MIDNIGHT

邦幸恵紀

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第3話 エレベーター

1 逃げられない

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 残業だった。
 帰りの電車がなくなる前に何とか区切りをつけた鬼頭は、げんなりして五月の夜の街を歩いていた。
 もう真夜中近くても人や車が途絶えることはない。おかげで安心して歩けると思う一方、何もこんな夜遅くまで起きていることもあるまいにと自分も含めて嘲笑いたくなる。だからと言って朝型人間というわけでもないのだが。
 そんなことを考えながら、駅へと急いでいたときだった。

「通してください!」

 そんな女の、もう半分泣いているような声が耳に入って、鬼頭は反射的に顔を上げた。

「そんなこと言わないでさあ、ちょっとだけつきあってよ。帰りはちゃんと送ってってあげるから。ね?」

 見れば、すでにシャッターの下りた店の前で、OL風の若い女が、三人の男に囲まれて立ち往生している。
 どうやら、飲み屋帰りのサラリーマンに絡まれているものらしい。女は助けを求めて、必死で周囲に顔を巡らせているのだが、通りすがる人々は、女に同情するような気色を見せながらも、関わりあいになるのを恐れて足早に歩いていく。
 最初は鬼頭もそれに倣おうとした。人にはよく親切だと言われるが、人間関係に波風を立てたくないからそうしているだけのことだ。通りすがりの見知らぬ女まで、なぜ自分が助けなければならないのか。
 だが、鬼頭が歩み去ろうとしたとき、男たちの間からその女が見えて、偶然目が合ってしまった。
 女はショートヘアで、小柄でほっそりとしていて、まるでリスかハムスターのような小動物を思わせた。ショルダー・バッグをきつく抱えこんで、すがるような目を鬼頭に向けてくる。

(これは、逃げられないな)

 鬼頭は苦笑いを漏らすと、人が避けて通っている女のところへ、大股に歩いていった。

「すみませんが」

 男たちの背後から、そう声をかけた。女の腕を強引につかもうとしていた男たちは、緩慢な動きで鬼頭を振り返った。
 いずれも二十代後半から三十代前半くらい。鬼頭と同年代の男だ。ただし、かなり酔っ払っているらしく、目つきはすでにまともではなかった。

「あぁ?」

 男たちのうちの一人が威嚇するような声を上げた。しかし、そんな反応は想定の範囲内である。鬼頭はまったく動じず、穏やかに言葉を継いだ。

「その人の連れです。すみませんが、彼女から離れてくれませんか」

 鬼頭としては、それで男たちがおとなしく立ち去ってくれることを期待していたのだが、そうそううまくはいってくれなかった。

「はぁ? 連れだぁ? だから何だってんだよ。あっち行ってろ、バーカ」
「そうだそうだ、帰れ帰れ」

 ――やっぱり、あのまま帰っておいたほうがよかったか。
 内心、鬼頭は後悔したが、ここまで首を突っこんでしまった以上、もう逃げるわけにもいかない。現に、女は鬼頭が近づいてきた時点で、明らかにほっとした顔をしていた。
 鬼頭は初めて女と視線を合わせると、にっこり笑って女の腕をとった。

「遅れてごめんね。じゃ、行こうか」

 そのまま女の腕を引きながら、男たちを押しのけるようにして歩きはじめる。

「おい、待てよ、こら!」

 男たちがそんな怒声を上げたが、鬼頭はかまわず歩きつづけた。
 だが、本気で引き止めたいと思うほど、この女に執着していたわけではなかったようだ。口だけはそれからも威勢のいいことを言っていたが、鬼頭たちを追ってくる気配はなかった。

「ここまで来れば、もういいかな」

 しばらく歩いてから、鬼頭は立ち止まった。鬼頭に引かれるまま歩いてきた女も一緒に立ち止まり、ためらいがちに彼を見上げた。

「あの……本当にありがとうございました。助かりました」

 か細い声ではあったが、鬼頭が思っていたよりはしっかりしていた。

「いや、まあ……」

 最初はそのまま見捨てていこうと思っていただけに、後ろめたさを感じて鬼頭は頭を掻いた。が、それは女には礼を言われて照れているように見えたらしい。女はようやく安心したように笑った。

「本当に、何てお礼を言ったらいいか……私、どういうわけか、ああいう人たちによく絡まれるんです。私は普通に歩いてるだけなのに。でも、さっきみたいに、あんなにしつこいのは初めて。本当に助かりました。ありがとうございました」

