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第3話 エレベーター
4 感謝されない
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「ドアを閉めたら、もう二度と現れないらしいな」
憎らしいほど冷静に雅美が言った。鬼頭は無言のままドアを閉め、今度こそエレベーターに向かって歩き出した。その少し後を雅美が歩く。
鬼頭は別に、あの夕刻の部屋に帰りたくなったわけではなかった。ただ、本当にもう幸を連れ戻すことはできないのか、それを確かめたかった。間接的にとはいえ、幸に過去へと戻る手立てを教えてしまったのは自分なのだから。
「自分のせいだとでも思っているのか?」
いきなり雅美に図星をさされて、鬼頭はびっくりした。が、そうだと答えたらまた嫌味を言われると思ったので、「いや、別に」と答えた。
「そう。ならいい。今さら後悔したって、もうどうしようもないことだからな」
いずれにしろ、嫌味は言われる運命にあるらしい。
「で、あの女、結局あんたとどういう関係だったんだ? 会ったばかりだとか言っていたが、それでもう部屋の中にまで入れるのか? 見かけによらず、軽い女だったんだな。それとも、あんたの口のほうがうまかったのか? ……そうだよな。言葉だけで幽霊を成仏させられる男だもんな、あんたは」
同じ嫌味でも、今の嫌味は種類が違うような気がする。どうして雅美にこんな嫌味を言われなければならないのだろう。どういう関係か知りたいなら、素直にそう訊けばいいだけのことではないか。そうしたら、酔っ払いに絡まれているところをたまたま助けただけで、つきあっているわけでも何でもないと説明するのに。
――いや、そう言ったら言ったで、こいつは絶対今と同じような嫌味を言う。そうに決まっている。雅美にはもう、自分が女と一緒にいること自体が面白くないのだ。もしかして、雅美は女嫌いなのだろうか。確かにそんなふしがないわけでもないが。
延々と悩みながら、鬼頭はしかし、雅美が自分を好きだから女とつきあっているのが面白くないのだという考えにはまったく至らなかった。
その第一印象があまりにも悪かったせいか、鬼頭の雅美に対する認識は非常に歪んでいた。どういう種類であるにしろ、雅美が自分を好きであると仮定すれば、彼の言動はすべて納得できるものになるのだが、鬼頭にとってその仮定は、地球は平たいというのと同じくらい考えられないことだった。ゆえに、なぜ雅美にこんな嫌味を言われなければならないのか、彼にはさっぱりわからなかったのである。
「何とか言ったらどうだ」
これだけ嫌味を言われながら、何も反論してこない鬼頭――鬼頭にしてみれば、何を言ってもまた嫌味を言われると思ったから黙っていたのだが――を雅美は低く恫喝した。
明らかに、雅美は怒っていた。周りのことなど目にも入らないほど。
「おい」
雅美に言われたからではないが、鬼頭はそう言って彼を振り返った。
「さっきから、全然エレベーターに近づいてないと思わないか?」
そのとたん、雅美は愕然と顔を上げ、エレベーターのほうを見た。
「しまった!」
そう叫んで、いきなり走り出す。その後を、鬼頭もあわてて追いかけた。
だが、来るときは三十メートルほどだったはずの距離が、どうしても縮まらない。さらに、開いたままだったエレベーターの扉が、何の前触れもなく閉まりはじめた。
「荷物が置いてあるから扉は閉まらんだろうが、たどりつけなきゃ話にならんぜ、おい!」
息をはずませながら、ふと鬼頭が背後を見ると、まだあのドアがすぐ近くにあった。
「仕方ないな……」
雅美がエレベーターに向かって右手を払おうとした、とその右腕をつかんで鬼頭は後ろを向いた。
「な……」
「俺はあのエレベーターの中に行きたい!」
雅美を引っ張ったまま、鬼頭はそう怒鳴ってあの銀色のドアを開けた。
はたして、そこは何度も扉の開閉を繰り返しているエレベーターの内部だった。しかし、そうと確認する前に、転げこむようにして中に入る。同時にドアがパタンと閉まった。
振り返ると、そこはもうただの壁になっていた。鬼頭はほっと溜め息をつき、その壁によりかかった。
