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第2章

#09 : 河童淵からの帰還

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    翌日、朝食をいただいて暫くしてから俺達は暮雪さんの案内で河童淵に出かける事になった。
    結局、茂助老は奥さんを街の医者に連れていく事になったようで、俺達の調査報告を受けるのが今日の夕刻近くになってしまったからだ。
    そうなれば老齢の人間しかいないこの家では、俺達の相手を出来るのは暮雪さんしかいないと言うわけだ。

「でもなんだか、不思議だね、、。ここの景色、妙に光と影の陰影がくっきりしている。」
    俺の側で並んで歩いている守門が声を顰めて言った。
    それは先ほどから俺も感じていた事だった。

    今、俺達が歩いている林の中には、常緑樹の枝振りから差し込んでくる日光で、光の斑がそこかしこにあるのだが、その光が作り出す物と影とのコントラストが2Bの鉛筆で書いたように濃い。
   しかも光が描き出すべての光景の輪郭が、シャープで色も鮮やかで深い。
   それらはとても初冬に見られる光景ではなかった。

  それに俺には、もう一つ気になる事があった。
  暮雪さんが案内してくれる河童淵というロケーションに、俺の記憶が重なる部分が一つもないという事だった。
   俺は数ヶ月前に、この足で河童淵を訪れた事があるのだ。

    暮雪さんの「お寺さんの側にある、河童淵にでもいきましょうか。」と誘われて、その厚意を無にするようで一度行ったことがあるからとも言えず、それに守門の乗り気もあってここまで来てしまったのだ。
   俺の記憶の取り違えなのか、、それとも遠野には河童淵がいくつもあるのだろうか?

   ここは俺の知っている河童淵ではなかった。
   季節感も歪だった。
   盛夏の森の中とまでは言えないが、かといってここはもうすぐ本格的な冬が訪れようかという場所でもなかった。

   生命が満ちているようでもないし、空虚なわけでもない、敢えて言うなら「精霊」が至る所に潜んでいるような空間に思われた。

「ねえ暮雪さん。あの水車小屋では何を作ってるの?」
   河童淵に流れ込んでいる小川のほとりにある小屋を見ながら守門が言った。

「粉をひいているのですよ。」
「ふーん。でもこのへん、あんまし人がいないみたいだけど。」
「人でなくても、粉は引けますわ。」

  その時、鴉の鳴き声が聞こえた。

  鳥肌が立った。 
  鳴き声のせいなのか、暮雪さんの答のせいなのか俺には判らなかった。

………………………………………………………………………

   俺達二人は、苔むした大岩に腰を掛け、黙って淵の水面を眺めていた。
   暮雪さんは、ついでだからお寺さんに挨拶をしてくると言って、つい先ほどこの場所を離れたばかりだった。

「あのさぁ、、。」
  守門にしては珍しく遠慮がちに言った。
「なんだよ。」
「俺、昨日の晩、、見ちゃったんだよね、、。」
    俺は思わずどきりとした。
   まさか浴室でのあの出来事を守門が知っているなんて事は、、、。

「夜中にトイレにいきたくなっちゃって、、あの長い廊下を歩いてたら、小さいんだけど悲鳴が聞こえたんだよ。ほら、あの家って女性と老人しかいないじ ゃない。何かあったら大変だし、、」
「で、何があった? 他人の部屋を覗き込んだんだろ。あの爺さんが暮雪さんを犯してたのか?」
   俺はちょっと不機嫌目に言った。

   自分のことは棚に上げて、守門の覗き行為を責めるとは、我ながら身勝手な男だと思ったが、俺はいつも心の何処かで、守門の純粋性を崇めているような部分があり、今は何故かそれを裏切られたような気がしたのだ。

「それならまだ良かったような気がするな。」
「暮雪さんが、腰にSMの女王様が付けてるようなアレで男の子を犯してた。悲鳴はその子があげてたんだ。たぶんその子、十二・三歳なんじゃないかな。」
   尻を突き上げ、甘えたような鼻声を混ぜて、自らの内から沸き上がってくる悦楽を堪えながら泣いている少年。
   その少年の顔に目の前の守門が被さった。

「綺麗な男の子だったよ。これもんでブタになんないんだから。」
  守門は、熊手を吊り下げた形に自分の手を鼻に当てると、その形の良い鼻のてっぺんを指先で引き上げた。
    それは多分に刺激的な眺めだった。
    鼻が醜く歪んでいるのに、反比例するように守門の顔が数段美しく官能的に見えるのだ。

   それに俺はいわゆるSM趣味の範疇にあるノーズプレイビデオを沢山知っているが、未だに美少年のそれを見た事がなかったし、ましてや守門が鼻毛の処理を、こんなに丁寧にしていたとは、、。自分はホルモンバランスが狂っているからと、守門自身が言ってはいるが、それにしてもである。

