MIDNIGHT

邦幸恵紀

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第8話 フレンド

4 名前

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 すぐ近くだという男の家は、あの焼け跡から十分ほど歩いたところに建つ、木造二階建ての古いアパートだった。
 一目見て、似ていると鬼頭は思った。もう焼け落ちてしまった、あのアパートに。
 言葉は交わさなかったが、雅美が唖然としているのが顔を見ただけでわかった。裕福な家庭で生まれ育っただろう雅美には、この世にこんなアパートが存在していること自体信じがたいだろう。
 土足厳禁。炊事場・洗濯場・トイレは共同。風呂場はない。
 それでも、鬼頭が住んでいたあのアパートは掃除だけはしっかりされていたと思う。少なくとも、廊下いっぱいにゴミは散乱していなかった。換気もしていないらしく、手でつかめそうなくらい空気がよどんでいて、生ゴミの腐ったような臭いもした。秋の今でこうなのだ。夏場はゴミの集積場のようだっただろう。

「靴、脱がなくてもいいか?」

 来客用のスリッパなどという気のきいたものもないことを知った鬼頭は、雅美のために男にそう訊ねた。

「ああ。みんなそうしてる」

 男はあっさり答え、その言葉どおり、汚れたスニーカーのまま廊下を歩き出した。

「俺の部屋は、二階のいちばん奥なんだ……」

 相変わらず今にも倒れそうな足どりで、男はゆっくりと進んでいく。
 住人は出払っているのか、それともほとんどが空き部屋なのか、人のいる気配はまったくしなかった。
 真ん中にだけわずかに足の踏み場がある廊下は、時々驚くほど大きな悲鳴を上げる。さながら、地雷の埋まった草むらを進んでいるかのようだった。
 だが、それでも階段に比べればまだましだったのだ。廊下と同じく木製の階段は狭くて急な上、廊下以上の量のゴミで埋め尽くされていた。

「雅美。先に行けよ」

 雅美が足を滑らせる可能性を考えた鬼頭は、小声でそう言って先を譲った。
 体の大きい自分が後ろにいたほうが、いざというとき支えられると思ったのだ。

「悪いが、遠慮する」

 しかし、雅美は鬼頭の思いやりをすげなく却下した。

「あんたが道を作れ。俺はそこを歩く」
「……了解ラジャー

 確かに、そのほうが理にかなってはいた。
 何とか転ばずに階段を上りきると、二階は一階以上にひどい有り様だった。ゴミ屋敷とまではいかないが、ゴミ小屋くらいにまではなっているだろう。
 男はおぼつかない足どりながらも、さすがに慣れているのか、一度もつまずくことはなかった。
 ただでさえ暗い廊下の、さらに暗い突き当たり。ちょっと力を入れて蹴ったら穴が開きそうな木製のドアの前で、ようやく歩みを止めた。

「ここだ」

 男は言い、鍵も取り出さずに、そのままドアノブをひねった。

「少し、散らかってるけどな……」

 少し、どころではなかった。
 ドアを開けたとたん、得体の知れない悪臭があふれ出してきて、鬼頭は鼻と口を押さえて後退した。
 狭い部屋だ。六畳もないだろう。しかも、その部屋の空間の三分の二はゴミの詰まったビニール袋に占領されていて、人の入れる場所などどこにもなかった。

「さあ、入れよ」

 だが、男は平然と鬼頭をうながす。鬼頭は顔から手をはずし、そんな男を黙って見つめた。
 やはり思い出せない。しかし、この男は歪んでいるのだということははっきりわかった。
 十四年前、鬼頭は忘れてしまったが、この男には忘れられない何かがあって、こうしてゴミ溜めのような部屋に招き入れようとするのだ。

「どうした? 入れよ。、入ってくれるだろ?」

 どんよりとしていた男の目が、ぎらぎらと輝いていた。
 あの女の目に似ている。
 男に捨てられ、赤子の死体を抱いていた哀れな女。

「断る」

 きっぱりと鬼頭は言った。
 男は信じられないように鬼頭を見たが、雅美もまた目を見張って彼を見ていた。

「正直に言うよ。いくら俺だって、こんな汚い部屋には入れない。人を入れたいと思うなら、まず掃除しろ。人に要求する前に、自分が変われよ。……たぶん、十四年前でも、俺はそう言ってたぜ」
「畜生!」