そんな鬼頭を、雅美は何とも言えない表情で眺めていた。それを見て、鬼頭はまだ自分が雅美の腕をつかんだままであることに気がつき、あわてて離した。
「あ、いや……自分の行きたいところに行けるっていうからさ、このエレベーターの中にも行けるんじゃないかって……」
何だか照れくさくなって、鬼頭は自分の頭を掻いた。
「それなら、自分の部屋にでもしたほうがよかったんじゃないのか」
冷ややかにそう言われ、ぽんと両手を打つ。
「あ、そうか。そりゃ思いつかなかった。霧河。おまえ、頭いいな」
雅美はうさんくさそうに鬼頭を見てから、操作盤のところへ行って開ボタンを押した。盛んに開閉を繰り返していた扉は、それでようやく開いた状態に落ち着いた。
向かいに見えるコンクリートの壁には、やはりあの銀色のドアがある。そのドアを見つめながら、鬼頭は雅美に訊ねた。
「結局……ここは何だったんだ?」
「さあな」
そっけなく雅美は答えたが、それで終わりにはしなかった。
「ただ一つ言えるのは、このマンションにこんな階はないということだけだ。もし本当にあったら、住人は誰もいなくなる」
「……違いない」
鬼頭は苦笑いした。戻れないはずの過去に戻れるドア。確かにそんなものはこの世に存在してはいけない。だから、ここはきっと現実ではないどこかなのだ。
「それより、鬼頭さん。その荷物をどうにかしてくれないか? これじゃいつまでたっても扉を閉められない」
雅美に言われて、鬼頭は自分のビジネス・バッグと、その横にある幸のショルダー・バッグとを見下ろした。少し考えて、自分のバッグを拾い上げ、幸のバッグをエレベーターの外に置く。
「いいよ。閉めてくれ」
そう言って右手を上げた鬼頭に、雅美は少なからず驚いたような顔をした。
「いいのか?」
「バッグだけ持って帰ってもしょうがない」
雅美はそれ以上何も言わずに、今度は閉ボタンを押した。
扉はようやく完全に閉じられた。が、またすぐに開かれた。
「ここが本当の五階だ」
多少愛想のよくなったエレベーター・ボーイは、そう外の紹介をした。
あのコンクリートの部屋の代わりに、いくつかのドアが並んだごく普通の通路があった。
「ここで降りるか?」
皮肉めいた笑みを浮かべて雅美は鬼頭を見やったが、鬼頭は無言のまま、閉ボタンを押した。再びドアが閉まり、エレベーターが動き出す。それから、エレベーターが七階に到着し、その扉が開くまで、雅美は意外そうに鬼頭を見上げていた。
その間、鬼頭は雅美を一瞥もしなかったが、彼が外に出ると、その後に続くようにして自分も降りた。雅美の視線に気がついて、顔をしかめて答える。
「帰りは階段にする。今夜はもう、とてもこのエレベーターを使う気にはなれない」
「もう二度とあんなことは起こるまい」
「起こったらどうする!?」
「またあのドアを使って逃げればいいだろう」
「口の減らない奴だな。少しは俺に感謝してもいいんじゃないのか?」
「助けてくれと頼んだ覚えはない」
言い返せなくて、鬼頭は雅美を睨みつけた。確かに、彼はそんなことは一言も言っていない。雅美は鬼頭を無視して、さっさと奥のほうへと歩いていく。鬼頭はあきらめの溜め息をつくと、階段のほうへと歩きかけた。
「鬼頭さん」
「え?」
振り返れば、雅美が立ち止まって鬼頭を見ていた。
「何だよ? 茶でも飲ませてくれるのか?」
嫌味でそう言うと、雅美は眉をひそめた。
「何でもない。じゃあな」
踵を返して、再び歩き出す。
「何なんだ」
鬼頭は首をかしげたが、雅美がいちばん奥のドアの前で立ち止まり、そのドアを開けるのを、そのまま見るともなく見ていた。
「おい、霧河」
意外なことに、雅美は手を止め、鬼頭に顔を向けた。
「何だ、まだいたのか」
この野郎と心中で罵りながらも、自分が疑問に思ったことを訊ねる。
「おまえ、ここに一人で住んでるのか? 家族は?」
雅美はドアを開け、閉める寸前に答えた。
「俺は昔から一人だ」
「え?」
しかし、そのときにはすでにドアは閉まっていた。
そういえば、あの銀色のドアを開ければ過去へ戻れるとわかっても、雅美は開けるどころか触りさえしなかった。
雅美には会いたいと思う人間も、帰りたいと思う場所もないのだろうか。ふとそんなことを思った。
