MIDNIGHT

邦幸恵紀

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第1話 ミッドナイト

3 子守歌

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「あんたは幽霊に好かれるタイプなんだ。特に女の。だから忠告したんだが……どうやら無駄だったようだな」

 この少年は感情をこめて物を言うということが、どうやら苦手であるらしい。

「それならそうと最初っから言え! あんなふうにつっけんどんに言われたら、信用するものでも信用しない!」

 そう叫んでから、鬼頭ははっと我に返った。

「幽霊? あれが?」

 あわてて女が座っていたソファを見れば、女はいつのまにか消え失せていた。壁で蠢いていた醜悪な手の群れも、蜂の巣のような穴だけを残して消えている。
 だが、手のほうはともかく、女は鬼頭が知らない間にドアから出ていったのかもしれない。それだけでは女が幽霊であるという証拠にはならない。現に閉まっていたはずの部屋のドアは大きく開け放たれている。
 自慢ではないが、これまでそういうことには無縁で来たのだ。ここでそう簡単に宗旨替えするわけにはいかない。

「何だ、気づいていなかったのか」

 少年の声音が、わずかに皮肉るような調子を帯びた。

「もっとも、気づいていたら、すぐに逃げ出していただろうが」
「だって俺、確かに引っ張られたぞ。幽霊ってのは触れないもんなんじゃないのか?」

 自分の腕に手をやりながら、すかさず反論する。あんな目にあっても、いや、あんな目にあったからか、鬼頭は奇妙な冷静さを保っていた。

「幽霊だと触れるんだ」

 少年は今度ははっきりと蔑むような眼差しを鬼頭に向けた。

「じゃあ、あの腐った手も幽霊か?」
「いや、あれは実体だ。生死はともかくとして。それより、今のうちにここから逃げ出したほうがいいんじゃないのか?」
「ああ、そうだった」

 少年にしては建設的な意見に、鬼頭はさっそくドアへと向かいかけたが――

「どうせなら、もっと早く言ってほしかったな」
「どのみち、同じことになったと思うが」

 手はたいがい体についている。壁に生えていた手もその点では例外ではなく、今度はその手の数だけの人間たち――生死はともかくとして――がゆらゆらと部屋の中へと入りこんできたのである。無論、出口は彼らによって、すっかりふさがれてしまっていた。

「あれって、死んでるよな?」

 真顔で鬼頭は呟いた。服装はまちまちだが、いずれも男で、体のどこかしらに傷を受けており、その表情はうつろだった。中には腐り果ててしまって、原形を留めていない者もいる。

「普通の意味では」

 平然と少年。

「あの女に逆らうと、殺されてああなるんだろう。ありていに言えば、ゾンビというやつだな」
「何とかできるのか?」

 そう訊きながら、鬼頭はじりじりと後じさった。この部屋には窓もあることを、このときの彼はうっかり失念していた。

「できないこともない」

 こともなげに少年は答えた。

「ただし」
「ただし?」
「眠っていろ」

 少年が鬼頭の眉間に右手の人差指と中指を置いた。それだけで、鬼頭はあっけなく意識を失った。

「すまんな」

 倒れかかった鬼頭を片腕一本で軽々と支え、ソファへと座らせながら、たいしてすまないとも思っていないふうに少年は謝罪した。

「人間の前では、やりにくいのでな」

 少年は正面に向き直った。生ける死者は頼りない足どりながらも、もう二メートル近くにまで迫っていた。

「あまり気は進まないが……」

 そう呟きながら、少年はほっそりとした右手を、今度はゾンビたちへとかざした。

 ***

 少年が廊下に出ると、どこからか、女の声が流れてきた。
 それは歌だった。誰もが一度は耳にする、子守歌だった。
 少年は階段を上り、いちばん奥のドアの前で足を止めた。
 ドアは半開きになっていた。少年はノックもせずに、そのドアを大きく開けた。

「あんたの子か?」

 冷淡に少年は訊ねた。

「ええ、そうよ」

 驚くこともなく、あの女の声がそれに答えた。少年のほうにはまったく見向きもしない。
 椅子に腰かけた女の傍らにはベッドがあり、上に掛けられている毛布はわずかに膨らんでいた。女はその膨らみをさも愛しそうに軽く叩きながら、子守歌を歌っていたのだった。

「父親は?」

 そう訊かれて女はためらう様子を見せたが、自身を奮い立たせるかのように、強い口調で切り返した。

「ちょっと……出かけているのよ。私たちの食料とかを調達しに」
「駆け落ちしてきたのか」
「……わかる?」

 女は初めて少年のほうを向いて、寂しげに笑った。

「この屋敷はもうずいぶん前から空き家だからな」
「ええ、そう……」

 女はベッドの向こうにある、夜空がはめこまれた窓を見上げた。

「両親や周囲に結婚を反対されて、私たちは駆け落ちしたわ……」




 女は名家と言われる家で生まれた。世間の風にほとんどさらされることなく育った娘が、避暑地で知りあった男を生涯の相手と決めるのに、何のためらいもなかった。
 しかし、それを周りが認めるはずもなく――ある夜、ついに二人は駆け落ちした。
 よくある話だ。そのとき、女はもう妊娠していた。

 ――今夜はここに泊まろう。

 当時、すでに空き家となっていたこの洋館の中で、男はそう切り出した。

 ――君も疲れたろう。ちょっと待っててくれ。外で何か食べ物を買ってくるから。明日、二人でもっと遠くに行こう。誰にも見つからないような、ずっと遠くに。
 ――ええ……でもあなた、必ず帰ってきてね。絶対よ!

 わけもない強い不安に襲われて、女は男にすがりついた。
 もしかしたら、このとき女は、やがて来る結末を予感していたのかもしれない。

 ――バカだなあ。ちゃんと帰ってくるに決まってるじゃないか……

 女の肩に手を置いて、今では顔の輪郭もおぼろげな、愛しい男は言った。

 ――君の中には、僕たちの子供だっている。
 ――ええ……ええ!

 女は夢中でうなずいた。それだけが男をつなぎとめる最後の切り札だと思っていた。
 でも。
 そのまま、男は帰ってこなかった。




「あの人は、必ず帰ってくるって言ったわ」

 少年だけでなく、自らにも言い聞かせるように女は答えると、再びベッドに視線を戻した。

「それから何年経った?」

 一瞬、女は肩を揺らしたが、今度は何も答えなかった。

「この付近は、ちょくちょく若い男がいなくなるんだ。そう……かれこれ十年くらい」

 そう言ってから、少年は階下のほうに目をやった。

「あのゾンビどもは、そのなれの果てじゃないのか?」
「…………」
「帰ってくると信じこむのはあんたの勝手だが、通りがかりの男を手当たりしだいに連れこんで、おまけにゾンビにしちまうのは問題だな」

 諭しているのか楽しんでいるのか、少年の口ぶりはどこか飄々としている。
 そんな少年を無視しつづけ、女はまた子守歌を歌いはじめた。


「いつまでそうしているつもりだ」

 女は答えない。

「その子供に子守歌を歌ってやる必要はない」

 女は答えない。

「その子供はもう死んでいるんだ」
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