 そう言って、深々と頭を下げる。
 生真面目な性格のようだ。別に恩に着せるつもりもなかった鬼頭はかえってあわてた。

「いや、そんなにかしこまらなくても……でも、あんまり夜中には一人で歩かないほうがいいと思うよ。君にもいろいろ都合があると思うけど」

 真摯にそう忠告しつつも、どこかでこれと同じようなことを聞いたなと思う。一瞬考えて、鬼頭はそれがいつで誰が言ったかを思い出した。同時に、今夜はもう急いで帰らなければと思った。〝真夜中にはあまり出歩かないほうがいい〟のだから。

「じゃ、そういうことで。これからは気をつけてね」

 鬼頭は再び駅のほうに向かって歩き出そうとした。

「あ、あの……お名前は?」

 あわてたように女が鬼頭を呼び止めた。瞬間、鬼頭は〝名乗るほどの者ではない〟と答えようかと思ったが、すぐに時代劇じゃあるまいしと思い直した。

「鬼頭和臣。ただの会社員だよ。君は?」
おかむらゆきです。私もただの会社員」

 女――幸はくすりと笑った。
 会社員とは言っても、まだ二十歳前後だろう。そう思えるほどに、彼女の笑顔は幼く儚く見えた。

「あの……これから家に帰るんだったら、その前まで送っていこうか?」

 あんまり幸が頼りなげなので、鬼頭はついついそんなことを言ってしまった。
 驚いたように幸が鬼頭を見上げる。鬼頭は警戒されないように急いで付け加えた。

「あ、いや、変な下心があって言ってるんじゃなくて、ちょっと心配になったものだから……大丈夫だったらいいんだ、すぐ帰るから」
「いえ、ぜひお願いします!」

 想像もしなかったほどの大きな声に、鬼頭のほうが驚いた。幸はまたあの小動物の目をして、鬼頭を見上げている。

「本当は、こちらからお願いしようかと思ってたんです。でも、ご迷惑じゃないかって思って、なかなか言い出せなくて……そうしていただけると、本当に助かります。今日はもう、一人で帰るのは怖くて……」

 ――こんなんで、この子、一人暮らししてるのかな。
 他人事ながら、鬼頭は心配になってしまった。
 親と同居しているなら、親が迎えにくるだろう。いくら酔っ払いから助けてもらったとはいえ、見ず知らずの男にこんなに頼ってくるなんて、鬼頭には奇異な感じがする。それだけ自分が〝いい人〟に見られているということかもしれないが。

「じゃ、行こうか。どっち?」
「あ、こっちです。もうすぐそこなんです」

 鬼頭がついてきてくれると知って、幸は露骨にほっとした様子を見せた。
 とにもかくにも、こんな女を一人放っておくわけにもいかない。鬼頭は自分のおせっかいを呪いながら、幸のすぐ後ろを歩いた。




 幸が住んでいるという七階建てのマンションは、そこからほんの一、二分歩いたところにあった。
 鬼頭の推測どおり、幸は今春短大を出て就職したばかりで、現在このマンションで一人暮らしをしているのだという。

「じゃあ、僕はもうここで。これからは気をつけてね」

 マンションのエントランスで、そう言って鬼頭が立ち去ろうとすると、それまで落ち着かない様子でうつむいていた幸が、「あの……」と鬼頭を呼び止めた。

「何?」
「あの……」

 鬼頭が振り向いても、幸はまだ恥ずかしそうにもじもじしている。鬼頭はそれを、ここまで送ってもらったことに対して礼を言おうとしているのだと解釈した。

「別に、そんなに気にしなくても……」

 かまわない、と鬼頭が言いかけたときだった。
 エントランスの奥にあるエレベーターの扉が、音を立てて開いた。
 エレベーターの中には乗客が一人いた。扉が開いたと同時に降りようとしたが、ふと鬼頭の顔を見て足を止めた。

「鬼頭さん?」

 怪訝そうにそう呼ばれて、鬼頭はその乗客をまともに見た。――見てしまった。

「き……霧河!?」

 それはまさしく、霧河雅美――鬼頭に『真夜中にはあまり出歩かないほうがいい』と忠告した、あの自称予備校生の少年だった。
 先日会ったときと同じように――別に会いたくて会ったわけではないが――喪服を思わせるような黒いコートに身を包んでいる。あの白皙の美貌も相変わらずだ。そして、鬼頭を不快にさせる無表情も。
 しかし、今回ばかりは、雅美がごく普通のマンションのエレベーターから降りてきたことに驚いて、鬼頭は思わず訊ねた。

