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第2章 カブ、異郷大平原を行く
第6話 巨大岩山の麓で
しおりを挟む久しぶりにクリニックの入るビルを見上げ、ほっと息を吐き出す。感慨深さから出たものだが、何度目かとなる、自分の日常に戻ってこられたのだという実感を噛み締めていた。
和彦がいない間に済ませたという改装部分を、クリニックの再開前に自分の目で確認しておきたかったのだ。定期的に機器のメンテナンスや、清掃業者も入れていたということで、ずいぶん気を配っていたもらっていたようだ。いつ戻ってくるかどうかわからない和彦を待ちながら、クリニックを維持するのは、賢吾にとってずいぶん負担だっただろう。
室内に足を踏み入れると、電気をつけてざっと見て回る。一番気になっていた仮眠室にも入ってみたが、ドアと窓ガラスが明らかに厚みが増しており、鍵も厳重になっているが、変化はそれぐらいだともいえ、ひとまず安心した。もっとも、見えないところで防犯システムのレベルを上げていたとしても、和彦にはわからないのだが。
なんとなくベッドの下を覗き込むと、見覚えのないゴルフクラブが転がっていた。ずいぶん前に千尋とゴルフレッスンを受けに行こうと話に出ていたが、慌ただしさからすっかり流れてしまった。改めて誘うつもりなのだろうかと、首を捻る。
非常階段に通じるドアも同様に頑丈なものになっていたが、他人から見て奇異に映るほどではない。あくまでここは、どこにでもある美容外科クリニックだ。
清掃が行き届いているのはもちろんのこと、受付カウンターなどに飾られていた小物もさりげなく季節に合わせたものとなっている。
「ぼくの出番はなしだなー……」
特に注文をつけたいこともなく、和彦は待合室に戻ってソファに腰掛け天井を仰ぎ見る。組員を駐車場に待たせているため、あまりのんびりもできないのだが、クリニックを再開したときのことをあれこれと考えていると、スマートフォンが鳴った。
『――子犬にじゃれつかれたそうだな』
開口一番の賢吾の言葉に、なんのことかと眉をひそめたあと、顔を綻ばせる。仕事熱心な組員は、和彦が車を降りてすぐに賢吾に連絡を取ったようだ。
「あんたにかかると、若い子はみんな子犬なんだろうな」
『子犬は子犬でも、闘犬として育つか、猟犬として育つかの違いはあるがな。うちの千尋ですら、見てくれは可愛いが愛玩犬じゃないからな。お前ならよくわかってると思うが』
「……親バカ」
電話越しに聞こえてきた低い笑い声にゾクリとする。
『クリニックで気になるところは? 今ならまだ、手を加えるにしても再開までには間に合うはずだ』
「いや、これで注文をつけたらバチが当たる。細かいところまで気にかけてくれたみたいで、感謝してる」
『だったらあとは、スタッフの補充だけだな』
そちらも長嶺組に任せておくだけだ。
いよいよクリニックの再開が見えてきて、また忙しい日々が始まることに、重圧と同じぐらい高揚感を覚える。美容外科医として立ち働く自分が、和彦は嫌いではないのだ。医者となるよう使命づけられた経緯を知ったあとでも。
「休んでいた分、バリバリ稼がないと」
『仕事にのめり込み過ぎて、俺たちをほったらかしにされるのも困るんだが』
「何、言ってるんだっ……」
いまさら賢吾の軽口に動揺して、反射的にソファから立ち上がる。急に暑くなり、わざわざ空調を入れるまでもないので、通りに面した窓を開ける。
見下ろすと、いつもは車で待機している組員が、通りに立って慎重に辺りを見渡している。
「――……ぼくが動くと、周りがピリピリするな」
『お前のせいじゃなく、お前を口実にして動きたがる連中がいるということだ。好き勝手やらせて、高みの見物を決め込んだらどうだ』
「ぼくの神経を舐めないでほしいな。普通の人間より柔なつもりだ」
賢吾は意味ありげに、ふっと短く息を吐いた。
『今日、総本部で会った二人は、前からの顔見知りなんだろう。一人は、三田村がたまに面倒見てると話していたが』
「どちらも千尋とほぼ歳は変わらないはずだ。三田村が気にかけている子は、加藤というんだ。見た目は強面だけど、言われたことは一生懸命やるタイプかな。まあ、三田村がよく知ってるから、気になるなら聞いてくれ。もう一人は……生意気。あと多分、ぼくは嫌われてる。小野寺というんだけど。今時の遊んでる大学生風」
『南郷がお前につかせたんなら、見た目通りのガキじゃねーということか』
「どういう形で護衛につくのかは、あんたのほうで総和会と相談してくれ。ものすごくありがた迷惑だけど、断るわけにもいかないんだろ」
『適当にじゃれつかせておけ。千尋にバレたら、キャンキャンとうるさいかもしれないが』
それはそれで面倒だと、和彦は顔をしかめる。南郷が後見人になった以上、総和会が日常生活にさらに関わってくるというなら、許容できる範囲を、男たちを使ってすり合わせていくしかない。
『――総和会を甘く見るなよ』
突然声音を変え、賢吾が囁いてくる。ざわりと肌が粟立った。
「えっ……」
『オヤジは、伊勢崎組を警戒している。組長である伊勢崎龍造は、北辰連合会というでかい組織で顧問にも就いてる。そんな重職についてる人物が、組員数人を引き連れてこちらに出張ってきているんだ。新しい商売を始めるとか秋慈には言ったらしいが、本当のところはわからない。面と向かって目的を問えれば楽だが、そういうわけにもいかない。で、伊勢崎組の連中が、うちの大事な〈オンナ〉をつけ回してるとなりゃ――』
「堂々と捕まえられるわけだな。ぼくは餌か」
『お前が若造二人を気にかけるのをいいことに、ちゃっかり別動隊が離れた位置で、網を張っているかもな』
怪しい風体の男たちをぞろぞろと引き連れて歩く自分の姿を想像して、和彦はうんざりとして呟く。
「コントか」
『尾行の件から感じるのは、伊勢崎組からお前に対して、敵意も害意も乏しいということだ。だからこそ、薄気味悪い。できれば俺は、直接は手を出したくない。総和会が進んで厄介事を引き受けるというなら、ありがたく押し付ける』
「……ぼくも、勝手に片付いてくれるなら、それで……」
そうは言っても、伊勢崎組や伊勢崎龍造は忌避したい存在であっても、彼の息子について考えるときは、胸が妖しくざわつくのだ。尾行については、和彦が〈変な虫〉扱いされ、息子に近づくなと牽制されているという可能性もありうる。口が裂けても賢吾には言えないが。
すべて終わったことだと自分に言い聞かせながら、窓を閉める。用は済んだので、再び施錠してあとは帰宅するだけだ。
「あっ、そういえば――」
『どうした?』
「仮眠室のベッドの下に、ゴルフクラブがあったけど、あれ、なんだ?」
『野球バットのほうがよかったか? お前が振り回しやすそうな重さを選んだつもりだ。万が一の準備というやつだ。使わないに越したことはないが、いざとなったときに武器が必要だろ。スタンガンやナイフだと、お前自身が怪我する危険があるからな』
絶句したあと、和彦は大きくため息をつく。過保護すぎると指摘したかったが、たった今、尾行だ護衛だと話したばかりで説得力もない。ありがたく賢吾と長嶺組の心遣いを受け取っておくことにした。
半月近く前に恋人にめった刺しにされたホストの青年は、傷が塞がる間、禁酒と安静を忠実に実行していたらしく、いくらか毒気が抜けた顔つきとなっていた。
そろそろ抜糸の頃合いかと気にかけていると、タイミングよく総和会から連絡が入り、高層マンションの一室に連れてこられたのだ。青年が暮らしている部屋なのかもしれないが、治療さえできるならどこでもいい。
和彦が傷口を一つ一つ確認していると、間がもたないと感じたのか青年はホストを辞めると語り始めた。水商売から足を洗うのかと思いきや、話を聞き続けていると、なんと自分でボーイズバーを始めるのだという。ホストクラブとは違うのかという和彦の問いかけに、ホストの青年――元ホストの青年は、丁寧に違いを教えてくれる。あくまでバーであり、カウンター越しでの接客となるうえに、価格帯もホストクラブに比べて低めな設定だそうだ。
男性客も歓迎なので、オープンしたら先生も遊びに来てくださいと言われ、逞しさに和彦は笑ってしまった。しかも店の資金は、彼をめった刺しにした恋人が出すという。つまり、組のヒモつきだ。語る本人に悲愴感はないため、嫌々というわけではないようだ。
偉そうに語れる立場でもない和彦は、さっそく抜糸に取り掛かる。それが終わると、傷口が開かないようケアテープを貼っていき、このとき、自宅でもできるようやり方を説明しておく。まだ当分禁酒を続けるよう告げると、悲しげな顔で頷かれた。
「思いがけないところで、知見を得てしまった……」
治療を終え、エレベーターで下りながら小声で洩らす。今度賢吾に、ホストクラブとボーイズバーの違いを話してやろうと思ったが、水商売も手広く手掛けている組なので、案外もう経営しているかもしれないと考え直す。
一仕事終えた和彦は、まだ昼食という気分ではないため、時間つぶしのために書店に立ち寄る。一階に並ぶ新刊をざっと確認してから、エスカレーターで階を上がりながら、背後を振り返る。護衛の組員がついてきているのはいつものことで、気になるのはさらにその後ろだ。今日は総和会から回ってきた仕事ではあるものの、加藤と小野寺の姿は見えない。
総和会と長嶺組の間でどんな取り決めになったのか、またはまだ相談の最中なのか、何も知らされていないのだ。和彦の視界に入らないところで護衛――というより監視がついていたとしても驚きはないが。
野鳥に関する本を眺めていると、スマートフォンがメッセージの着信を知らせて短く鳴る。何げなく表示を確認して、次の瞬間和彦は、本を置いて売り場を離れた。文章でやり取りするのがもどかしくて、メッセージを送ってきた相手に電話をかける。
手短に会話を交わし、電話を切ると即座に組員のもとに歩み寄る。本を眺めている場合ではなくなって車に戻ると、次に向かうのはデパートだ。昼時ということもあって混雑しており、並んでいる花見弁当を横目に、手の込んだ総菜を何品か買い込む。さらにアルコール類売り場では、自分のワインの他に缶ビールも選ぶ。
慌ただしく買い物を終えて向かったのは――。
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