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三月四日 『書かない小説家』 その2
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2023/03/04 2
カランコロン。
独特のドアベルの音。
煙草とコーヒーが染み込んだような壁と長い年月を感じさせる焦茶の重厚な扉。
どこか懐かしい、喫茶店。
そこには行き場を失った同志達。
どれもこれもみな、やっと一息つけたとばかりに呆けている。
まあ、私もそのうちの一人になるのだ。
と、思っていたが、どうにも席が空いていない。
店員は忙しなく働いていて、なんとなく声を掛けるのは躊躇らってしまった。
第一声を逃すと不思議なもので声が出ない。
どうしたものか、と考えていると、そこでやっと気付いたウェイターがこちらにきた。
「お一人様ですか?」
「はい」
「ただいま満席でして、相席でよろしいでしょうか?」
もちろん、と頷くと、確認を取って参りますとウェイターが離れようとすると、そこにウエイトレスが現れる。
「相席でしたら、あちらのお客様がこちらにどうぞ、と」
「ああ、すみませんね。ではお願いしましょう」
「はい、どうぞ、あちらの席です」
席を見ると、そこには三十から四十と見られる男性が和かに座っていた。
ふむ、気風のいい方だ。ありがたい。
私は席に近づくと、帽子を取って言う。
「いやはや、すみませんな」
「いいえ、この店、人気ですからね」
なんとも爽やかな顔をする。
こういう人を見ると、ほっと安心するものだな。
そう思いながらコートを脱ぎ、やってきたウエイトレスに、コーヒーを注文した。
置かれた灰皿を見て、やっと吸える、と安堵する。
目の前の彼は、今は吸っていない。
一応、礼儀として声をかけると、これまた彼は微笑み、もちろん、と一本取り出して火をつけた。
なんというか、彼とのやりとりはずいぶんとスムーズに感じる。
こちらを気にするでもなく心地良い会話を繰り広げる、というのは難しい。
それを彼はいとも簡単にやってのける。
相当な人格者か、はたまたサイコパスか。
それだけの所作が彼にはあった。
と、そこで彼は本を取り出した。
本……書かねば。
またしても苦悩が蘇る。
どうしたものか。
ページが捲れる音が、いやに耳に入る。
なんとなく。
本当になんとなくだった。
「失礼ですが、本はよくお読みになるのですか」
そう、口から漏れた。
「ええ。と、いってもこういう本は年に二、三冊ですよ。仕事柄、技術書の類の方が多いですね」
物語を読むのは久しぶりです、と続け、カバーを外す彼。
それは、先ほどの書店で見た、人気の推理小説だった。
そして、彼は視線を戻す。
その目は、まるで幼き日の写真を見つめるように懐かしむような、恋人を撫でるときのように慈しんでいるような、愛おしそうな目であった。
これは、なにかのきっかけなのかもしれん。
いや、しかし、彼のこの充実した時間を奪ってよいものか。
きっと彼は快く引き受けてくれる。
だとして、この偏屈ジジイの話に巻き込んでいいものか。
瞬時に様々な考えが巡る。
しかし、私はこういう時、思い切りがいいのだ。
でなければ妻を捕まえることなど到底敵わなかったんだから。
ええい、言ってしまえ。
そう思った私の行動は早かった。
「これも何かの縁、と思って、少し老人にアドバイスなどしていただけませんか」
突然の話に、えっ、と呆気に取られる彼。
しまった。調子に乗ったか、と後悔するのも束の間、すぐさま彼は本を置いた。
「もちろんです。私にできることなら、是非」
ああ、なんと気風のいい男だ!
ありがたい!
しかし、何と言ったものか。
実は小説家で……などと話をするのも恥ずかしい。
特段、職業を恥じているわけでもないが、マイナーな小説家が目の前にいても困るだろう。
ううむ。
……そうだ、こうしよう。
「いやなに、アドバイスと言っても、先ほど書店に――そう、目の前に書店があるでしょう。
私も物語でも読みながらコーヒーでも、と思って、あそこに寄ってきたのですが、どうにも最近の流行りはわからなくて」
「ああ、そうですよね。なんだか昔と違って表紙は派手だし、私も手に取るには悩みました」
わかってくれるか!
