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第5話 パーティ
2 嫌いなわけじゃない
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これで帰るかと思いきや、雅美はその後も鬼頭のそばに居続けた。
席をはずした令子に(おそらくはトイレのために)、何度も『帰っちゃダメよ』と念を押されたからではたぶんあるまい。
(そんなこったろうと思ったよ)
鬼頭が帰ろうとしないかぎり、雅美もここから立ち去ろうとはしないだろう。いまだに信じがたいが――というか、信じたくないが――この子供は鬼頭のことを気に入っているようなのだ。こんなに愛想が悪いくせに。
(でも、今回はまだ真夜中じゃないのにな。何でこいつに会うかな)
しかし、本人には決してそんなことは言えない。
雅美が怒るからではない。それならいつもの嫌味の報復にいくらでも言ってやる。
傷ついた顔をするのだ。
鬼頭に突き放されると。
それはもう、物悲しそうにうつむいて、何も言わない。普段が普段だけに、その様子が妙に哀れで、ついつい鬼頭は自分の発言を取り消してしまう。そして、元に戻った雅美の嫌味にさらされるのだ。
(あんなに嫌味言うくせに、何で俺のこと気に入ってんのかな)
そこが鬼頭にはわからなかった。
何しろ、気が合わない。雅美が東と言えば、鬼頭は絶対西と言うだろう。それくらい正反対だ。
鬼頭自身、どうしてこれほど気に食わないのか不思議に思うときもあるのだが、気に入るよりはずっと納得できる。
世の中にはどうしても馬の合わない人間がいるものだ。雅美もきっとそうなのだろう。少なくとも鬼頭はそう思っていた。
「帰りたいなあ……」
理由は言わず、鬼頭は嘆息した。
「帰れないのか?」
帰りたい原因が、無邪気にそう訊ねてくる。
「仕事だからな」
少しだけ罪悪感を覚えて鬼頭は答えた。時々、雅美は妙に幼い顔をする。
二人は壁際に移動していた。鬼頭はそこに置いてあった椅子に座り、雅美はその隣で腕を組んで立っていた。
それを横目で見ながら、そういえば今までこいつが椅子に座ったところを見たことがないなと思う。だが、コートを脱いだ姿は今日初めて見た。スーツだが制服のようにも思えて、予備校生というより高校生のように見える。でも、こんな高校生がいたら教師はさぞかし嫌だろうなと思った。何を言っても無視されそうだ。
漫然とそんなことを考えていた鬼頭だったが、ふと先ほどの令子の話を思い出し、自分から雅美に話しかけた。
「霧河。さっきの話、本当か?」
「さっきの話?」
訝しそうな顔はしたが、雅美はすぐに反応した。
「戦前から生きてるだとか、名家の生まれだとか」
「ああ、そのことか」
面白くもなさそうに雅美は言った。
「本当だ」
鬼頭は雅美の整いきった顔をまじまじと見つめた。雅美は薄く笑って鬼頭に問う。
「信じられないか?」
「信じられないね」
「前者は信じてもらいたいが、後者はどうでもいいな」
「え?」
「生まれた家が、たまたまそうだっただけのことだ」
「……それって、すっげー嫌味だぞ」
「だろうな」
――戦前ねえ……
鬼頭はまたしみじみと雅美を眺めた。どう見ても高校生くらいにしか見えない。鬼頭にしてみれば、元華族の生まれというのは信じられるが、戦前からこの姿というのはどうしても信じられない。
(同一人物じゃないんじゃないかなあ。子供とか孫とか親戚とか)
しかし、その一方で、そんなことはもうどうでもいいような気もする。たとえ雅美が人間ではないと言われたとしても、鬼頭はああそうなのかと思うだけだろう。雅美の正体が何であれ、それが雅美なら仕方ないではないか。
それよりもっかの問題は、どうやってこの雅美から逃れるかということである。雅美を傷つけないで、自分から遠ざける方法――
