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第2話 チルドレン
3 罠
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「罠だ。行かないほうがいい。ろくな目にあわんぞ」
階段を下りかけた鬼頭の背中に、雅美はそんなセリフを投げつけてきた。
「引き受けたもん、今さら断れるか。しかしまー、きったねー川だな」
階段を下りきり、コンクリート製のわずかな幅の川岸に立った鬼頭は、思いきり顔をしかめた。が、それでも川へ入るため、ズボンを膝までまくってから靴を脱ぎかけたとき、雅美もここへ下りてきていることに初めて気がついた。
「何だよ? おまえもつきあってくれるのか?」
「誰が」
「……じゃあ、せめてこれ、預かっててくれ」
靴下の詰まった靴を雅美に押しつけ、鬼頭は濁った川にそろりそろりと足を入れた。
冷たい。
だが、今が春でよかったと鬼頭は前向きに考えた。これで真夏だったりしたら、臭いもさぞかしひどかったことだろう。
「気分はドブさらいだな。さーて、ここで何を捜せばいいんだか」
見上げると、白い鉄製の柵ごしに、子供たちがこちらを見下ろしていた。無表情で、何も言わない。
鬼頭はあきらめの溜め息を一つつくと、肘まで袖口をまくり上げ、脛の中ほどの深さのある川底を、腰をかがめてさらいはじめた。そんな鬼頭を見守るように、雅美は鬼頭の靴を指先に引っかけたまま立っている。
「大事なものねえ……」
川底をさらいながら、鬼頭は雅美を見ずに口を開いた。
「いったい何だかわかるか? おまえ――ええっと……?」
「霧河」
「あ、そうそう、霧河」
「俺がそんなこと知るか。だから最初からこれは罠だと言っているだろうが」
いつも無感情な雅美の声に、珍しく呆れたような調子が混じった。
もともと雅美はよく通る適度に低くて快い声をしているのだが、その声で感情をこめずに話すものだから、よけい鬼頭の癇に障っていたのである。
「罠? どうして?」
鬼頭は素直にそう訊ねた。
「奴らは大人を恨んでいる。自分たちを助けてくれなかったから」
「え?」
うっかり聞き逃してしまいそうなほど淡々としたその答えに、鬼頭は思わず手を止めて雅美を見た。
と、川下のほうで、何か赤い光が灯った。それに気づいて、何気なく前を向く。
光の正体は炎だった。ただし、それは水上にあった。川幅いっぱいに広がった炎は、あたかも川が逆流したかのように、凄まじい勢いでこちらに押し寄せてきていた。
「やはり罠か!」
雅美は舌打ちして鬼頭の靴を放り出すと、川の水を蹴散らして、彼をかばうように前に立ち、迫りくる炎に右手をかざした。
それとほとんど同時に、炎は二人の周囲を残して川面を覆いつくした。それでも熱気は伝わってくる。本物の炎だった。
「いったいこれは……」
呆然と呟く鬼頭に、雅美が苛立ったように叫ぶ。
「だから言っただろう! 奴らは大人を恨んでいると! 奴ら、このままあんたを焼き殺すつもりだ!」
「そんな……」
信じられず、鬼頭は上を見た。子供たちの火傷だらけの顔が歪んで見えるのは、陽炎のせいだけではないだろう。
「これでわかっただろう。下手に仏心など出せば仇になるだけだ。――消すぞ」
鬼頭からの返答はなかった。雅美は炎から目を離し、鬼頭を顧みた。
鬼頭はまだ子供たちを見上げていた。その表情には裏切られたことに対する怒りも失望もなく、それどころか、深く哀れむような気色さえあった。
「それで……満足なのか?」
責めるでもなく、むしろ優しく問いかけるように鬼頭は言った。
「俺を焼き殺して……それで君らの気は済むのか? 救われるのか?」
子供たちは笑うのをやめた。人の背丈ほどの高さがあった炎がみるみるうちに小さくなり、水面に吸いこまれるようにして消えた。
炎が走っていたというのに、川の水は相変わらず冷たいままだった。すでに足の感覚は麻痺しきっている。そのことに改めて気がついて、鬼頭が足を動かすと、何か大きな異物に当たった。不審に思ってドブ水から拾い上げてみれば、それはヘドロに塗れた黒焦げの人形だった。