 突然、男は叫び、鬼頭につかみかかろうとした。が、鬼頭に触れる前に、男の両腕は服ごと肘から切れ、汚れた床にぼとりと落ちた。なぜか血は一滴も流れなかった。
 それを目で追った鬼頭はとっさに雅美を見た。雅美は逃れるように顔をそらせ、外に出していた右手をコートのポケットの中へ戻した。

「おまえがいなくなったら、俺は楽になると思ってたんだ……」

 自分の両腕がなくなったことにも気づいていないのか、男は熱に浮かされたように言いつのる。

「おまえは何でもできて、誰からも好かれて……俺は何かっていうとおまえと比べられて、ずっと親に貶されてた。いつだってそうだ。学校だって家だって何だって。でもな。いちばん我慢できなかったのは、同じオンボロアパートに住んでたのに、俺だけビンボーってバカにされてたことだ。頭やツラならともかく、何で俺だけビンボーって言われなきゃならねえんだ? そんなの、俺のせいじゃねえだろうが!」

 男の恨み言を、鬼頭は眉をひそめて聞いていた。
 こんなことを言われるのは初めてではない。だから、意識的になるべく敵を作らないようにしてきた。
 だが、その一方で鬼頭は思っている。――俺を妬む前に、おまえたちはそれだけの努力をしているのか?

「だから……おまえの親が死んで、おまえがアパートを出てったら……俺はもう誰にも比べられないし、きっと楽になるだろうって、そう思ってたんだよ……」

 一歩、男は鬼頭に向かって踏み出した。足がよれ、膝があらぬ方向へ曲がった。

「でも、違った。おまえがいなくなってからのほうが、もっとひどくなった。おふくろは男作っていなくなって、俺は学校でも仕事場でも、どこに行ってもいじめられた。……なあ。おまえはもういい暮らししてるんだろ? おまえの格好見りゃわかるよ。俺はなあ。ずーっとビンボーだったよ。ガキの頃から今まで、こんなボロアパートにしか住めなかったよ。しまいにゃ、体もイカれてな。働くこともできなくなっちまった。……なあ。何でだよ。同い年タメで同じアパート住んでて、何で俺とおまえとじゃ、こんなに差ができちまうんだよ。望みどおり、おまえはいなくなったのに、何で俺は楽になれなかったんだよ……」

 なおも男は鬼頭に近づこうとした。しかし、曲がった足では体を支えきれず、ゴミの山の上に倒れこんだ。
 鬼頭は無言で男を見下ろしていた。手を貸す気にもなれなかった。
 人にはどう思われているか知らないが、誰にでも優しくなどなれない。ましてや、こんな理不尽な逆恨みをするような男に。
 その感情を読みとったのだろう。男は顔を捻じ曲げて、血走った目で鬼頭を睨みつけた。

「おまえ、俺のこと、バカにしてるだろ? だから名前も覚えてないんだろ?」
「……そうかもな」

 男の細い目が限界いっぱいに開かれる。
 同時に、雅美は顔をしかめて再びコートのポケットから右手を出した。だが、そのことには鬼頭は気づかなかった。

「言われてやっと思い出したよ。確かに昔、あのアパートに、同い年の奴が一人いた。でも、やっぱり名前は思い出せない。おまえがバカだからとか何とかじゃなくてな。俺は両親が死んでから、あのアパートにいた頃のことは、わざと思い出さないようにしてきたんだ。だから、忘れてるのはおまえだけじゃない。他の住人の名前も忘れてる。だけどな。そのことをおまえに責められる筋合いはないと思うぜ。あのとき、俺はそうしなきゃ生きていけなかった。両親を轢いたトラックの運転手も一緒に死んじまってて、誰も恨むことができなかったから」

