雅美とつきあいつづけているのは、一緒にいて疲れないからというのがいちばん大きいかもしれない。
楽なのだ。とても。
だが、雅美もそう思っているかはわからないので、さすがにこのときは気が咎めた。
「おまえ、こんなんで本当によかったのか?」
植物園を出てから訊くと、雅美は少し不思議そうな顔をして鬼頭を見上げた。
「ああ。なぜそんなことを訊く?」
「なぜって……今日、面白かったか?」
「人生、面白いことばかりじゃないだろう」
「そりゃそうだが……ということは、面白くなかったのか?」
「記念にはなった」
どういう記念だ、と突っこんでやりたい気もしたが、雅美は満足そうな様子だったので、それでよしとすることにした。
「じゃあ、バスに乗って帰るか」
しかし、植物園前のバス停に来るバスは、どういうわけか、みな満員御礼状態だった。
人混みの嫌いな雅美の無言の訴えにより、何台も見送る羽目になる。
そして、すっかり暗くなり、互いの顔もはっきり見えなくなった頃。
痺れを切らした鬼頭は、雅美にこう提案した。
「とりあえず歩いて、タクシー拾うか?」
「ああ。そうするか」
表情には出ていなかったが、実は雅美も飽き飽きしていたのか、すぐに応じて歩き出した。
だが、まるで誰かの嫌がらせのように、なかなか空車のタクシーがつかまらない。
「雅美。電話でタクシー呼ぶか?」
思いついたことをそのまま告げると、雅美は少し首をかしげた。
「そこまでしなくても……」
「そんなこと言ってたら、ほんとに歩いて家まで帰ることになりそうだぞ」
「最寄りの駅まで歩いていって、そこから電車で帰ればいいだろう」
雅美の鋭い指摘に、鬼頭は心底驚いて彼を見つめた。
「おまえ、頭いいなあ!」
「……本気で言っているのか?」
雅美にはからかっているようにしか聞こえなかったようである。
「もちろん本気だ。そうか。いっそ駅行ったほうが早いか。ここからいちばん近い駅っていうとどっちだ……」
そう言いかけたとき、タクシーらしき車のライトが鬼頭の視界に入った。たいして期待はしていなかったが、念のため確認すると、〝空車〟の赤いランプがついていた。
「空車だ!」
鬼頭はあわててそのタクシーに向かって大きく手を振った。ここでこれを逃したら、たぶん駅まで徒歩確定だ。
幸い、そのタクシーは鬼頭を見落として(あるいは無視して)通り過ぎることはなく、鬼頭たちの横に止まり、後部座席のドアを開けた。鬼頭はほっとして乗りこもうとしたが、そのとき雅美が口を開いた。
「それに乗るのか?」
鬼頭は怪訝に思って雅美を振り返った。
「そのつもりだけど……何かまずいことでもあるのか?」
「いや……あんたがそれがいいと言うんならいい」
雅美の言い方に引っかかるものは感じたが、危険ならばいつものように止めるだろう。
とにかく早く車に乗って落ち着きたかった鬼頭は、それ以上雅美を追及しなかった。
その植物園の存在を鬼頭も雅美も知ってはいたが、訪ねたことは一度もなかった。こういう機会がなかったら、おそらく一生行くことはなかったに違いない。
鬼頭は自分の車を出すつもりでいたのだが、雅美がなるべく歩いていきたいと言ったため、駅で待ち合わせてバスに乗った。昼食はバスに乗る前に済ませたが、行き先が行き先だけに、まるで遠足に行くような気分になった。
来園者は決して少なくはなかったが、遊園地などに比べればはるかに空いていた。鬼頭はまずそのことにほっとした。
植物園はいくつかの温室と庭園とで構成されている。雅美はそのすべてをじっくり見て回った。
「植物が好きなのか?」
食い入るように見ているのでそう訊ねると、雅美は鬼頭を一瞥することなく「いや、特には」と答えた。
「そのわりに、熱心に見てるじゃないか」
「昼の光の下では、あまり見たことがないから」
なるほど、と鬼頭は納得した。夜の緑は黒いだけだし、花の色もろくにわかりはしない。
蒸し暑い温室の中では、むせるような緑と極彩色の花々が、やわらかい秋の日差しを弾いて咲き乱れていた。彼らはまさしく昼の生き物であり、雅美とは正反対の世界の住人だった。雅美はそれらを、物珍しそうに、どこかうらやましそうに眺めているのだった。
そんな雅美を見ていると、一人でいたなら何の感慨もなく見過ごしていたはずのこの光景が、ひどく貴く美しいもののように思えてくる。
