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第4話 レイン
レイン
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〝儀式〟までの約束だった。
〝人〟として人界にいられるのは。
〝儀式〟が行われれば、彼女は〝精霊〟から〝神〟へと変わる。そうして自分たちの結界を守る要の一つとなる。だが、その代償として、彼女は自我を失う。〝人〟として人界で遊ぶことも、〝精霊〟として結界で戯れることもできなくなってしまう。
嫌ではないと言ったら嘘になる。しかし、自分が〝精霊〟であり、仲間たちの中でいちばん強大である以上、必然的に〝神〟にならなければならない。彼女が拒否すれば、結界の維持が危うくなる。
雨が降っていた。彼女たちの結界の中では、決して降ることのないもの。
その属性のせいもあって、彼女は雨は苦手だったが、もうじきこれも見られなくなるのかと思うと、愛しささえ湧いてくる。彼女はしばらく立ち止まり、赤い傘の下から雨を眺めていた。
――雨はお好きですか?
突然、そう声をかけられた。
びっくりして声がしたほうを見ると、若い男が傘も差さずにベンチに座っていた。端整な顔に柔和な笑みを浮かべている。
――いえ、あんまり。
男の幸せそうな笑顔につられて、彼女も少し笑った。この男でなかったら、無視して立ち去っていたかもしれない。
――そうですか。ずっと雨を見ているから、そうじゃないかと思ったんですが。
――好きでもないけど、嫌いでもないわよ。
なぜか、彼女はそう答えていた。
――僕もね、特に雨が好きっていうわけじゃないんですよ。
相変わらずにこにこ笑いながら、男は自分の濡れた髪を掻き上げた。
――ただ、水を見ると、どうしても頭から浴びたくなるんです。
――それって、好きっていうことじゃないの?
――そうでしょうかね。でも、今は大好きになりました。
――どうして?
――あなたに声をかける口実になりましたから。
男はそう答えると、照れ隠しのように、降りしきる雨を見上げた。
***
もう一杯、もう一杯と言う上司や同僚たちをごまかして鬼頭が店の外に出ると、いつのまにかまた雨が降り出していた。
傘を広げながら、ふと不安になって腕時計を覗く。すでに十二時を回っていた。
(まずいぞ)
鬼頭はあせった。
(まさか、こんな雨の日にほっつき歩ってはいないだろうが、用心するにこしたことはないからな。早く帰ろ)
この春先から、鬼頭は真夜中に外を出歩くのはできるだけ控えることにしていた。なぜなら、真夜中に戸外にいると、高確率である人物に会ってしまい、かつ厄介事に巻きこまれてしまうからである。別にその人物のせいでそんな目にあうわけでもないのだろうが、鬼頭にはどうしてもそれらが一組になっているようにしか思えなかった。
繁華街の店々にはまだ煌々と明かりが灯り、人も車も常のようにあった。そんな街の光を濡れた路面は本物よりも数段も色鮮やかに闇に返し、まるで黒い布に極彩色のペンキをぶちまけたかのようだった。
見ようと思って見たわけではなかった。
交差点の横断歩道が青になっても、その黒いコートの人物はたたずんだままだった。
「ねえ、あれ、人形かなあ?」
鬼頭のそばにいた、カップルの女が男に囁いた。
「まっさかあ。でも、動かねえなあ」
「男だよね? 女じゃないよね? すっごい美形! ねえ、写真撮っちゃおうか?」
「やめとけよ、バカ」
そう言いあいながら、そのカップルは鬼頭の横を通りすぎていった。
何も彼らだけではない。これほど顕著な反応はしないとしても、おおかたの人間は何か信じられないものでも見たかのように奇妙そうな顔をしたり目を見張ったりして通りすぎていく。それだけでも足りず、何度も振り返って見ていく者も少なくはない。鬼頭はその場を動けなかった。
(霧河雅美!)
あれこそまさしく、鬼頭が恐れていた人物に他ならなかった。
見かけはまだ高校生くらいの、小綺麗な少年にしかすぎない。しかし、それにだまされてはいけないと、鬼頭はこれまでの経験からつくづくと思い知らされていた。
彼と初めて出会ったのは今から三ヶ月ほど前のことで、そのときも真夜中だった。しかも、彼の第一声は皮肉なことに、『真夜中にはあまり出歩かないほうがいい』だったのだ。
生意気なガキだと鬼頭は思ったが、その後、女幽霊に強引に洋館に連れこまれ、あと少しでゾンビの仲間入りになるところを一応助けられたばかりか、それからも幽霊・怪現象で、不本意ながらも雅美の世話になったのだった。
とは言うものの、鬼頭はどうしても素直に雅美に感謝することができない。得体の知れない少年だということもあるが、その理由の大半は、雅美の尊大で横柄な態度だった。おまけに、ひどく意地が悪いのだ。
(どうやら、今夜はまだ俺に気づいてないようだが……)
鬼頭は注意深く雅美を観察した。
雅美は傘ひとつ差さずに、絶え間なく降り注ぐ梅雨の小雨に濡れたまま、街角に立ちつくしていた。美しくても表情の少ないその顔は、どことなく愁いに満ちていて、行き交う人か車かそれとも街かを、ただ黙然と眺めているのだった。
面倒に巻きこまれたくないならば、これ幸いとすぐにそこから立ち去るべきだった。だが、自分が知っている雅美とはうって変わったその姿に、鬼頭はそうすることができなかった。
(声……かけるくらいならいいよな?)
鬼頭は人波を横切って、そろりそろりと雅美に近づいた。
「こんなところで、何やってるんだ?」
雅美に傘を差し出して、言った。
が、雅美は鬼頭の声など耳にも入らぬように、依然として真正面を向きつづけている。
「風邪ひくぞ、おい。俺には関係ないけどさ」
「そうだな。関係ない」
「――人としゃべるときはちゃんとこっち向け」
「あんたが勝手に話しかけてきたんだ」
――だからこいつは嫌なんだ!
