愛しくて悲しい僕ら

寺音

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第一章

2 悲しくも温かい夢

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 スーパーのビニール袋を机の上に下ろす。割り引きシールの貼られたのり弁と貰ってきた割り箸が、崩れ落ちるようにして袋から顔を覗かせた。
 玄関を入ってすぐに台所とバス、トイレ、そして寝室兼リビング。一人暮らしに相応しいこじんまりとした部屋だが、なぜこんなにも広く感じるのだろう。荷解きを手伝ってくれていた母が、帰ってしまったからなのだろうか。

 部屋の隅に視線を遣ると、未だ積まれた段ボール箱が見える。夕飯を食べることも、ましてそれを片づける気力もなく、中山三月なかやまみつきは備え付けのベッドに倒れ込んだ。

 少し埃っぽいマットレスに鼻先を埋め、目を閉じる。

 先週、彼女の大切なミーコが死んだ。

 ミーコというのは実家の飼い猫の名前で、まだ小さな子猫だった。
 三月がほんの一瞬目を離した隙に、ミーコは大通りへ飛び出し事故に遭ってしまったのだ。
 これは事故で、誰のせいでもないと家族には慰められた。けれど、もっと自分が注意していれば。
 その想いは彼女の胸の中で、ぐるぐると黒い渦を巻いている。

「ごめんね」
 謝るべき存在はもういない。いっそう虚しさだけが募った。
「ごめん……」
 受験勉強が上手くいかず辛かった時期、ミーコはいつも傍にいて自分を癒し慰めてくれた。合格発表の日、共に喜ぶかのようにその小さな体を寄せてくれた。
 なのに三月は、なんの恩返しもできなかった。

 強く目を閉じてみる。
 ミーコが亡くなってから今まで、一度も泣いていない。
 理由は分からない。まだ現実を受け止められていないのか、それとも自分が冷たい人間なのか。

 時計の秒針がやけに大きく聞こえる部屋で、三月は爪が食い込むほど拳を握り締めていた。






 にゃあと、甘えるような声が聞こえる。重い瞼を持ち上げると、三月の目の前に一匹の子猫がいた。
 真っ白な体、くりくりと動く黒いつぶらな瞳。つけてあげた赤色の首輪も、自分を見上げてゆるく尾を揺らす仕草も間違いなかった。

「ミーコ……?」
 膝をつき、おそるおそる手を伸ばすと、指先に柔らかい体毛が触れた。手のひらよりも小さな頭を、包み込むようにそっとなでてやる。
 ミーコは気持ちよさそうに目を閉じ、三月の手にすり寄ってきた。

 その感触はとても温かかった。
 ミーコは死んでしまった、はずなのに。

「ミーコ!」
 小さな体を持ち上げ、胸に抱いた。堰を切ったように、瞳から涙があふれ出す。

「ごめん、ちゃんと気をつけてあげられなくて、ごめんね!」
 あの日、庭でミーコと遊んでいた時、三月は考え事をしていた。大したことではない。そろそろ大学へ戻るための荷造りを始めないと、だとかそんな他愛のないこと。

 気がついた時には、小さな身体は車道に飛び出していた。
 それからは、あっという間の出来事。

「まだ小さいのに、痛い思いさせてごめんね。本当に」
 どんな言葉でも足りない。ただ泣きながら、小さな体をそっと抱きしめた。

 遠慮がちにミーコが三月の頬をなめる。そして、するりと彼女の腕から抜け出した。
「あ」
 彼女に背を向けて、朝焼けのようにぼんやりと光る方へ歩き出す。

「待って!」
 慌てて立ち上がり、ミーコの後を追おうとした。
 ミーコが一瞬立ち止まり、振り返る。何故かそれが彼女には、来るなと言っているような気がした。

 可愛らしい声でもう一度鳴くと、小さな体は光の中に飛び込んでいった。

 あんなに出てこなかった涙が、止まらない。後から後から流れてきて、前が全く見えなくなった。

 謝っても謝っても、苦しさと後悔は増していくばかりだ。
 ミーコは何故、こんな自分の元に来てくれたのだろう。分からない。胸がどうしようもなく痛い。
 三月は溢れる涙を拭うことなく、自分の心臓へ両手を当てた。

