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第八章
184話 偽物の言葉
しおりを挟む焦らすようにやわやわと触れていたヒオゥネの熱い唇が、突然強く押しつけられる。
食べるように自分の唇を口に含まれそうになって、それを甘んじて受け入れれば、ちゅうっと長く吸い付いてから、角度を変えて何度も何度も、吸われる。それがやがて深いキスへと変わり、口を開ければスっと音もなく口いっぱいに熱さが入り込んでくる。
「ん……ん」
ヒオゥネの舌に絡め取られる自分の舌を、相手に気づかれないように、押し付けて擦り付ける。合わさった唾液を意識的に飲み込んでいく。
もう、訳が分からなかった。
必死になってヒオゥネとのキスを味わっていた。
やめたくない、ずっとこうしていて欲しい。もっと深くてもいい、もっと、もっと、たくさん……してほしい。
ヒオゥネの熱い舌と唇に吸い付けば、ヒオゥネのキスの質が変わる。擦り合わせていた舌が引っ込んで、ぢゅぅっと乱暴な音を立てて名残惜しいと言いたげにゆっくりと離れていく。
目を開ければ、目と目が合う。熱い眼差しを受けて思考がショートしそうになった。
「………………………」
「…………………」
「…………………もう一回……」
もう一回!?
「……あ、あの、さ!」
「はい?」
一回キスしただけなのに、俺はもう息が乱れてしまっている。ヒオゥネは平気そうなのに。
でも、ここで止めないと、その先を望んでしまう気がする。
心臓を落ち着かせようと、ヒオゥネから視線を外して顔を俯ける。
「あの時、ヒオゥネが言ってきた、言葉の意味が知りたいんだけど……」
「あの時?」
「祭りが始まる前、森で会った時、最後に言ったことだ……」
ドクン、ドクンと、全身から振動を感じるくらい、心臓が暴れ回っている。聞き出すのが怖い、聞くのが怖い。何故怖いと思うのか、それすらも怖い。
ヒオゥネとのキスは終わったのに、顔を俯けたのに、どんどん、どんどん熱が上がっていく。
ヒオゥネが答えるのを待っていれば、彼は目をぱちぱちとさせてから言った。
「……祭りが始まる前に……森で会った? 舞踏会以降僕と貴方が会ったのは今回が初めてですが……」
え……??
「で、でもっ、俺その時女の子だったけど、俺であることは伝えたし……。ヒオゥネは目が見えなくて、女の子になった俺の姿見てみたいって言ってたから……だ、だから、舞台見に来てくれたんだろ……?」
「いえ……僕の分身なら常に記憶が共有されていますので、見たことも言ったことも全てわかります、その様なことはありませんでした」
「で、でも!」
「何を言われたのかは分かりませんが、その人は僕ではないですよ」
風が吹く、その風によって熱かった熱が冷めていく気がした。
顔を俯け、森でヒオゥネに言われた言葉を思い出す。そして……いや、あの声も、匂いも体温も、絶対にヒオゥネだった。絶対に。
「……言った」
「はい?」
だって、言ったじゃないか。
もしもからかってるなら、質が悪すぎる。ずっと、その言葉について考えていたというのに。
「絶対に、言った……」
「ヴァントリア様?」
「あ、愛してるって言った……!」
恥ずかしい気持ちを誤魔化そうと、キッとヒオゥネを睨んで言えば、ヒオゥネの顔が呆ける。
――それを見た途端、羞恥でかああっと頬に熱が押し寄せた。
喉が締まって息がしづらい、掠れて震えた声が出ていく。
「お、俺のこと、愛してるって……ヒオゥネが、言った……」
「……は?」
ヒオゥネは眉を寄せて首を傾げる。ちょっと怒っているようにも見えた。
「森で、愛してるって……」
ヒオゥネは本当に記憶にないらしく、目をぱちぱちさせる。顔に変化はない気がするが、でも、空気が明らかに変わった。ヒオゥネは不機嫌だ。
気まずい……これじゃ、言って欲しくて強請ってるみたいじゃないか。
それとも、妄想だと思われているんだろうか。俺が妄想と現実に区別がつかなくなってるって、ヒオゥネに思われちゃってるんじゃないのか。
なんで不機嫌になるんだ、俺が勝手に、ヒオゥネが俺のことを好きみたいに考えていたからか?
何となくヒオゥネから目を背けて顔を俯けていると、予想以上の冷たい声が降ってきた。
「ありえません。僕が誰かを愛することはありません」
――っ!
「で、でもお前が――」
「あなたは呪いが強い、僕が兵士やセルに化けている間、貴方には僕の姿で見えていた筈です。しかし魔法はダメダメでしょう? 僕以外の誰かが、魔法で、僕の姿に変わっていたのでしょう。それは僕からあなたへの言葉ではありません」
そうか、この世界じゃ呪いより魔法の方が身近なんだもんな。
そしてヴァントリアはザコキャラだから使える魔法は少ないし、どれもしょぼい。魔法を掛けられていてもおかしくはない。
そっか、そっか。あれは、ヒオゥネじゃなかったのか。
「そ、そっか……そうなんだ。そっか……」
別に、ヒオゥネにどう思われていようといいじゃないか。
「ヴァントリア様?」
「あ、いや、ごめんな、急に、変な話して……」
何でか分からないけど、涙が出そうになるのを必死にこらえる。
「いえ、誤解が解けたなら良かったです。それでは、僕は忙しいので失礼します」
「え」
ヒオゥネは立ち上がって俺に向き直る。
「……僕はこれから本格的な実験に取り組むことになります」
「なっ!? 実験って!」
掴みかかろうとしたが、ヒオゥネがすぐ目の前にいて立ち上がることができない。
実験……何でわざわざ教えてくるんだ? 止めるのは無駄だと言いたいんだろうか。
「僕が相手をするのは魔獣ですから、万全の体制で望まなくてはなりません。……まあそういうわけで忙しくなるんです。分身の数も減らすので、こうして会う機会も減るでしょう」
「そ、そうなんだ」
実験をすると知って何もしないなんて、嫌だと思うけれど、今は、我慢しないといけない。
41層の奴隷達を見捨てるわけにはいかないんだ。また作戦を立て直して、逃がしてあげないと。ヒオゥネが実験する度に救いに行っていたら切りがない。
……でも、時が来れば必ず。その人達も助けてみせる。
ヒオゥネは俺の前に立ったまま見下ろしてきて去ろうとしない。
「ヴァントリア様、誰がなんと言おうと信じないでください」
「え?」
「僕が貴方を愛することは決してありません」
…………え?