怒鳴りつける前に、声をかけようなどと思った自分を悔やみながら、鬼頭は雅美の白い横顔を睨みつけた。
血の気のないその頬には、墨のような黒髪が幾筋か流れていた。鬼頭は気を取り直すと、再び雅美に訊ねた。
「何見てるんだ?」
また無視されるかもしれないと思っていたが、今度は答えだけはすぐに返してきた。
「特に何というわけでもない。見えるものを見ている」
「何もこんな雨の日に見ることもないだろうに」
「こんな日だからこそ、見られるものもある」
「だったら傘くらい差せよ」
「傘を差すと、どうしても手を外に出さなきゃならなくなるから嫌なんだ」
そう言われてみれば、なるほど雅美は両手をコートのポケットに突っこんでいる。
「不精な奴だな」
言いながら、ふと後方を顧みた。
「俺の癖にまでとやかく言わないでくれ」
「癖かどうかはわからんが、おまえの仲間があそこにもいるぞ」
「え?」
雅美は珍しく、少々あわてた様子で鬼頭が指摘した方向に目をやった。
そこには、確かに雅美と同じようにずぶ濡れの、しかし真紅のワンピースをまとった長い髪の若い女がいた。実に心もとない足どりで、ショーウィンドーの前を歩いている。
「どうしたんだろうな。失恋でもしたのかな」
半ば同情してそう呟いた鬼頭に、雅美はいかにも呆れたと言わんばかりの顔をした。
「何だよ?」
「あんたは鋭いのか鈍いのか、さっぱりわからんな」
「どういう意味だよ、そりゃあ?」
「それだけの意味だが……あ、倒れた」
見ると、女はウィンドーガラスに手をついて、水のたまった路上にうずくまっていた。
「おい、大丈夫か?」
すばやく鬼頭は女に駆け寄った。〝原則、女には親切に〟というのがこの男の信条の一つだった。
「大丈夫よ、大丈夫……」
うつむいてそう言いはするが、女はいっこうに立ち上がろうとしない。
「霧河!」
「何だ?」
鬼頭は驚いて背後を見上げた。いつのまに来ていたのか、雅美は鬼頭のすぐ後ろに立っていた。
「ついてきてたのか。悪いが、これ持っててくれ」
鬼頭が差し出した傘を、雅美はしばらく無言で見下ろしていた。が、結局何も言わずに受け取り、鬼頭の上にかざす。
「こんな格好で傘も差さずに歩くなんて……しかも夜中だよ。熱でもあるんじゃないか?」
そう言いながら、鬼頭は空いた手を何気なく女の肩に置いたが、即座に飛び上がって離した。
「何なんだ、いったい……まるで火みたいだ」
「ごめんなさい」
本当にすまなそうに女は眉根を寄せた。
「調節がうまくいかないの。だから、私には触らないほうがいいわ」
目鼻立ちのはっきりとした女だった。目の覚めるような紅はこの女にはよく似合う。だが、表情は冴えがなく、せっかくの美貌がそれだけ損なわれているようだった。
「いや、それはいいけど……調節って?」
「……ごめんなさい。私、行くところがあるのよ……」
女はガラスに手を添えて、よろめきながら立ち上がり、二、三歩踏み出したが、また転びかけた。その体を鬼頭はとっさに支えたが、今度は普通の、しかしまだ高めの体温だった。
「行くって、どこに?」
「ずっと向こうよ……」
震える指で、女は雨に煙っている通りの先を示した。
「どこまで行くのかは知らないけど、こんなんで、いくらも歩けないだろう?」
すでに鬼頭は女にひどく同情しはじめていた。
「雨で、夜中だ。タクシーでも拾って行ったほうがいい」
「私、お金ないのよ。それに、タクシーなんかで行けるところじゃないわ」
「タクシーで行けない……?」
「距離じゃないの。――距離じゃないのよ」
悲嘆に暮れたように女は頭を振る。
そんな女の右腕を、鬼頭は自らの首に掛け、左肩を支え持った。
「つきあうよ」
女ははっと鬼頭の顔を見上げた。
「少なくとも、君一人で歩くよりは早いだろう。道教えて。このまままっすぐ?」
「あなた……」
女は呻くように一言そう言ったが、あとは言葉にならなかった。
「おめでたい男だな」
今まで黙っていた雅美が、いきなり口を出してきた。
「念のため言っておくが、これはあんたが自分で望んで首を突っこんだことだぞ。俺は関係ないからな。だいたい、これまでのことだってみんなそうなんだ。これを機に、俺を疫病神みたいに言うのはやめてもらいたいもんだな」
「え? 気にしてたのか?」
鬼頭には新鮮な驚きだった。
「俺はいつまでこの傘を持ってればいいんだ?」
「帰りたきゃ帰ってもいいぜ。傘持つのは嫌なんだろ?」
雅美は眉をひそめた。怒りより、悲しみの色の濃い表情だった。
だが、雅美がいったい何を悲しむというのだろう。そもそも、雅美に悲しみなどという感情があるのか。
「やっぱり、おまえもつきあえ、予備校生」
鬼頭の言葉に、雅美は反射的に顔を上げたが、すぐに斜めに傾けた。
「未成年をこんな夜中に引っ張り回していいと思っているのか、会社員」
「おまえのどこが未成年なんだよ? ええ? どこが?」
「その未成年に説教される筋合いはないと言って、あやうくゾンビに殺されかけたのはどこのどいつだ?」
口でもかなわない相手だった。でも、このほうがずっと雅美らしい。
自分でもよくわからない満足の仕方をして、鬼頭は女に肩を貸しながら歩きはじめた。通りすがる人々が物珍しそうな視線を鬼頭たちに注いでいたが、鬼頭はまったく気にも留めなかった。
「女」
唐突に、そのものずばりの名称で、雅美が女を呼んだ。
「どこへ行きたいのか、もっと具体的に言ってみろ。この道の表なのか、裏なのか」
「表? 裏?」
オセロじゃあるまいし、と鬼頭は思った。
しかし、女は激しい驚愕を見せて、雅美に飛びかかりそうな勢いで叫んだ。
「あなた、わかるの?」
「裏なのか」
雅美は呟くと、続けて二人に、一秒だけ目を閉じていろと言った。
「何で?」
「開いていてもいいが、失明するかもしれんぞ」
鬼頭は素直に目を閉じた。
すぐに開けると、眼前には、つい先ほどまでの光景とはまったく異質なそれがあった。
「な……何だこりゃ?」
「ここよ!」
女は歓喜の声を上げた。
「ここよ、ここなの! 私が行きたかったのはここなの! あなた、なぜわかったの? それより、どうして来れたの?」
ささめくような雨音の中に、蛙の鳴く声が交じっていた。
そのかわり、ほんの数秒前にはあった、車の雨水を跳ねる音や人々のざわめきやその他もろもろの雑音は消え去っている。
今、彼らの両脇には青々とした田地が広がっており、正面には鬱蒼とした山と、その中央にまっすぐに設けられた石造りの階段とがあった。
「たいしたことじゃない」
女の上気した顔をよそに、雅美はあっけなくそう言った。
「あのまま歩いていても埓が明かないから、てっとり早くこじあけただけだ。おまえはあの付近にあった裂け目から入ろうとしたのだろうが……無謀だな。その体で入れるはずもない」
「ちょっと待ってくれ、霧河。そう専門用語を使わないでくれ」
顔をしかめて、自分の額に指を置く。
「俺はそういう話にはついていけない人間なんだ。俺にも納得できるように、一言で説明しろ」
「一言で?」
雅美は当惑げな顔つきになった。
「じゃあ、百歩譲って二言だ」
「国語の問題じゃあるまいし……ようするに、ここがこの女の来たかったところで、こうして無事に来れたんだ。つまらんことを気にするな」
「よし、なかなかクリアーだ」
感心してうなずいた鬼頭を、女はあっけにとられたように見、雅美は横目でうさんくさそうに見た。
「もう、ここでいいわ」
申し訳なさそうに女が言った。
「この上にいるの。親切にここまで連れてきてくれてありがとう。何かお礼がしたいけど、私には何もないから……」
「お礼だなんてとんでもない!」
鬼頭はあわてて右手を左右に振った。
「どっちかって言うと、こっちが無理やりついてったようなもんなんだから……なあ、霧河?」
「一緒にするな」
にべもない。
「それより、こんなところに長居は無用だ。帰るぞ、鬼頭さん。もう気は済んだだろう?」
「あ、ああ……」
それでも、こんな状態の女を一人残していく気になれなくて、鬼頭はためらっていた。
