36 / 48
第8話 フレンド
4 名前
しおりを挟む
すぐ近くだという男の家は、あの焼け跡から十分ほど歩いたところに建つ、木造二階建ての古いアパートだった。
一目見て、似ていると鬼頭は思った。もう焼け落ちてしまった、あのアパートに。
言葉は交わさなかったが、雅美が唖然としているのが顔を見ただけでわかった。裕福な家庭で生まれ育っただろう雅美には、この世にこんなアパートが存在していること自体信じがたいだろう。
土足厳禁。炊事場・洗濯場・トイレは共同。風呂場はない。
それでも、鬼頭が住んでいたあのアパートは掃除だけはしっかりされていたと思う。少なくとも、廊下いっぱいにゴミは散乱していなかった。換気もしていないらしく、手でつかめそうなくらい空気がよどんでいて、生ゴミの腐ったような臭いもした。秋の今でこうなのだ。夏場はゴミの集積場のようだっただろう。
「靴、脱がなくてもいいか?」
来客用のスリッパなどという気のきいたものもないことを知った鬼頭は、雅美のために男にそう訊ねた。
「ああ。みんなそうしてる」
男はあっさり答え、その言葉どおり、汚れたスニーカーのまま廊下を歩き出した。
「俺の部屋は、二階のいちばん奥なんだ……」
相変わらず今にも倒れそうな足どりで、男はゆっくりと進んでいく。
住人は出払っているのか、それともほとんどが空き部屋なのか、人のいる気配はまったくしなかった。
真ん中にだけわずかに足の踏み場がある廊下は、時々驚くほど大きな悲鳴を上げる。さながら、地雷の埋まった草むらを進んでいるかのようだった。
だが、それでも階段に比べればまだましだったのだ。廊下と同じく木製の階段は狭くて急な上、廊下以上の量のゴミで埋め尽くされていた。
「雅美。先に行けよ」
雅美が足を滑らせる可能性を考えた鬼頭は、小声でそう言って先を譲った。
体の大きい自分が後ろにいたほうが、いざというとき支えられると思ったのだ。
「悪いが、遠慮する」
しかし、雅美は鬼頭の思いやりをすげなく却下した。
「あんたが道を作れ。俺はそこを歩く」
「……了解」
確かに、そのほうが理にかなってはいた。
何とか転ばずに階段を上りきると、二階は一階以上にひどい有り様だった。ゴミ屋敷とまではいかないが、ゴミ小屋くらいにまではなっているだろう。
男はおぼつかない足どりながらも、さすがに慣れているのか、一度もつまずくことはなかった。
ただでさえ暗い廊下の、さらに暗い突き当たり。ちょっと力を入れて蹴ったら穴が開きそうな木製のドアの前で、ようやく歩みを止めた。
「ここだ」
男は言い、鍵も取り出さずに、そのままドアノブをひねった。
「少し、散らかってるけどな……」
少し、どころではなかった。
ドアを開けたとたん、得体の知れない悪臭があふれ出してきて、鬼頭は鼻と口を押さえて後退した。
狭い部屋だ。六畳もないだろう。しかも、その部屋の空間の三分の二はゴミの詰まったビニール袋に占領されていて、人の入れる場所などどこにもなかった。
「さあ、入れよ」
だが、男は平然と鬼頭をうながす。鬼頭は顔から手をはずし、そんな男を黙って見つめた。
やはり思い出せない。しかし、この男は歪んでいるのだということははっきりわかった。
十四年前、鬼頭は忘れてしまったが、この男には忘れられない何かがあって、こうしてゴミ溜めのような部屋に招き入れようとするのだ。
「どうした? 入れよ。おまえなら、入ってくれるだろ?」
どんよりとしていた男の目が、ぎらぎらと輝いていた。
あの女の目に似ている。
男に捨てられ、赤子の死体を抱いていた哀れな女。
「断る」
きっぱりと鬼頭は言った。
男は信じられないように鬼頭を見たが、雅美もまた目を見張って彼を見ていた。
「正直に言うよ。いくら俺だって、こんな汚い部屋には入れない。人を入れたいと思うなら、まず掃除しろ。人に要求する前に、自分が変われよ。……たぶん、十四年前でも、俺はそう言ってたぜ」
「畜生!」
突然、男は叫び、鬼頭につかみかかろうとした。が、鬼頭に触れる前に、男の両腕は服ごと肘から切れ、汚れた床にぼとりと落ちた。なぜか血は一滴も流れなかった。
それを目で追った鬼頭はとっさに雅美を見た。雅美は逃れるように顔をそらせ、外に出していた右手をコートのポケットの中へ戻した。
「おまえがいなくなったら、俺は楽になると思ってたんだ……」
自分の両腕がなくなったことにも気づいていないのか、男は熱に浮かされたように言いつのる。
「おまえは何でもできて、誰からも好かれて……俺は何かっていうとおまえと比べられて、ずっと親に貶されてた。いつだってそうだ。学校だって家だって何だって。でもな。いちばん我慢できなかったのは、同じオンボロアパートに住んでたのに、俺だけビンボーってバカにされてたことだ。頭や面ならともかく、何で俺だけビンボーって言われなきゃならねえんだ? そんなの、俺のせいじゃねえだろうが!」
男の恨み言を、鬼頭は眉をひそめて聞いていた。
こんなことを言われるのは初めてではない。だから、意識的になるべく敵を作らないようにしてきた。
だが、その一方で鬼頭は思っている。――俺を妬む前に、おまえたちはそれだけの努力をしているのか?