 鬼頭の口調は淡々としていた。男は床に転がった体勢のまま、自分を見下ろす鬼頭を見上げている。

「なあ」

 ふと、鬼頭は語調を和らげた。

「おまえ、俺に会って、何をしたかったんだ? 俺に文句を言いたかったのか? それとも、俺を殺したかったのか? もしかしたら、俺は一生あそこには行かないかもしれなかったのに、それでもあそこで俺を待ちつづけるつもりだったのか?」
「鬼頭ォォオ!」

 地の底から響くような声で男は呻いた。体を捻って鬼頭に近づこうとしたが、ゴミ袋に阻まれ、うまくいかなかった。

「助けてくれよ……俺、自分の名前が、どうしても思い出せねえんだよ……」

 思わず鬼頭は男の顔を凝視した。ただでさえ痩けていた頬がさらに痩けている。よく見ると、右頬にはわずかに穴が開いていた。

「おまえの名前しか、覚えてなかったんだ。あんなにおまえのこと大嫌いだったのに、自分の名前より、覚えてたんだ。鬼頭よう、ほんとに俺の名前、思い出せないのか? ほんとは覚えてるけど、忘れちまったって嘘ついてるだけじゃないのか? おまえにまで忘れられちまったら、俺はいったい何だったんだよ……自分の名前も忘れて、こんなゴミん中で野垂れ死んで……これじゃ俺、ほんとにゴキブリと変わんねえじゃねえか……」

 鬼頭は何も答えなかった。否。答えようがなかった。
 人権は平等かもしれないが、運の良し悪しは確実に存在する。次々と幸運に恵まれる人間がいるかと思えば、どうしてここまでと気の毒になるくらい不運ばかりが続く人間もいる。どれだけ理想論を語ってみても、それが現実というものだ。
 しかし、この男は――鬼頭がどうしても名前を思い出すことができないこの男は、こうしてゴミに埋もれて死ななければならないほど、罪深いことをしてきたのだろうか。この男くらい卑屈な人間など、世間には掃いて捨てるほどいるというのに。

「名前を、訊きたかっただけなのか?」

 屈みこんで、男に声をかける。近づくと、男の体からはかすかに腐臭がした。
 男は強くうなずいた。その拍子に、目から茶色い涙がこぼれて床に落ちる。

「教えてくれよ……俺は、誰なんだ?」
「〝ハラ・ミツオ〟だ」

 ぽかんと男は口を開いた。右手で自分の左腕を撫でていた雅美も目を見開いている。

「〝ハラ・ミツオ〟」

 もう一度、言い聞かせるように鬼頭は繰り返した。

「それがおまえの名前だ。……思い出したか?」
「……いや。でも、おまえがそう言うんだから、そうなんだよな……そうか……俺は〝ハラ・ミツオ〟っていうのか……」

 満足げに男は呟くと、疲れたように目を閉じる。

「それならそうと、もっと早く言ってくれよ……」
「悪いな。今やっと思い出したんだ」
「そうか。……すまなかったな。嫌なこと思い出させちまって」

 鬼頭は驚いて男を見下ろした。
 〝ハラ・ミツオ〟は別人のように穏やかな表情でゴミ袋の上に横たわっていた。

「鬼頭……俺は本当に、おまえが大嫌いだったよ……でもなあ、今考えてみると、おまえがあのアパートにいた頃が、俺の人生の中でいちばん幸せだったような気がするんだ……」
「…………」
「おまえだけは……俺を叱ってくれた……何でもすぐできないとあきらめないで、とにかく何か続けてみろって言ってくれた……おまえ、そういうとこはやっぱり変わんないよな……あの頃は、それが腹立ってしょうがなかったけど……今なら……」

 そこで〝ハラ・ミツオ〟は口を閉じた。
 ただでさえ悪かった彼の顔色は見る間に土気色に変わっていき、わずかだった腐臭はますます強くなっていく。

「鬼頭。ありがとう。俺のことはもう、思い出さなくていい」

 それが〝ハラ・ミツオ〟の最期の言葉だった。
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