27 / 48
第7話 ムーン
1 ウィンドー
しおりを挟む
最近の鬼頭の退社後の日課は、夜の雑踏をかき分けて走ることだった。
別に待たせたところでどうということもない相手なのである。それどころか、一緒に帰ろうなどと約束した覚えもない。いつも向こうが勝手に待っているだけだ。
だが、待っていると思うと、つい待たせては悪いなと考えてしまう。我ながら、自分の人のよさに呆れてしまう。
呆れてしまうが、走るのはやめない。鬼頭が立ち止まるのは、会社からかなり離れたところにある喫茶店のウィンドーの前でである。そして、迷うことなく、窓際のいちばん奥の席の横のガラスを拳で叩く。
小憎らしいことにこの相手は、たとえどんなに待っていたとしても、少しもほっとした様子を見せない。わざとではないかと思えるくらいゆっくりと鬼頭に目を巡らせ、まるで何か嫌なものでも見たかのように、ふいと顔をそむけて席を立つ。おそらく、また〝紅茶〟としか書かれていない伝票を持って会計を済ませると、外へ出てきて鬼頭の前に現れる。
「遅い」
開口一番、その相手――霧河雅美は言った。黙っていれば美女でも通る顔をしているが、話す声は意外に低く、表情は少ない。季節を問わず、いつも黒いコートに身を包んでいる。
自称〝予備校生〟だそうだが、鬼頭は常々それを疑わしく思っていた。この少年が机に向かって勉強している姿など、とても想像できない。墓場で幽霊に向かっているならともかく。
「もう七時過ぎてるぞ。おかげで俺は紅茶を三杯も飲む羽目になった」
例によって淡々とした調子である。少しは申し訳ないと思っていた鬼頭も、この言い草にはむっとした。
「だから、無理して待ってなくていいって言ってるだろうが」
もちろん、〝待つな〟とも言っていない。そこが鬼頭の弱いところだった。
「いつもいつも定時に上がれるとは限らないんだよ。おまえ、今度携帯買え。そしたら、ここで紅茶飲んでなくても済むぞ」
「……別に、紅茶を飲むのが嫌なわけじゃない」
紅茶と酒しか飲めない雅美は、そう言って長い睫にふちどられた目を伏せた。
「じゃあ、何だよ?」
「俺に待たれるのは迷惑か」
――うっ!
いきなり、痛いところを突かれてしまった。
迷惑でないと言ったら嘘になる。数週間前、会社前で雅美に待たれていたときには、それこそ、肝を潰した。
なぜここがと思ったが、実は鬼頭は雅美と初めて会ったときに、自分から名刺を渡していたのだった。
なぜそんなことをしたのかと後悔してみても、今さら返せとも忘れてくれとも言えない。とにかく、会社の人間に見られるのはまずいから、待つならここにしてくれと、鬼頭は自らこの喫茶店を指定してしまったのだった。
つまり、鬼頭が休日以外、毎日ここへ走ってこなければならなくなったのは、まったく鬼頭自身のせいだった。
はっきりと取り決めたわけではなかったから、まさか待ってはいないだろうと思ったのだが、翌日、念のためにここへ来てみると、雅美が今日のように悠々と紅茶を飲んでいたのだった。
この時点で、鬼頭は雅美に携帯電話を持たせておくべきだった。まさか今日はいまい、今日はいないだろうと覗きにくるうちに、いつのまにかここで待ち合わせをすることになってしまっていた。
最初のうちは中まで入っていたのだが、周囲の好奇の視線に耐えかね、外からガラスを叩くようになった。それでも、毎日のようにそれを繰り返していれば、充分人目を引いてしまう。そして、確実に誤解されるのだ。恋人同士だと。
「いや、迷惑なわけじゃないんだけど……」
言葉を濁して鬼頭は頭を掻いた。どうしても、雅美を突き放すことができない。そうと知ってか、だんだん雅美も狡猾になってきた。
ほんのちょっと前までは、鬼頭に拒まれるのが怖くて、〝迷惑か〟などとは言えずにいたのである。それが今ではどうだ。調子に乗りやがって、というのが鬼頭の偽らざる心情である。
