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第八章

186話 裏切り

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 足が動いている気がしない、力が入らない、息切れも早い気がする、この息苦しさは走っていることだけが原因じゃない気がする。なんでだ、痛いのが頬に流れ込んで、目から出ようとしてくる。

 ずっと走り続けていたが、疲れてきた時に立ち止まり、振り返ってみる。

 オレンジ色の光が地面や壁を照らしている。地面には自分の影がくっきりと型どられていた。

 振り返ってから……誰もいないことに気がついたら、身体の中の何かが消えてしまった気がした。何だったのかは分からない、けれど、自分が何に気づいてしまったのが、もう既に分かっていた。

 出たい出たいと塞き止められていた感情が、目頭が熱くなってすぐにポロポロと溢れ出した。

「……っ」

 戻ってももういない、当分会えないって言ってた。それに、本体に会う機会は……そうそうない。

 たった、1回だけ。1回しか……いや、1回も会えていなかったなんて。もう、一生会えなくたっておかしくはない。

 ヒオゥネのことを思い出すだけで熱が蘇る。

 でも、この程度の熱なら、まだ間に合う。

 男相手じゃ望みもないんだし、相手はあのヒオゥネだ……分身はキスとかハグとか無駄にスキンシップが過剰だけど……好きとか普通に言ってくるし、綺麗ってなんだよヴァントリアのどこが綺麗だって言うんだ。ああ、もう、なんか、色々、変だ。

 だめだ。思い出すだけでイライラしてくる。

 ヒオゥネに愛してるって言われて喜んでたなんて。それがヒオゥネの言葉じゃないと知って残念がってたなんて。突き放すような言葉を聞いて、動揺してしまっているなんて。

……大丈夫、大丈夫だ。

 分身とも会えなくなるって言ってたじゃないか。きっと忘れられる。こんな気持ちちょっとしたあれだ、勘違いだ、気まぐれ、気の迷いだ。ちょっと優しくされて意識しただけだ。

 意識……だからどうしてヒオゥネなんかに!

 違う、違う。絶対に違う。俺は何を考えて……! 何を……っ

「うっ、ううっ……何で、何でっ、別に、何にも悲しいことなんかないのに……何にも、なんにも……くそっ」

 ぽたぽたと涙が溢れてきて、思わず目元を両手で覆う。

 どうして苦しいんだろう、何故こんなにも自分が虚しく思えてくるんだろう。

 本物のヒオゥネ……会ったこともない相手に、俺は。俺は。


 こんなに、動揺させられている。



「……なんにも」

 こんなんじゃだめだ。こんなんじゃ、まるで、俺がヒオゥネに恋してるみたいだ。

「なんにもないのに……」

 もし、もしこれが、この感情が恋だと言うのなら……



 ――くあああああっ!! 前世の初恋ヒオゥネかよ!


 い、いや、これに似た感情は経験済みだ。もっと優しくてふわふわしててあったかいような、そう、陽だまりにいるような、晴兄といるときみたいな……。

 ……あれ、俺の初恋ってまさか、晴兄なのか?

 宅配の人としか関わりたがらない引きこもりだったから、恋なんてしたことない、って思ってたけど。もし晴兄が訪ねてきていたら、俺は部屋の中に通したんだろうか。いやいや、通せない、あの汚い部屋じゃ。片づけしてからなら……通すかも。

 きっと晴兄が一緒なら、外にだって出たかもしれない。それだけ晴兄は特別な人だった。



 じゃあ、キスは?


 ヒオゥネみたいにキスされても嫌じゃない、のか?




 想像してみたら、嫌じゃなかった。きっと照れ臭い、嬉しい。ふわふわする。


……子供くさい恋だ。やっぱり、俺晴兄のこと好きだったんだ。

 ……ルーハンのキスはうまかったけど、嫌だったし、テイガイアにキスを迫られた時は嫌だったし、ゼクシィルは論外だ……生理的に無理、セルは顔が近くても大丈夫だったけど、キスされるとなると嫌かもしれない……ってなんの想像をしてるんだ俺は。

 ……ウォルズにキスされそうになった時、嫌とか考える暇がなかった、でもキスされた時は嫌ではなかったかもしれない。気持ち悪かったら突き飛ばしてたと思うし……ザコキャラだから出来るか分かんないけど。

 これってもしかして、前にウォルズが言ってた、前世の記憶で好きだった晴兄と重ねてしまっているのか?