「だから……おまえの親が死んで、おまえがアパートを出てったら……俺はもう誰にも比べられないし、きっと楽になるだろうって、そう思ってたんだよ……」
一歩、男は鬼頭に向かって踏み出した。足がよれ、膝があらぬ方向へ曲がった。
「でも、違った。おまえがいなくなってからのほうが、もっとひどくなった。おふくろは男作っていなくなって、俺は学校でも仕事場でも、どこに行ってもいじめられた。……なあ。おまえはもういい暮らししてるんだろ? おまえの格好見りゃわかるよ。俺はなあ。ずーっとビンボーだったよ。ガキの頃から今まで、こんなボロアパートにしか住めなかったよ。しまいにゃ、体もイカれてな。働くこともできなくなっちまった。……なあ。何でだよ。同い年で同じアパート住んでて、何で俺とおまえとじゃ、こんなに差ができちまうんだよ。望みどおり、おまえはいなくなったのに、何で俺は楽になれなかったんだよ……」
なおも男は鬼頭に近づこうとした。しかし、曲がった足では体を支えきれず、ゴミの山の上に倒れこんだ。
鬼頭は無言で男を見下ろしていた。手を貸す気にもなれなかった。
人にはどう思われているか知らないが、誰にでも優しくなどなれない。ましてや、こんな理不尽な逆恨みをするような男に。
その感情を読みとったのだろう。男は顔を捻じ曲げて、血走った目で鬼頭を睨みつけた。
「おまえ、俺のこと、バカにしてるだろ? だから名前も覚えてないんだろ?」
「……そうかもな」
男の細い目が限界いっぱいに開かれる。
同時に、雅美は顔をしかめて再びコートのポケットから右手を出した。だが、そのことには鬼頭は気づかなかった。
「言われてやっと思い出したよ。確かに昔、あのアパートに、同い年の奴が一人いた。でも、やっぱり名前は思い出せない。おまえがバカだからとか何とかじゃなくてな。俺は両親が死んでから、あのアパートにいた頃のことは、わざと思い出さないようにしてきたんだ。だから、忘れてるのはおまえだけじゃない。他の住人の名前も忘れてる。だけどな。そのことをおまえに責められる筋合いはないと思うぜ。あのとき、俺はそうしなきゃ生きていけなかった。両親を轢いたトラックの運転手も一緒に死んじまってて、誰も恨むことができなかったから」
鬼頭の口調は淡々としていた。男は床に転がった体勢のまま、自分を見下ろす鬼頭を見上げている。
「なあ」
ふと、鬼頭は語調を和らげた。
「おまえ、俺に会って、何をしたかったんだ? 俺に文句を言いたかったのか? それとも、俺を殺したかったのか? もしかしたら、俺は一生あそこには行かないかもしれなかったのに、それでもあそこで俺を待ちつづけるつもりだったのか?」
「鬼頭ォォオ!」
地の底から響くような声で男は呻いた。体を捻って鬼頭に近づこうとしたが、ゴミ袋に阻まれ、うまくいかなかった。
「助けてくれよ……俺、自分の名前が、どうしても思い出せねえんだよ……」
思わず鬼頭は男の顔を凝視した。ただでさえ痩けていた頬がさらに痩けている。よく見ると、右頬にはわずかに穴が開いていた。
「おまえの名前しか、覚えてなかったんだ。あんなにおまえのこと大嫌いだったのに、自分の名前より、覚えてたんだ。鬼頭よう、ほんとに俺の名前、思い出せないのか? ほんとは覚えてるけど、忘れちまったって嘘ついてるだけじゃないのか? おまえにまで忘れられちまったら、俺はいったい何だったんだよ……自分の名前も忘れて、こんなゴミん中で野垂れ死んで……これじゃ俺、ほんとにゴキブリと変わんねえじゃねえか……」
鬼頭は何も答えなかった。否。答えようがなかった。
