逆さまの迷宮

福子

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第一章 ◆ 世界

第一節 ◇ 階段

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 気がつくと、ボクは階段の上にいた。

 階段の上で寝ていたのではない。
 ギシギシと音がする木の階段で、自分の足元を見つめて立っていた。

 顔を上げて、自分が立っている階段を見回した。階段の幅は、ボクの身長ふたり分くらいある。それなりに広い。

 階段の周りに目を向けてみた。
 ここがどんなところなのかを知りたかった。

 ボクを取り囲む空間はとにかく真っ白で、ぽっかりと階段だけが浮かんでいる。階段を支えるものもなければ、安全を保障する手すりもない。足を踏み外せば、どこまでも続く真っ白な空間に投げ出されてしまう。ココがいったいドコで、どうしてココにいるのか、まったく見当もつかなければ、心当たりもなかった。

 手がかりを探して歩き回っていると、木の階段の隣に別の階段を見つけた。

 ……さっきは無かったような気がするなぁ。

 隣の階段は血でできているような毒々しいあかい色をしている。鉄でできているのだろうか。

 なぜかその階段に惹かれて迷った。隣の階段が安全かどうか分からない。でも、この階段だって安全かどうか、そもそも分からないのだ。

 それならば──、

 足に力を入れると、木の階段とは違う軋み音が不気味に響いた。
 気味が悪い階段だなとは思ったけれど、階段の見た目だけでなく、この階段が持つ空気も気味が悪い。それに今にも崩れそうなほどびついている。

 なるほど、血でできているような毒々しいほどの朱い色は、鉄錆の色だったのか。

 スニーカーの溝に錆が入り込む。ザリザリと気持ちの悪い摩擦音が背筋に伝わる。

 この階段は、いったいどこに続いているのだろうか。地獄にでも向かっているような強い不安と気持ち悪さを覚えて、ボクは身震いした。

 とても明るく広いのに、取り残されたような寂しさのある空間。生きものの気配は全く感じられない。それが寂しさに拍車をかけている。

 鉄錆の階段をずっと見ていると気持ちが暗くなるので、ボクは周りの景色を見ながら鉄錆の階段を一歩ずつ上った。

 景色と言っても、見えるのは靄がかったような、ただ真っ白な空間だけ。ここでもボクの欲しい情報は何も見つからなかった。

 それにしても……、

 木の階段で気がついてからずっと、この空間に響き渡る、時計のカチコチ音が気になっていた。

 高音のカチコチもあれば低音のカチコチもある。

 どうやら時計は一つや二つではないようで、四方八方、いたるところから聞こえてくる。

 何かの手がかりになるのではないかと思い、さっきからずっと時計本体を探しているのだけれど、どういうわけか一つも見つからない。

 どこから聞こえてくるのか解らない不気味に響く秒針の音は、何かのカウントダウンのようにも思える。

 ……時限爆弾? いや、まさかね。

 そんなバカげたことを心の中でつぶやき小さく笑うと、臆病な自分に喝を入れ、姿の見えない時計を探すために、ボクは一歩ふみ出した。

 ふと時計の音が後ろで響いているような気がした。
 そして今まで上り続けていた階段を、今度は下り始めた。

 木の階段を歩いていたときには感じなかった目眩を、鉄錆の階段ではずっと感じている。
 身体も何だか重いような気がする。
 きっと、ずっと階段を上ったり下りたりして疲れたのだろう。
 ボクは、軽く背伸びをした。

 しばらく階段を下りると、最初にいた木の階段が見えた。木の階段は、やわらかで暖かな光を放っている。まるで、ずっと前から知っている人と再会したような懐かしさを覚え、ボクは木の階段に足をかけた。足にぐっと体重をかけると、やわらかな感触が足の裏に伝わる。木が、ボクを受け止めてくれているのが分かる。それどころか、あの軽い目眩も嘘のように引いていった。

 誰もいない心細さの中で出会った温もり。

 この温もりに、ボクの全部を預けてしまいたい。
 もう独りは嫌だ。

 そう強く思った直後に、ボクは木の階段から足を離した。

 今ここで木の階段の温もりに身を預けたとしても、結局一人ぼっちのままだ。怯えて立ち止まってしまったら、何も変わらない。この気持ちのままで木の階段に戻ることはできない。

 そう思い直し、軽い目眩とともにザリザリする鉄錆の階段を再び下り始めた。

 ずっと階段を上ったり下りたりしていたからなのか、それとも強い不安のせいなのか、ボクの背中を大量の脂汗が流れた。どこからともなく吹いてくる湿度を帯びた風で、脂汗で濡れたTシャツが中途半端に乾かされ、背中にベッタリと貼りついて気持ちが悪い。

《すごく蒸し暑い。涼しい風が欲しいな……。》

 ボクは、初めて声を出してつぶやいた。
 しかしボクが発した声は声ではなく、耳に水が入ったときのようなくぐもった音だった。
 別の誰かが発した音のような響きで、本当にボクのノドから出た声なのかどうか、はっきりとしない。この空間が、吸いとったボクの声を別の場所で放したような響きだ。

 もしかして、この空間そのものが大きな生きものなのだろうか。声すらもくぐもった音に変えてしまう、ひらけているのに孤独で閉ざされた空間。でも時計の音だけは空間中響き渡っている。気持ち悪い。

《もう嫌だ、もうたくさんだ! ここはどこ? どうしてここにいるの? ボクは……、ボクは……、》

 孤独と不安が限界を越え、狂ったように叫んだそのとき、ひとつの疑問がボクの心にふっと姿を現した。



 ──ボクは、誰?