「男の子? あの家でか。」
   俺は無理矢理、守門の顔から視線を引き剥がしていった。 
    そしてその時、俺は自分の視線の先に、見てはいけないもう一つのものを淵の対岸に発見してしまったのだ。

「あの子の正体、きのう僕らに話してくれた、あの爺さんじゃないかな。」 
    一瞬信じがたく思えたが、あの老人の若々し過ぎる声や、態とらしい仮面の意味がそれで腑に落ちる。
   それに何よりも、老人が昨夜醸し出していたあの生臭い毒々しさは通常のものではなかった。
   第一、ここではなんでも起こりうるのだ。

「その部屋の畳の上に、あの能面と、焼けただれた手とか足の皮が落ちて た。」
「、、だとするなら、そいつは座敷わらしだと思うな。」
「座敷わらしって、家に住み着く妖怪だろ。冗談。あれは手の込んだ変装だ よ。」
「だったら、アレを見て見ろよ。」

  アレとは、俺がさっき見つけたやつだ。
   俺は顎をしゃくって、淵の対岸にある低木の枝振りが水面にせり出して影を落としている場所を守門に示してやった。
   その場所にも俺達が座っているような大岩があるのだが、守門はソレを見て顔色を変えた。

   大岩の頂上には、毛のない一匹の緑色の猿が、ちょこんと座ってこちらを見 つめていたのだ。
   だがその生き物は俺と守門の直視する視線に反応したかのように、身体をびくつかせたあと、するりと、淵のなかに潜り込んでいった。
   ぬめるその皮膚は、一瞬だけ正午の太陽の光をぎらりと反射させて、俺達に いつまでもその「不思議」 を焼き付けていった。。

「河童、、。」
「ああ、ここは河童淵だからな、、。」

   淵の上空を、何かが移動したようで木々がざわめき、空気に流れた木の葉が数枚水面に落ちた。
   木の葉は、淵のあるかなきかの水流に乗って、ゆっくりと移動していく。

「、、、お前にはまだ、俺がどんな行き掛りで茂助爺さんに出会ったのか説明してなかったな。」
「怪異譚の聞き取りだって言ってなかったっけ?」
   俺は守門の応えを無視して言葉を続けた。

「、、地球上の動物って、それぞれみんな寿命の長さが違うだろう?」 
「、、ああ違うね。」
   守門は、俺のこんな話しぶりにすっかり馴れているし、俺も方も他人にはこんな我が儘な話し方はしない。

「例えば、昆虫なんて、あっと言う間に死んでしまう。守門、お前、それを短すぎて、可哀想だと思うかい?」
「うん、そう思う。」
    守門の言葉が、俺の言わんとすることを先回りしたのか少し弾んでいた。
『そう思う』って、本当にそう考えているわけじゃない、早く先を喋れと催促しているのだ。
   だから俺は、こいつを気に入っている。

「ある人によると、人間が感じる一生感と同じようなものを、どの動物も、それぞれ持っているんだそうだ。1週間の寿命でも、100年の寿命でも、それをまっとうすれば、一生をちゃんと生きたと感じられる。だから、長い寿命は幸せで、短い寿命は不幸せではないそうだ。そりゃそうだろうな、そうでなけりゃ、神様は命に対して相当不公平なことをしてることになる。」
「うーん、確かにそうだね、」
     守門の横顔の向こうでは、淵の水面がまるで映画の一場面のようにキラキラ輝いている。

「それなら妖怪の類は、どうだろうなって思ってな。寿命が桁外れに長い生き物の一生感ってどんなものだろう? ある日、ふとそんな事を考え付いちまったわけだ。それでここに来たってわけだ。古い言い伝えの中に、妖怪達の感性というものが見えて来ないかとな。それで茂助さんだ。」
「さすがオカルト探偵、面白いね。で何か判った?」
    この聴き方、男の聞き方じゃないと思った。
   俺の答えなんて本当はどうでもいいのだ。
   母親が子どもの好奇心を大切にしてやろうとする慈愛のようなものだ。 
    守門の目がまばたいて、長い睫が頬に光の影を掃いた。

