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sage/maggot
しおりを挟む「タクミさん、ひどい顔をしていますよ」
「気にしないでください。仕事ですから」
昨晩、シャワーを浴びて、気付けば寝ていた。
二日酔いのせいだけではない頭痛がひどく、会社に今日は休むと連絡をして、また昨日と同じ時間に同じ喫茶店にきた。
相変わらずカレハラはスーツで、待ち合わせの十五分前に席に着いていた。
「それより、カレハラさんの話が聞きたいんです」
「なんだか、光栄だな」
そう言って、彼は煙草に火をつける。
俺は鞄からボイスレコーダーを取り出し、スイッチを入れた。
「昨日の話の続きなんですけど、カレハラさんはああいうことを考えて、後天的にそういう趣味を得た人を助けたいと思っているってことであってますか?」
「はは、いきなりきますね。やる気まんまんだ」
なんだか、今日はいらいらする。
その柔和な微笑みに一発入れてやりたくなった。
「そういうのとはちょっと違いますね」
「というと?」
「僕がわからないのは……ここ、間違えないでください。
許せないのではなく、わからないんです」
「なにがです?」
「それを利用して搾取している人間がのさばっていることが」
そう言った彼の目は、笑っていなかった。
それ、とは、後天的に加虐又は被虐趣味を得た人のことだろうか。
「SMに関してだけではないんですよ。社会の仕組みとして。
誰かが傷付いて悩んでいる。
その悩みは一人では解決できない。
それなのに、肝心の周りにいる人間はその人から、さらに奪おうとする。
SMバーやブラック会社なんて、その筆頭ですね」
僕から言わせてみれば、とカレハラは続ける。
「雇用が増えることや、マイノリティの一時避難などでメリットがあるのでは?」
「本当にそうでしょうか。
その周囲はさらにそこに留めようとするのに?
それは搾取となにが違うのでしょう」
「本人がそれを選んでいるのだから……」
「タクミさん、それ、本気で言ってます?」
しばし、考える。
そして、昨日の話を思い出す。
例にあげられた話の最後、『そこにしか自分の場所はないから』。
「自分に場所はない、と思わせる人がいる……」
「その通り。そして、そういう人はもう、その周囲の説教なんて聞かない」
語尾のようにつける、僕はそう思ってます、というのが、なんだか今日は無性に癪に触る。
「これもわかりやすくしましょう。
ブラック会社はいわゆる悪だ。
なにせ法律違反をしているのを誤魔化しているのだから。
しかし、そんな会社はごまんとある。
では、なぜその会社はなくならないのか」
「需要があるからでは?」
「需要があっても、正規のやり方で供給しないからブラックなんですよ」
なるほど。確かに。
「カレハラさんはどのように考えているんですか?」
「そこに働く従業員、つまり悪に加担するものも悪ではないかと」
暴論すぎやしないか。
「倫理観と、人が見る世界の縮尺の問題です。
ブラック会社で働く従業員には、働くなりの事情がある人も多い。
そして、当人たちは『仕方ないから』で済ましている。
会社が存続することで後に入ってくる人材や、その会社のアコギな商売のせいで圧迫される市場の影響など考えていない」
「それは、国で対策することなのでは?」
「下で働くものが『自分のことしか考えない』し、上で働かせるものも『自分のことしか考えない』。
これがシステムでどうにかなると思いますか?」
「それこそ、議員とかが考えることでしょう」
あの人たちは、一応、頭がいいはずなのだから。
「議員だって『自分のことしか考えない』ですよ。
だって、どれだけ頭を捻ったって、タクミさんのように国民が『自分のことしか考えない』のですから」
俺が、自分のことしか考えない、だと。
馬鹿にしやがって!
「だって、そうでしょう。
自分で言っていたじゃないですか。初めて会った時に。
うちは、人の不幸ばかりネタにして稼いでいる、って。
貴方だって、良心の呵責に苛まされていたじゃないですか。
でも、生活があるから、奥さんも子どももいるから、辞められない」
ぐっ、と言葉に詰まる。
確かにそうだ。
酒の席の愚痴とはいえ、その通りだ。
「そういうのは良くない。
かといって、誰にでも辞めろ、なんては言いません。
だって、怖いじゃないですか。
不安じゃないですか。
次の職に就ける保証もなければ、給料が今より下がる可能性だってある。
仕方ないことです」
そう言って、カレハラはコーヒーを飲んだ。
この短時間で喉が渇いた。
俺もコーヒーを飲み干して、おかわりを注文する。
煙草に火をつけて、深呼吸するように深く吸い、吐き出すと少しだけ、落ち着いた。
「なら、なぜそんなことを言うんです」
「会社って、社員がなにも言わないと、どれだけ苦しかろうが気付かないと思うんですよ。
人間関係だってそうだ。
人は万能じゃない。
だから言葉で伝えないと伝わらない。
伝えたとしても、うまく伝わらないことだって多い」
「それは、俺もそう思います」
「なにも言わない社員はどうなります?