「煙草」
急に雅美がそう言ったので、鬼頭は動揺した。
「え、煙草って、何が?」
「いや、あんた確か、煙草吸ってただろ? 今、急に思い出した」
「ほんとに急だな。煙草……煙草ね……そう言われてみれば、ここんとこ吸ってないな……」
鬼頭は自分の顎に手をやり、首をひねった。
「あれ? いつから吸ってないんだ? 全然記憶にないぞ?」
「少なくとも、四月の段階ではまだ吸ってた」
見かねた雅美が助け舟を出す。
「じゃあ、五月は?」
そう訊くと、さすがに雅美は眉をひそめた。
「あんた、自分のことなのに覚えてないのか?」
「いや、ほんとにいつから吸ってないのかわからないんだ。そういや、最近自分の部屋が煙草くさくないなと思ってたんだよ。何だ、そういうわけだったのか、やっとわかった」
真顔の鬼頭に雅美は深い溜め息をついた。常にないことである。
「五月は吸ってない。先月も吸ってない」
「じゃあ、四月か? ……うーん。どうもはっきりしないな。おまえに言われるまで、全然気づきもしなかった。人に勧められれば吸ってたし」
「禁煙してたわけじゃなかったのか」
雅美は意外そうに鬼頭を見下ろす。
「禁煙? いや、してないよ。しようという気もなかった。むしろ、吸ってたほうが何かと都合がよかったからな」
「でも、最近は吸ってなかったんだろ?」
「……みたいだな」
「俺は煙草はやらないから知らないが、そんなふうにやめられるものなのか、あれは」
「らしいな。現に俺が吸ってないんだから」
「あんた、もともと煙草が好きじゃなかったんじゃないか?」
投げやりに雅美が言った。鬼頭は思わず雅美を見上げる。
「好きじゃない?」
「だって、吸ってたほうが都合がいいんだろ? それなのに、どうしてわざわざやめる?」
「……そう言われてみればそうだな」
雅美のその指摘は、鬼頭にはまったく思いもかけないものだった。好きだとか嫌いだとかいう前に、鬼頭はもう煙草が手放せなくなっていて、そのまま惰性で吸いつづけていた。そして、特にやめるつもりもなかったのだ。やめていることに気づいた今でさえ。
「ま、いいか」
いくら考えても答えが出ないので、鬼頭はそれで打ち切った。そんな鬼頭を雅美が冷ややかに見やる。
「いいかげんな男だな」
「だって、しょうがないだろ。いくら考えたって、わからないものはわからないんだ。吸わないでいられるんなら、それはそれでいいだろ。その分、煙草代も浮くし」
「……ほんとに禁煙してないのか?」
「ああ? そうだけど?」
「……そう。そうだろうな」
雅美はそう呟くと、ぷいと横を向いてしまった。
最初、鬼頭はなぜ雅美がそんな態度をとるのかわからなかった。だが、そういえば一つだけ、心当たりがあった。
「霧河。おまえ確か、煙草は嫌いだとか言ってなかったか?」
さりげなく問うと、雅美は明らかにぎくりとした様子で鬼頭を振り返った。
「言ったよな?」
面白くなって、鬼頭はにやにやしながら念を押した。雅美はというと、思いきり顔をしかめて、鬼頭から目をそらしつづけている。
そう言ったのは事実だが、その後、鬼頭に何を言われるか想像がつくから、素直にそうだと認めるわけにはいかないのだろう。こういう面では雅美は実にわかりやすい。あんまりわかりやすいから、ずばり〝別におまえのために禁煙したわけじゃないよ〟と言ってやりたかったが。
「なら、おまえにとっては都合がいいじゃないか」
雅美は拍子抜けしたように鬼頭を見た。
「煙草、嫌いなんだろ?」
鬼頭は別に、どういう返事も期待していなかった。またそっぽを向かれてもよかったし、嫌味を言われてもよかった。しかし、こんな答えはまったく予想していなかった。
「別に、あんたが嫌いなわけじゃない」
思考停止。
そして、鬼頭が何とか再始動したときには、雅美はまた横を向いてしまっていた。
(今のはいったい何だったんだ?)
