傷が「跡」に変わる頃には

寺音

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 足が重い。唯香ゆいかは一歩一歩足の裏を引き剥がすようにしながら、喧騒の教室へ足を踏み入れる。窓際の自分の後ろの席に、相変わらずゆるくウェーブのかかった後頭部が見えた。心臓が跳ね、思わず足が止まってしまう。感覚はないはずなのに、また左胸から赤黒い液体が流れ出たような気がして背筋が凍った。
 ふと、髪を揺らして親友が笑顔で振り返る。
「あ、おはよー唯香、今日は遅かった――って、顔色最悪だよ⁉」
 顔色を変えて、大丈夫と尋ねてくる茉莉まりの顔から目を逸らしながら、唯香はか細い声で大丈夫と答える。

 鏡を見なければいい。見てしまったとしても、傷を意識しなければいい。
 いずれ、気味の悪い状況にも慣れるだろう。
 そう思っていたのは、甘かったようだ。

 鏡はあらゆる場所に存在する。トイレにも教室にも廊下にも、帰宅すれば玄関、洗面所、自室などにも。普段はあまり意識していなかっただけで、唯香の周囲にはたくさんの鏡があった。
 しかも、傷を写し出すのは鏡だけではなかった。窓ガラスや水面、鏡のように自分の姿を映し出すものならなんでも、あの傷を鮮明に映し出してしまうのだ。

 たった一日で唯香は完全に参ってしまっていた。
 顔色は真っ白で覇気がなく、怪我人か死人のようだ。茉莉が驚いたのも無理はないだろう。

「調子悪そうだよ? 今日はもう帰った方が良いんじゃない? あ、私から先生に言っておこうか?」
 立ち上がった茉莉は、眉を下げ心底心配そうに唯香の顔を覗き込んでくる。今までは心地良かったはずのその視線から、唯香は目を思い切り背けた。
「早退するほどじゃないよ。ちょっとその、昨日夜更かししちゃって寝不足なだけだから」
「じゃあせめて保健室に行って!」
 茉莉の態度は強引だ。止めてと叫びたくなる気持ちを必死で押し殺し、彼女の前から逃げたい一心で唯香は保健室に行くことを了承する。
「そうね。じゃあ、ちょっと行ってくるわ」
「うん、その方が良いよ。私ついていくから――」
「良いの! 本当に私一人で、大丈夫だから。だから、茉莉はここにいて」
 付き添ってくれようとする茉莉をなんとか宥めて、唯香は授業開始の予鈴と入れ替わるように教室から出て行った。
 人の気も知らないで。
 何故かそんな言葉が思い浮かんで、唯香は強く唇を結んで首を振る。

 本当は行きたくなかったが、保健室のベッドで休ませてもらえれば、少なくとも鏡は見ないですむ。静かな廊下を歩き、唯香はフラフラと保健室のある一階へと向かった。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。何故、私がこんな目に遭わないといけないのだろう。
 むしろ私は苦しい想いをしないように、傷つかないようにしていたはずなのに。
 どうして。

 階段に足をかけ、手すりを持ちながら慎重に下りていく。その時、階段の踊り場に見慣れた姿が写って、唯香は足を止めた。左胸に痛々しい傷を抱えた、今一番見たくない自分自身の姿。
 やってしまった。ここの階段の踊り場の壁には、大きな姿見が設置されているのである。

 白い顔に反して、胸の傷は鮮やかな赤色をしていた。今でも血を流し続けているように。
 すぐに立ち去れば、もしくは、ただ目を逸らせば良いだけなのに、何故か唯香の視線と足はそこに縫い止められたかのように動けなかった。
 まるで、真実を見せつけられているかようだった。

「止めてよ⁉」
 悲鳴を上げて、唯香はその場に座り込む。顔を覆って見ないようにしていても、瞼の裏にはあの赤色が焼き付いて消えなかった。
 傷ついていないなんて、嘘だ。本当は分かっていた。この傷は、唯香の「真実」だ。
 確かに、あの時から、自分の心は傷ついていたのだから。

『唯香、私ね。彼氏ができたんだ』
 夏休みの前の日。無邪気な顔でそう報告してくれた茉莉。真夏の太陽にも負けない笑顔を振りまいて、本当に幸せそうだった。
 その裏で私がどんな気持ちを抱えていたのかなんて、彼女は知らない。知るわけがない。
 唯香は自分の中に生まれた醜い感情に蓋をして、必死で茉莉に笑顔を向けた。

 必死で気づかないフリをしていた想いなのに。このまま自覚しなければ、きっとやり過ごせていたはずなのに。
 苦しくて辛くて、痛くて。
 もう嫌だ。見たくない。
 唯香は立ち上がり、鏡に向かって思い切り拳を振り上げた。
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