ソフトビニール製の顔も腕も足も半ば溶け崩れていて、胴にはもはや服の用を足していない、焼けた布切れがこびりついている。元は長い栗色だったらしい髪は、今ではごわごわとしたタワシのようで、そこから川の濁った水がぽたぽたと滴り落ちていた。
「あ、それ……」
子供たちの中で、おかっぱ頭の女の子がそんな声を上げた。ふわりと浮き上がったかと思うと、柵を越え、まるで綿帽子のように飛んで川のほうに降りてきた。
「それ……あたしの……」
鬼頭の手の中にある、もはや人形とも言えない人形を少女は食い入るように見つめた。この少女もまた、全身赤く焼けただれている。
「じゃ、はい」
鬼頭は少女に歩み寄り、笑って人形を差し出した。少女はそれを鬼頭の手から奪うようにして受け取ると、服が汚れるのも気にならないように固く抱きしめた。
「この子……あたしがとっても大事にしてたの」
ヘドロだらけの人形に、少女はさも愛しそうに頬ずりする。
「でも、あたしたちが死んだあと、おじさんたちが来て、ゴミは捨てちゃえって、ここに投げ捨てちゃったの。この子、お父さんが買ってくれたのに……とっても大好きだったのに……」
人形を抱きしめたまま、いつしか少女はしゃくりあげはじめていた。
鬼頭はコートの裾が濡れるのもかまわずにしゃがみこみ、そんな少女の頭をそっと撫でた。
「ごめんね……」
一語一語、噛みしめるように鬼頭は謝罪した。
「偉そうなこと言っといて……俺は君らに何もしてあげられない……」
少女はゆっくりと顔を上げた。
火傷だらけであったはずのその顔は、いつのまにか元のきれいなそれに戻っていた。
濡れた黒い瞳は、何の感情も持たないまま、ただ鬼頭を見ていた。
「おじちゃん」
「うん?」
艶やかな髪を傾けて、唐突に少女はにこっと笑った。
「この子、ありがとう」
「どういたしまして」
とまどいながらも鬼頭も笑い返した、と同時に少女の全身がぽうっと白く光り出し、急速にその色も輪郭も薄れていった。
はっと上を見ると、他の子供たちも少女と同じように次々と消えていく。彼らもまたあのひどい火傷の跡がすっかり消えていて、その顔には明るい笑みを浮かべてさえいた。
「おい! 待てよ! そんな簡単に……!」
ちゃぽんと人形が川へ落ちた。
鬼頭が子供たちのほうに手を伸ばして立ち上がったときには、すでに彼らは一人も残ってはいなかった。
階段を下りかけた鬼頭の背中に、雅美はそんなセリフを投げつけてきた。
「引き受けたもん、今さら断れるか。しかしまー、きったねー川だな」
階段を下りきり、コンクリート製のわずかな幅の川岸に立った鬼頭は、思いきり顔をしかめた。が、それでも川へ入るため、ズボンを膝までまくってから靴を脱ぎかけたとき、雅美もここへ下りてきていることに初めて気がついた。
「何だよ? おまえもつきあってくれるのか?」
「誰が」
「……じゃあ、せめてこれ、預かっててくれ」
靴下の詰まった靴を雅美に押しつけ、鬼頭は濁った川にそろりそろりと足を入れた。
冷たい。
だが、今が春でよかったと鬼頭は前向きに考えた。これで真夏だったりしたら、臭いもさぞかしひどかったことだろう。
「気分はドブさらいだな。さーて、ここで何を捜せばいいんだか」
見上げると、白い鉄製の柵ごしに、子供たちがこちらを見下ろしていた。無表情で、何も言わない。
鬼頭はあきらめの溜め息を一つつくと、肘まで袖口をまくり上げ、脛の中ほどの深さのある川底を、腰をかがめてさらいはじめた。そんな鬼頭を見守るように、雅美は鬼頭の靴を指先に引っかけたまま立っている。
「大事なものねえ……」
川底をさらいながら、鬼頭は雅美を見ずに口を開いた。
「いったい何だかわかるか? おまえ――ええっと……?」
「霧河」
「あ、そうそう、霧河」
「俺がそんなこと知るか。だから最初からこれは罠だと言っているだろうが」
いつも無感情な雅美の声に、珍しく呆れたような調子が混じった。
もともと雅美はよく通る適度に低くて快い声をしているのだが、その声で感情をこめずに話すものだから、よけい鬼頭の癇に障っていたのである。
「罠? どうして?」
鬼頭は素直にそう訊ねた。
「奴らは大人を恨んでいる。自分たちを助けてくれなかったから」
「え?」
うっかり聞き逃してしまいそうなほど淡々としたその答えに、鬼頭は思わず手を止めて雅美を見た。