 ボクは、『ボク』が誰なのか知らなかった。

 途端に自分が不安定な存在に思えて怖くなり、腰の力が抜けてその場に尻もちをついた。鉄錆のザリザリが、むき出しで汗まみれの脚にまとわりつく。

《ぅわっ!!》

 あまりの気持ち悪さに飛び上がった。頭が締め付けられるほどに呼吸が荒く、心臓が破裂しそうな音を立てている。
 ボクは、なんとか少しずつ深呼吸をして呼吸を整えながら脚についた錆を丁寧に拭き取っているうちに、落ち着きを取り戻していった。そして、漏れるようなため息をついた。

 恐怖も不安も孤独もそのままだけど、今ここでそれを爆発させてみたところで、何かが変わるわけじゃない。ボクの存在が不安定に思われても、ボクがここにいるのは間違いないから、ボクが何者であっても、ボクは、ボクだ。

 ……時計を、探そう。

 下るよりなら上るほうが気が楽だな、上を向いていられるから。

 ボクは、階段を下りるのをやめた。この階段だって、どこまで続いているのかも分からないし、下り続ければ時計に出会えるという保証もない。

 それならばせめて、上を向いて歩こう。

 ボクは一歩一歩踏みしめるように階段を上り始めた。
 時計を探す理由は分からないけれど、この空間から出るためには時計を見つける必要があるのだと、ボクの心が訴えている。

《早くここから出なくちゃ。》

 ゴールの見えない階段を見上げた。どこまでも続いているように見える。上っても上っても、周りの景色は変わらない。

《この階段、どこまで続いてるんだろう。本当に進んでいるのかな。》

 真っ白空間に真っ直ぐ伸びる朱色あかいろの階段を、ボクは首をかしげながら、ただひたすら足を運んで上り続けた。

 どのくらい上ったのだろう。もう何時間も上り続けたような気がする。
 そもそも、この世界に時間なんて存在するのだろうか。もちろん、時計の音は聞こえているから、時計が存在するのは分かるけれど、時計が存在しているからといっても、時間が存在していることの理由にはならない。
 だから、何時間もだなんて考えること自体が間違っているのかもしれない。それでもやっぱり、かなり長い時間、歩いているのは間違いない。

《……あれ?》

 さっきより、時計の音が大きくなっているような気がして、ボクは立ち止まって辺りを見回した。時計に近づいているということだろうか。

《誰かいるの?》

 ふと、誰もいないはずなのに誰かの気配を感じて、息を殺して身構えた。時計の音がボクの耳を支配する。

 やはり誰もいない。でも、本当に気のせいなのだろうか。靄がすべてを覆っているから気づかないだけで、実はボクの他にも誰かいるのかもしれない。この靄が吹き飛ばされれば、もっとよく見えるのに。

 突然、ボクの背後から爽やかな風がひゅうと吹き、を一気に吹き飛ばした。

《また別の階段?》

 さっきまで無かった別の階段が靄が晴れると同時にボクの前に姿を現した。これまでと違ってコンクリートでできているように見える。その階段に興味を持ったボクは、落ちないように気をつけながら飛び移った。

 爪先で階段を叩き、その材質を確かめる。コンコンと乾いた音と足に伝わる感触、そしてこの独特なちょっとだけ鼻を刺激するにおい。思った通りコンクリートでできているようだ。それに傷や欠けたところが見当たらないから、この階段はできて間もないのだろう。

 木の階段のような、包み込むような温かさはないけれど、今にも崩れそうな錆ついた階段と違って、しっかりした安定感と安心感がある。

 何より目眩がなくなった。

 ボクは、この階段を上ってみることにした。

 冷たくて無機質な階段にタンタンタンと響くスニーカーの軽い音が心地よい。

 声は吸われてしまうのに、こういう音は消えないらしい。
 この世界では、声とそれ以外の音は、きっと何かが違うのだろう。
 それでも、自分の発する音が聞こえるというのは、どこか救われるような思いがする。

 自分はちゃんとここに存在していると、自分の足音が教えてくれるから。

 明るい足音と、だんだん大きくなる時計の秒針音を聞きながら、ボクは、階段をリズミカルに上り続けた。

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