「おまえ、どうしてここに?」

 そのとき、エレベーターの扉が閉まりかけて、雅美が開ボタンを押した。たぶん、ここで降りるつもりでエレベーターに乗ってきたのだろうに、雅美はエレベーターの箱から出ようともしない。
 その様子を見て、鬼頭は何となく、デパートのエレベーター・ガールを連想してしまった。実際こんなエレガがいたら、意地でも絶対乗らないが。

「あんたこそ、何でここに? ――ああ、そうか。なるほど」

 不審そうに眉をひそめていた雅美は、鬼頭の傍らに立っている幸に目をやって、合点がいったように呟いた。まずい。誤解された。鬼頭はあわてて弁明に走った。

「この人は今さっきそこで会ったばかりで……おまえは何だよ? どうしてこんなところにいる?」
「ここに俺の部屋があるからだ」

 一瞬、鬼頭は声が出なかった。

「おまえ、こんなとこに住んでんのか?」
「だったら、どこに住んでると思ってたんだ?」
「いや、別に」

 まさか、普通の人間のように家に住んでいるとは思わなかった、とは言えない。

「お知りあいですか?」

 二人のやりとりを黙って見ていた幸が、おずおずと鬼頭に訊ねてきた。

「いや、まあ、お知りあいというほどのもんでは……」

 作り笑いで鬼頭は答えた。できることなら、出会ったこと自体なかったことにしたい。
 一方、雅美はというと、開ボタンを押したまま、なぜかいつもより冷ややかに鬼頭を睨んでいた。
 愛想が悪いのは以前からだが、何だか今日はそれに輪をかけて悪いような気がする。正直言って怖い。今日はまだ雅美を怒らせるようなことは何もしていないはずなのに、どうしてこうも睨まれなければならないのだろう。あまりに不当すぎる。

「乗るんじゃなかったのか?」

 表情そのままの声で雅美がぼそりと言った。やはり怖い。乗ったが最後、どこかとんでもないところへ連れていかれそうだ。

「いや、俺は……おまえこそ、ここで降りるつもりだったんじゃないのか? さっき降りかけただろ?」

 我知らず、こわばった笑顔でそう問い返すと、雅美はいよいよ無愛想な顔になり、そっぽを向いた。

「今日はこのまま帰る」
「な、何で?」
「別に。気が変わっただけだ。あんたには関係ないだろう。それとも、何か不都合でもあるのか?」
「不都合って別に……」
「なら、早く乗れ」

 間違いない。鬼頭は確信した。雅美は鬼頭に対して腹を立てている。
 だが、なぜ?
 考えられる原因は幸くらいのものだが、まさか、この雅美がひそかに幸のことを思っていて、それで鬼頭に嫉妬している――ということはあるまい。少なくとも、鬼頭には考えられない。第一、幸も雅美も互いに相手を知らないようである。
 何にせよ、今日の雅美がとびきり不機嫌であることには変わりない。それに、もともと幸の部屋までついていくつもりはなかったのだ。鬼頭は幸に向き直ると、口早にもう一度別れを告げた。

「じゃ、僕はもうここで帰るよ。おやすみなさい」

 ところが、そそくさと立ち去ろうとした鬼頭の袖を、幸があわててつかんできた。

「す、すいません、せめてエレベーターだけでも、一緒に乗ってくれませんか?」

 今にも泣き出しそうな顔で、幸は鬼頭に囁いた。

「あの人と一緒にエレベーター乗るの、怖いんです……」

 それはそうだろうなと鬼頭も思った。これで会うのは三度めの鬼頭も、今の雅美と同じエレベーターに乗るのはかなり怖い。しかも、幸も一緒だともっと怖い。

「乗るのか乗らないのか? いいかげん、手が疲れてきたぞ」

 そんな二人の会話が聞こえたのか、雅美が苛々したように口を挟んできた。
 だったらさっさと一人だけ乗っていけと鬼頭は思ったが、今の雅美にそんなことは絶対言えそうもない。

「乗るよ」

 観念して、鬼頭は幸と共にエレベーターに乗りこんだ。雅美は横目でいかにも不愉快そうに二人を見てから、今度は閉ボタンを押した。
 長いこと開けっ放しだったエレベーターの扉は、このときようやく閉じられたのだった。
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