と、川下のほうで、何か赤い光が灯った。それに気づいて、何気なく前を向く。
光の正体は炎だった。ただし、それは水上にあった。川幅いっぱいに広がった炎は、あたかも川が逆流したかのように、凄まじい勢いでこちらに押し寄せてきていた。
「やはり罠か!」
雅美は舌打ちして鬼頭の靴を放り出すと、川の水を蹴散らして、彼をかばうように前に立ち、迫りくる炎に右手をかざした。
それとほとんど同時に、炎は二人の周囲を残して川面を覆いつくした。それでも熱気は伝わってくる。本物の炎だった。
「いったいこれは……」
呆然と呟く鬼頭に、雅美が苛立ったように叫ぶ。
「だから言っただろう! 奴らは大人を恨んでいると! 奴ら、このままあんたを焼き殺すつもりだ!」
「そんな……」
信じられず、鬼頭は上を見た。子供たちの火傷だらけの顔が歪んで見えるのは、陽炎のせいだけではないだろう。
「これでわかっただろう。下手に仏心など出せば仇になるだけだ。――消すぞ」
鬼頭からの返答はなかった。雅美は炎から目を離し、鬼頭を顧みた。
鬼頭はまだ子供たちを見上げていた。その表情には裏切られたことに対する怒りも失望もなく、それどころか、深く哀れむような気色さえあった。
「それで……満足なのか?」
責めるでもなく、むしろ優しく問いかけるように鬼頭は言った。
「俺を焼き殺して……それで君らの気は済むのか? 救われるのか?」
子供たちは笑うのをやめた。人の背丈ほどの高さがあった炎がみるみるうちに小さくなり、水面に吸いこまれるようにして消えた。
炎が走っていたというのに、川の水は相変わらず冷たいままだった。すでに足の感覚は麻痺しきっている。そのことに改めて気がついて、鬼頭が足を動かすと、何か大きな異物に当たった。不審に思ってドブ水から拾い上げてみれば、それはヘドロに塗れた黒焦げの人形だった。
ソフトビニール製の顔も腕も足も半ば溶け崩れていて、胴にはもはや服の用を足していない、焼けた布切れがこびりついている。元は長い栗色だったらしい髪は、今ではごわごわとしたタワシのようで、そこから川の濁った水がぽたぽたと滴り落ちていた。
「あ、それ……」
子供たちの中で、おかっぱ頭の女の子がそんな声を上げた。ふわりと浮き上がったかと思うと、柵を越え、まるで綿帽子のように飛んで川のほうに降りてきた。
「それ……あたしの……」
鬼頭の手の中にある、もはや人形とも言えない人形を少女は食い入るように見つめた。この少女もまた、全身赤く焼けただれている。
「じゃ、はい」
鬼頭は少女に歩み寄り、笑って人形を差し出した。少女はそれを鬼頭の手から奪うようにして受け取ると、服が汚れるのも気にならないように固く抱きしめた。
「この子……あたしがとっても大事にしてたの」
ヘドロだらけの人形に、少女はさも愛しそうに頬ずりする。
「でも、あたしたちが死んだあと、おじさんたちが来て、ゴミは捨てちゃえって、ここに投げ捨てちゃったの。この子、お父さんが買ってくれたのに……とっても大好きだったのに……」
人形を抱きしめたまま、いつしか少女はしゃくりあげはじめていた。
鬼頭はコートの裾が濡れるのもかまわずにしゃがみこみ、そんな少女の頭をそっと撫でた。
「ごめんね……」
一語一語、噛みしめるように鬼頭は謝罪した。
「偉そうなこと言っといて……俺は君らに何もしてあげられない……」
少女はゆっくりと顔を上げた。
火傷だらけであったはずのその顔は、いつのまにか元のきれいなそれに戻っていた。
濡れた黒い瞳は、何の感情も持たないまま、ただ鬼頭を見ていた。
「おじちゃん」
「うん?」
艶やかな髪を傾けて、唐突に少女はにこっと笑った。
「この子、ありがとう」
「どういたしまして」
とまどいながらも鬼頭も笑い返した、と同時に少女の全身がぽうっと白く光り出し、急速にその色も輪郭も薄れていった。
はっと上を見ると、他の子供たちも少女と同じように次々と消えていく。彼らもまたあのひどい火傷の跡がすっかり消えていて、その顔には明るい笑みを浮かべてさえいた。
「おい! 待てよ! そんな簡単に……!」
ちゃぽんと人形が川へ落ちた。
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