それに気づいて、女のほうが自主的に離れた。が、ゆらりと体が傾いたかと思うと、その場に座りこんでしまった。
「大丈夫?」
鬼頭はとっさに女に手を差し伸べたが、雅美は見たままを口にした。
「歩けないのか」
「……ええ。でも、這ってでもあそこに行くわ」
女は毅然と山を見上げた。赤い服はもう泥だらけだ。
「よかったら……上までつきあうよ?」
しかし、鬼頭の申し出に、今度は女は首を横に振った。
「悪いわ。ここまで来れただけでもありがたいのに……もうこれ以上、あなた方をわずらわせるわけにはいかないわ」
「そのとおりだ」
鬼頭が口を開く前に、すかさず雅美が口を挟む。
「本人がそう言っているのだから、無理についていくこともあるまい。親切も度を過ぎると、ただのおせっかいだぞ」
「悪かったな」
そう言い返しつつも、実は鬼頭自身も、なぜ自分はこの見知らぬ女にこうも親身になるのだろうと訝しく思っていた。雅美といると、鬼頭は多分にこの傾向が出る。
「こうなりゃ、乗りかかった船だ。この階段を上りきるまではつきあう。その先は帰るよ」
「鬼頭さん」
「わかってる。今回は何が起こっても、おまえに文句は言わない」
「……本当にいいの?」
女は信じられないように目を見張った。
「もちろん。これくらい、何でもないことだから」
「優しいのね」
鬼頭は苦笑するしかなかった。女性のほとんどは鬼頭をこう評する。
「立てる?」
「ええ」
鬼頭は再び女を抱えるように支えた。
かなり急な勾配である。おまけに先のほうは暗くて見えず、長さは見当もつかない。
それでも、上らないことには始まらないので、鬼頭はゆっくりと階段を上りはじめた。その横を、雅美が相変わらず傘を差しながら歩く。
「まだ……あなたたちの名前も訊いてなかったわね」
思い出したように女は呟き、鬼頭にふわりと微笑みかけた。
「私は燿子。あなたは?」
「鬼頭和臣。変な名前だろ。妙に堅くって」
「そんなことないわ。あなたは?」
女――燿子は、今度は雅美を見た。
「訊いてどうするんだ」
「どうするって……」
「霧河、何ひねくれたこと言ってるんだよ。――こいつは霧河雅美だよ」
「お友達?」
「お友達……」
思ってもみなかった単語を聞いて、鬼頭は絶句した。
「最初は私、兄弟かと思ったのよ」
そんな鬼頭のことなど気づかぬように、淡々と燿子は続ける。
「でも、あなたたちのやりとり聞いてると、兄弟ではなさそうだから……」
「兄弟? こいつと?」
鬼頭はようやく我に返って、雅美を親指で指した。
「冗談じゃない。赤の他人も他人だよ。全然似てないだろ」
「そんなにむきにならなくても……」
鬼頭の剣幕に、燿子は驚いたようである。
「でも、仲はいいのね」
鬼頭は何か恐ろしいものでも見るような目を燿子に向けた。
「それ、本気?」
「え、ええ?」
「どこをどう見たらそう見えるんだか」
独り言のように鬼頭は呟いた。その間、雅美は何も言わなかったが、ずっと下を向いていた。
(ちょっと、言いすぎたかな)
何とはなしに、そう思った。
他人であることには間違いないし、仲が悪いのも事実だが、本当に嫌いな相手にわざわざつきあうほど、雅美も物好きではあるまい。
「ええと……」
とりあえず、何か言おうとしたときだ。
かすかにだが、背後で岩の崩れるような音がした。
しかも、その音はだんだんと大きくなって、鬼頭たちに迫ってくるようなのである。
「言いたくはないがこの階段、下から崩れてるんじゃないか?」
前を向いたまま、鬼頭は雅美に言った。
「何を根拠にそう思うんだ?」
「主にパターンと俺の勘だな」
「さっさと後ろを向いて確かめたほうが早いと思うが……走れ!」
言われるまでもなかった。すでに足元の階段は崩れかけていたのである。鬼頭は燿子を抱き上げ、石段を五、六段飛ばして走った。
燿子の体は、気味が悪くなるくらい軽かった。
「霧河!」
全力疾走しながら、鬼頭は叫んだ。
「俺はこの年になって、階段ダッシュをする羽目になるとは思いもしなかった!」
「俺に文句は言わないはずじゃなかったのか」
そっけなくそう答える雅美は、鬼頭のぴったり横を走るというより跳ねている。石段を崩していく見えぬ破壊の波は、今にも鬼頭たちを呑みこもうとしている。
ふいに雅美は傘を畳んだ。無論走りながらである。そして前方の闇を見すえると、そこへ槍投げの要領で思いきり傘を投げつけた。傘は風を切り、あっという間に見えなくなった。
一呼吸おいて、男のものとも女のものともつかない悲鳴が、細く長く響いた。同時に、闇の中に鳥居が白く浮かび上がり、鬼頭は無我夢中でその下を駆け抜けた。
「し……心臓が口から出そうだ……」
燿子を丁寧に下ろしてから、鬼頭は中腰になって息をはずませた。
「何、それだけ走れればたいしたものだ」
そんな鬼頭に雅美は気のない賛辞を与えた。その両手はもういつものように、コートのポケットの中に収められている。
「おまえは顔色ひとつ変わってないな……」
まだぜいぜい言いながら、鬼頭は雅美を見やった。雅美は冷ややかに鬼頭を見下ろす。
「あんたと一緒にしないでくれ」
しばらく経って、ようやく楽になってきた。鬼頭は何気なく鳥居の後ろを振り返り、思わず息を呑んだ。
何もなかった。ただ、底知れない闇がわだかまっているだけだった。
「これじゃ帰れないな……」
そう呟きながら前に向き直った鬼頭は、また新たに息を呑まねばならなかった。
つい先ほどまで、そこは深い闇に閉ざされていたはずだった。
だが、今は紫がかった鉛色の空と、その下に一面に広がる藍色の湖とがあった。
『何用だ』
どこからともなく、女の低い声が湧き起こった。その声を聞いたとたん、燿子は口を覆って身を震わせた。
『ここは我らが神域。何人たりとも立ち入ることは許さぬ』
「好きで入ったわけじゃない」
悠然と雅美が受けて答える。
「この女がここに来たいと言うから、つきあってやったまでだ。もう帰る。だが、その前にさっきの傘を返してくれないか。この人のなんだ」
そのとき、波紋ひとつなかった湖の水面が、まるで誰かに揺さぶられでもしたかのように波立った。
『貴様か……! 我らが神域を破ったのは……!』
「神域だと? あれしきのものが? 笑わせるな!」
雅美は冷笑した。見る者を例外なくぞくりとさせるような、凄絶な笑みだった。
そういえば、今夜の雅美がどこか生彩を欠いていたように思えたのは、まだ彼のこの表情を見ていなかったせいだと鬼頭は思い当たった。
「おまえたちの神域がどうであろうと、俺の知ったことではない。傘さえ返してもらえれば、すぐにでも帰る」
「おい……たかが傘の一本に、そんなにこだわんなくても……どうせ安物なんだから……」
見かねて言うと、雅美は鬼頭に鋭い一瞥を投げた。
「そんなことは関係ない。あれはあんたから預かったものだ。ちゃんと責任を持ってあんたに返す」
「……変なところで律義だな」
『そこまで言うなら、返してやろうぞ』
あの女の声が、二人の間に割って入った。
『だが、おまえたちを生きては帰さぬ!』
その声を合図に、湖面から水柱が何本も噴き上がった。それぞれがまるで蛇のように鎌首をもたげ、いっせいに鬼頭たちに襲いかかる。水は途中でさらに細かく枝分かれし、鋭利な刃物然として彼らの体をかすめた。
「確かに受け取ったぞ」
しかし、雅美はそれらとともに飛んできた傘を、左手だけでつかみとり、平然とその場に立ちつづけていた。鬼頭はとっさに両腕で顔をかばったのだが、おそるおそるその腕を下ろすと、何とか無事のようだった。
あわてて燿子を見れば、彼女は地表に横座りして、左手を宙にかざしていた。顔色は今まで以上に悪くなっている。大丈夫かと声をかけようとして、突然右頬に走った痛みに、鬼頭は思わず「いてっ」と言ってしまった。指先で頬を拭うと、赤い液体がついていた。
「怪我をしたのか?」
雅美が口早に訊ねてくる。
「そうらしい。どれくらい切れてる?」
そう訊き返しながら、もう一度顔を撫でてみると、今度は手のひらいっぱいに血がついてきたので、鬼頭は自分でぞっとしてしまった。