鬼頭は頭を抱えて苦悩した。
(『煙草は嫌いなんだろ』って言われて、どうして『あんたが嫌いなわけじゃない』なんて答えを返してくるんだ? 全然話がつながらないじゃないか。それともあれは、俺が煙草を吸っててもかまわないという意味だったのか? ああ、どっちにしろ、こんなことになるんなら、〝別におまえのために禁煙したわけじゃない〟って言っとくんだった。どうして俺はこう、こいつを傷つけないようにとか考えちまうんだ。いっそ徹底的に傷つけちまったほうが、こんな変なこと言われなくて済むのに。ああ、つくづく俺は馬鹿だ!)
いまだかつて、鬼頭はこんなことで悩んだことはなかった。あってたまるかと思う。嫌いな相手の傷つく顔が見たくなくて突き放せないなんて。嫌いな相手の傷つく顔ならいくらでも見たいというのが普通ではないか。
何だって自分はこれほど雅美を傷つけたくないのだろう。子供だから? でも、嫌いなものは嫌いなのだ。この一点だけは崩しようがない。
苦悩するのに忙しくて、鬼頭はしばらく雅美を見ていなかった。が、ふと今雅美は何をしているのだろうと気になって、手の下からそっと覗いてみた。
鬼頭が下を向いているのを見て安心したのか、横を向いていたはずの雅美は今、正面に向き直っていた。当然、鬼頭のほうからは雅美の横顔が見えることになる。
今までさんざん見てきたはずだった。だが、その横顔が目に入った瞬間、鬼頭は息を呑んだ。
(こんなに綺麗だったのか)
その肌の白さ。髪の黒さ。唇の赤さ。線の美しさ。
美しいものを讃えるとき、人はよく人形のようだと言う。しかし、生きている人形に優る美が、この世のどこに存在するだろう。これはもう人間ではないのかもしれない。
「何だ?」
鬼頭が自分を見ていたことに気がついて、雅美が動揺した気色を見せた。
雅美のほうも自分の発言を後悔していたらしい。なかなか鬼頭と目を合わせようとしない。だが、鬼頭はかまわず言った。
「綺麗だなと思ってたんだ」
雅美はきょとんとして、鬼頭を見下ろした。
「何を?」
「おまえを」
雅美の顔から表情が消えた。怒るかと思ったが、すぐにうつむいてしまう。
「冗談だろ?」
うつむいたまま、拗ねたように言う。
「いや、本気で」
「そんなこと、今まで一度も言わなかったくせに」
これには言葉に詰まったが、鬼頭は正直に答えた。
「気づかなかったんだ」
「気づかなかった?」
呆れたようにそう言って、雅美は顔を上げた。
「ああ、気づかなかった。どういうわけか、今の今まで。整った顔してるとは思ってたけど、こんなに綺麗だったとは思わなかった」
雅美は黙っていた。怒っているような悩んでいるような、何とも言えない表情をしていた。そして、そんな顔もまた、何とも言えず美しいのだった。
「褒めたって、何も出ないからな」
結局、雅美は自分の表情を、不機嫌なそれに整理した。
「見返りなしだ。褒めたいから褒めてるんだ。今度は昼間のおまえを見てみたいもんだな。その顔がメッキかどうか」
「昼間か」
珍しく、雅美は苦笑した。
「それは……無理かもしれないな。俺は――」
「お熱いことで」
メッキのはがれまくった令子が、にやつきながら雅美の背後に立っていた。
「よし、新たなネタができたわ。〝魔少年に恋人発覚!〟 さて、二人のなれそめは?」
鬼頭と雅美は困惑して、互いの顔を見合わせた。
席をはずした令子に(おそらくはトイレのために)、何度も『帰っちゃダメよ』と念を押されたからではたぶんあるまい。
(そんなこったろうと思ったよ)