「え……なに?」
 誰かがいる。
 ミーコと自分しかいなかった空間に突然、人の気配が現れた。

「誰……?」
 考える間もなく、誰かがそっと、俯く彼女の目の前に手を差し出した。視線を上げるが、視界が滲んでそのの顔はよく見えない。
 しかし、まるでそうするのが当たり前のように、三月は誰かの手を握った。

 とても温かい。疼くような胸の痛みが、雪のように溶けて消えていく。春の日差しの中で微睡まどろんでるように、とても心地よい。
 三月はさらに強くその手を握る。

 その時、歌が聞こえてきた。握ってくれたその手と同じ、強くて優しいメロディだ。

 三月は空いた片手で涙を拭い、両目をしっかりと開く。自分の手を握ってくれていた誰かは、いつの間にか消えている。
 すぐ隣で、にゃぁと可愛らしい声がした。思い出した。それはミーコが自分を慰めようとするときの、鳴き方だった。

 そうか。
 ミーコは自分を責めに来た訳でも、謝る機会をくれた訳でもなくて、自分を慰めに来てくれたのだ。いつものように。

「ありがとう」
 もう一度ミーコの鳴き声が響く。
 三月にはその声が、どこか誇らしげに聞こえた。





 眩しい。片手で目を覆いながら薄く瞼を開くと、低い天井が目に入る。
 少し開いた空色のカーテンから光が射し込んでいた。
 あれからいつの間にか、ベッドの上で眠ってしまったようだ。

 立ち上がって、ベッドの傍のカーテンと窓を開く。冷えた風が無防備な肌を撫で、思わず両手で肩を抱いた。

 まだ太陽が昇りきる前、薄く光を帯びる町はまだ眠っているようだ。
 両手を広げて大きく息を吸い込むと、新鮮な空気が身体の隅々まで行き渡る。全身の力を抜くように、長く息を吐いた。

 何故だかとても気分が良い。
 胸が高鳴って、いてもたってもいられない。
 三月は荷物の中から携帯電話と財布を取り出すと、町に飛び出していった。





 そう、この歌を聞いたのは夢の中だ。
 あの夢が自分の気持ちを救ってくれたのに、すっかり忘れてしまっていた。

 彼の歌はまだ続いている。気持ちよさそうに歌う青年の表情は生き生きとしていて、眩しかった。
 目が離せない。強く惹かれて、三月はその横顔を見つめた。

 電線に止まった雀が、彼の歌声へ寄り添い歌うようにさえずる。小さな翼を羽ばたかせ広場の中へ下りてきて、青年はそれを目で追うように視線を動かした。
 不意に、三月と目が合う。紡がれていた歌が止んだ。

「あ……」
 彼女は顔を赤く染めた。人の顔をじろじろ眺めるなんて、なんて失礼なことを。

 青年も人がいるとは思わなかったらしく、少し口を開けたまま動きを止めている。
 風でなびく色素の薄い髪、髪と同じ色の瞳は大きく、少し愁いを帯びている。
 口を開けっ放しにした、そんな表情すら絵になってしまう、綺麗な人だ。

「え、いえ、あの」
 違う。男の人に綺麗だなんておかしい。こんなことを思うなんてもう、自分がおかしい。
「す、すみませんでした!」
 三月は逃げるようにその場を立ち去った。

 全力疾走なんて、高校の体力測定以来。焦っているのか、そんなどうでも良いことが頭に浮かぶ。
 一度も後ろを振り返らず、家に走って帰った。

 その日は一日中、胸が騒いで落ち着かなかった。
 
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