【完結】電脳探偵Y

邦幸恵紀

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 私が正気に返ったことを知った両親は、大学入試で合格したとき以上に歓喜した。特に母は大泣きして、私以上に目を腫れ上がらせていた。あれ以前に会ったのは正月が最後だったが、二人ともそのときより一気に老けこんでしまったように見えた。
 空白の約三ヶ月間に起こったことは、この両親の話と新聞記事等でしか私は知らない。
 両親によると、あの事故の後、吉野のコンビニの店長から電話で連絡を受け、あわてて教えられた病院に駆けつけたところ、血まみれのマフラーを抱えこんだ私――そのせいで、顔にも服にも血がべっとりついていたそうである――が茫然自失状態でソファに座っていたのだという。店長は私の目の前で吉野が車に轢き逃げされて即死したこと――骨折や内臓破裂もしていたが、直接の死因は頸椎を砕かれたことだった――を両親に説明し、両親は私がこうなっても仕方がないと合点した。
 両親は吉野を知っていた。レジャーがわりに私のマンションを訪ねてきたとき、大学でできた(唯一の)友達だと引き合わせたことがあったのだ。吉野は必要に迫られれば礼儀正しくふるまえる器用な男だったので、両親の心証もすこぶるよく、母などはまるでアイドルに会えたかのようにはしゃぎまくり、あとで『よくやった』と私を褒めた。先に声をかけてきたのは吉野で、私は何もしてはいなかったのだが。
 店長の話では、事故直後、私は吉野に駆け寄って、止血しようとしたのかどうなのか、自分のマフラーを吉野の体に押しつけていたそうである。そのときは泣いてはいなかったが、やがて救急車が到着し、吉野と引き離そうとしたときに、初めて泣き叫んで暴れ出したので、店長が救急救命士に事情を説明、特別に自分と私とを同乗させてもらった。
 その間、私はずっと、ごめん、ごめんと謝っていたという。もちろん、そのときの記憶も私にはないが、そのときの心情は痛いほどよくわかる。
 病院に着いて、今度こそ吉野から離されそうになったときにも私は暴れたが、今度は店長を含む周囲の人間に力ずくで押さえつけられた。吉野を連れていかれた後は、私は一転して人形のようになってしまい、誰に話しかけられてもまったく反応しないようになってしまった。
 明らかに異常な私を見て、両親はひとまず実家に連れ帰ることにした。私は言葉こそ発さなかったが、両親の指示には素直に従っていたらしい。ただし、例のマフラーだけは決して手放そうとせず、無理に奪おうとすれば別人のように暴れるので、そのまま持たせておくことにしたそうだ。記憶がない間の私にとって、あのマフラーは〝ライナスの毛布〟だったのである。
 実家に戻ってからすぐ、両親は私を地元の総合病院に連れていき、医師との相談の結果、即日入院させることにした。無論、私はこの入院期間中のこともまったく覚えていないが、このことについては思い出さなくていいと両親は口をそろえて言った。今の私は当然だろうと思うのだが、傷心の息子を精神科に入院させたことは、彼らにとって後ろめたいことだったようだ。その思いを打ち消すかのように、彼らは非常に精力的に動いた。
 両親はまず、大学に私の休学届を出し、私のマンションを引き払った。大学には戻れるかもしれないが、年内には無理だろうと判断したのだ。結果的にそれは正しかった。金銭面でもだが、私の精神面でも。吉野との思い出が詰まったあのマンションに戻っていたら、私はまた精神科に逆戻りしていたかもしれない。
 それらの手続きの合間に、両親はあのコンビニの店長に会い、吉野のこと――実家はどこか、葬儀はいつか――を訊ねた。しかし、彼は困惑した様子で、吉野の親戚を名乗る夫婦が遺体を引き取りに来たが(彼のところには、吉野の未払い給料の請求に来たそうだ)、地元(O県だとは言っていたが、具体的にどこかまでは吉野は最後まで教えてくれなかった)ではなく、市内の火葬場で焼いていってしまった、葬儀の予定もないらしいと答えたという。
 両親は驚きまた憤ったらしいが、吉野の家庭環境についてはいくらか知っていた私は、さもありなんと思った。それよりも、私が愕然とし憤然としたのは、あれから三ヶ月近くも経っているというのに、まだあの轢き逃げ犯が逮捕されていなかったことだった。 
 衆人環視の中であれほど言語道断なことをしでかしているのに、なぜいまだに捕まえられていないのか。ほんの数キロオーバーしただけのスピード違反者しか警察には捕まえられないのか。私はこのときから、〝天網恢恢疎にして漏らさず〟という言葉を信じなくなった。
 だが、吉野が亡くなってから約一月後、弁護士を名乗る壮年の男が実家に電話をかけてきた。なんと、吉野は遺書を書いていて、しかも、それを彼に託していたのだという。しかし、その遺書の内容は、自称吉野の親戚たちを脅かすものではまったくなかった。自分が所持していた本はすべて私――渡辺由貴に譲る(そして、その弁護士を遺言の執行人に任ずる)ということしか書かれていなかったのだから。