鬼頭が帰ろうとしないかぎり、雅美もここから立ち去ろうとはしないだろう。いまだに信じがたいが――というか、信じたくないが――この子供は鬼頭のことを気に入っているようなのだ。こんなに愛想が悪いくせに。
(でも、今回はまだ真夜中じゃないのにな。何でこいつに会うかな)
しかし、本人には決してそんなことは言えない。
雅美が怒るからではない。それならいつもの嫌味の報復にいくらでも言ってやる。
傷ついた顔をするのだ。
鬼頭に突き放されると。
それはもう、物悲しそうにうつむいて、何も言わない。普段が普段だけに、その様子が妙に哀れで、ついつい鬼頭は自分の発言を取り消してしまう。そして、元に戻った雅美の嫌味にさらされるのだ。
(あんなに嫌味言うくせに、何で俺のこと気に入ってんのかな)
そこが鬼頭にはわからなかった。
何しろ、気が合わない。雅美が東と言えば、鬼頭は絶対西と言うだろう。それくらい正反対だ。
鬼頭自身、どうしてこれほど気に食わないのか不思議に思うときもあるのだが、気に入るよりはずっと納得できる。
世の中にはどうしても馬の合わない人間がいるものだ。雅美もきっとそうなのだろう。少なくとも鬼頭はそう思っていた。
「帰りたいなあ……」
理由は言わず、鬼頭は嘆息した。
「帰れないのか?」
帰りたい原因が、無邪気にそう訊ねてくる。
「仕事だからな」
少しだけ罪悪感を覚えて鬼頭は答えた。時々、雅美は妙に幼い顔をする。
二人は壁際に移動していた。鬼頭はそこに置いてあった椅子に座り、雅美はその隣で腕を組んで立っていた。
それを横目で見ながら、そういえば今までこいつが椅子に座ったところを見たことがないなと思う。だが、コートを脱いだ姿は今日初めて見た。スーツだが制服のようにも思えて、予備校生というより高校生のように見える。でも、こんな高校生がいたら教師はさぞかし嫌だろうなと思った。何を言っても無視されそうだ。
漫然とそんなことを考えていた鬼頭だったが、ふと先ほどの令子の話を思い出し、自分から雅美に話しかけた。
「霧河。さっきの話、本当か?」
「さっきの話?」
訝しそうな顔はしたが、雅美はすぐに反応した。
「戦前から生きてるだとか、名家の生まれだとか」
「ああ、そのことか」
面白くもなさそうに雅美は言った。
「本当だ」
鬼頭は雅美の整いきった顔をまじまじと見つめた。雅美は薄く笑って鬼頭に問う。
「信じられないか?」
「信じられないね」
「前者は信じてもらいたいが、後者はどうでもいいな」
「え?」
「生まれた家が、たまたまそうだっただけのことだ」
「……それって、すっげー嫌味だぞ」
「だろうな」
――戦前ねえ……
鬼頭はまたしみじみと雅美を眺めた。どう見ても高校生くらいにしか見えない。鬼頭にしてみれば、元華族の生まれというのは信じられるが、戦前からこの姿というのはどうしても信じられない。
(同一人物じゃないんじゃないかなあ。子供とか孫とか親戚とか)
しかし、その一方で、そんなことはもうどうでもいいような気もする。たとえ雅美が人間ではないと言われたとしても、鬼頭はああそうなのかと思うだけだろう。雅美の正体が何であれ、それが雅美なら仕方ないではないか。
それよりもっかの問題は、どうやってこの雅美から逃れるかということである。雅美を傷つけないで、自分から遠ざける方法――
「煙草」
急に雅美がそう言ったので、鬼頭は動揺した。
「え、煙草って、何が?」
「いや、あんた確か、煙草吸ってただろ? 今、急に思い出した」
「ほんとに急だな。煙草……煙草ね……そう言われてみれば、ここんとこ吸ってないな……」