「痛いか?」
「いや、そんなに痛くはないんだ。そのうち血も止まるだろ」
鬼頭はポケットからハンカチを引っ張り出して、傷口に当てた。雅美はその傷に手を伸ばしかけたが、すぐに引っこめ、湖のほうに向き直った。
「このまま帰ろうかと思っていたが、気が変わった」
穏やかとさえ言える口調で、雅美は姿なき相手に言った。
「滅びろ」
乾いた大地に亀裂が入った。そこから水が噴き出したが、同じ女の悲鳴がいくつもいくつも上がると、空中でまるで何者かに飲み干されでもしたかのように、すべて掻き消えてしまった。
雅美は一歩、湖に踏み出した。
『やめろ、来るな!』
そう言ったのは、やはりあの女の声だった。
「どうした? 俺たちを生きては帰さないと言ったのは、おまえたちのほうだぞ?」
雅美はむしろ、柔和な微笑すら浮かべていた。そのまま右手をゆっくりと持ち上げ、真一文字に払いかける。
「やめて!」
雅美は手を止め、わずかに振り返った。
「やめて。お願い。……殺さないで」
おそらくは、渾身の力を振り絞って、燿子は立ち上がった。
鬼頭は手を貸そうとしたが、燿子はその手を優しく振り払った。
「涼……」
今にも倒れそうになりながら、湖に向かって歩き出す。
「まだ意識があるのなら……お願い、もう一度だけ会って。一目だけでもいいの。生きて帰ろうなんて、最初っから思ってやしないわ。あなたに会えなくなるくらいなら、死んだほうがまだましよ!」
『来るな!』
せっぱつまった女の声が上がる。が、燿子は歩みを止めなかった。
「涼……あなたはもういないの?」
「燿子!」
若い男の声だった。
いけない、いけないと言う女の声が無数にこだましたが、湖が渦を巻きはじめるとともに、まぎれて消えた。
やがて、渦の中央に人影が現れ、水上を歩いて、燿子のほうへとやってきた。
「もう半分、同化しはじめてるんだ」
端整な面立ちのその青年は、悲しげにそう呟いた。その下半身は湖の水でできていた。
「私だって同じよ……この姿を保っているのもやっと」
燿子は青年に自分の両手を見せた。炎だった。
「どうして来たんだ……このままでは、君は本当に……死ぬ」
「死んだっていいわ」
燿子は青年を、青年だけを見つめた。
死にかけているとはとても思えないほど、その表情は静かだった。
「大好きよ、涼」
微笑みながら、燿子は言った。
「愛してるわ。何度言っても言い足りないくらい、あなたを愛してるわ。涼……愛してるわ」
燿子の頬に涙が流れる。そんな燿子を、青年はせつなげに見ていた。
「僕だって、君を誰よりも愛してるよ」
青年は少し燿子に近づいた。それだけで二人の間に蒸気が立ちのぼる。
「だけど、僕らは火と水だ。しかも、あとわずかでこの体も人格もなくなってしまう。燿子……もしも僕らが人間だったなら……」
ふいに青年は鬼頭たちのほうを見た。その目には限りない羨望の情があった。
だが、すぐにあきらめたように首を振ると、再び燿子に視線を戻した。
「燿子……」
ゆっくりと、青年は燿子に手を伸ばした。蒸気はいよいよ激しくなった。
「涼……」
燿子も青年に炎の手を伸ばした。
その指先が触れ合うより先に、二人は固く抱き合った。
白光があふれた。
鬼頭は一瞬何も見えなくなった。
「もう、いいぞ」
そんな雅美の声を合図に、鬼頭はようやく目を開いた。
雨音が響いていた。
いつのまに広げたのか、雅美は傘を差して、鬼頭の横に立っていた。
「あの二人は……」
「死んだよ」
鬼頭は呆然として辺りを見回した。
そこは雅美に言われて目を閉じた、元の場所だったのだ。
「幻……だったのか?」
呟いて、急に右頬の痺れるような痛みに気がついた。
「幻じゃない」
諭すように雅美は言った。その手には血に染まった鬼頭のハンカチがあり、雅美はそれを黙って鬼頭に返した。
鬼頭はそれを受け取ると同時に、雅美の手から傘を取り上げた。
「もういいよ。ありがとう。それに、俺が持ってたほうが効率がいい」
驚いたように自分を見上げる雅美に、鬼頭はそう説明した。
鬼頭の頬の傷は、それほど大きくはなかったが深かった。雅美は眉をひそめて、その傷を凝視している。
どうも勝手が違った。
てっきりまた嫌味の一つでも言われるかと思っていたのに、雅美は本気で自分のことを案じているようである。
そもそも、今夜の雅美は最初からどこか変だった。横断歩道の前に立っていたときには何だか元気がなかったし、鬼頭に突き放されると、自分はさんざんそうしているくせに、露骨に傷ついた顔をした。
そういえば、あのとき『滅びろ』と言った雅美は、かつて鬼頭が見たことがないほど怒っていた。その理由も、たぶん鬼頭が傷つけられたからだ。
困ったなと鬼頭は思った。信じられないことだが、この小綺麗で横柄で正体不明な子供は、自分を好いているらしい。しかも、ものすごく。
なぜだろう。わからない。雅美に親切にしたことなんて一度もないはずなのに。嫌われこそすれ、どうして好かれなければならないのだろう。
しかし、ここで雅美にそんなことを言ったら、きっとまたあの傷ついた顔をする。まるでおまえなんかいらないと親に言われた子供のように。
それは、まずい。雅美のことはどうしても好きになれないが、彼のそんな顔は見たくない。性格はどうであれ、これは子供なのだ。甘え方を知らずに育った、不器用すぎる子供。
「大丈夫だよ」
痛みをこらえながら、鬼頭は笑顔を作った。もっとも、雅美には引きつった笑みにしか見えなかったかもしれないが。
「それより……結局、あの二人は何だったんだ?」
そう訊くと、雅美はようやく安心したように鬼頭から目を離した。鬼頭もほっとした。ずっとあんな目で見つめられたら、こっちの息が詰まりそうになる。
「火と水の精霊だ」
短く雅美はそう答えた。
「精霊? あの人が?」
「人間だとは、あんたも思ってなかっただろう」
冷ややかにそう言われて、鬼頭は何も言い返せなかった。
確かに、はじめから燿子には不自然なものを感じていた。でも、あんまり彼女がひたむきだったから、口に出すことはできなかった。
「あの人は、あの恋人に会いたかったんだな」
しみじみと鬼頭は言った。
「しょせん火と水だ。共にいられるはずもない」
だが、雅美は冷酷に一蹴する。
「そりゃそうだな」
鬼頭は苦笑いした。これだから子供はしょうがない。
「確かに、あのロミオとジュリエットより分が悪い。おまえの言うことももっともだ。でもな、霧河。世の中には理屈じゃ割り切れないこともあるんだよ」
そう言ってから鬼頭は驚いた。あの雅美が、明らかにしゅんとした様子でうつむいている。自分の説教じみた言葉など、鼻で笑うかと思っていたのに。
今夜の雅美はやっぱり変だ。雨に打たれていたから、熱でも出ているのかもしれない。
「あれで、よかったのか?」
ほら。自分を窺うようにして、こんなことを訊ねてくる。
「さあな」
いつも雅美が言う言葉を、鬼頭は優越半分困惑半分で口にした。
「でも、あの二人はきっと後悔してないだろうな」
それからしばらく何も言えなくて、鬼頭は傷の痛みに耐えながら、自分の目の前の綺麗な子供を見ていた。
真夜中の雨は飽くことなく、二人の上に降り注いでいた。
―END―
〝人〟として人界にいられるのは。
〝儀式〟が行われれば、彼女は〝精霊〟から〝神〟へと変わる。そうして自分たちの結界を守る要の一つとなる。だが、その代償として、彼女は自我を失う。〝人〟として人界で遊ぶことも、〝精霊〟として結界で戯れることもできなくなってしまう。
嫌ではないと言ったら嘘になる。しかし、自分が〝精霊〟であり、仲間たちの中でいちばん強大である以上、必然的に〝神〟にならなければならない。彼女が拒否すれば、結界の維持が危うくなる。
雨が降っていた。彼女たちの結界の中では、決して降ることのないもの。
その属性のせいもあって、彼女は雨は苦手だったが、もうじきこれも見られなくなるのかと思うと、愛しささえ湧いてくる。彼女はしばらく立ち止まり、赤い傘の下から雨を眺めていた。
――雨はお好きですか?
