愛しくて悲しい僕ら

寺音

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第一章

8 夏休み

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「やっと終わったねー!」
 一足早く教室から出た明美が、うんと大きく伸びをする。半袖のTシャツから覗く日に焼けた肌が眩しい。
 必死で駆け抜けてきた大学前期もこれで終わり。怒涛のレポート提出や試験が終わると、二カ月弱の長い夏休みが始まるのだ。少しくらい浮かれた気持ちになってしまっても、仕方がないだろう。
 廊下を歩きながら、三月は明美と共にこれからやってくる夏休みに思いを馳せる。

「明美は夏休み中どうするの? 帰省するんだっけ?」
「んー、どうしようかなって思ってて。ほら、帰ろうと思えばすぐに帰れるじゃない? だから基本的にはこっちの友達と遊んだり、バイトでお小遣い稼ぎでもしてようかなって。三月は?」
「私は、八月中はずっと実家にいようかなって」

 明美も三月も実家は隣の県だ。新幹線を使わずとも二時間あれば帰省できるので、明美の言う通り、帰ろうと思えばいつでも帰ることができる。
 しかし、盆の時期には家族全員でお墓参りをするのが中山家の恒例行事だ。なんとなくお墓参りはしておかなければならない気がするし、久々に両親の手料理が食べたい気分でもある。

「そっか、三月ん家、家族仲いいもんねぇ。じゃあ、こっちに戻ってきたらまた遊びに行こう!」
「そうだね。九月の頭くらいには戻ってくるから、その時にまた誘って」
 喋りながら二人は学舎から外へ出る。
 大学前のバス停に向かう途中、三月はふと図書館前のベンチに目を向けた。今そこでは、知らない女子学生たちが談笑していた。
 は、夏休みをどう過ごすのだろうか。

 真志に警告をされてから、どうも優太と話をしづらくなってしまった。
 なぜ、あんな事を言われたのか、そもそも、あんな人と優太は何故一緒にいるのか。
 そんな疑問と、実は自分のことを迷惑に思われていたのでは、という後ろ向きな考えも浮かび、三月は優太の姿を見かけても、軽く挨拶をするだけに留めていた。
 短期のアルバイトを始めたり、女友達との付き合いもあったりと、忙しかったというのも理由である。
 しかし、帰省してしまえば、しばらく顔を見ることすらもできなくなる。
 挨拶くらいはしたいな。そんなことを考えてしまった三月は、一人不自然に目を泳がせた。







「うそ……」
 まさかこんな所で。そんな気持ちが思わず声に出て、三月は額の汗を拭いながら立ち尽くす。

 帰省のための荷造りを終え駅へと向かう途中、炎天下のベンチで居眠りをする神崎優太を見つけてしまったのだ。
 公園とも呼べないほどの、ちょっとしたベンチやつるりとした石のモニュメントが置かれた場所。そのベンチに腰かけ、彼はのんきに両目を閉じている。

 現在時刻は十四時、一日の中で最も日差しが強くなる時間帯で、ここは日陰もない場所だ。
 瓢箪のようなモニュメントは日の光を反射して輝き、触れなくとも高温になっていることが分かる。彼の座るベンチも相当熱いのではないだろうか。
 元々淡い色をしていた髪の毛も、日に焼けて益々色が抜けてしまいそうだ。
 熱中症にでもなったら大変である。

「先輩! 起きてください⁉︎」
 三月は小さめのキャリーバッグから手を離し、優太の肩を軽く揺すった。
 眉間に皺が寄って、彼が呻き声を上げる。まさか、寝ているのではなくて、意識が朦朧としているのではないだろうか。
 三月は顔色を変えて、一層声を張り上げる。

「先輩! 神崎先輩! 大丈夫ですか⁉︎」
「ん? あれ? 中山さん」
 睫毛を震わせて、優太がゆっくりと目を空ける。ぼんやりとしている様子に焦って、三月は彼に顔を近づけた。