鬼頭は自分の顎に手をやり、首をひねった。
「あれ? いつから吸ってないんだ? 全然記憶にないぞ?」
「少なくとも、四月の段階ではまだ吸ってた」
見かねた雅美が助け舟を出す。
「じゃあ、五月は?」
そう訊くと、さすがに雅美は眉をひそめた。
「あんた、自分のことなのに覚えてないのか?」
「いや、ほんとにいつから吸ってないのかわからないんだ。そういや、最近自分の部屋が煙草くさくないなと思ってたんだよ。何だ、そういうわけだったのか、やっとわかった」
真顔の鬼頭に雅美は深い溜め息をついた。常にないことである。
「五月は吸ってない。先月も吸ってない」
「じゃあ、四月か? ……うーん。どうもはっきりしないな。おまえに言われるまで、全然気づきもしなかった。人に勧められれば吸ってたし」
「禁煙してたわけじゃなかったのか」
雅美は意外そうに鬼頭を見下ろす。
「禁煙? いや、してないよ。しようという気もなかった。むしろ、吸ってたほうが何かと都合がよかったからな」
「でも、最近は吸ってなかったんだろ?」
「……みたいだな」
「俺は煙草はやらないから知らないが、そんなふうにやめられるものなのか、あれは」
「らしいな。現に俺が吸ってないんだから」
「あんた、もともと煙草が好きじゃなかったんじゃないか?」
投げやりに雅美が言った。鬼頭は思わず雅美を見上げる。
「好きじゃない?」
「だって、吸ってたほうが都合がいいんだろ? それなのに、どうしてわざわざやめる?」
「……そう言われてみればそうだな」
雅美のその指摘は、鬼頭にはまったく思いもかけないものだった。好きだとか嫌いだとかいう前に、鬼頭はもう煙草が手放せなくなっていて、そのまま惰性で吸いつづけていた。そして、特にやめるつもりもなかったのだ。やめていることに気づいた今でさえ。
「ま、いいか」
いくら考えても答えが出ないので、鬼頭はそれで打ち切った。そんな鬼頭を雅美が冷ややかに見やる。
「いいかげんな男だな」
「だって、しょうがないだろ。いくら考えたって、わからないものはわからないんだ。吸わないでいられるんなら、それはそれでいいだろ。その分、煙草代も浮くし」
「……ほんとに禁煙してないのか?」
「ああ? そうだけど?」
「……そう。そうだろうな」
雅美はそう呟くと、ぷいと横を向いてしまった。
最初、鬼頭はなぜ雅美がそんな態度をとるのかわからなかった。だが、そういえば一つだけ、心当たりがあった。
「霧河。おまえ確か、煙草は嫌いだとか言ってなかったか?」
さりげなく問うと、雅美は明らかにぎくりとした様子で鬼頭を振り返った。
「言ったよな?」
面白くなって、鬼頭はにやにやしながら念を押した。雅美はというと、思いきり顔をしかめて、鬼頭から目をそらしつづけている。
そう言ったのは事実だが、その後、鬼頭に何を言われるか想像がつくから、素直にそうだと認めるわけにはいかないのだろう。こういう面では雅美は実にわかりやすい。あんまりわかりやすいから、ずばり〝別におまえのために禁煙したわけじゃないよ〟と言ってやりたかったが。
「なら、おまえにとっては都合がいいじゃないか」
雅美は拍子抜けしたように鬼頭を見た。
「煙草、嫌いなんだろ?」
鬼頭は別に、どういう返事も期待していなかった。またそっぽを向かれてもよかったし、嫌味を言われてもよかった。しかし、こんな答えはまったく予想していなかった。
「別に、あんたが嫌いなわけじゃない」
思考停止。
そして、鬼頭が何とか再始動したときには、雅美はまた横を向いてしまっていた。
(今のはいったい何だったんだ?)