突然、そう声をかけられた。
びっくりして声がしたほうを見ると、若い男が傘も差さずにベンチに座っていた。端整な顔に柔和な笑みを浮かべている。
――いえ、あんまり。
男の幸せそうな笑顔につられて、彼女も少し笑った。この男でなかったら、無視して立ち去っていたかもしれない。
――そうですか。ずっと雨を見ているから、そうじゃないかと思ったんですが。
――好きでもないけど、嫌いでもないわよ。
なぜか、彼女はそう答えていた。
――僕もね、特に雨が好きっていうわけじゃないんですよ。
相変わらずにこにこ笑いながら、男は自分の濡れた髪を掻き上げた。
――ただ、水を見ると、どうしても頭から浴びたくなるんです。
――それって、好きっていうことじゃないの?
――そうでしょうかね。でも、今は大好きになりました。
――どうして?
――あなたに声をかける口実になりましたから。
男はそう答えると、照れ隠しのように、降りしきる雨を見上げた。
***
もう一杯、もう一杯と言う上司や同僚たちをごまかして鬼頭が店の外に出ると、いつのまにかまた雨が降り出していた。
傘を広げながら、ふと不安になって腕時計を覗く。すでに十二時を回っていた。
(まずいぞ)
鬼頭はあせった。
(まさか、こんな雨の日にほっつき歩ってはいないだろうが、用心するにこしたことはないからな。早く帰ろ)
この春先から、鬼頭は真夜中に外を出歩くのはできるだけ控えることにしていた。なぜなら、真夜中に戸外にいると、高確率である人物に会ってしまい、かつ厄介事に巻きこまれてしまうからである。別にその人物のせいでそんな目にあうわけでもないのだろうが、鬼頭にはどうしてもそれらが一組になっているようにしか思えなかった。
繁華街の店々にはまだ煌々と明かりが灯り、人も車も常のようにあった。そんな街の光を濡れた路面は本物よりも数段も色鮮やかに闇に返し、まるで黒い布に極彩色のペンキをぶちまけたかのようだった。
見ようと思って見たわけではなかった。
交差点の横断歩道が青になっても、その黒いコートの人物はたたずんだままだった。
「ねえ、あれ、人形かなあ?」
鬼頭のそばにいた、カップルの女が男に囁いた。
「まっさかあ。でも、動かねえなあ」
「男だよね? 女じゃないよね? すっごい美形! ねえ、写真撮っちゃおうか?」
「やめとけよ、バカ」
そう言いあいながら、そのカップルは鬼頭の横を通りすぎていった。
何も彼らだけではない。これほど顕著な反応はしないとしても、おおかたの人間は何か信じられないものでも見たかのように奇妙そうな顔をしたり目を見張ったりして通りすぎていく。それだけでも足りず、何度も振り返って見ていく者も少なくはない。鬼頭はその場を動けなかった。
(霧河雅美!)
あれこそまさしく、鬼頭が恐れていた人物に他ならなかった。
見かけはまだ高校生くらいの、小綺麗な少年にしかすぎない。しかし、それにだまされてはいけないと、鬼頭はこれまでの経験からつくづくと思い知らされていた。
彼と初めて出会ったのは今から三ヶ月ほど前のことで、そのときも真夜中だった。しかも、彼の第一声は皮肉なことに、『真夜中にはあまり出歩かないほうがいい』だったのだ。
生意気なガキだと鬼頭は思ったが、その後、女幽霊に強引に洋館に連れこまれ、あと少しでゾンビの仲間入りになるところを一応助けられたばかりか、それからも幽霊・怪現象で、不本意ながらも雅美の世話になったのだった。
とは言うものの、鬼頭はどうしても素直に雅美に感謝することができない。得体の知れない少年だということもあるが、その理由の大半は、雅美の尊大で横柄な態度だった。おまけに、ひどく意地が悪いのだ。
(どうやら、今夜はまだ俺に気づいてないようだが……)
鬼頭は注意深く雅美を観察した。
雅美は傘ひとつ差さずに、絶え間なく降り注ぐ梅雨の小雨に濡れたまま、街角に立ちつくしていた。美しくても表情の少ないその顔は、どことなく愁いに満ちていて、行き交う人か車かそれとも街かを、ただ黙然と眺めているのだった。
面倒に巻きこまれたくないならば、これ幸いとすぐにそこから立ち去るべきだった。だが、自分が知っている雅美とはうって変わったその姿に、鬼頭はそうすることができなかった。
(声……かけるくらいならいいよな?)
鬼頭は人波を横切って、そろりそろりと雅美に近づいた。
「こんなところで、何やってるんだ?」
雅美に傘を差し出して、言った。
が、雅美は鬼頭の声など耳にも入らぬように、依然として真正面を向きつづけている。
「風邪ひくぞ、おい。俺には関係ないけどさ」
「そうだな。関係ない」
「――人としゃべるときはちゃんとこっち向け」
「あんたが勝手に話しかけてきたんだ」
――だからこいつは嫌なんだ!