人権は平等かもしれないが、運の良し悪しは確実に存在する。次々と幸運に恵まれる人間がいるかと思えば、どうしてここまでと気の毒になるくらい不運ばかりが続く人間もいる。どれだけ理想論を語ってみても、それが現実というものだ。
しかし、この男は――鬼頭がどうしても名前を思い出すことができないこの男は、こうしてゴミに埋もれて死ななければならないほど、罪深いことをしてきたのだろうか。この男くらい卑屈な人間など、世間には掃いて捨てるほどいるというのに。
「名前を、訊きたかっただけなのか?」
屈みこんで、男に声をかける。近づくと、男の体からはかすかに腐臭がした。
男は強くうなずいた。その拍子に、目から茶色い涙がこぼれて床に落ちる。
「教えてくれよ……俺は、誰なんだ?」
「〝ハラ・ミツオ〟だ」
ぽかんと男は口を開いた。右手で自分の左腕を撫でていた雅美も目を見開いている。
「〝ハラ・ミツオ〟」
もう一度、言い聞かせるように鬼頭は繰り返した。
「それがおまえの名前だ。……思い出したか?」
「……いや。でも、おまえがそう言うんだから、そうなんだよな……そうか……俺は〝ハラ・ミツオ〟っていうのか……」
満足げに男は呟くと、疲れたように目を閉じる。
「それならそうと、もっと早く言ってくれよ……」
「悪いな。今やっと思い出したんだ」
「そうか。……すまなかったな。嫌なこと思い出させちまって」
鬼頭は驚いて男を見下ろした。
〝ハラ・ミツオ〟は別人のように穏やかな表情でゴミ袋の上に横たわっていた。
「鬼頭……俺は本当に、おまえが大嫌いだったよ……でもなあ、今考えてみると、おまえがあのアパートにいた頃が、俺の人生の中でいちばん幸せだったような気がするんだ……」
「…………」
「おまえだけは……俺を叱ってくれた……何でもすぐできないとあきらめないで、とにかく何か続けてみろって言ってくれた……おまえ、そういうとこはやっぱり変わんないよな……あの頃は、それが腹立ってしょうがなかったけど……今なら……」
そこで〝ハラ・ミツオ〟は口を閉じた。
ただでさえ悪かった彼の顔色は見る間に土気色に変わっていき、わずかだった腐臭はますます強くなっていく。
「鬼頭。ありがとう。俺のことはもう、思い出さなくていい」
それが〝ハラ・ミツオ〟の最期の言葉だった。
一目見て、似ていると鬼頭は思った。もう焼け落ちてしまった、あのアパートに。
言葉は交わさなかったが、雅美が唖然としているのが顔を見ただけでわかった。裕福な家庭で生まれ育っただろう雅美には、この世にこんなアパートが存在していること自体信じがたいだろう。
土足厳禁。炊事場・洗濯場・トイレは共同。風呂場はない。
それでも、鬼頭が住んでいたあのアパートは掃除だけはしっかりされていたと思う。少なくとも、廊下いっぱいにゴミは散乱していなかった。換気もしていないらしく、手でつかめそうなくらい空気がよどんでいて、生ゴミの腐ったような臭いもした。秋の今でこうなのだ。夏場はゴミの集積場のようだっただろう。
「靴、脱がなくてもいいか?」
来客用のスリッパなどという気のきいたものもないことを知った鬼頭は、雅美のために男にそう訊ねた。
「ああ。みんなそうしてる」
男はあっさり答え、その言葉どおり、汚れたスニーカーのまま廊下を歩き出した。
「俺の部屋は、二階のいちばん奥なんだ……」
相変わらず今にも倒れそうな足どりで、男はゆっくりと進んでいく。
住人は出払っているのか、それともほとんどが空き部屋なのか、人のいる気配はまったくしなかった。
真ん中にだけわずかに足の踏み場がある廊下は、時々驚くほど大きな悲鳴を上げる。さながら、地雷の埋まった草むらを進んでいるかのようだった。