時々、〝もう二度と会いたくない〟と言ってやろうかとも思う。が、結局実行には至っていないのは、あまり認めたくはないが、本気で雅美に会いたくないとは思っていないからだろう。つきまとわれて迷惑だと思いつつ、そんな彼を可愛いとも思っている。ただ――世間体というものが気になるだけだ。
まったく、それだけだった。
雅美が何か得体の知れない力を持っていること、その正体がはっきりしない――年齢も見かけどおりではないらしい――ことなど、鬼頭はさして、というか、ほとんど意にも介していなかった。彼にとって雅美とは、〝変わった特技を持つひねくれた子供〟であり、それ以上でも以下でもなかったのである。
しかし、その一方で鬼頭は困惑していた。そんな雅美が、なぜ自分と一緒にいたがるのか。
――こいつは俺に恋しているのだろうか。
そう思ったこともある。
だが、これにはすぐに、鬼頭の頭のほうが拒絶反応を起こした。たとえどんなに雅美が美しくても、とてもそんな気にはなれない。もし雅美が少しでもそのようなそぶりを見せたら、そのときこそ〝もう二度と会わない〟と宣告し、すみやかに逃げ去るつもりだった。
それを見越しているのかいないのか。雅美は今のところ、鬼頭と一緒に夜の街をうろつくだけで満足しているように見える。恋――というよりは、ただ純粋に誰かと一緒にいるのが嬉しくて、はしゃいでいるように思えた。だから鬼頭も雅美をそう邪険にはできなかったのである。
「いや、いい」
このときも、鬼頭はそれ以上の発言はあきらめて、スラックスのポケットに手を突っこんだ。
「とにかく、携帯買ってくれ。俺が残業のときなんか、連絡つかないからさ。金がないんなら俺が出す。でもまあ、今は飯食いに行こう。腹減ってるんだ」
「……金ならある」
心外そうに雅美は眉をひそめた。詳しく訊いたことはないが、雅美の実家は金持ちらしい。
「なら、自分で買えるな?」
「あんた、俺に携帯持たせたら、毎日今日は会えないと言うつもりだな?」
やっぱり嫌な奴だと鬼頭は思った。
せめて、週に一、二度にしようと思っていたのに。
別に待たせたところでどうということもない相手なのである。それどころか、一緒に帰ろうなどと約束した覚えもない。いつも向こうが勝手に待っているだけだ。
だが、待っていると思うと、つい待たせては悪いなと考えてしまう。我ながら、自分の人のよさに呆れてしまう。
呆れてしまうが、走るのはやめない。鬼頭が立ち止まるのは、会社からかなり離れたところにある喫茶店のウィンドーの前でである。そして、迷うことなく、窓際のいちばん奥の席の横のガラスを拳で叩く。
小憎らしいことにこの相手は、たとえどんなに待っていたとしても、少しもほっとした様子を見せない。わざとではないかと思えるくらいゆっくりと鬼頭に目を巡らせ、まるで何か嫌なものでも見たかのように、ふいと顔をそむけて席を立つ。おそらく、また〝紅茶〟としか書かれていない伝票を持って会計を済ませると、外へ出てきて鬼頭の前に現れる。
「遅い」
開口一番、その相手――霧河雅美は言った。黙っていれば美女でも通る顔をしているが、話す声は意外に低く、表情は少ない。季節を問わず、いつも黒いコートに身を包んでいる。
自称〝予備校生〟だそうだが、鬼頭は常々それを疑わしく思っていた。この少年が机に向かって勉強している姿など、とても想像できない。墓場で幽霊に向かっているならともかく。
「もう七時過ぎてるぞ。おかげで俺は紅茶を三杯も飲む羽目になった」
例によって淡々とした調子である。少しは申し訳ないと思っていた鬼頭も、この言い草にはむっとした。
「だから、無理して待ってなくていいって言ってるだろうが」
もちろん、〝待つな〟とも言っていない。そこが鬼頭の弱いところだった。
「いつもいつも定時に上がれるとは限らないんだよ。おまえ、今度携帯買え。そしたら、ここで紅茶飲んでなくても済むぞ」
「……別に、紅茶を飲むのが嫌なわけじゃない」
紅茶と酒しか飲めない雅美は、そう言って長い睫にふちどられた目を伏せた。
「じゃあ、何だよ?」
「俺に待たれるのは迷惑か」
――うっ!