「ええ、そうなんです。老人は老人らしく、とも思いますが、いやはやなんとも」
嬉しくなって、言葉が濁る。
……喋るのはあまり得意ではないのだ。
「そうでしょうか?年齢に問わず、その文化を知りたい、というのは立派なことだと思います」
彼は、至極当然、といった顔で言う。
ああ、そうか。
それでいいのか。
妙に、腑に落ちた。
「ありがたい言葉だ」
「そんな! 思ったことを言っただけで……」
しどろもどろになる彼に、なんとも愛らしさを感じる。
ところで、と私は本題に入る。
「最近の人は、というとあまりよろしくはないが、どういった本を好まれるのですかな?
書店で見たところ、純文学はもとより、文芸も立場を狭めているようだ。
ライトノベル、なんて言葉も耳にしますが、ありゃあ私のようなものが手に取るには気が引ける」
「やっぱりみんな、手軽、に、と言っては作家さんに悪いけれど、そういうのを求めているのかなあ」
「手軽、か。文芸や純文など、時代遅れなのかな。
私のようなものには、なんとも寂しいものだ。
本というのは、何処か知らないところに連れて行ってくれる。
より濃密に、より濃厚にその世界に没頭する。
正直に言わせてもらえば、ライトノベルでは没頭できないのだ。
その世界に」
彼は、どうでしょうね、と考え込んでしまう。
二本目に手をつけて、コーヒーを一口啜る。
すると彼も、次の煙草に火をつけて、ふう、と一息いれてから、語り出した。
「ライトノベルの原型を最初に作った人ってすごく面白い人だと思うんです。
だんだんと、本って、特に紙の媒体なんて読まれなくなってきている。
そういう歴史の分岐点みたいな最前線。
きっと単純に、みんな本を読まなくなってきてるならどういうのなら興味を持つんだろう、とか思って、実験みたいに始めたんじゃないかな。
その本を読む意味なんて二の次……は言い過ぎかな。
面白い物語でも読んで、気晴らししてくれればいいとか、それでじゅうぶんなんじゃないかなって思います」
なんとも容量を得ない話だった。
私との会話から、彼は何を連想したのか。
それすらわからないような、辻褄の合わない唐突な一人語り。
目から鱗だった。
私にとって、それがじゅうぶんだった。
「……名誉や、金目当ての作家もいるんじゃないだろうか」
「だとしても、人が喜んでいる、楽しんでいるのは確かです。
作家の目的が様々だとしても、そこに感動を覚える人がいる、っていうのは作家だけじゃなくて創り出すことに従事している人なら、喜ぶことだと思うんです。
じゃあ、その場しのぎでも気晴らしになるもの。
例えば、見て聞いて少し笑えるジョークとかギャグみたいな、そういうのって疲れているときほど効くと思うんです。
本だって、そういうのでもいいんじゃないかなあ」
「ライトノベルは、そういうものだと?」
「もちろん全部が全部とは言いませんが、僕はそう思ってます。
最近のなんか、僕みたいな世代より若い人には耳馴染んだゲーム世界みたいな設定を使い回しているようなジャンルまである。
それって、とんでもなく疲れないんですよ。
本を読む、物語に没頭するって疲れるんです。
それが綿密であればあるほど。
だから、すごく忙しい人にとって、ああいうのってすごく気晴らしになるんじゃないかなって」
需要と供給、と言ってしまえばそれまでだ。
資本主義と言ってしまえば、それまでだ。
ああ、なるほど。
この男が言いたいのは、言葉の力のなんたるか、なのだ。
私のような、モノを書く、『物書き』という人種が、常々感じている、言葉の力。
人に物を伝えるだけではない。教えるだけではない。
投げかける問いのような、言葉の力。
ほら、こんなことがあるよ。
これって、面白くないか。
こういう世界に行ってみたいね。
こういう人がいるかもよ。
そんな魔法のような言葉たち。
「どんな文章にも意味はある、か。君は変わっているな」
「よく言われます」
彼は軽快に笑いながらコーヒーを啜った。
何のことはない。
私は、意気込みすぎていたのだ。
書けないはずだ。
誰かの代打だと、卑屈になって重圧を感じ、『面白いモノ』を書かねば、と。『売れるモノ』を書かねば、と。
そう思いこんでいた。
だから、そうならないように、編集の彼は言ってくれていたではないか。
自分が買う、と。
売るのはこっちの仕事、と。
貴方はただ書けばいい、と。
なんとも情けない。
そこまで気を使われていたことに、何も気付いていなかったのだから。
妻にしてみても、そうだ。
今の私は、連れ出して気晴らしをしなければいけない、と思うほどに、自分を追い詰めているように見えたんじゃないか。
あの妻が、だ。
私が作家業に勤しんでいるときに、そっと内助の功で支えるような妻が、わざわざ外出に誘う。
そして、私はそれを楽しみにするほどに作家業に夢中になれていない。
そんなこと、今までの人生でなかった。
昼夜が反転しようとも、妻や友人に迷惑をかけようとも、編集の彼に散々急かされようとも、私は私の書きたいものを書いてきた。
そうだ、『私が面白いだろう』と自信を持って言えるものを書いてきた。
寝食を忘れて、何もかも置き去りにして、私が没頭できなくてはどうする?