「私のことは分かりますね? 眩暈がするとか、頭が痛いとか、体に異常はありませんか⁉︎」
「え? ああ、大丈夫だよ。そっか、僕寝ちゃってたのか」
 ばつの悪そうな顔で笑った優太を見て、三月はようやく肩の力を抜く。
 安堵する気持ちと同時に、何となく腹立たしい気持ちが浮かんでくる。

「なんでこんなところで寝ちゃってるんですか? というか、よくこんな熱い所で眠れますね」
「ごめん、心配かけちゃって。中山さん、起こしてくれてありがとう」
 優太は眉を下げて、申し訳なさそうな顔をしている。
 素直に謝られてしまった上に、叱られた子犬のような表情で見つめられてしまった。
 三月の怒りが空気の抜けた風船のように萎んでいく。

「とにかく、無事で良かったです。よっぽど、疲れていたんですか?」
「ん……、今読んでいる本が面白くて、つい夜更かししちゃってね。今度から気をつけるよ、約束する」
 だから許して、とでも言うように、優太は両手を顔の前で合わせて小首を傾げている。
 三月はうっと喉を詰まらせ、ため息を吐いた。

「別に、最初から怒ってませんよ。でも水分補給はちゃんとして下さいね」
 そう言って三月は、肩にかけたトートバッグの中を漁る。
 昼食の時に飲もうと購入したものだが、ちょうどいい。
 彼女は、ペットボトルの麦茶を優太に差し出した。

「これ、良かったら飲んで下さい。未開封ですから」
「ええ⁉︎ そんな、悪いよ」
「いいから飲んで下さい! 今は大丈夫でも、この後で倒れちゃったらどうするんですか」
 半ば強引に、三月は優太の両手に麦茶を押し付けた。
 少しぬるくなってしまっているが、キンキンに冷えた飲み物は却ってよくない。
 優太は驚いたように目を丸くしていたが、やがて頬を緩めてくすぐったそうに笑った。

「ありがとう。本当言うと、喉が渇いてたんだ」
 彼は早速ペットボトル蓋を開封し、麦茶を飲み始めた。喉が動くにつれて、かなりの速さで中身が減っていく。
 優太が息継ぎのような声を上げて口を離した時には、麦茶の量は半分ほどになっていた。

「生き返った……」
「本当に、もう。気をつけて下さいね」
 三月が眉を吊り上げて言うと、優太は誤魔化すような乾いた笑い声を上げる。
 そこで彼が、何かに気づいたように視線を落とした。

「そう言えば、中山さんは……時間大丈夫?」
 彼の視線は三月のキャリーバッグに向いていた。小ぶりとは言え、こんなもの持っていたら遠出をするのではないかと思ったのだろう。
 三月が左腕を上げて時計を確認すると、始めに乗ろうと思っていた電車は出発してしまっていた。

「大丈夫です。これから実家に帰る所だったんですけど、特に電車の時間は決めていなかったので。それに私の実家、近いんですよ。二時間もあれば十分帰れます」
 
 終電も確か二十二時台で、本数もそれなりにあったはずだ。多少のんびりしていても、全く問題はない。
 優太は胸に手を当てて、ほっとしたような表情を作った。

「だったら良かった。僕のせいで電車に乗り遅れていたらどうしようかと思って。――あ、だったら」
 優太は残りの麦茶を一気に飲み干すと、ベンチから腰を上げた。
 楽しげな表情で、駅とは反対側の方向を指差す。

「もう少し、僕に時間をくれるかな? 麦茶のお礼がしたいんだ。久しぶりに中山さんとも会えたし、中山さん、アイスとか好き?」
 久しぶりに会えた。そう思っていたのは、三月も同じだ。見返りが欲しくてやったことではないが、その甘美なお誘いは断りがたい。

「はい。大好きです」
「良かった。暑い日にはやっぱり、冷たいものだよね」
 爽やかに微笑みながら、優太は空のペットボトルをゴミ箱に入れた。
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