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プロローグ

心の悪魔は真夜中に呟く…

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「この度は本当に申し訳ございませんでした」
 私は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。

 ここは取引先の小さな会議室だった。こちらの手違いで商品の納品が遅れてしまった。納期厳守にもかかわらず、納期に間に合わなかったのである。大変な失態だった。

「いったいどうしたんですか?こんな事はいままで一度もなかったから信用していたのに…」

(信用していたのに…)

 ある意味、一番辛い言葉だ。裏を返せば、もう信用できない、とも解釈できる。

 私は今年で32歳になる。小さな商事会社の営業係長だ。32歳で係長だから至って一般的な出世だろう。だが出世欲はない。このまま定年まで係長でも良いと思っている。
 5年前に結婚したがまだ子供はいない。子供が生まれた時の事を考え、東京から少し離れた郊外に一戸建ての建売住宅を購入した。東京より地価は安いとはいえ、定年までローンは続く。通勤時間は長くなるが仕方ない。

 私は2時間ほど話をして得意先を後にした。幸いにも後の対応が適切にできた事と、今後の対応策提出のおかげで、取引停止にはならずに済んだ。

 そもそも今回のミスは私のミスではない。課長の手配忘れのせいだ。
なのになぜ課長が謝りに来ないか…答えは簡単だった。逃げたのである。自分のミスは部下のせいにして部下の手柄は、さも自分の指導の賜物だという風に上への報告をする。最低の上司だがサラリーマンである以上、上司は選べないし逆らえない。給料の半分はその我慢代だ。

「もう定時も過ぎているし、一杯飲んで帰るか?」

 携帯電話を見ると時刻は7時を少し回っていた。
 会社へ直帰の連絡を入れた。課長からは労いの言葉もない。飲んで帰ることにした。
 一人で飲む事はたまにある。仲間と飲むのも楽しいが、一人で飲むのもそれはそれで趣がある。
 駅前の少し路地に入った所に美味しそうな焼き鳥屋があった。すすけた赤暖簾がなんとも入店をそそる。煙の香が妙にうまそうに感じて入った。店内はコの字型のこじんまりとした店でまだ時間が早いせいかさほど混んではいなかった。

(今日が金曜日でよかった…明日の出勤を気にしなくて済む)

 1時間ほど飲んで店を後にした。一人で飲んだ割には結構飲んだ。

 この駅は、帰る乗換駅まで1時間ほどかかる。
乗換駅からは特急なら40分で自宅の最寄り駅につくが、夜9時を過ぎると各駅停車しかなく、90分ほどの長旅だ。駅から自宅までは歩いて帰れる。それでも終着駅よりはだいぶ手前だ。
 ホロ酔い気分と疲れのせいたのだろう…つい寝過ごしてしまったようだ。目覚めると窓からの景色は見慣れないやけに寂しげな風景に変わっていた。

(どの辺だろう…?)

 とりあえず次の駅で降りた。寂しげな駅だった。無人駅ではないだろうが、駅員は見当たらない。駅名を確認し乗り過ごした駅の数を数えた。

(1,2,3…8駅乗り過ごしたか…)

 時刻表で折り返しの電車を確認すると、すでに終電は終わっていた。

(しまった…これだったら終点まで行けばよかった…)

 終点駅はさらに地方への大きな乗換駅なのでビジネスホテルもある。

 駅前は小さなロータリになっているがタクシーどころか、歩いている人もいない。商店もない。いっぺんに酔いが醒めそうだった。駅から少し離れた所に幹線道路が通っているようで、トラックのような大型車の走り去る音が聞こえる。

 とりあえず道路の方へ歩いてみることにした。もしかしたら、道路沿いホテルがあるかも知れないと思ったからだ。

 しかしその道路は片道一車線でそれほど大きな道路ではなく、とてもホテルがあるとは思えない。

(駅に戻って始発まで待つか…)

 今は7月。野宿しても風邪をひくような季節ではない。

 道路の反対側は住宅開拓地のようで、薄明りの街燈の中、ちょうど魚の骨のように中央の道路を挟んで小さい行き止まりの小道がいくつも作られ、建築中の建物が見えた。
その中ほどあたりの脇道から赤い灯りが見える。

(なんの灯りだろう?)

気になった私は道路を横切り、灯りの方へ向かって歩いてみることにした。


プロローグ 完
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