誰がそんなものを読むのだ?
いや、誰かは読むのかもしれない。
商業的成功を収めるのかもしれない。
私は、それがしたいのではない。
考え込む私を見て、彼が声を掛ける。
「あの……若輩者の話なのであまり真に受けないでもらえると……」
「ああ、そうではないんだ。
いや、ありがとう」
そう言うと、彼は照れくさそうに俯いてしまった。
先ほどまでの語りをしていた男とは思えないほどで、ちぐはぐな奴だな、と笑ってしまった。
「いやはや、失敬。
本当に君の言葉に気付かされたのだ」
「そう言っていただけると、僕も嬉しいです」
僕、か。
途中から一人称が変わっている。
この男の本質はこちらなのだろう。
違和感がないほどの変化。
それはこの男が正直に生きていることの表れなのだろう。
うむ、やはり思った通りのいい人だった。
気前のよくなった私は、彼にこう提案した。
「何か礼をしたいのだが……金銭というのではよくないだろうか。
私にできることというのは少ないので、こういう発想になってしまうのが申し訳ない」
「お礼なんて……」
あ、そうだ、と何かに気付く彼。
「あの、こんなこと聞くのはよくないかもしれませんが、御結婚ってされてらっしゃいますか?」
おずおずと苦笑いで聞いてくる。
男に言うのもなんだが、なんとも愛らしい犬のような奴だ。
「こう見えて一応、。ことあるごとに口うるさくて敵わん」
あはは、と笑う彼。
「あの、お礼代わりに相談に乗ってほしいんですけど、記念日のプレゼントとかって、どうしてます?」
「ぷ、ぷれぜんと?」
記念日のプレゼントとはこれはまた想定外の……
むむむ?
記念日。
なんてこった。
……なんてこった!!
今日は結婚記念日じゃないか!!!!
カランコロン。
独特のドアベルの音。
煙草とコーヒーが染み込んだような壁と長い年月を感じさせる焦茶の重厚な扉。
どこか懐かしい、喫茶店。
そこには行き場を失った同志達。
どれもこれもみな、やっと一息つけたとばかりに呆けている。
まあ、私もそのうちの一人になるのだ。
と、思っていたが、どうにも席が空いていない。
店員は忙しなく働いていて、なんとなく声を掛けるのは躊躇らってしまった。
第一声を逃すと不思議なもので声が出ない。
どうしたものか、と考えていると、そこでやっと気付いたウェイターがこちらにきた。
「お一人様ですか?」
「はい」
「ただいま満席でして、相席でよろしいでしょうか?」
もちろん、と頷くと、確認を取って参りますとウェイターが離れようとすると、そこにウエイトレスが現れる。
「相席でしたら、あちらのお客様がこちらにどうぞ、と」
「ああ、すみませんね。ではお願いしましょう」
「はい、どうぞ、あちらの席です」
席を見ると、そこには三十から四十と見られる男性が和かに座っていた。
ふむ、気風のいい方だ。ありがたい。
私は席に近づくと、帽子を取って言う。
「いやはや、すみませんな」
「いいえ、この店、人気ですからね」
なんとも爽やかな顔をする。
こういう人を見ると、ほっと安心するものだな。
そう思いながらコートを脱ぎ、やってきたウエイトレスに、コーヒーを注文した。
置かれた灰皿を見て、やっと吸える、と安堵する。
目の前の彼は、今は吸っていない。
一応、礼儀として声をかけると、これまた彼は微笑み、もちろん、と一本取り出して火をつけた。
なんというか、彼とのやりとりはずいぶんとスムーズに感じる。
こちらを気にするでもなく心地良い会話を繰り広げる、というのは難しい。
それを彼はいとも簡単にやってのける。
相当な人格者か、はたまたサイコパスか。
それだけの所作が彼にはあった。
と、そこで彼は本を取り出した。
本……書かねば。
またしても苦悩が蘇る。
どうしたものか。
ページが捲れる音が、いやに耳に入る。
なんとなく。
本当になんとなくだった。
「失礼ですが、本はよくお読みになるのですか」
そう、口から漏れた。
「ええ。と、いってもこういう本は年に二、三冊ですよ。仕事柄、技術書の類の方が多いですね」
物語を読むのは久しぶりです、と続け、カバーを外す彼。
それは、先ほどの書店で見た、人気の推理小説だった。
そして、彼は視線を戻す。