怒鳴りつける前に、声をかけようなどと思った自分を悔やみながら、鬼頭は雅美の白い横顔を睨みつけた。
血の気のないその頬には、墨のような黒髪が幾筋か流れていた。鬼頭は気を取り直すと、再び雅美に訊ねた。
「何見てるんだ?」
また無視されるかもしれないと思っていたが、今度は答えだけはすぐに返してきた。
「特に何というわけでもない。見えるものを見ている」
「何もこんな雨の日に見ることもないだろうに」
「こんな日だからこそ、見られるものもある」
「だったら傘くらい差せよ」
「傘を差すと、どうしても手を外に出さなきゃならなくなるから嫌なんだ」
そう言われてみれば、なるほど雅美は両手をコートのポケットに突っこんでいる。
「不精な奴だな」
言いながら、ふと後方を顧みた。
「俺の癖にまでとやかく言わないでくれ」
「癖かどうかはわからんが、おまえの仲間があそこにもいるぞ」
「え?」
雅美は珍しく、少々あわてた様子で鬼頭が指摘した方向に目をやった。
そこには、確かに雅美と同じようにずぶ濡れの、しかし真紅のワンピースをまとった長い髪の若い女がいた。実に心もとない足どりで、ショーウィンドーの前を歩いている。
「どうしたんだろうな。失恋でもしたのかな」
半ば同情してそう呟いた鬼頭に、雅美はいかにも呆れたと言わんばかりの顔をした。
「何だよ?」
「あんたは鋭いのか鈍いのか、さっぱりわからんな」
「どういう意味だよ、そりゃあ?」
「それだけの意味だが……あ、倒れた」
見ると、女はウィンドーガラスに手をついて、水のたまった路上にうずくまっていた。
「おい、大丈夫か?」
すばやく鬼頭は女に駆け寄った。〝原則、女には親切に〟というのがこの男の信条の一つだった。
「大丈夫よ、大丈夫……」
うつむいてそう言いはするが、女はいっこうに立ち上がろうとしない。
「霧河!」
「何だ?」
鬼頭は驚いて背後を見上げた。いつのまに来ていたのか、雅美は鬼頭のすぐ後ろに立っていた。
「ついてきてたのか。悪いが、これ持っててくれ」
鬼頭が差し出した傘を、雅美はしばらく無言で見下ろしていた。が、結局何も言わずに受け取り、鬼頭の上にかざす。
「こんな格好で傘も差さずに歩くなんて……しかも夜中だよ。熱でもあるんじゃないか?」
そう言いながら、鬼頭は空いた手を何気なく女の肩に置いたが、即座に飛び上がって離した。
「何なんだ、いったい……まるで火みたいだ」
「ごめんなさい」
本当にすまなそうに女は眉根を寄せた。
「調節がうまくいかないの。だから、私には触らないほうがいいわ」
目鼻立ちのはっきりとした女だった。目の覚めるような紅はこの女にはよく似合う。だが、表情は冴えがなく、せっかくの美貌がそれだけ損なわれているようだった。
「いや、それはいいけど……調節って?」
「……ごめんなさい。私、行くところがあるのよ……」
女はガラスに手を添えて、よろめきながら立ち上がり、二、三歩踏み出したが、また転びかけた。その体を鬼頭はとっさに支えたが、今度は普通の、しかしまだ高めの体温だった。
「行くって、どこに?」
「ずっと向こうよ……」
震える指で、女は雨に煙っている通りの先を示した。
「どこまで行くのかは知らないけど、こんなんで、いくらも歩けないだろう?」
すでに鬼頭は女にひどく同情しはじめていた。
「雨で、夜中だ。タクシーでも拾って行ったほうがいい」
「私、お金ないのよ。それに、タクシーなんかで行けるところじゃないわ」
「タクシーで行けない……?」
「距離じゃないの。――距離じゃないのよ」
悲嘆に暮れたように女は頭を振る。
そんな女の右腕を、鬼頭は自らの首に掛け、左肩を支え持った。
「つきあうよ」
女ははっと鬼頭の顔を見上げた。
「少なくとも、君一人で歩くよりは早いだろう。道教えて。このまままっすぐ?」
「あなた……」
女は呻くように一言そう言ったが、あとは言葉にならなかった。
「おめでたい男だな」
今まで黙っていた雅美が、いきなり口を出してきた。
「念のため言っておくが、これはあんたが自分で望んで首を突っこんだことだぞ。俺は関係ないからな。だいたい、これまでのことだってみんなそうなんだ。これを機に、俺を疫病神みたいに言うのはやめてもらいたいもんだな」
「え? 気にしてたのか?」
鬼頭には新鮮な驚きだった。
「俺はいつまでこの傘を持ってればいいんだ?」
「帰りたきゃ帰ってもいいぜ。傘持つのは嫌なんだろ?」
雅美は眉をひそめた。怒りより、悲しみの色の濃い表情だった。
だが、雅美がいったい何を悲しむというのだろう。そもそも、雅美に悲しみなどという感情があるのか。
「やっぱり、おまえもつきあえ、予備校生」
鬼頭の言葉に、雅美は反射的に顔を上げたが、すぐに斜めに傾けた。
「未成年をこんな夜中に引っ張り回していいと思っているのか、会社員」
「おまえのどこが未成年なんだよ? ええ? どこが?」
「その未成年に説教される筋合いはないと言って、あやうくゾンビに殺されかけたのはどこのどいつだ?」
口でもかなわない相手だった。でも、このほうがずっと雅美らしい。
自分でもよくわからない満足の仕方をして、鬼頭は女に肩を貸しながら歩きはじめた。通りすがる人々が物珍しそうな視線を鬼頭たちに注いでいたが、鬼頭はまったく気にも留めなかった。
「女」
唐突に、そのものずばりの名称で、雅美が女を呼んだ。
「どこへ行きたいのか、もっと具体的に言ってみろ。この道の表なのか、裏なのか」
「表? 裏?」
オセロじゃあるまいし、と鬼頭は思った。
しかし、女は激しい驚愕を見せて、雅美に飛びかかりそうな勢いで叫んだ。
「あなた、わかるの?」
「裏なのか」
雅美は呟くと、続けて二人に、一秒だけ目を閉じていろと言った。
「何で?」
「開いていてもいいが、失明するかもしれんぞ」
鬼頭は素直に目を閉じた。
すぐに開けると、眼前には、つい先ほどまでの光景とはまったく異質なそれがあった。
「な……何だこりゃ?」
「ここよ!」
女は歓喜の声を上げた。
「ここよ、ここなの! 私が行きたかったのはここなの! あなた、なぜわかったの? それより、どうして来れたの?」
ささめくような雨音の中に、蛙の鳴く声が交じっていた。
そのかわり、ほんの数秒前にはあった、車の雨水を跳ねる音や人々のざわめきやその他もろもろの雑音は消え去っている。
今、彼らの両脇には青々とした田地が広がっており、正面には鬱蒼とした山と、その中央にまっすぐに設けられた石造りの階段とがあった。
「たいしたことじゃない」
女の上気した顔をよそに、雅美はあっけなくそう言った。
「あのまま歩いていても埓が明かないから、てっとり早くこじあけただけだ。おまえはあの付近にあった裂け目から入ろうとしたのだろうが……無謀だな。その体で入れるはずもない」
「ちょっと待ってくれ、霧河。そう専門用語を使わないでくれ」
顔をしかめて、自分の額に指を置く。
「俺はそういう話にはついていけない人間なんだ。俺にも納得できるように、一言で説明しろ」
「一言で?」
雅美は当惑げな顔つきになった。
「じゃあ、百歩譲って二言だ」
「国語の問題じゃあるまいし……ようするに、ここがこの女の来たかったところで、こうして無事に来れたんだ。つまらんことを気にするな」
「よし、なかなかクリアーだ」
感心してうなずいた鬼頭を、女はあっけにとられたように見、雅美は横目でうさんくさそうに見た。
「もう、ここでいいわ」
申し訳なさそうに女が言った。
「この上にいるの。親切にここまで連れてきてくれてありがとう。何かお礼がしたいけど、私には何もないから……」
「お礼だなんてとんでもない!」
鬼頭はあわてて右手を左右に振った。
「どっちかって言うと、こっちが無理やりついてったようなもんなんだから……なあ、霧河?」
「一緒にするな」
にべもない。
「それより、こんなところに長居は無用だ。帰るぞ、鬼頭さん。もう気は済んだだろう?」
「あ、ああ……」
それでも、こんな状態の女を一人残していく気になれなくて、鬼頭はためらっていた。
それに気づいて、女のほうが自主的に離れた。が、ゆらりと体が傾いたかと思うと、その場に座りこんでしまった。
「大丈夫?」
鬼頭はとっさに女に手を差し伸べたが、雅美は見たままを口にした。
「歩けないのか」
「……ええ。でも、這ってでもあそこに行くわ」
女は毅然と山を見上げた。赤い服はもう泥だらけだ。
「よかったら……上までつきあうよ?」
しかし、鬼頭の申し出に、今度は女は首を横に振った。
「悪いわ。ここまで来れただけでもありがたいのに……もうこれ以上、あなた方をわずらわせるわけにはいかないわ」
「そのとおりだ」
鬼頭が口を開く前に、すかさず雅美が口を挟む。
「本人がそう言っているのだから、無理についていくこともあるまい。親切も度を過ぎると、ただのおせっかいだぞ」
「悪かったな」
そう言い返しつつも、実は鬼頭自身も、なぜ自分はこの見知らぬ女にこうも親身になるのだろうと訝しく思っていた。雅美といると、鬼頭は多分にこの傾向が出る。
「こうなりゃ、乗りかかった船だ。この階段を上りきるまではつきあう。その先は帰るよ」
「鬼頭さん」
「わかってる。今回は何が起こっても、おまえに文句は言わない」
「……本当にいいの?」
女は信じられないように目を見張った。
「もちろん。これくらい、何でもないことだから」
「優しいのね」
鬼頭は苦笑するしかなかった。女性のほとんどは鬼頭をこう評する。
「立てる?」
「ええ」
鬼頭は再び女を抱えるように支えた。
かなり急な勾配である。おまけに先のほうは暗くて見えず、長さは見当もつかない。
それでも、上らないことには始まらないので、鬼頭はゆっくりと階段を上りはじめた。その横を、雅美が相変わらず傘を差しながら歩く。
「まだ……あなたたちの名前も訊いてなかったわね」
思い出したように女は呟き、鬼頭にふわりと微笑みかけた。
「私は燿子。あなたは?」
「鬼頭和臣。変な名前だろ。妙に堅くって」
「そんなことないわ。あなたは?」
女――燿子は、今度は雅美を見た。
「訊いてどうするんだ」
「どうするって……」
「霧河、何ひねくれたこと言ってるんだよ。――こいつは霧河雅美だよ」
「お友達?」
「お友達……」
思ってもみなかった単語を聞いて、鬼頭は絶句した。
「最初は私、兄弟かと思ったのよ」
そんな鬼頭のことなど気づかぬように、淡々と燿子は続ける。
「でも、あなたたちのやりとり聞いてると、兄弟ではなさそうだから……」
「兄弟? こいつと?」
鬼頭はようやく我に返って、雅美を親指で指した。
「冗談じゃない。赤の他人も他人だよ。全然似てないだろ」
「そんなにむきにならなくても……」
鬼頭の剣幕に、燿子は驚いたようである。
「でも、仲はいいのね」
鬼頭は何か恐ろしいものでも見るような目を燿子に向けた。
「それ、本気?」
「え、ええ?」
「どこをどう見たらそう見えるんだか」
独り言のように鬼頭は呟いた。その間、雅美は何も言わなかったが、ずっと下を向いていた。
(ちょっと、言いすぎたかな)
何とはなしに、そう思った。
他人であることには間違いないし、仲が悪いのも事実だが、本当に嫌いな相手にわざわざつきあうほど、雅美も物好きではあるまい。
「ええと……」
とりあえず、何か言おうとしたときだ。
かすかにだが、背後で岩の崩れるような音がした。
しかも、その音はだんだんと大きくなって、鬼頭たちに迫ってくるようなのである。
「言いたくはないがこの階段、下から崩れてるんじゃないか?」
前を向いたまま、鬼頭は雅美に言った。
「何を根拠にそう思うんだ?」
「主にパターンと俺の勘だな」
「さっさと後ろを向いて確かめたほうが早いと思うが……走れ!」
言われるまでもなかった。すでに足元の階段は崩れかけていたのである。鬼頭は燿子を抱き上げ、石段を五、六段飛ばして走った。
燿子の体は、気味が悪くなるくらい軽かった。
「霧河!」
全力疾走しながら、鬼頭は叫んだ。
「俺はこの年になって、階段ダッシュをする羽目になるとは思いもしなかった!」
「俺に文句は言わないはずじゃなかったのか」
そっけなくそう答える雅美は、鬼頭のぴったり横を走るというより跳ねている。石段を崩していく見えぬ破壊の波は、今にも鬼頭たちを呑みこもうとしている。
ふいに雅美は傘を畳んだ。無論走りながらである。そして前方の闇を見すえると、そこへ槍投げの要領で思いきり傘を投げつけた。傘は風を切り、あっという間に見えなくなった。
一呼吸おいて、男のものとも女のものともつかない悲鳴が、細く長く響いた。同時に、闇の中に鳥居が白く浮かび上がり、鬼頭は無我夢中でその下を駆け抜けた。
「し……心臓が口から出そうだ……」
燿子を丁寧に下ろしてから、鬼頭は中腰になって息をはずませた。
「何、それだけ走れればたいしたものだ」
そんな鬼頭に雅美は気のない賛辞を与えた。その両手はもういつものように、コートのポケットの中に収められている。
「おまえは顔色ひとつ変わってないな……」
まだぜいぜい言いながら、鬼頭は雅美を見やった。雅美は冷ややかに鬼頭を見下ろす。
「あんたと一緒にしないでくれ」
しばらく経って、ようやく楽になってきた。鬼頭は何気なく鳥居の後ろを振り返り、思わず息を呑んだ。
何もなかった。ただ、底知れない闇がわだかまっているだけだった。
「これじゃ帰れないな……」
そう呟きながら前に向き直った鬼頭は、また新たに息を呑まねばならなかった。
つい先ほどまで、そこは深い闇に閉ざされていたはずだった。
だが、今は紫がかった鉛色の空と、その下に一面に広がる藍色の湖とがあった。
『何用だ』
どこからともなく、女の低い声が湧き起こった。その声を聞いたとたん、燿子は口を覆って身を震わせた。
『ここは我らが神域。何人たりとも立ち入ることは許さぬ』
「好きで入ったわけじゃない」
悠然と雅美が受けて答える。
「この女がここに来たいと言うから、つきあってやったまでだ。もう帰る。だが、その前にさっきの傘を返してくれないか。この人のなんだ」
そのとき、波紋ひとつなかった湖の水面が、まるで誰かに揺さぶられでもしたかのように波立った。
『貴様か……! 我らが神域を破ったのは……!』
「神域だと? あれしきのものが? 笑わせるな!」
雅美は冷笑した。見る者を例外なくぞくりとさせるような、凄絶な笑みだった。
そういえば、今夜の雅美がどこか生彩を欠いていたように思えたのは、まだ彼のこの表情を見ていなかったせいだと鬼頭は思い当たった。
「おまえたちの神域がどうであろうと、俺の知ったことではない。傘さえ返してもらえれば、すぐにでも帰る」
「おい……たかが傘の一本に、そんなにこだわんなくても……どうせ安物なんだから……」
見かねて言うと、雅美は鬼頭に鋭い一瞥を投げた。
「そんなことは関係ない。あれはあんたから預かったものだ。ちゃんと責任を持ってあんたに返す」
「……変なところで律義だな」
『そこまで言うなら、返してやろうぞ』
あの女の声が、二人の間に割って入った。
『だが、おまえたちを生きては帰さぬ!』
その声を合図に、湖面から水柱が何本も噴き上がった。それぞれがまるで蛇のように鎌首をもたげ、いっせいに鬼頭たちに襲いかかる。水は途中でさらに細かく枝分かれし、鋭利な刃物然として彼らの体をかすめた。
「確かに受け取ったぞ」
しかし、雅美はそれらとともに飛んできた傘を、左手だけでつかみとり、平然とその場に立ちつづけていた。鬼頭はとっさに両腕で顔をかばったのだが、おそるおそるその腕を下ろすと、何とか無事のようだった。
あわてて燿子を見れば、彼女は地表に横座りして、左手を宙にかざしていた。顔色は今まで以上に悪くなっている。大丈夫かと声をかけようとして、突然右頬に走った痛みに、鬼頭は思わず「いてっ」と言ってしまった。指先で頬を拭うと、赤い液体がついていた。
「怪我をしたのか?」
雅美が口早に訊ねてくる。
「そうらしい。どれくらい切れてる?」
そう訊き返しながら、もう一度顔を撫でてみると、今度は手のひらいっぱいに血がついてきたので、鬼頭は自分でぞっとしてしまった。
「痛いか?」
「いや、そんなに痛くはないんだ。そのうち血も止まるだろ」
鬼頭はポケットからハンカチを引っ張り出して、傷口に当てた。雅美はその傷に手を伸ばしかけたが、すぐに引っこめ、湖のほうに向き直った。
「このまま帰ろうかと思っていたが、気が変わった」
穏やかとさえ言える口調で、雅美は姿なき相手に言った。
「滅びろ」
