思い出の日記

福子

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8月5日:獣医

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 一台の自転車が、向こうに見える歩道を走っているのが見えた。話題を探していた僕は、クロに自転車の話をすることにした。

「僕ね、川に行くのが好きなんだ。」

「川?」

「そう。自転車のカゴに乗って、お姉ちゃんとサイクリングに行くの。すっごく楽しいんだよ。堤防なら歩かせてもらえるし、そこで風の匂いを楽しんだり、緑のざわめきを聞いてのんびりするの。」

 クロは、金色の目を輝かせていた。太陽が反射する水面のように、きらきら、きらきらと。

「そうか。自転車って、楽しい物なんだな。」

 クロは振り向き、自転車が走っているのを見た。

「ずっと、恐ろしいものだと思っていた。」

 クロの言葉は、僕の心を突き刺した。

 ずっと、怯えていたんだ。
 ずっと、逃げていたんだ。
 必死に、生きていたんだ。

「そう、楽しい。でも、ちょっと危ない。」

 僕は、飼い猫の世界を少しでもクロに伝えられるのだろうか。僕の話でクロが喜ぶなら、いくらでも話をしよう。クロはきっと、もう一人の僕だ。

「俺も、いつか乗れるのかな。」

 クロが、静かに言った。

「ねえ、クロ。」

「なんだ?」

 クロは、穏やかな瞳を僕に向けている。

「どうしてクロは、僕に声をかけたの?」

 思い切って、僕はクロに聞いてみた。

 あのときクロは、飼い猫はつまらなそうだからだと言っていたけれど、僕は納得していない。『つまらなそうだ』ということと『声をかける』ということの二つの間に『インガカンケイ』があるとは思えない。それが理由になるなら、これらを結ぶ何かがあるはずだ。

 僕は、それがずっと気になっていた。

「それは、前にも言った……!」

 クロが動揺している。
 隠し下手なクロの、何かを隠しているときの話し方。

「まあ、いいや。聞かないでおくよ。」

 僕は、あえてそれ以上言わなかった。
 クロは、僕の笑顔を見て拍子抜けしたような表情を見せたけれど、そうか、とつぶやいて帰って行った。



 お姉ちゃんは、今日も僕を連れて保健所へ向かった。

 しかし今日のお姉ちゃんは落ち着きがない。僕のカンが正しければ、昨日の獣医を探しているのだろう。僕は、ダシにされたという訳だ。

「おはようございます!」

 お姉ちゃんの明るい声が響く。その視線の先には、昨日の獣医が立っていた。

「今日も、お散歩ですか?」

「はい、お散歩です。健太が、どうしてもってせがむもので。」

「そうですか。」

 そんなことを言った覚えは全くないのだけれど、ここに来たいという気持ちがあったのは事実だから、とりあえずそういうことにしておいてあげよう。

 獣医は、昨日と同じように僕を撫で回した。くしゃくしゃになりながら、僕はゆるゆると流れる幸せな時間を楽しんだ。

「君は、幸せな子だね。」

 めいっぱい撫でながら、獣医は僕に言った。

「この世にいるのが、みんな、君みたいに幸せな子ばかりだったら……、いいのにね。」

 明るく穏やかな声は、寂しげで悲しげな、冬間近の秋の風を思わせた。

「あの……、先生も、その……、『処分』なさるんですか?」

 お姉ちゃんが、おそるおそる獣医にたずねた。聞きなれない言葉だけれど、お姉ちゃんの声や目の動きで、僕は、その言葉が持つ意味をなんとなく理解した。

「――しますよ。」

 答えは、簡潔だった。
 冷たい響き。何の感情もないような、そんな響き。だからこそ、悲しい。

「年間――、」

 獣医は、誰とも目を合わせずにぽつりと言った。その目は、深い深い闇を見つめているように見えた。

「約四百頭ほどの命を奪っています。それでも、最近ではようやく数が減ってきましたが、十年ほど前には四千から五千頭もの命を奪っていたこともありました。」

 お姉ちゃんは、目を丸くして小刻みに震え、今にも泣き出しそうな顔をしている。

「そんなに……!」
「……はい。」

 獣医は、複雑な顔をお姉ちゃんに向けた。
 悲しみ、怒り、そして……、

「何度やっても、慣れません。でも、慣れるしかないから心を殺しています。」

 獣医は、僕ら動物の命を助けてくれる人たちだ。病院は嫌いだけど、それくらいは僕にだって分かる。
 だけど、今、僕の目の前にいる獣医はとても無力な存在に見えた。

「動物病院に勤めていた頃は……、」

 無力な獣医が、僕の目をじっと見て続けた。

「死にかけた、たった一頭の犬の命を救うために、スタッフ総出で、徹夜で治療をしたんです……!」

 優しい獣医の目は、真っ赤になっていた。

「それが今は、どこも悪くない元気な命を、たった一瞬で……。かつて、たくさんの命を救ったこの手で、もっと多くの命を奪っているんです。」


 命の炎を一瞬で消す『罪』。


 この人は、心を傷だらけにしている。

「ここにいる動物たちのために私たちができるのは、めいっぱいの愛情を注いでやることだけなんです。お腹一杯ご飯を食べさせて、撫でてあげることだけなんです。」

 僕は、獣医の手から溢れる優しさは、ここから来るものだと知った。

「様々な、ドラマや映画、絵本や童話に登場する保健所は、動物を殺す悪いところだと描かれていることが本当に多い。」

 獣医は、まっすぐな瞳を今度はお姉ちゃんに向けた。

「保健所が悪いんじゃありません。保健所という存在を生み出した人間が悪いんです。動物たちのことを、ただ可愛いというだけの『動くぬいぐるみ』と思わずに責任とあふれる愛情を持ってちゃんと育ててくれたら、命を奪う保健所なんて必要なくなるんです!」

 無力な獣医の言葉は、僕とお姉ちゃんの心の中に、さまざまな疑問を投げかけた。


*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*


「クロは、保健所を『ゴミ箱』と呼んだ。」

 私は、目の前の友に向かって言った。

「確かに、命を奪うあの施設の存在は良くないと思う。でも、そこで働く人間たちは悪い人たちばかりではない。愛情を持って接している人たちも多くいる。」

 私は、背筋を伸ばした。

「私たちは忘れてはいけないのだ。そして、人間たちに伝えなければならない。私たちの命を一つでも多く救うために、心を傷だらけにして働いている人たちがいるのだという事実を。」

 鴉と鳶は、当時と変わらずそこにある保健所を、じっと見つめた。 

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