昼も夜も味わえる人間は、実はとても贅沢をしているのではないか。そのために、かえって昼や夜の美しさに鈍感になってしまっているのではないか。
そういえば、雅美と夜の街を歩いているときには、闇を恐ろしいと思ったことは一度もなかった。むしろ、闇に親しみさえ覚えたこともあった。
雅美は夜の生き物だ。そして、その生き物を望むと望まざるとにかかわらず太陽の下に引きずり出してしまったのは自分だ。
無理やり〝友情〟ということにしてしまっている今のこの関係が、これから先どのくらい続いていくのかわからないが、たとえどのように変わったとしても、やはり雅美を傷つけるのは嫌だなと、雅美の後ろ姿を見ながら鬼頭は思った。
***
二人が植物園を出たのは、暮れ残る閉園時間間際だった。
しかし、実際に植物を見ていた時間よりも、日当たりのいいベンチに座ってボーッとしていた時間のほうが、ずっと長かったような気がする。
たぶん、最初から好かれるつもりがなかったせいなのだろうが、鬼頭は雅美に対しては、無理にしゃべろうという気が起こらない。気が向かなければ、いつまでも黙ったままでいられる。
雅美のほうも、鬼頭が話したくないと思っているときには不思議と話しかけてこない。だから、時には他の人間とだったら考えられないほど長い沈黙状態が続くこともある。
それでも、気まずくはならない。鬼頭が他人の目を気にしつつも雅美とつきあいつづけているのは、一緒にいて疲れないからというのがいちばん大きいかもしれない。
楽なのだ。とても。
だが、雅美もそう思っているかはわからないので、さすがにこのときは気が咎めた。
「おまえ、こんなんで本当によかったのか?」
植物園を出てから訊くと、雅美は少し不思議そうな顔をして鬼頭を見上げた。
「ああ。なぜそんなことを訊く?」
「なぜって……今日、面白かったか?」
「人生、面白いことばかりじゃないだろう」
「そりゃそうだが……ということは、面白くなかったのか?」
「記念にはなった」
どういう記念だ、と突っこんでやりたい気もしたが、雅美は満足そうな様子だったので、それでよしとすることにした。
「じゃあ、バスに乗って帰るか」
しかし、植物園前のバス停に来るバスは、どういうわけか、みな満員御礼状態だった。
人混みの嫌いな雅美の無言の訴えにより、何台も見送る羽目になる。
そして、すっかり暗くなり、互いの顔もはっきり見えなくなった頃。
痺れを切らした鬼頭は、雅美にこう提案した。
「とりあえず歩いて、タクシー拾うか?」
「ああ。そうするか」
表情には出ていなかったが、実は雅美も飽き飽きしていたのか、すぐに応じて歩き出した。
だが、まるで誰かの嫌がらせのように、なかなか空車のタクシーがつかまらない。
「雅美。電話でタクシー呼ぶか?」
思いついたことをそのまま告げると、雅美は少し首をかしげた。
「そこまでしなくても……」
「そんなこと言ってたら、ほんとに歩いて家まで帰ることになりそうだぞ」
「最寄りの駅まで歩いていって、そこから電車で帰ればいいだろう」
雅美の鋭い指摘に、鬼頭は心底驚いて彼を見つめた。
「おまえ、頭いいなあ!」
「……本気で言っているのか?」
雅美にはからかっているようにしか聞こえなかったようである。
「もちろん本気だ。そうか。いっそ駅行ったほうが早いか。ここからいちばん近い駅っていうとどっちだ……」
そう言いかけたとき、タクシーらしき車のライトが鬼頭の視界に入った。たいして期待はしていなかったが、念のため確認すると、〝空車〟の赤いランプがついていた。
「空車だ!」
鬼頭はあわててそのタクシーに向かって大きく手を振った。ここでこれを逃したら、たぶん駅まで徒歩確定だ。
幸い、そのタクシーは鬼頭を見落として(あるいは無視して)通り過ぎることはなく、鬼頭たちの横に止まり、後部座席のドアを開けた。鬼頭はほっとして乗りこもうとしたが、そのとき雅美が口を開いた。
「それに乗るのか?」
鬼頭は怪訝に思って雅美を振り返った。
「そのつもりだけど……何かまずいことでもあるのか?」
「いや……あんたがそれがいいと言うんならいい」
雅美の言い方に引っかかるものは感じたが、危険ならばいつものように止めるだろう。
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