乾いた大地に亀裂が入った。そこから水が噴き出したが、同じ女の悲鳴がいくつもいくつも上がると、空中でまるで何者かに飲み干されでもしたかのように、すべて掻き消えてしまった。
雅美は一歩、湖に踏み出した。
『やめろ、来るな!』
そう言ったのは、やはりあの女の声だった。
「どうした? 俺たちを生きては帰さないと言ったのは、おまえたちのほうだぞ?」
雅美はむしろ、柔和な微笑すら浮かべていた。そのまま右手をゆっくりと持ち上げ、真一文字に払いかける。
「やめて!」
雅美は手を止め、わずかに振り返った。
「やめて。お願い。……殺さないで」
おそらくは、渾身の力を振り絞って、燿子は立ち上がった。
鬼頭は手を貸そうとしたが、燿子はその手を優しく振り払った。
「涼……」
今にも倒れそうになりながら、湖に向かって歩き出す。
「まだ意識があるのなら……お願い、もう一度だけ会って。一目だけでもいいの。生きて帰ろうなんて、最初っから思ってやしないわ。あなたに会えなくなるくらいなら、死んだほうがまだましよ!」
『来るな!』
せっぱつまった女の声が上がる。が、燿子は歩みを止めなかった。
「涼……あなたはもういないの?」
「燿子!」
若い男の声だった。
いけない、いけないと言う女の声が無数にこだましたが、湖が渦を巻きはじめるとともに、まぎれて消えた。
やがて、渦の中央に人影が現れ、水上を歩いて、燿子のほうへとやってきた。
「もう半分、同化しはじめてるんだ」
端整な面立ちのその青年は、悲しげにそう呟いた。その下半身は湖の水でできていた。
「私だって同じよ……この姿を保っているのもやっと」
燿子は青年に自分の両手を見せた。炎だった。
「どうして来たんだ……このままでは、君は本当に……死ぬ」
「死んだっていいわ」
燿子は青年を、青年だけを見つめた。
死にかけているとはとても思えないほど、その表情は静かだった。
「大好きよ、涼」
微笑みながら、燿子は言った。
「愛してるわ。何度言っても言い足りないくらい、あなたを愛してるわ。涼……愛してるわ」
燿子の頬に涙が流れる。そんな燿子を、青年はせつなげに見ていた。
「僕だって、君を誰よりも愛してるよ」
青年は少し燿子に近づいた。それだけで二人の間に蒸気が立ちのぼる。
「だけど、僕らは火と水だ。しかも、あとわずかでこの体も人格もなくなってしまう。燿子……もしも僕らが人間だったなら……」
ふいに青年は鬼頭たちのほうを見た。その目には限りない羨望の情があった。
だが、すぐにあきらめたように首を振ると、再び燿子に視線を戻した。
「燿子……」
ゆっくりと、青年は燿子に手を伸ばした。蒸気はいよいよ激しくなった。
「涼……」
燿子も青年に炎の手を伸ばした。
その指先が触れ合うより先に、二人は固く抱き合った。
白光があふれた。
鬼頭は一瞬何も見えなくなった。
「もう、いいぞ」
そんな雅美の声を合図に、鬼頭はようやく目を開いた。
雨音が響いていた。
いつのまに広げたのか、雅美は傘を差して、鬼頭の横に立っていた。
「あの二人は……」
「死んだよ」
鬼頭は呆然として辺りを見回した。
そこは雅美に言われて目を閉じた、元の場所だったのだ。
「幻……だったのか?」
呟いて、急に右頬の痺れるような痛みに気がついた。
「幻じゃない」
諭すように雅美は言った。その手には血に染まった鬼頭のハンカチがあり、雅美はそれを黙って鬼頭に返した。
鬼頭はそれを受け取ると同時に、雅美の手から傘を取り上げた。
「もういいよ。ありがとう。それに、俺が持ってたほうが効率がいい」
驚いたように自分を見上げる雅美に、鬼頭はそう説明した。
鬼頭の頬の傷は、それほど大きくはなかったが深かった。雅美は眉をひそめて、その傷を凝視している。
どうも勝手が違った。
てっきりまた嫌味の一つでも言われるかと思っていたのに、雅美は本気で自分のことを案じているようである。
そもそも、今夜の雅美は最初からどこか変だった。横断歩道の前に立っていたときには何だか元気がなかったし、鬼頭に突き放されると、自分はさんざんそうしているくせに、露骨に傷ついた顔をした。
そういえば、あのとき『滅びろ』と言った雅美は、かつて鬼頭が見たことがないほど怒っていた。その理由も、たぶん鬼頭が傷つけられたからだ。
困ったなと鬼頭は思った。信じられないことだが、この小綺麗で横柄で正体不明な子供は、自分を好いているらしい。しかも、ものすごく。
なぜだろう。わからない。雅美に親切にしたことなんて一度もないはずなのに。嫌われこそすれ、どうして好かれなければならないのだろう。
しかし、ここで雅美にそんなことを言ったら、きっとまたあの傷ついた顔をする。まるでおまえなんかいらないと親に言われた子供のように。
それは、まずい。雅美のことはどうしても好きになれないが、彼のそんな顔は見たくない。性格はどうであれ、これは子供なのだ。甘え方を知らずに育った、不器用すぎる子供。
「大丈夫だよ」
痛みをこらえながら、鬼頭は笑顔を作った。もっとも、雅美には引きつった笑みにしか見えなかったかもしれないが。
「それより……結局、あの二人は何だったんだ?」
そう訊くと、雅美はようやく安心したように鬼頭から目を離した。鬼頭もほっとした。ずっとあんな目で見つめられたら、こっちの息が詰まりそうになる。
「火と水の精霊だ」
短く雅美はそう答えた。
「精霊? あの人が?」
「人間だとは、あんたも思ってなかっただろう」
冷ややかにそう言われて、鬼頭は何も言い返せなかった。
確かに、はじめから燿子には不自然なものを感じていた。でも、あんまり彼女がひたむきだったから、口に出すことはできなかった。
「あの人は、あの恋人に会いたかったんだな」
しみじみと鬼頭は言った。
「しょせん火と水だ。共にいられるはずもない」
だが、雅美は冷酷に一蹴する。
「そりゃそうだな」
鬼頭は苦笑いした。これだから子供はしょうがない。
「確かに、あのロミオとジュリエットより分が悪い。おまえの言うことももっともだ。でもな、霧河。世の中には理屈じゃ割り切れないこともあるんだよ」
そう言ってから鬼頭は驚いた。あの雅美が、明らかにしゅんとした様子でうつむいている。自分の説教じみた言葉など、鼻で笑うかと思っていたのに。
今夜の雅美はやっぱり変だ。雨に打たれていたから、熱でも出ているのかもしれない。
「あれで、よかったのか?」
ほら。自分を窺うようにして、こんなことを訊ねてくる。
「さあな」
いつも雅美が言う言葉を、鬼頭は優越半分困惑半分で口にした。
「でも、あの二人はきっと後悔してないだろうな」
それからしばらく何も言えなくて、鬼頭は傷の痛みに耐えながら、自分の目の前の綺麗な子供を見ていた。
真夜中の雨は飽くことなく、二人の上に降り注いでいた。
―END―
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そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。
工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。
むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。
“特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。
工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。
兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。
工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。
スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。
二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
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