「昔から一人……か」
無意識に呟きながら、鬼頭は今度こそ階段を下りていった。
―END―
憎らしいほど冷静に雅美が言った。鬼頭は無言のままドアを閉め、今度こそエレベーターに向かって歩き出した。その少し後を雅美が歩く。
鬼頭は別に、あの夕刻の部屋に帰りたくなったわけではなかった。ただ、本当にもう幸を連れ戻すことはできないのか、それを確かめたかった。間接的にとはいえ、幸に過去へと戻る手立てを教えてしまったのは自分なのだから。
「自分のせいだとでも思っているのか?」
いきなり雅美に図星をさされて、鬼頭はびっくりした。が、そうだと答えたらまた嫌味を言われると思ったので、「いや、別に」と答えた。
「そう。ならいい。今さら後悔したって、もうどうしようもないことだからな」
いずれにしろ、嫌味は言われる運命にあるらしい。
「で、あの女、結局あんたとどういう関係だったんだ? 会ったばかりだとか言っていたが、それでもう部屋の中にまで入れるのか? 見かけによらず、軽い女だったんだな。それとも、あんたの口のほうがうまかったのか? ……そうだよな。言葉だけで幽霊を成仏させられる男だもんな、あんたは」
同じ嫌味でも、今の嫌味は種類が違うような気がする。どうして雅美にこんな嫌味を言われなければならないのだろう。どういう関係か知りたいなら、素直にそう訊けばいいだけのことではないか。そうしたら、酔っ払いに絡まれているところをたまたま助けただけで、つきあっているわけでも何でもないと説明するのに。
――いや、そう言ったら言ったで、こいつは絶対今と同じような嫌味を言う。そうに決まっている。雅美にはもう、自分が女と一緒にいること自体が面白くないのだ。もしかして、雅美は女嫌いなのだろうか。確かにそんなふしがないわけでもないが。
延々と悩みながら、鬼頭はしかし、雅美が自分を好きだから女とつきあっているのが面白くないのだという考えにはまったく至らなかった。
その第一印象があまりにも悪かったせいか、鬼頭の雅美に対する認識は非常に歪んでいた。どういう種類であるにしろ、雅美が自分を好きであると仮定すれば、彼の言動はすべて納得できるものになるのだが、鬼頭にとってその仮定は、地球は平たいというのと同じくらい考えられないことだった。ゆえに、なぜ雅美にこんな嫌味を言われなければならないのか、彼にはさっぱりわからなかったのである。
「何とか言ったらどうだ」
これだけ嫌味を言われながら、何も反論してこない鬼頭――鬼頭にしてみれば、何を言ってもまた嫌味を言われると思ったから黙っていたのだが――を雅美は低く恫喝した。
明らかに、雅美は怒っていた。周りのことなど目にも入らないほど。
「おい」
雅美に言われたからではないが、鬼頭はそう言って彼を振り返った。
「さっきから、全然エレベーターに近づいてないと思わないか?」
そのとたん、雅美は愕然と顔を上げ、エレベーターのほうを見た。
「しまった!」
そう叫んで、いきなり走り出す。その後を、鬼頭もあわてて追いかけた。
だが、来るときは三十メートルほどだったはずの距離が、どうしても縮まらない。さらに、開いたままだったエレベーターの扉が、何の前触れもなく閉まりはじめた。
「荷物が置いてあるから扉は閉まらんだろうが、たどりつけなきゃ話にならんぜ、おい!」
息をはずませながら、ふと鬼頭が背後を見ると、まだあのドアがすぐ近くにあった。
「仕方ないな……」
雅美がエレベーターに向かって右手を払おうとした、とその右腕をつかんで鬼頭は後ろを向いた。
「な……」
「俺はあのエレベーターの中に行きたい!」
雅美を引っ張ったまま、鬼頭はそう怒鳴ってあの銀色のドアを開けた。
はたして、そこは何度も扉の開閉を繰り返しているエレベーターの内部だった。しかし、そうと確認する前に、転げこむようにして中に入る。同時にドアがパタンと閉まった。
振り返ると、そこはもうただの壁になっていた。鬼頭はほっと溜め息をつき、その壁によりかかった。
そんな鬼頭を、雅美は何とも言えない表情で眺めていた。それを見て、鬼頭はまだ自分が雅美の腕をつかんだままであることに気がつき、あわてて離した。