その目は、まるで幼き日の写真を見つめるように懐かしむような、恋人を撫でるときのように慈しんでいるような、愛おしそうな目であった。
これは、なにかのきっかけなのかもしれん。
いや、しかし、彼のこの充実した時間を奪ってよいものか。
きっと彼は快く引き受けてくれる。
だとして、この偏屈ジジイの話に巻き込んでいいものか。
瞬時に様々な考えが巡る。
しかし、私はこういう時、思い切りがいいのだ。
でなければ妻を捕まえることなど到底敵わなかったんだから。
ええい、言ってしまえ。
そう思った私の行動は早かった。
「これも何かの縁、と思って、少し老人にアドバイスなどしていただけませんか」
突然の話に、えっ、と呆気に取られる彼。
しまった。調子に乗ったか、と後悔するのも束の間、すぐさま彼は本を置いた。
「もちろんです。私にできることなら、是非」
ああ、なんと気風のいい男だ!
ありがたい!
しかし、何と言ったものか。
実は小説家で……などと話をするのも恥ずかしい。
特段、職業を恥じているわけでもないが、マイナーな小説家が目の前にいても困るだろう。
ううむ。
……そうだ、こうしよう。
「いやなに、アドバイスと言っても、先ほど書店に――そう、目の前に書店があるでしょう。
私も物語でも読みながらコーヒーでも、と思って、あそこに寄ってきたのですが、どうにも最近の流行りはわからなくて」
「ああ、そうですよね。なんだか昔と違って表紙は派手だし、私も手に取るには悩みました」
わかってくれるか!
「ええ、そうなんです。老人は老人らしく、とも思いますが、いやはやなんとも」
嬉しくなって、言葉が濁る。
……喋るのはあまり得意ではないのだ。
「そうでしょうか?年齢に問わず、その文化を知りたい、というのは立派なことだと思います」
彼は、至極当然、といった顔で言う。
ああ、そうか。
それでいいのか。
妙に、腑に落ちた。
「ありがたい言葉だ」
「そんな! 思ったことを言っただけで……」
しどろもどろになる彼に、なんとも愛らしさを感じる。
ところで、と私は本題に入る。
「最近の人は、というとあまりよろしくはないが、どういった本を好まれるのですかな?
書店で見たところ、純文学はもとより、文芸も立場を狭めているようだ。
ライトノベル、なんて言葉も耳にしますが、ありゃあ私のようなものが手に取るには気が引ける」
「やっぱりみんな、手軽、に、と言っては作家さんに悪いけれど、そういうのを求めているのかなあ」
「手軽、か。文芸や純文など、時代遅れなのかな。
私のようなものには、なんとも寂しいものだ。
本というのは、何処か知らないところに連れて行ってくれる。
より濃密に、より濃厚にその世界に没頭する。
正直に言わせてもらえば、ライトノベルでは没頭できないのだ。
その世界に」
彼は、どうでしょうね、と考え込んでしまう。
二本目に手をつけて、コーヒーを一口啜る。
すると彼も、次の煙草に火をつけて、ふう、と一息いれてから、語り出した。
「ライトノベルの原型を最初に作った人ってすごく面白い人だと思うんです。
だんだんと、本って、特に紙の媒体なんて読まれなくなってきている。
そういう歴史の分岐点みたいな最前線。
きっと単純に、みんな本を読まなくなってきてるならどういうのなら興味を持つんだろう、とか思って、実験みたいに始めたんじゃないかな。
その本を読む意味なんて二の次……は言い過ぎかな。
面白い物語でも読んで、気晴らししてくれればいいとか、それでじゅうぶんなんじゃないかなって思います」
なんとも容量を得ない話だった。
私との会話から、彼は何を連想したのか。
それすらわからないような、辻褄の合わない唐突な一人語り。
目から鱗だった。
私にとって、それがじゅうぶんだった。
「……名誉や、金目当ての作家もいるんじゃないだろうか」
「だとしても、人が喜んでいる、楽しんでいるのは確かです。
作家の目的が様々だとしても、そこに感動を覚える人がいる、っていうのは作家だけじゃなくて創り出すことに従事している人なら、喜ぶことだと思うんです。
じゃあ、その場しのぎでも気晴らしになるもの。
例えば、見て聞いて少し笑えるジョークとかギャグみたいな、そういうのって疲れているときほど効くと思うんです。