鬼頭は頭を抱えて苦悩した。
(『煙草は嫌いなんだろ』って言われて、どうして『あんたが嫌いなわけじゃない』なんて答えを返してくるんだ? 全然話がつながらないじゃないか。それともあれは、俺が煙草を吸っててもかまわないという意味だったのか? ああ、どっちにしろ、こんなことになるんなら、〝別におまえのために禁煙したわけじゃない〟って言っとくんだった。どうして俺はこう、こいつを傷つけないようにとか考えちまうんだ。いっそ徹底的に傷つけちまったほうが、こんな変なこと言われなくて済むのに。ああ、つくづく俺は馬鹿だ!)
いまだかつて、鬼頭はこんなことで悩んだことはなかった。あってたまるかと思う。嫌いな相手の傷つく顔が見たくなくて突き放せないなんて。嫌いな相手の傷つく顔ならいくらでも見たいというのが普通ではないか。
何だって自分はこれほど雅美を傷つけたくないのだろう。子供だから? でも、嫌いなものは嫌いなのだ。この一点だけは崩しようがない。
苦悩するのに忙しくて、鬼頭はしばらく雅美を見ていなかった。が、ふと今雅美は何をしているのだろうと気になって、手の下からそっと覗いてみた。
鬼頭が下を向いているのを見て安心したのか、横を向いていたはずの雅美は今、正面に向き直っていた。当然、鬼頭のほうからは雅美の横顔が見えることになる。
今までさんざん見てきたはずだった。だが、その横顔が目に入った瞬間、鬼頭は息を呑んだ。
(こんなに綺麗だったのか)
その肌の白さ。髪の黒さ。唇の赤さ。線の美しさ。
美しいものを讃えるとき、人はよく人形のようだと言う。しかし、生きている人形に優る美が、この世のどこに存在するだろう。これはもう人間ではないのかもしれない。
「何だ?」
鬼頭が自分を見ていたことに気がついて、雅美が動揺した気色を見せた。
雅美のほうも自分の発言を後悔していたらしい。なかなか鬼頭と目を合わせようとしない。だが、鬼頭はかまわず言った。
「綺麗だなと思ってたんだ」
雅美はきょとんとして、鬼頭を見下ろした。
「何を?」
「おまえを」
雅美の顔から表情が消えた。怒るかと思ったが、すぐにうつむいてしまう。
「冗談だろ?」
うつむいたまま、拗ねたように言う。
「いや、本気で」
「そんなこと、今まで一度も言わなかったくせに」
これには言葉に詰まったが、鬼頭は正直に答えた。
「気づかなかったんだ」
「気づかなかった?」
呆れたようにそう言って、雅美は顔を上げた。
「ああ、気づかなかった。どういうわけか、今の今まで。整った顔してるとは思ってたけど、こんなに綺麗だったとは思わなかった」
雅美は黙っていた。怒っているような悩んでいるような、何とも言えない表情をしていた。そして、そんな顔もまた、何とも言えず美しいのだった。
「褒めたって、何も出ないからな」
結局、雅美は自分の表情を、不機嫌なそれに整理した。
「見返りなしだ。褒めたいから褒めてるんだ。今度は昼間のおまえを見てみたいもんだな。その顔がメッキかどうか」
「昼間か」
珍しく、雅美は苦笑した。
「それは……無理かもしれないな。俺は――」
「お熱いことで」
メッキのはがれまくった令子が、にやつきながら雅美の背後に立っていた。
「よし、新たなネタができたわ。〝魔少年に恋人発覚!〟 さて、二人のなれそめは?」
鬼頭と雅美は困惑して、互いの顔を見合わせた。
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