だが、それでも階段に比べればまだましだったのだ。廊下と同じく木製の階段は狭くて急な上、廊下以上の量のゴミで埋め尽くされていた。
「雅美。先に行けよ」
雅美が足を滑らせる可能性を考えた鬼頭は、小声でそう言って先を譲った。
体の大きい自分が後ろにいたほうが、いざというとき支えられると思ったのだ。
「悪いが、遠慮する」
しかし、雅美は鬼頭の思いやりをすげなく却下した。
「あんたが道を作れ。俺はそこを歩く」
「……了解」
確かに、そのほうが理にかなってはいた。
何とか転ばずに階段を上りきると、二階は一階以上にひどい有り様だった。ゴミ屋敷とまではいかないが、ゴミ小屋くらいにまではなっているだろう。
男はおぼつかない足どりながらも、さすがに慣れているのか、一度もつまずくことはなかった。
ただでさえ暗い廊下の、さらに暗い突き当たり。ちょっと力を入れて蹴ったら穴が開きそうな木製のドアの前で、ようやく歩みを止めた。
「ここだ」
男は言い、鍵も取り出さずに、そのままドアノブをひねった。
「少し、散らかってるけどな……」
少し、どころではなかった。
ドアを開けたとたん、得体の知れない悪臭があふれ出してきて、鬼頭は鼻と口を押さえて後退した。
狭い部屋だ。六畳もないだろう。しかも、その部屋の空間の三分の二はゴミの詰まったビニール袋に占領されていて、人の入れる場所などどこにもなかった。
「さあ、入れよ」
だが、男は平然と鬼頭をうながす。鬼頭は顔から手をはずし、そんな男を黙って見つめた。
やはり思い出せない。しかし、この男は歪んでいるのだということははっきりわかった。
十四年前、鬼頭は忘れてしまったが、この男には忘れられない何かがあって、こうしてゴミ溜めのような部屋に招き入れようとするのだ。
「どうした? 入れよ。おまえなら、入ってくれるだろ?」
どんよりとしていた男の目が、ぎらぎらと輝いていた。
あの女の目に似ている。
男に捨てられ、赤子の死体を抱いていた哀れな女。
「断る」
きっぱりと鬼頭は言った。
男は信じられないように鬼頭を見たが、雅美もまた目を見張って彼を見ていた。
「正直に言うよ。いくら俺だって、こんな汚い部屋には入れない。人を入れたいと思うなら、まず掃除しろ。人に要求する前に、自分が変われよ。……たぶん、十四年前でも、俺はそう言ってたぜ」
「畜生!」
突然、男は叫び、鬼頭につかみかかろうとした。が、鬼頭に触れる前に、男の両腕は服ごと肘から切れ、汚れた床にぼとりと落ちた。なぜか血は一滴も流れなかった。
それを目で追った鬼頭はとっさに雅美を見た。雅美は逃れるように顔をそらせ、外に出していた右手をコートのポケットの中へ戻した。
「おまえがいなくなったら、俺は楽になると思ってたんだ……」
自分の両腕がなくなったことにも気づいていないのか、男は熱に浮かされたように言いつのる。
「おまえは何でもできて、誰からも好かれて……俺は何かっていうとおまえと比べられて、ずっと親に貶されてた。いつだってそうだ。学校だって家だって何だって。でもな。いちばん我慢できなかったのは、同じオンボロアパートに住んでたのに、俺だけビンボーってバカにされてたことだ。頭や面ならともかく、何で俺だけビンボーって言われなきゃならねえんだ? そんなの、俺のせいじゃねえだろうが!」
男の恨み言を、鬼頭は眉をひそめて聞いていた。
こんなことを言われるのは初めてではない。だから、意識的になるべく敵を作らないようにしてきた。
だが、その一方で鬼頭は思っている。――俺を妬む前に、おまえたちはそれだけの努力をしているのか?