本だって、そういうのでもいいんじゃないかなあ」
「ライトノベルは、そういうものだと?」
「もちろん全部が全部とは言いませんが、僕はそう思ってます。
最近のなんか、僕みたいな世代より若い人には耳馴染んだゲーム世界みたいな設定を使い回しているようなジャンルまである。
それって、とんでもなく疲れないんですよ。
本を読む、物語に没頭するって疲れるんです。
それが綿密であればあるほど。
だから、すごく忙しい人にとって、ああいうのってすごく気晴らしになるんじゃないかなって」
需要と供給、と言ってしまえばそれまでだ。
資本主義と言ってしまえば、それまでだ。
ああ、なるほど。
この男が言いたいのは、言葉の力のなんたるか、なのだ。
私のような、モノを書く、『物書き』という人種が、常々感じている、言葉の力。
人に物を伝えるだけではない。教えるだけではない。
投げかける問いのような、言葉の力。
ほら、こんなことがあるよ。
これって、面白くないか。
こういう世界に行ってみたいね。
こういう人がいるかもよ。
そんな魔法のような言葉たち。
「どんな文章にも意味はある、か。君は変わっているな」
「よく言われます」
彼は軽快に笑いながらコーヒーを啜った。
何のことはない。
私は、意気込みすぎていたのだ。
書けないはずだ。
誰かの代打だと、卑屈になって重圧を感じ、『面白いモノ』を書かねば、と。『売れるモノ』を書かねば、と。
そう思いこんでいた。
だから、そうならないように、編集の彼は言ってくれていたではないか。
自分が買う、と。
売るのはこっちの仕事、と。
貴方はただ書けばいい、と。
なんとも情けない。
そこまで気を使われていたことに、何も気付いていなかったのだから。
妻にしてみても、そうだ。
今の私は、連れ出して気晴らしをしなければいけない、と思うほどに、自分を追い詰めているように見えたんじゃないか。
あの妻が、だ。
私が作家業に勤しんでいるときに、そっと内助の功で支えるような妻が、わざわざ外出に誘う。
そして、私はそれを楽しみにするほどに作家業に夢中になれていない。
そんなこと、今までの人生でなかった。
昼夜が反転しようとも、妻や友人に迷惑をかけようとも、編集の彼に散々急かされようとも、私は私の書きたいものを書いてきた。
そうだ、『私が面白いだろう』と自信を持って言えるものを書いてきた。
寝食を忘れて、何もかも置き去りにして、私が没頭できなくてはどうする?
誰がそんなものを読むのだ?
いや、誰かは読むのかもしれない。
商業的成功を収めるのかもしれない。
私は、それがしたいのではない。
考え込む私を見て、彼が声を掛ける。
「あの……若輩者の話なのであまり真に受けないでもらえると……」
「ああ、そうではないんだ。
いや、ありがとう」
そう言うと、彼は照れくさそうに俯いてしまった。
先ほどまでの語りをしていた男とは思えないほどで、ちぐはぐな奴だな、と笑ってしまった。
「いやはや、失敬。
本当に君の言葉に気付かされたのだ」
「そう言っていただけると、僕も嬉しいです」
僕、か。
途中から一人称が変わっている。
この男の本質はこちらなのだろう。
違和感がないほどの変化。
それはこの男が正直に生きていることの表れなのだろう。
うむ、やはり思った通りのいい人だった。
気前のよくなった私は、彼にこう提案した。
「何か礼をしたいのだが……金銭というのではよくないだろうか。
私にできることというのは少ないので、こういう発想になってしまうのが申し訳ない」
「お礼なんて……」
あ、そうだ、と何かに気付く彼。
「あの、こんなこと聞くのはよくないかもしれませんが、御結婚ってされてらっしゃいますか?」
おずおずと苦笑いで聞いてくる。
男に言うのもなんだが、なんとも愛らしい犬のような奴だ。
「こう見えて一応、。ことあるごとに口うるさくて敵わん」
あはは、と笑う彼。
「あの、お礼代わりに相談に乗ってほしいんですけど、記念日のプレゼントとかって、どうしてます?」
「ぷ、ぷれぜんと?」
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