そのまま使い潰され、心や身体が壊れるころには、ぽいっと捨てられる。
そしてまた仕方なく、別の会社に入る。
しかし、それは前と同じような待遇の会社でしょうか?」
「……下がるでしょうね」
「そうでしょう?
そうして、どんどんどんどん下がっていく。どうしようもない」
沈黙が流れる。
否定する言葉は、ない。
だから、どこかで流れを断ち切らなければならない、と言いたいのだろう。
それは他ならぬ自分の意思で。
しかし、その意思を奪う人たちがいる。
それは仲間だと思っていた自分の周りの人間で、蹴落とされて初めて、人はこの世がいまだに弱肉強食どころか足の引っ張り合いだということに気付くのだろう。
「いやな世の中ですね」
「そのいやな世の中に現在進行形でしているのは、他ならぬ私たちですよ」
いやなことばかり言う。
なんなんだ。
呼吸が苦しくなって、シャツのボタンをひとつ外す。
その仕草を見て、彼はまた柔和な微笑みで言うのだ。
「恋人関係もこれに似ていると思いません?」
考えてみる。
確かにそうだ。
これは俺も考えたことがある。
残念な恋人に一度捕まり、それが初恋などでそれこそ全てだなどと思い込んだら最後、どこまでも尽くして、飽きて捨てられる。
そして、次こそは、と捨てられないように頑張る。
どんどん頑張る量が増えていって、病んでいく。また、捨てられる。
次々と起こる負の連鎖を、誰だって一度は見たことはあるはずだ。
ともすれば、その加害者であったり被害者であることも珍しくない。
そして最後に手に入れた人を、今までよりいい人だと思い込む。
そんなはずはないのに。
これから抜け出すには、弛まぬ努力と自己肯定が必要だ。
そのために周囲の協力は必要不可欠。
しかし問題は――
「まあ、問題は会社の例えと同じく、抜け出したとしても意識せずとも加害者側になること……」
「ご明察です」
「だとしてもわからない。なぜ被害者側が加害者側になるのか。
被害者であるなら、同じ被害を被ったとき、どうなるか知っているはずだ」
あー、と、少し言いずらそうにしてから、彼はこう続けた。
「そうですね。貴方が言うことはもっともだと思いますよ」
ならなぜ、と問うと、彼は急に真顔になり、しばらくテーブルを見つめる。
数十秒の沈黙が流れた。
長い、長い沈黙。
考えているのだろうか。
俺が口を開きかけた、その時、彼は真正面から俺を見据え、今までに見たことない歪んだ笑顔で、言った。
「誰だって、人はみんな、損はしたくないでしょう?」
そ、ん……?
「だってそうでしょう。
二次被害と言い換えてもいい。
なんだってそうだ。
教育が行き届かなかった人間を誰が代わりに教育したいと思いますか?
親の仕事でしょう。
その親の代わりに教育してやって、いざ結婚の挨拶に行ってみれば、お前に資格はあるのか、と見極められる。
親の資格がないのはそっちでしょうに。
昔の恋人から洗脳紛いのことをされていて、その人間を真っ当にしてやって、なぜ、その昔の恋人に尽くしていたように夢中にならないことを許さないといけないのですか?」
矢継ぎ早にでる言葉に、理解が追いつかなくなりそうになる。
やっとの思いで追いついて、言う。
「……それがお互い幸せになれるからでは?」
「幸せとは?
片方が損をして、それに気付いたとき苦しむことは幸せですか?」
「それを含めて愛するものではないかと!」
思わず、語気が荒くなる。
「そうですね。確かに損をしてでも恋人を愛しているから、会社を愛しているからと苦悩を抱えたいという人はいます」
わかってくれたか、と、コーヒーを一口啜る。
しかし、彼はその歪んだ笑顔で言うのだ。
「しかし、損をしてでも恋人を愛しているから苦悩を抱えたい、と思う人を作ることは、結局、加害者側に回っているだけなんですよ」
頭が痛い。
その通りなのかもしれない。
やたら、喉が渇く。
「ということは、貴方は何かしらの要因で不幸を被った人は救われるべきではないと?」
「不幸とは言っていませんし、救われるべきではないとも言っていませんよ」
いらいらする。
なんなのだ、この男は。
「タクミさん、ただ僕は、そこまでをしてくれる人が現れ、救われ、幸福を感じられることができたのなら、それ相応を返さねばならない。
ただ、そう言っているんです」
そう、なのだろうか。
もはや、俺にはわからない。
この問答に意味があるのか、さえ。
もう、カリハラが微笑んでいる姿でさえ、悪魔の笑いにしか見えなくなっていた。
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