「だから……おまえの親が死んで、おまえがアパートを出てったら……俺はもう誰にも比べられないし、きっと楽になるだろうって、そう思ってたんだよ……」
一歩、男は鬼頭に向かって踏み出した。足がよれ、膝があらぬ方向へ曲がった。
「でも、違った。おまえがいなくなってからのほうが、もっとひどくなった。おふくろは男作っていなくなって、俺は学校でも仕事場でも、どこに行ってもいじめられた。……なあ。おまえはもういい暮らししてるんだろ? おまえの格好見りゃわかるよ。俺はなあ。ずーっとビンボーだったよ。ガキの頃から今まで、こんなボロアパートにしか住めなかったよ。しまいにゃ、体もイカれてな。働くこともできなくなっちまった。……なあ。何でだよ。同い年で同じアパート住んでて、何で俺とおまえとじゃ、こんなに差ができちまうんだよ。望みどおり、おまえはいなくなったのに、何で俺は楽になれなかったんだよ……」
なおも男は鬼頭に近づこうとした。しかし、曲がった足では体を支えきれず、ゴミの山の上に倒れこんだ。
鬼頭は無言で男を見下ろしていた。手を貸す気にもなれなかった。
人にはどう思われているか知らないが、誰にでも優しくなどなれない。ましてや、こんな理不尽な逆恨みをするような男に。
その感情を読みとったのだろう。男は顔を捻じ曲げて、血走った目で鬼頭を睨みつけた。
「おまえ、俺のこと、バカにしてるだろ? だから名前も覚えてないんだろ?」
「……そうかもな」
男の細い目が限界いっぱいに開かれる。
同時に、雅美は顔をしかめて再びコートのポケットから右手を出した。だが、そのことには鬼頭は気づかなかった。
「言われてやっと思い出したよ。確かに昔、あのアパートに、同い年の奴が一人いた。でも、やっぱり名前は思い出せない。おまえがバカだからとか何とかじゃなくてな。俺は両親が死んでから、あのアパートにいた頃のことは、わざと思い出さないようにしてきたんだ。だから、忘れてるのはおまえだけじゃない。他の住人の名前も忘れてる。だけどな。そのことをおまえに責められる筋合いはないと思うぜ。あのとき、俺はそうしなきゃ生きていけなかった。両親を轢いたトラックの運転手も一緒に死んじまってて、誰も恨むことができなかったから」
鬼頭の口調は淡々としていた。男は床に転がった体勢のまま、自分を見下ろす鬼頭を見上げている。
「なあ」
ふと、鬼頭は語調を和らげた。
「おまえ、俺に会って、何をしたかったんだ? 俺に文句を言いたかったのか? それとも、俺を殺したかったのか? もしかしたら、俺は一生あそこには行かないかもしれなかったのに、それでもあそこで俺を待ちつづけるつもりだったのか?」
「鬼頭ォォオ!」
地の底から響くような声で男は呻いた。体を捻って鬼頭に近づこうとしたが、ゴミ袋に阻まれ、うまくいかなかった。
「助けてくれよ……俺、自分の名前が、どうしても思い出せねえんだよ……」
思わず鬼頭は男の顔を凝視した。ただでさえ痩けていた頬がさらに痩けている。よく見ると、右頬にはわずかに穴が開いていた。
「おまえの名前しか、覚えてなかったんだ。あんなにおまえのこと大嫌いだったのに、自分の名前より、覚えてたんだ。鬼頭よう、ほんとに俺の名前、思い出せないのか? ほんとは覚えてるけど、忘れちまったって嘘ついてるだけじゃないのか? おまえにまで忘れられちまったら、俺はいったい何だったんだよ……自分の名前も忘れて、こんなゴミん中で野垂れ死んで……これじゃ俺、ほんとにゴキブリと変わんねえじゃねえか……」
鬼頭は何も答えなかった。否。答えようがなかった。
人権は平等かもしれないが、運の良し悪しは確実に存在する。次々と幸運に恵まれる人間がいるかと思えば、どうしてここまでと気の毒になるくらい不運ばかりが続く人間もいる。どれだけ理想論を語ってみても、それが現実というものだ。
しかし、この男は――鬼頭がどうしても名前を思い出すことができないこの男は、こうしてゴミに埋もれて死ななければならないほど、罪深いことをしてきたのだろうか。この男くらい卑屈な人間など、世間には掃いて捨てるほどいるというのに。
「名前を、訊きたかっただけなのか?」
屈みこんで、男に声をかける。近づくと、男の体からはかすかに腐臭がした。
男は強くうなずいた。その拍子に、目から茶色い涙がこぼれて床に落ちる。
「教えてくれよ……俺は、誰なんだ?」
「〝ハラ・ミツオ〟だ」
ぽかんと男は口を開いた。右手で自分の左腕を撫でていた雅美も目を見開いている。
