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第伍章
129話 ずっと。ずっと。
しおりを挟む光のような人だった。
出会った瞬間から、貴方はどこか特別な気がした。
私と目を合わせてくれる、褒めてくれる、頭を撫でてくれる。笑ってくれる。優しい声で名前を呼んでくれる。
光の降り注ぐ白い庭——お気に入りの場所ではあっても、安らぎの場所ではない。普段は自室から一歩も出ることは許されなかった。出ていいのは実験の時だけ。
しかし、いつからか、決められた時間になら、部屋の外へ出てもいいと言われた。
部屋を出てしばらく歩けば、回廊から直接中庭へ出られる場所にやってくる。
庭や、実験室、学習部屋、トイレなど、最低限生活をする上で必要な場所への移動が許可され、廊下が使用できるようになった。しかし、廊下の奥に進めば、外側から鍵を掛けられた鉄扉が設置されている。移動範囲が広がろうと、私はそこから出ることも、逃げることも許されなかった。
屋敷から出ることなく、一生を終えるだろうと理解していた。私の意思が死んでも、身体だけは彼等のいいなりになった状態で彷徨うのだろうと。
自分の運命に抗おうと、実験室から薬品や機材、資料や本などを盗み、自室へ持ち帰り、虱潰しに実験を繰り返したこともあった。庭の魚は私と同じ、呪いを注がれた特殊な魚。
永遠に生きることの出来る魚。
永遠に、あの庭の池に閉じ込められたままの魚。
せめてお前達だけでも、呪いを解いてあげようと、私は薬を投与した。しかし、何の知識もない子供が作った薬品など。彼等には毒でしかない。
ただ、永遠に檻の中で生き続ける呪いを解いてやる薬にはなった。
動かなくなったそれを見て、私も手の内に残っていた薬を喉へ掻き込んだ。
けれど、私の身体には何も起きなかった。内臓のうちで大量の虫が蠢くような気配がして私は一人、庭でのたうち回った。
誰にも気づかれることなく、私は夜になるまで庭で意識を失っていた。
目を覚ませば、辺りは真っ暗だった。私は部屋へ戻った。
実験を繰り返し、自分に薬を投与する度に、自分は化け物だと教えられているような気分だった。
自室にこもるのもやめにした。
庭に出るには決められた時間帯があったが、誰一人としてここに近づく者はいない。鉄扉は、必ず鍵をかけられて行き止まりになるからだ。たまに召使いが、あの人から鍵を預けられて掃除にやってくることがある。
その時以外で、向こう側から鍵を開けられる者は、あの人くらいしかいない。
それに、そんな隔離された一角にある、私の自室の鍵を
態々開けに来るほどあの人は暇じゃなかった。自室の鍵は開けっ放しの状態だった。私に許された活動区域、そこでは私以外の人の気配を感じることはまずなかった。
自分の部屋に鍵を掛けられていないから、時間外でも庭にはすぐに向かうことが出来た。人はあまり来ないからバレることもない。
数ヶ月、庭で過ごす日々が続いた。
ただ、自分と同じ池の魚に、羨望の眼差しを向ける日々が続いた。
そんな時だ。
化け物特有の察知能力で、人の気配を感じ取り、慌てて自室へ戻ろうとした。
突然声がして、振り向けば——そこには。
鮮血のように真っ赤な髪の、燃えるような赤い瞳の。美しい男の人が立っていた。
突然現れた彼に焦りを覚えた。しかし、彼の顔を見たことはない。あの人の客人なら、嫌になるくらい何度も顔を合わせて覚えていた。だからこそ、その年齢の男性を見るのは初めてだった。
彼は酷く焦っていた、嘘くさい話だったけれど、話に乗ることにした。それ以外に彼が目の前にいる理由が考えられなかったからだ。それにもしこの人に騙されても、何か起きるとは思えないと判断した。
それから、閉じ込められた一角を案内する。屋敷を案内と言ったのに、その発言に突っ込まないところを見ると、やはりあの人の客ではなさそうだった。
もし誰かが来てしまえば、彼は連れ出されてしまう。そう思って、私は自室へと案内した。
接している間、私を人間だと思ったのか、私を子供扱いしてくれるところが、どこか可愛らしいと思った。
貴方と過ごした短い時間はそれはもう美しいものだった。
世界が美しく、色付いて見えた。初めてあの白い庭を、美しいとさえ感じた。色のない空間でさえも、色付いて見えて、眩しかった。
貴方がいてくれれば、どんな世界でも美しく色付く。もっと傍にいたい。ずっとずっと、ここにいて。
私の隣で笑っていて。
神様どうか。この人を私から奪わないでください。
……願いは果たされなかった。
貴方は消えてしまった。
でも。私を好きでいてくれると、言ってくれたから。
また一人ぼっちの部屋で、薬品を眺めていた。貴方がいないから、言いようのない不安と寂しさが溢れ出した。
貴方の遺してくれた思い出の品を貴方に見立てて抱き締める。
夢じゃない。これは夢じゃない。
こんな私を、好いてくれた人が、いた証だ。
私はそれに名前を付けて肌身離さず持ち歩いた。彼の言葉、彼の声を思い出す。愛しさがこみ上げれば、彼の代わりにそれに口付けた。
相手は嫌がることはなかった。呪いを抑えると彼が言っていたから、私の中の呪いも抑えてくれるのではないかと、キスをする度に食べることも忘れなかった。しかし、食べても食べても元気に再生する生命体に、私は興味津々になった。
私は再び実験を始めた。彼がいなくても、世界は色付いて見えた。彼のことを考えるだけで、私は満たされる。彼は私に安らぎを与えてくれる。
ああ、私は彼を、愛しているんだ。
実験を繰り返していたら、ついにあの人に見つかってしまった。盗んだ薬品を見て立腹していたが、もう代わりの薬品があるようで、没収する気はないらしい。私がどんな実験をしても無駄だと知っているからだろう。
手に持っていた触手について突っ込まれてしまい、本当に彼があの人の客人なら、会わせて欲しいと思った。
会いたい、会いたくてたまらないと胸が高鳴った。
あの人へ彼の話をすれば、侵入者が入ったと騒ぎになった。
もう、誰かに話すのはやめよう。次彼が現れた時、奪われてしまうのは嫌だから。
貴方は数年越しに会いに来てくれた。幻でも構わない、もし幻であっても変わらず会いに来て欲しい。
触れる度に暖かくて柔らかい身体を離したくないと思った。貴方の匂いをずっと覚えていたいと、柔らかい声を覚えていたいと思った。焦った声も怒った顔も愛しくて愛しくて仕方がなかった。
あの人がさらなる地位を望み、第27層ンランラの——学園都市アトクタへ、生贄として私を入学させた。生徒や先生が色々な実験に励む。そんな中、私は亜人について知りたいと考えていた。なぜなら自分が亜人を配合して作られたハイブリッドであることはその時既に知ってしまっていたからだ。
そして学園都市ダルヘイヴは、人間だけでなく他種族にも平等に暮らす権利があると宣言した学園都市だ。唯一、人と亜人が仲良く暮らす都市だ、きっと私の正体を知っても受け入れてくれるだろう。とても美しい心を持った都市だと思った。
父のいいなりになることも終わった。彼は28層への通行証は持っていない。
担任やクラスメイト、後輩達はひどく残念がっていたが。私は清々しい気分だった。
まあ、貴方がアトクタに通うかもしれないと思った時は本気で残ってしまおうと考えたけれど。
それから。私は貴方を街で見かけた。しかし貴方の周りには大勢の兵士がいた。貴方はどこか寂しそうにしながら人々と離れた場所でまるで別人のようにふてくされた顔をしていた。
背もやけに小さく感じた。しかし、真っ赤な血のような髪と燃えるような瞳は貴方くらいしかいない。
話しかけようと近寄れば、護衛の兵士に邪魔をされる。貴方ばかりに気を取られていたが、彼らの装備に彫られた紋章に顎が外れそうになるくらい驚愕した。
王族かもしれないとは考えていたけれど。まさか。本当に王族だったなんて。
王家直属の騎士団の一つ。トイタナ。
貴方の周りの兵士に名を馳せたような人はいなかったが、王家直属の騎士団といえばトップクラスの実力者ぞろいだ。
これでは傍に行くことも許されない。ならいっそ。実験にだけ集中するべきか。
私が化け物だと知れば、貴方は私を、嫌いになるかもしれない。
どれだけ大丈夫だと考えても不安でならなかった。
化け物の私では傍に行けない、なら、あの大人達のように——あの人のような〝博士〟と呼ばれる存在になれば。
彼等が実験できているのは、王族の後ろ盾があるからだ。彼等と直接取引をしていたことも知っていた。実験に関してのことだけは筒抜けだったからだ。ただ、彼等の組織が大きいことは分かっていたが、その状態やどう呼ばれていたかは調べようがなかった。
博士になれば——偉い地位へ着けば、もしかしたら。貴方と。
だが。もし貴方と会えたとしても。触れることは許されないかもしれない。
その時。ふと顔を上げれば、窓ガラスに映る自分の瞳と目があってゾッとする。なんて醜い目だろう。化け物にはお似合いの気味の悪い瞳だ。
ネックレスや指輪、髪留めなどが売られる店を見つけて、なんとなく、自分の目を隠せるものはないかと探した。メガネを見つけてこれなら、と考えた。しかし、これでは隠せない。その隣のサングラスに手を伸ばし——掛けてみた時だった。
貴方がくれた色にあふれた世界から——色が奪われた気がした。
バン様。
貴方が傍にいてくれないと、私は寂しくて死んでしまいたくなる。
おかしな話だ。
貴方がいてくれたから、生きたいと思えたというのに。
赤い髪が視界の端に映り込む。どんなに汚れた世界でも貴方は凛と咲く花のように美しい。赤い薔薇のようにどこか恐ろしくて美しく、脆そうでいて堂々としている。傍に近寄ろうとすれば荊棘に邪魔をされてしまう。
——遠い。
貴方の傍にいけないことが、こんなに苦しいのなら。貴方に見つけてもらえないことが、こんなに怖いのなら。もういっそ。忘れてしまいたい。
何事もなく高校生活を送り、卒業したての頃だった。あの人の屋敷に呼び戻されてから、私は自分の記憶がない。
あの人から告げられたのは、私が暴れて屋敷の者を惨殺したと言う内容だった。とても信じられなかったが。
自室へ連れて行かれそうになって、廊下で目にした白い庭を前に、私はひどく納得した。
私にとってこの屋敷は。初めて色づいて見えた場所であり。色をなくした世界を作った場所でもある。
そして。貴方と出会った始まりの場所だ。
私は拘束され、実験の続きだと。私が幼い頃盗んだ薬品を次々と投与されていく。身の内で生き物のように何かが暴れ周り全身が引き裂かれるような激痛が連続でやってくる。
自分から出ていく赤い鮮血が。とても貴方とよく似ていて。やはり貴方は幻かもしれないと脳みそが言う。
脳が焼け——暴れ出した——乗っ取られるような感覚に陥り目の前は真っ黒に染まった。
私はその日、父と呼んでいた人を殺害した。
屋敷の人達もほとんど、殺してしまったらしかった。
何ヶ月か地下牢で過ごしていた頃だった、私を解放してくれたのはラルフと名乗る少年だった。
私を博士と呼び、実験の手伝いをする。初めて会った筈なのに、どうしてかその姿は親しみやすかった。ただ、彼も実験する側の人物だ。偶に、背筋が凍り付きそうな非道な行いをする。その時はとても冷たい瞳をしており、優秀ではあるがその一面だけは苦手だと思った。
実験をする時はサングラスを付けるようにした。生物を相手にする時は——……貴方の色を見てしまうから。
白い庭で魚の命を奪ったけれど。……貴方はあれをどう思うのだろう。
私はあの魚達を救ってあげたかっただけなのに。
サングラスを外せば色とりどりの世界が広がる。貴方から貰った美しい世界が。
目に入るものはどんなものでも、美しく感じて。誰かが通る度に相手の美しさを語った。
貴方を前にしているような気分になって、愛しくなって行き過ぎたことをしたこともある。
そして。再び貴方が現れた時。
私は兵士を押しのけて。貴方を抱きしめてしまったのだ。
貴方は私のことを全く覚えていないし、兵士には顔見知りができていたため、なぜだか、私は急に誰かに抱き付くような、そう言う奴だと認識されていた。
私はそれを好機と思い、戸惑う貴方へ熱烈にアタックした。
だが、貴方は私の名を呼んでくれることはなく。変態だのセクハラ親父だの罵って青ざめるだけだった。
睨み付け、罵倒を浴びせ、すぐに去っていく。
バン様。それでも貴方のそばにいたい。
会いたかった。
貴方にずっと会いたかった。触れたかった。
忘れなくてはと思った。でも、無理です。
貴方を目の前にすると、胸を温める安心感と愛しさが溢れてくる。
……バン様。愛しています。
私は貴方を愛しています。
貴方は私を、好いてくれると言ってくれた。私も貴方を好きでいます。ずっと、ずっと。
だって貴方は、色を与えてくれる、美しい世界を見せてくれる。
私の、この世界の。唯一の光だ。
——忘れたくない、忘れたくないです。バン様。
貴方へのこの気持ちを。忘れることなんて。
伸ばされた黒い手袋が視界を覆った。
黒い手袋に、唯一の光を奪われ————私の世界は真っ黒に染まった。
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