「あ、いや……自分の行きたいところに行けるっていうからさ、このエレベーターの中にも行けるんじゃないかって……」
何だか照れくさくなって、鬼頭は自分の頭を掻いた。
「それなら、自分の部屋にでもしたほうがよかったんじゃないのか」
冷ややかにそう言われ、ぽんと両手を打つ。
「あ、そうか。そりゃ思いつかなかった。霧河。おまえ、頭いいな」
雅美はうさんくさそうに鬼頭を見てから、操作盤のところへ行って開ボタンを押した。盛んに開閉を繰り返していた扉は、それでようやく開いた状態に落ち着いた。
向かいに見えるコンクリートの壁には、やはりあの銀色のドアがある。そのドアを見つめながら、鬼頭は雅美に訊ねた。
「結局……ここは何だったんだ?」
「さあな」
そっけなく雅美は答えたが、それで終わりにはしなかった。
「ただ一つ言えるのは、このマンションにこんな階はないということだけだ。もし本当にあったら、住人は誰もいなくなる」
「……違いない」
鬼頭は苦笑いした。戻れないはずの過去に戻れるドア。確かにそんなものはこの世に存在してはいけない。だから、ここはきっと現実ではないどこかなのだ。
「それより、鬼頭さん。その荷物をどうにかしてくれないか? これじゃいつまでたっても扉を閉められない」
雅美に言われて、鬼頭は自分のビジネス・バッグと、その横にある幸のショルダー・バッグとを見下ろした。少し考えて、自分のバッグを拾い上げ、幸のバッグをエレベーターの外に置く。
「いいよ。閉めてくれ」
そう言って右手を上げた鬼頭に、雅美は少なからず驚いたような顔をした。
「いいのか?」
「バッグだけ持って帰ってもしょうがない」
雅美はそれ以上何も言わずに、今度は閉ボタンを押した。
扉はようやく完全に閉じられた。が、またすぐに開かれた。
「ここが本当の五階だ」
多少愛想のよくなったエレベーター・ボーイは、そう外の紹介をした。
あのコンクリートの部屋の代わりに、いくつかのドアが並んだごく普通の通路があった。
「ここで降りるか?」
皮肉めいた笑みを浮かべて雅美は鬼頭を見やったが、鬼頭は無言のまま、閉ボタンを押した。再びドアが閉まり、エレベーターが動き出す。それから、エレベーターが七階に到着し、その扉が開くまで、雅美は意外そうに鬼頭を見上げていた。
その間、鬼頭は雅美を一瞥もしなかったが、彼が外に出ると、その後に続くようにして自分も降りた。雅美の視線に気がついて、顔をしかめて答える。
「帰りは階段にする。今夜はもう、とてもこのエレベーターを使う気にはなれない」
「もう二度とあんなことは起こるまい」
「起こったらどうする!?」
「またあのドアを使って逃げればいいだろう」
「口の減らない奴だな。少しは俺に感謝してもいいんじゃないのか?」
「助けてくれと頼んだ覚えはない」
言い返せなくて、鬼頭は雅美を睨みつけた。確かに、彼はそんなことは一言も言っていない。雅美は鬼頭を無視して、さっさと奥のほうへと歩いていく。鬼頭はあきらめの溜め息をつくと、階段のほうへと歩きかけた。
「鬼頭さん」
「え?」
振り返れば、雅美が立ち止まって鬼頭を見ていた。
「何だよ? 茶でも飲ませてくれるのか?」
嫌味でそう言うと、雅美は眉をひそめた。
「何でもない。じゃあな」
踵を返して、再び歩き出す。
「何なんだ」
鬼頭は首をかしげたが、雅美がいちばん奥のドアの前で立ち止まり、そのドアを開けるのを、そのまま見るともなく見ていた。
「おい、霧河」
意外なことに、雅美は手を止め、鬼頭に顔を向けた。
「何だ、まだいたのか」
この野郎と心中で罵りながらも、自分が疑問に思ったことを訊ねる。
「おまえ、ここに一人で住んでるのか? 家族は?」
雅美はドアを開け、閉める寸前に答えた。
「俺は昔から一人だ」
「え?」
しかし、そのときにはすでにドアは閉まっていた。
そういえば、あの銀色のドアを開ければ過去へ戻れるとわかっても、雅美は開けるどころか触りさえしなかった。
雅美には会いたいと思う人間も、帰りたいと思う場所もないのだろうか。ふとそんなことを思った。
「昔から一人……か」
無意識に呟きながら、鬼頭は今度こそ階段を下りていった。
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