「〝ハラ・ミツオ〟」
もう一度、言い聞かせるように鬼頭は繰り返した。
「それがおまえの名前だ。……思い出したか?」
「……いや。でも、おまえがそう言うんだから、そうなんだよな……そうか……俺は〝ハラ・ミツオ〟っていうのか……」
満足げに男は呟くと、疲れたように目を閉じる。
「それならそうと、もっと早く言ってくれよ……」
「悪いな。今やっと思い出したんだ」
「そうか。……すまなかったな。嫌なこと思い出させちまって」
鬼頭は驚いて男を見下ろした。
〝ハラ・ミツオ〟は別人のように穏やかな表情でゴミ袋の上に横たわっていた。
「鬼頭……俺は本当に、おまえが大嫌いだったよ……でもなあ、今考えてみると、おまえがあのアパートにいた頃が、俺の人生の中でいちばん幸せだったような気がするんだ……」
「…………」
「おまえだけは……俺を叱ってくれた……何でもすぐできないとあきらめないで、とにかく何か続けてみろって言ってくれた……おまえ、そういうとこはやっぱり変わんないよな……あの頃は、それが腹立ってしょうがなかったけど……今なら……」
そこで〝ハラ・ミツオ〟は口を閉じた。
ただでさえ悪かった彼の顔色は見る間に土気色に変わっていき、わずかだった腐臭はますます強くなっていく。
「鬼頭。ありがとう。俺のことはもう、思い出さなくていい」
それが〝ハラ・ミツオ〟の最期の言葉だった。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
【完結】永遠の旅人
邦幸恵紀
SF
高校生・椎名達也は、未来人が創設した〈時間旅行者協会〉の職員ライアンに腕時計型タイム・マシンを使われ、強引に〈協会〉本部へと連れてこられる。実は達也はマシンなしで時空間移動ができる〝時間跳躍者〟で、ライアンはかつて別時空の達也と偶然会っていた。以来、執念深く達也を捜しつづけたライアンの目的とは。
宇宙の戦士
邦幸恵紀
SF
【SF(スペースファンタジー)/パワードスーツは登場しません/魔法≒超能力】
向井紀里《むかいきり》は、父・鏡太郎《きょうたろう》と二人暮らしの高校一年生。
ある朝、登校途中に出会った金髪の美少女に「偽装がうまい」と評される。
紀里を連れ戻しにきたという彼女は異星人だった。まったく身に覚えのない紀里は、彼女の隙を突いて自宅に逃げこむが――
◆表紙はかんたん表紙メーカー様で作成いたしました。ありがとうございました(2023/09/11)。
【完結】虚無の王
邦幸恵紀
キャラ文芸
【現代ファンタジー/クトゥルー神話/這い寄る混沌×大学生】
大学生・沼田恭司は、ラヴクラフト以外の人間によって歪められた今の「クトゥルー神話」を正し、自分たちを自由に動けるようにしろと「クトゥルー神話」中の邪神の一柱ナイアーラトテップに迫られる。しかし、それはあくまで建前だった。
◆『偽神伝』のパラレルです。そのため、内容がかなり被っています。
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
魔法使いと子猫の京ドーナツ~謎解き風味でめしあがれ~
橘花やよい
キャラ文芸
京都嵐山には、魔法使い(四分の一)と、化け猫の少年が出迎えるドーナツ屋がある。おひとよしな魔法使いの、ほっこりじんわり物語。
☆☆☆
三上快はイギリスと日本のクォーター、かつ、魔法使いと人間のクォーター。ある日、経営するドーナツ屋の前に捨てられていた少年(化け猫)を拾う。妙になつかれてしまった快は少年とともに、客の悩みに触れていく。人とあやかし、一筋縄ではいかないのだが。
☆☆☆
あやかし×お仕事(ドーナツ屋)×ご当地(京都)×ちょっと謎解き×グルメと、よくばりなお話、完結しました!楽しんでいただければ幸いです。
感想は基本的に全体公開にしてあるので、ネタバレ注意です。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
月下のヴェアヴォルフ
幽零
キャラ文芸
先の大戦で活躍した、超人部隊。
その英雄達も平和な時代の到来で、用済みになった。
平和な時代が到来した某国「アトラ」では、政府関係者達が次々殺害される事件が発生していた。
英雄は、影の執行者へ……
イラスト 十六夜 様
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる