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二月二十日 缶ビールとホタルイカ
しおりを挟む目が覚めると、なにやら部屋が暖かい。
少しずつ三寒四温に近づいていく季節の流れは、歳を重ねるごとに早くなっていく。
駅にほど近い2DKは寝食と仕事に明け暮れるための我が居城。
築五十年は経つというオンボロは、鉄筋コンクリートでしっかりとそびえ立つものの、その日に寄って、寒くて暑い。
洋室の小さな窓を本棚で埋めてしまってから、我が家に日光が入るのは隣の和室、一部屋のみ。
担当者に「陰気で老獪な性格が滲み出るような部屋だ」と評されたのがお気に入りだ。
重い体にエンジンをかけ、腐った死体のような体のまま台所へ向かうと、水を一杯。
「やれやれ、夜更かしなんてするもんではないなあ」
独りごちるのも様になったものだ。
さて、とばかりに灰皿から長いシケモクを一本選ぶと火を点ける。
貧乏くさいが、これはこれで好きなのだ。
どうせ、ひとりだ。
誰も見ていない。
湿気っていて柔らかいような、焦げて苦いような煙は、ロートルに爪先を突っ込み始めた身体に火を灯してくれる。
いやはや、昨夜は捗った。
寝食忘れてとはこのことだ。
まあ、夕飯はしっかり食べたが。
ふう、と煙を吐くと同時に、そういえば、と思い出す。
ここ連日の雨は、この暖かさをみるに止んでいるに違いない。
溜まり溜まった洗濯を済ませるべきは今日ではないか。
そうしよう。
ならば、と新たに煙草を咥え火をつける。
そうして足早に洗濯カゴを手に取り、和室の戸を開く。
開かれたのはまるでこの世の始まりがそこにあると言わんばかりの溢れる光、というのは大層大袈裟だが、出不精でここ数日髭も整えていない地獄明けの骨身に染みるのは確かであった。
あまりの眩しさに手をかざし、一歩二歩と進んでベランダへ出る。
そこには、見事なまでの晴れ模様。
高い建物の隙間を縫って見える青い空。
薄綿を散らしたような白い雲。
身を乗り出すと遠くの山まで見える。
陽気に誘われ出でた母と子どもの笑い声。
そこにびゅん、と吹く強い風。
うっ、と一瞬、顔をしかめるも、なんとも温かい。
春一番。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
おっと、忘れるところだった。
私は洗濯をしにきたのだ。
オンボロマンションに珍しくなく、我が家の洗濯機はベランダにある。
傍にある洗濯物の山は、どうにも一回では終わらなさそうだ。
そう思いながらも。ぎゅうぎゅうと詰め込みスイッチオン。
さて、どうしたものか。
なんとも、この中途半端な時間が気に食わない。
そこに、またびゅん、と暖かい風が吹く。
お、そうだ。こうしよう。
軽い足取りで台所に戻ると、煙草と灰皿、それに読みかけの本を手に取る。
一度、それらを和室のベランダに置きに行くと、また足早に台所へ。
冷蔵庫を空けて、缶を取り出す。
なにやら若い子の間では、銀色のやつ、で伝わるあいつだ。
にやにやしているのが自分でもわかった。
カシュッ
プルタブを引くと、小気味の良い音。
そのまま、ゴクッ、と喉を鳴らして一口。
まだ少々寒いかもしれないがそれも一興。
しかし、なにか胃に入れておかなければ、お、そうそうこれがあった。
近頃はコンビニでこんなものも売っているのだから嬉しいものだ。
取り出したのは、小さなプラスチック容器に入ったホタルイカの沖漬け。
コンビニのプライベートブランドというわけでもないので店員の趣味だったりするのだろうか。
だとすれば、なんともわかっている店員である。
これと箸を片手に、缶ビールを片手に、ベランダへ向かう。
いやあ、いい心地だ。
缶ビールとホタルイカ。
本と煙草。
洗濯機の音と青い空。
春一番と人の声。
このような空間、なにに変えられよう。
伸びをして、そのままひっくり返る。
陽が暖かい。
リズミカルな洗濯機の音。
爽やかな風。
なんだか……
いかん、酔いが回ったか。
空きっ腹だったもんなあ。
ここで寝るわけには……
ぶるると身体を震わせて起きると、すっかり暗くなっていた。
いつの間にかその仕事を終わらせていた洗濯機には生乾きの服がそのままだろう。
「うう、まだまだ冬だな」
そう言いながら窓を閉める。
洗濯物は諦めた。
また明日やればいい。
寒い。
そうだ、温燗でも作ろう。
今日がこれだけ暖かかったのだ。
もうすぐ美味しく呑めなくなってしまう。
そうと決まれば、さて動こう。
小説など、いつでも書ける。
しかし、今日は温燗を美味しく呑める日だ。
とことん呑んでやろうじゃないか。
そういうわけだから、仕方ない。
今日はなにも、書かない!
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