 いや、それだけじゃない、ウォルズはこの世界を導いてくれる光だ、太陽だ、ゲームでもよくそう揶揄されていた。

 彼には魅力が詰まっているんだ。そう思ってしまうほどの魅力が。

 でも俺は、ちゃんと抵抗していたかもしれない。

 咄嗟に、抵抗しなければと考えたんだ。嫌じゃないのは、だめだと思った。

 その後のことを考えて、どんな顔をして会えばいいのかと不安になってしまったんだ。

 でも、ウォルズといると、心が洗われる気がしてとても穏やかな気持ちになれる。これもきっと、好きって気持ちなんだ。

 たぶん俺は前世の晴兄だけでなく、今のウォルズにも惹かれていた。そこに突然記憶の世界で横槍を入れてきたのはヒオゥネだ。何もかも全部、持っていこうとする。

 ヒオゥネはポカポカした気持ちなんかにはならない、傍にいて安心したことなんかない。

 酷く苦手だ。

 何を考えているのかもわからないし、悪いことをし出すんじゃないかとヒヤヒヤする。冷たい一面があって、アイツのしてきたことを知っているから、嫌悪感だってある。

 なのに、ヒオゥネとの距離が縮まると、相手から接近されると、そんな感情に上乗せされるくらいの、高揚感が押し寄せてくる。

 ヒオゥネの声も、言葉も苦手だ。

 目が合うのが怖い、自分じゃなくなる気がする。

 ウォルズのような、暖かい気持ちではない。与えられる熱が、熱い気持ちを引き出してくる。

 激しく燃え上がるから、余裕がなくなる。混乱する、何も考えられなくなる。

 こんなのは、初めてだ。



 ――ヴァントリアは、恋をしたことがあったんだろうか。

 ウラティカのことは大切にしていたみたいだけど……。ヒュウヲウンのことも可愛いって思うし、前世のゲームでヴァントリアはヒュウヲウンがお気に入りだったみたいだし、彼女が近くに来るとちょっとドキドキする。それとも前世の俺が女の子になれていないだけ? ……でもそれじゃあ、ヒオゥネのことに説明がつかない。

 もう、訳が分からない。自分が分からない。

 何故だ。何故、ヒオゥネなんだ。

 ……ああ、そうだ、そうだよ。逃げ出したくなったのは、自分の気持ちから逃げたかったからだ。

 ヒオゥネは、皆を苦しめてきた敵だ。それにヒオゥネは俺に興味を持つような相手でもない。持たれても困る。

 アイツは、許しちゃいけない相手だ。許してはダメなんだ。

 そうだ、会う機会が減るなら、きっと、この気持ちも冷めていく。だから、大丈夫だ。

 早く涙を止めないと、目も腫れちゃうかもしれない、これでは泣いてしまったことも皆にバレてしまう。ああ、そうだ、皆の所に、そろそろテントに戻らなくては。

 ――そう思うのに、身体が言うことを聞かない。

 人っ子一人いない路地裏を前に、少し人の気配を感じる通りを後ろに、身体の向きを変えられない。

 1歩も足を踏み出せない。

 動かせるのは腕と手だけだ。

 指先からも、胸もお腹からも、力が抜けていく。

 地面に落ちようとどんどん溢れ出してくるそれを一生懸命なかったことにしようとするけれど、少しも止まっちゃくれない。

「わけ、ない……ない」

 認めてはダメだ、残念がるのもダメだ、こんな気持ち、持ってはいけない。


 心を許してしまうことは、もっと許されない。


「――なわけっ……ないっ」


 だって。


 だって……俺はアイツが、憎いんだ。


 許せなくて、憎くて、嫌いで。

 大嫌いで。




 絶対に。絶対に惹かれてはならない相手だ。

 ――これは、ダメだ。


 力が抜けていく身体を支えきれずに、地面にへたりと座り込む。



 アイツは悪い奴だ。



 平気だ、すぐに忘れられる。こんな感情なんて。






 大丈夫。


 忘れなきゃいけないんだ、消さなくてはならないんだ。

 この感情を、持ってはダメだ。認めてはダメだ。





 ヒオゥネは…………ダメだ……。





 だめだ。



 だめなんだ。だめだ。

「……っ」




 だから、――だから、






「あいつは…………だめなんだ……っ」








 ……好きなんかじゃない。





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