「――う、うん! も!もう誤解だって分かってるって」
胸をギュッと締め付けられているような感じがする。胸の内にせり上がるような、吐き気に似た感覚、それがずっと吐き出されずに喉と胸の辺りに停滞しているような、変な感じ。
簡単に言えば……モヤモヤする。ズキズキと、痛む。
……なんか変なものでも食べたのか。
堪えたものが溢れだしそうで、怖い。
「例え僕の姿をしていてもそれは全て偽物です」
「え……?」
全て偽物? 急に何を言い出すんだ。
「今の僕もそうです。僕は本体の擬似呪い――いえ、呪いから作られた分身です。確かに、本体と類似した意志を持っているので、僕自身であると言えるでしょう。
ですが、常に記憶を共有しているだけの分身であることも確かです。分身の中には僕の意志を持たず、そして僕の形をしていないものもあります。
そして僕も偽物です、なぜならこの僕は擬似呪いで出来ているからです。まず、本体の僕が降りてくることはありません」
降りてくることがないって。下の階層に降りてくることがない、と言うことか?
「……じゃ、じゃあ44層や、45層で会った時のことは?」
「見ていたでしょう、あれは分身です」
「じゃあ、ルーハンの城で会った時の!」
「あの時の僕は分身です。兵士の姿に見えるように、周囲の人に呪いをかけていた状態でした。しかし貴方の呪いの方が強いから、僕の姿で見えてしまったようですね。数年ぶりに会ったのに、貴方は僕に気づきもしなかった……約束をしたんですよ、過去に。まだ行っていないんですか?」
行ったって、テイガイアの記憶の世界のことだよな、たぶん。
「何の話だ? ど、どこに行くんだ……」
絶対にあったことになんかしてやらないぞ! 何度だってとぼけてやるからな。
だって、あんなことがあったなんて……て言うか、あの記憶の世界からずっと変なんだ、あったことにしてしまったらもっと変になってしまう気がする!
「……覚えてないんですね。まだ行ってないってことですか……しかし、会ったことがあるんですよ。現実では起きていないことですけど」
「…………もしかして、それが、本体?」
ヴァントリアが14歳くらいだった……ってことは、ヒオゥネは確か、前世のゲームの情報によると、俺の1つ上のウォルズと同い年だから、15歳くらい?
「僕は未来の僕に言われて、あなたを悪い人にする為に分身を送りました」
それは聞いたな。
「しかし、その後すぐに未来の僕に言われたんです。貴方がある人に襲われると。だから本体が向かいました。あの人を本気で怒らせた時、対処出来るのは本体しかいませんから」
ノス・イクエアの時の後のこと、44層でテイガイアの実験をした時のことか? いや、ある人って会うのはたぶんゼクシィルのことだから、部屋に飛び込んできた時だろうか。あれが本体だった?
……て言うか、ヒオゥネの本体ももちろん15歳の筈、なのに本気で怒らせたゼクシィルを対処って……。
そう言えば記憶の世界でもぶっ飛ばしてたよな。あれが本体だったのか? うう、分かんない。
「あの日初めて、生まれてから1度も出たことのなかった城を出ました。初めて自らの足で街の中を走り、研究室へと向かったんです。あの時は、空を見上げる暇もなかった……」
ヒオゥネは空を見上げて小さな声で呟く。敬語が抜けているから、独り言のつもりだったんだろう。
「あれ? 生まれてから1度も出たことがないって……ま、待ってくれ、その、襲われそうになって本体が助けに来てくれたってことは、その時に初めてヒオゥネの本体に会ったってことでいいのか?」
「はい。貴方には間に合わなかったと怒られましたけど」
「お、怒ってはないけどさ……」
「はい?」
「あ、い、いや、そんな感じがする! だって、襲ってきた奴が悪いんだし……」
ヴァントリアを襲う奴なんて存在するのかって話だけど、もう二人くらいはいるって知っちゃってるからな……。
やっぱり、今のヒオゥネの言葉で考えてみれば、ゼクシィルに強姦されそうになった時に助けに来てくれたのがヒオゥネの本体。
……でも、その時まで城から1度も出たことがないってことは、14歳のヴァントリア―――いや、もっとそれ以前の過去のヴァントリアが会ってきたヒオゥネも、アトクタでランタールと一緒にラルフに呪いを掛けていたヒオゥネも、そして、俺の前でテイガイアを実験台にしていたヒオゥネも、全部全部本体ではなく、分身だったってことになる。
「そ、その時以降は会ってるんだろ!?」
だって、ヒオゥネが言った通り、アレは記憶の世界で起きたことだ、俺がなかったことにしたかった出来事――いや、現実では起きていないんだから、実際になかった出来事なんだろう。
でもそれじゃあ……俺は、現実ではヒオゥネに1度も会ったことがないってことになるじゃないか!
俺とヒオゥネはまだ、出会ってすらいないってことになるじゃないか……っ!!
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