 彼らに勝手に本を処分される前に、その弁護士はただちに手を打った。遺書を開示し、吉野の蔵書を自分の事務所に引き上げてしまったのだ。そして、私にそのことを伝えてくれようとしたのだが、あいにく私はまだ病院にいた。いや、実家にいたとしても、とても話ができる状態ではなかっただろう。
 だが、そんな私の代わりに両親は迷うことなく譲り受けると回答してくれた。本当に彼らにはいくら感謝しても感謝したりない。私の命名の件を除いては。
 両親はその弁護士の事務所まで引き取りにいこうとしたのだが、彼は量が量だからと引越業者を使って実家に届けさせた。なぜ運送業者ではなく引越業者を使ったのか、両親は現物を見て瞬時に理解したそうだ。荷物運びのプロたちは、両親の手を煩わせることなく、私の部屋に吉野の蔵書を詰めこんでいった。
 私が退院したのは、それからさらに一月が経過してからのことだった。私は例のマフラーを持ってさえいれば、日常生活を送ることはできた(風呂のときはどうしていたのかというと、密閉できるビニール袋に入れて風呂場まで持ちこんでいたそうだ。正気ではなくてもそういう計算はできていた自分が我ながら恐ろしい)。そのため、定期的な通院と単独での外出禁止を条件に、実家に帰ることを許されたのだった。
 実際のところ、私に外出禁止など必要なかった。食事とトイレと風呂のとき以外、ずっと自室にこもっていて、両親とは会話どころか、目を合わせることすらしなかった(そうだ)。医者は一時的なものだろうと言ったが、もしかしたら一生このままかもしれないと、何度も絶望的な気分に陥ったそうだ。だからこそ、私が正気に戻ったとき、あれほど喜んでくれたのだろう。
 大学に戻るか戻らないかは自分で決めなさいと両親は言った。退学したいならしてもいい。他の大学に行きたいなら行ってもいい。ただし、自殺だけは絶対しないでほしい。おまえは悪くない。吉野くんは……運が悪かった。
 そんなはずはなかった。悪いのは私だ。あの日あのときあんな電話を吉野にかけた、私がみんな悪いのだ。しかし、私はそれを口に出すことはしなかった。ただ曖昧に微笑み、しばらく考えさせてほしいと申し出た。両親は笑って了承してくれた。
 考えさせてほしいとは言ったものの、私が考えられたのは、やはり吉野のことだけだった。十九年近く生きてやっと得た親友。その親友を私はたった三年で失ってしまった。それも自分の浅はかな行為のせいで。
 正気に戻ったときとまるで同じ体勢で、私は吉野の蔵書をぼんやりと眺めつづけた。例の遺言書の日付は一昨年の十二月某日。まさか、あの頃からこうなることを予期していたというのか。いずれにせよ、この本の山だけが、吉野拓己という人間の真の遺産なのだ。あの預金通帳にあった金や私の知らない不動産などではない。
 そう考えると、これをこのままにしておくのは申し訳ない気持ちになった。きっと引越業者が縛ったのだろう。ビニール紐が本の端に食いこんでいて、見るからに痛々しい。
 だが、あいにく私の部屋には、この蔵書をすべて収められるような巨大な本棚はなかった。それに、もし復学することになったら、私はこの蔵書と一緒に引っ越ししなければならないのだ。遺書にはなかったが、吉野は生前、どこへ行っても必ず持っていくと言っていた。ならば、私もそうしなければ。
 悩んだあげく、私はネットで段ボール箱と透明なビニール袋とを大量に注文した。とりあえず、本を紐の拘束から解放してやって、今度はビニール袋の中に入れ、段ボール箱の中に保存しておこうと考えたのだ。
 無事品物が届き、さっそく作業を始めようとすると、母が自分も手伝おうかと声をかけてくれたが、私はやんわり断った。もう誰にも吉野のものに触れられたくなかった。
 吉野の蔵書は中古の文庫本がほとんどだ。だからもともと美品ではない。そのうえこの三ヶ月間、ずっと放置されていたものだから、うっすら埃もかぶっていた。使い古しのタオルでは本がかわいそうな気がした私は新品を何本も用意して、それで本を拭ってからビニール袋の中に入れた。
 急ぐ作業ではなかった。私は一冊一冊丁寧に埃を払い落とした後、何冊かまとめてビニール袋に入れ、ガムテープで封をしてから、段ボール箱の中に収めていった。サイズの関係上、どうしても隙間ができてしまったが、あとでエアクッションでも詰めておけばいいかとそのままにした。
 そんな調子でやっていたものだから、一日ではとても終わらず、二日、三日と続ける羽目になった。両親は何の口出しもしなかった。そして、その頃には私はあのマフラーを自室から持ち出さなくなっていた。
 私がその本の一群に遭遇したのは、作業を始めてから実に五日目のことだった。偶然だろうが、それらは部屋の隅に置かれていて、今まで私の目に触れずにいたのだった。

「……何でまた」

 思わずそう呟いてしまったのは、それらが吉野の蔵書の中では珍しいハードカバー本だったからだけではない。吉野だったらまず手元には置かないジャンルのそれだったからだ。

 ――人工知能。コンピュータ。プログラム。

 それらは私が選択しているコースの領域だった。しかも皆、専門書でかつ古い。吉野のような〝素人〟が読むには不適切である。そもそも、吉野は私が教えた初心者向けの本でさえ、パラ見で『駄目だこりゃ』と書棚に戻した。
 改めて見てみると、このハードカバーの一群だけ、白ではなく青いビニール紐で束ねられていた。縛り方も微妙に違っている。
 しかし、ここにこうしてある以上、これらも吉野の本なのだろう。私は首をひねりながらも、これまでと同様、カッターでビニール紐を切った。
 いちばん上にあったのは、私にも見覚えのある本だった。懐かしい。少しだけ中を覗いてみようと右手で表紙をめくってみた私は、ありえないものを目にしてしまい、しばらく固まってしまった。
 ありえない。本当にありえない。本の真ん中に一万円札が埋めこまれているなんて。
 見るかぎり、本物の一万円札のようだった。おそるおそる左手でつまみ上げてみると、その下にも一万円札があった。とりあえず、つまみ上げたほうの一万円札をじっくり観察してみたが、やはり本物のようだ。銀行員ではないのでそうとしか言えない。
 もしかしたら精巧な偽札かもしれない一万円札をカーペットの上に置いてから、今度は本のページをめくろうとした。が、めくれない。正確に言うと、端はちょっとだけめくれるが、広げることができない。
 本を持ち上げて調べてみると、どうやら全ページ、糊か何かで貼り合わせてあるようだった。本の中身を刳りぬいて、そこに一万円札の束を収めるために。
 プレミアなど絶対つきそうもない古本とはいえ、誰がこんな罰当たりな真似をしたのかは明白だった。これは吉野の本なのだ。吉野がしたに決まっている。
 それにしても、やはり器用な男だ。もはや職人芸である。どうしたらこれだけぴったりと一万円札がはまるように切り抜くことができるのか――
 半ば呆れてそこまで考えた私は、ふとある可能性に気づいてその本を放り出し、その下にあった本の表紙をめくった。またさっきと同じように縦置きの一万円札が現れる。その本を除けて、さらにその下の本の表紙をめくる。またしても一万円札。その下もその下もその下も、一万円一万円一万円……
 結局、青いビニール紐で束ねられていたハードカバー本は、すべて糊づけされて一万円札が埋めこまれていた。全部でいくらあるのかは取り出していないのでわからないが、単純に一冊につき百万円と仮定すると、五千万円は確実にある。――五千万。吉野が大学を卒業するまでは絶対これには手をつけないと言っていた預金残高のほぼ全額。
 ふいに笑いがこみ上げてきた。吉野が亡くなってからは、すっかり忘れてしまっていた種類のそれが。ついにこらえきれなくなった私は、口をタオルでしっかり覆ってから、カーペットの上で笑い転げた。ここでこんな笑い声を立てていたら、階下にいる母が血相を変えて飛んできてしまうかもしれない。
 おそらく、吉野が本当に私に譲りたかったのは、中古本ばかりの自分の蔵書ではなく、この五千万円(推定)のほうだったのだ。しかし、しょせんは赤の他人である私にそのような大金を譲ることは不自然だし、第一、あの業突張りの自称親戚たちが許すはずもない。私はきっとあらゆる圧力に屈して、相続を放棄してしまうだろう。
 そこで、吉野は少しずつ金を下ろして、自分の本の中に隠すことにした。自分の蔵書を友人に譲るという遺言なら、それほどおかしくはない。だが、自称親戚たちに遺言を無視されることを恐れて、信頼のおける弁護士に遺言書を託し、遺言の執行も依頼した。
 あの遺書を書いてからその作業を始めたのか、その作業を始めてからあの遺書を書いたのか、そこまではわからない。ただ、保険のようなものだったと思う。どこへ行っても必ず持っていくと言っていたことから推して、もしこの金が入り用になったときには、やはり私には黙って取り出していたのではないだろうか。少なくとも、私はそのつもりであったと信じたい。
 吉野がハードカバー本に金を隠したのは、大きさ的に必然である。が、その本のジャンルを人工知能等に限定したのは、小説には関心のない私の興味を引くためだ。
 間違いなく吉野の蔵書を引き取るだろう私は、遅かれ早かれ、蔵書を整理しようとする。そのとき、自分が好きなジャンルの本があれば、つい読んでみたくなるだろう。そして、中に隠された金を発見する。
 金入りの本だけをまとめて束ねたのも吉野自身だ。だから、ビニール紐の色も縛り方も他とは異なっていた。最初から束ねられていれば、引越業者も弁護士もわざわざほどいたりはしないだろう。火事や盗難など不測の事態が起こらないかぎり、確実に私の元に届く。
 つまるところ、吉野は関係者全員を欺いたのだ。自称親戚も弁護士も引越業者も私の両親も――私でさえも。それほどこの金を自称親戚に使われたくなかったということだろうが、あの吉野が私に隠れてこんな子供じみた工作をしていたのかと思うと、それだけでもう笑えてしまう。
 できることなら、作業風景も見学してみたかった。きっとリンゴの皮をどれだけ長く剥けるかに挑戦していたときのように、真剣な表情をしていたに違いない――
 私はタオルを上にずらし、今度は顔全体を覆った。

 ――会いたい。もう一度、吉野に会いたい。

 吉野には悪いが、私はこんな金などどうでもよかった。もちろん、吉野の自称親戚たちには何があっても渡さないし、私の両親にも今のところは見せない(彼らは不安がって、あの弁護士に相談しようと言い出しそうだ)。しかし、それはこの金が吉野のものだからであって、逆に言えば、その意味でしか私には価値がない。
 私は吉野に会いたかった。私には想像もつかないことを思いつき、実行し、死してもなお私を笑わせてくれた、あの吉野に会いたかった。
 思えば、私が最後に聞いた吉野の言葉は『悪かった』だった。本当に悪かったのは私だったのに。謝らなければならなかったのは私のほうだったのに。私は謝罪どころか、あんなことを言って、結果的に彼を死へと追いやってしまった。
 許してもらいたいとは思わない。ただ、あのとき言うべきだったことを言いたい。吉野の声だけでも聞きたい。
 吉野が死んでから、吉野のことでしか泣いていないような気がする。カーペットに右頬をつけたまま、涙やら鼻水やらですっかりぐしょぐしょになってしまったタオルを顔からはずすと、その本がこれ見よがしに私に背表紙を向けていた。

 ――人工知能。
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