「映画なんかでは数百年を生きる吸血鬼は、みんな疲れ切ってるだろ? 夢も希望も好奇心も総て枯れ果てた哀れな老人。そのくせ、いつまでたっても死ねないみたいな。でも千年の寿命を持つものの一生感って、千年分に引き延ばされてるって思わないか? 極端に言えば、そいつが不死なら、命をスタートさせたはいいけど、ラストがないから、人間から見るそいつはずーっと子どものままなんじゃないかってな。そういう発想だよ。人間の語りに出てくる妖怪の話って、あまり複雑なのはないだろ。多分、人間と積極的に関わってるような活動期の妖怪って、すごく子どもみたいに悪戯好きで、無邪気なんじゃないのかな? ただ、それでも長く生きてる分だけ、経験値が高いから、単純に純粋無垢なままってわけでもないんだよな。そのアンバランスな反応が、妖怪譚の奇妙さに出てくるんだと思うんだよ。」

「、、、所長、見直したよ。」
「、、、惚れ直したの言い間違いだろ。」
    水面の何処かで、魚がぽちゃりと跳ねた。
 
    小一時間ほどして暮雪さんが常堅寺から帰ってきたので、俺達は暮雪さんが用意してくれた弁当を三人で食べた。

    常堅寺とは、俺の知っている 「河童淵」 の裏にある寺の名前だった。
    俺達は二人とも、さっき見たものについて決して口に出さなかった。
   俺はおにぎりを頬張りながら暮雪さんに「常堅寺はどうでした。」と探りを入れてみた。
    暮雪さんは、不思議なほほえみを称えたまま無言をきめこんだ。
    そうなってしまうと、俺にはそれ以上の言葉のストックがないことに気が付いた。

    幽霊に、あなたは幽霊ですかと聞く馬鹿はいない、、、。
    暮雪さんが口を効いたのは、俺達がすっかり弁当を平らげてしまってからだった。

「さあ、そろそろ帰りましょうか。帰り道は遠いし、空が荒れそうでわ、、。」
  歩いてここまで来たのだ。
   長い坂道を下って来たわけでもなく、さほど距離があったわけでもない。
    暮雪さんが言う「帰り道が遠い」という意味がわからなかった。
    それに天候は、永遠の平和を思い起こさせるような日よりで、とても荒れるとは思えなかった。

    だが俺達二人は黙って暮雪さんについて行くしかなかったのだ。

    野に埋もれた幾つかの石碑や石塔を通り過ぎ、ぽっかりと口を開けた草原に斜めに突き刺さった朽ちた鳥居を見た途端、俺は 『迷った』事を自覚した。

「ねえ、暮雪さんがいないよ。」
「ああ、はぐれたのかな。」
「まかれたっていったほうが近いみたいだね。」
「嫌な気持ちか?」
「ううん・・・暮雪さん、俺たちを釈放してくれたんだと思う。」
「そうだな。」
   俺達は、それから二時間ほど森の中を彷徨った。
   だが不思議と恐怖感はなかった。

   俺達の見る景色は、晩秋の陰鬱さを取り戻しつつあり、そこかしこに生命の猥雑さやはかなさを感じさせる 「出来事」を、その内に秘めていたからだ。
    鳥や獣の糞、腐敗、乾燥、土の匂い、、ここは紛れもなく俺達の世界だっ た。

「みなよ。李 静。」
   見覚えのある朽ちた祠の向こうに、黒牛が蹲ったような家があった。
   俺達は、ある確信を持って、その家に近づいて行った。

   玄関先に初老の女性が立っていた。
   あれが本物の「暮雪」 さんなのだろう。

    その風景は、昨日見た光景のレプリカのようだったが、微妙に違うものがいくつかあった。
   まず第一に、玄関には軽トラックがおいてある。
   そして放し飼いの鶏もいなかった。
    そのくせ、片一方では奇妙な一致点もあった。

   まず時刻だ。
   時計で精密に突き合わせて計ったわけではないが、たぶん今という時刻は昨日、茂助老にこの家を案内してもらった時間とぴったり同じの筈だ。
   一本の時間というロープを切った時の切断面に、別の何かを接続した後の状態に俺達はいるのだ。
    そして、おそらくこれから始まる世界が、俺達にとってのリアルなのだろう。 
    俺達は本当に「帰って」きたのだ。

    よく手入れされた庭先に、紛れ込んだ一枚の落ち葉を守門のコンバースが踏んだ時、守門は何かを思いだしたように立ち止まった。

「あっ、あの味噌付け仏。きっとあれのせいだよ。」
「、、ああ、俺達の方が味噌を付けられていたのか、、。」
    守門の言うとおり、遠野に来る前に立ち寄った骨董屋の秘仏の御利益、、 まあ昨夜のあやかし体験を御利益と呼べるならだが、、が今頃、発現したのかも知れなかった。
    この世知辛い世の中、神様や仏様の御利益は、遠野ぐらいまで遠出をしない と、その効き目が現れなかったとしても不思議ではなかった。 

    白い割烹着を着た優しげな本物の暮雪さんが、俺達に挨拶のお辞儀をする姿を見て俺はそう思った。




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