いきなり、痛いところを突かれてしまった。
迷惑でないと言ったら嘘になる。数週間前、会社前で雅美に待たれていたときには、それこそ、肝を潰した。
なぜここがと思ったが、実は鬼頭は雅美と初めて会ったときに、自分から名刺を渡していたのだった。
なぜそんなことをしたのかと後悔してみても、今さら返せとも忘れてくれとも言えない。とにかく、会社の人間に見られるのはまずいから、待つならここにしてくれと、鬼頭は自らこの喫茶店を指定してしまったのだった。
つまり、鬼頭が休日以外、毎日ここへ走ってこなければならなくなったのは、まったく鬼頭自身のせいだった。
はっきりと取り決めたわけではなかったから、まさか待ってはいないだろうと思ったのだが、翌日、念のためにここへ来てみると、雅美が今日のように悠々と紅茶を飲んでいたのだった。
この時点で、鬼頭は雅美に携帯電話を持たせておくべきだった。まさか今日はいまい、今日はいないだろうと覗きにくるうちに、いつのまにかここで待ち合わせをすることになってしまっていた。
最初のうちは中まで入っていたのだが、周囲の好奇の視線に耐えかね、外からガラスを叩くようになった。それでも、毎日のようにそれを繰り返していれば、充分人目を引いてしまう。そして、確実に誤解されるのだ。恋人同士だと。
「いや、迷惑なわけじゃないんだけど……」
言葉を濁して鬼頭は頭を掻いた。どうしても、雅美を突き放すことができない。そうと知ってか、だんだん雅美も狡猾になってきた。
ほんのちょっと前までは、鬼頭に拒まれるのが怖くて、〝迷惑か〟などとは言えずにいたのである。それが今ではどうだ。調子に乗りやがって、というのが鬼頭の偽らざる心情である。
時々、〝もう二度と会いたくない〟と言ってやろうかとも思う。が、結局実行には至っていないのは、あまり認めたくはないが、本気で雅美に会いたくないとは思っていないからだろう。つきまとわれて迷惑だと思いつつ、そんな彼を可愛いとも思っている。ただ――世間体というものが気になるだけだ。
まったく、それだけだった。
雅美が何か得体の知れない力を持っていること、その正体がはっきりしない――年齢も見かけどおりではないらしい――ことなど、鬼頭はさして、というか、ほとんど意にも介していなかった。彼にとって雅美とは、〝変わった特技を持つひねくれた子供〟であり、それ以上でも以下でもなかったのである。
しかし、その一方で鬼頭は困惑していた。そんな雅美が、なぜ自分と一緒にいたがるのか。
――こいつは俺に恋しているのだろうか。
そう思ったこともある。
だが、これにはすぐに、鬼頭の頭のほうが拒絶反応を起こした。たとえどんなに雅美が美しくても、とてもそんな気にはなれない。もし雅美が少しでもそのようなそぶりを見せたら、そのときこそ〝もう二度と会わない〟と宣告し、すみやかに逃げ去るつもりだった。
それを見越しているのかいないのか。雅美は今のところ、鬼頭と一緒に夜の街をうろつくだけで満足しているように見える。恋――というよりは、ただ純粋に誰かと一緒にいるのが嬉しくて、はしゃいでいるように思えた。だから鬼頭も雅美をそう邪険にはできなかったのである。
「いや、いい」
このときも、鬼頭はそれ以上の発言はあきらめて、スラックスのポケットに手を突っこんだ。
「とにかく、携帯買ってくれ。俺が残業のときなんか、連絡つかないからさ。金がないんなら俺が出す。でもまあ、今は飯食いに行こう。腹減ってるんだ」
「……金ならある」
心外そうに雅美は眉をひそめた。詳しく訊いたことはないが、雅美の実家は金持ちらしい。
「なら、自分で買えるな?」
「あんた、俺に携帯持たせたら、毎日今日は会えないと言うつもりだな?」
やっぱり嫌な奴だと鬼頭は思った。
せめて、週に一、二度にしようと思っていたのに。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

【完結】虚無の王
邦幸恵紀
キャラ文芸
【現代ファンタジー/クトゥルー神話/這い寄る混沌×大学生】
大学生・沼田恭司は、ラヴクラフト以外の人間によって歪められた今の「クトゥルー神話」を正し、自分たちを自由に動けるようにしろと「クトゥルー神話」中の邪神の一柱ナイアーラトテップに迫られる。しかし、それはあくまで建前だった。
◆『偽神伝』のパラレルです。そのため、内容がかなり被っています。

ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜
瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。
大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。
そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる