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第伍章
115話 後悔の証
しおりを挟む心底楽しそうに腹を抱えて笑っているヴァントリア。睫毛がひん曲がるほど瞼を閉じて口角を上げている。
何がそんなにツボにはまったのか、口に手をやって抑えようとしているが笑いがこみ上げてくるらしく逆に苦しそうだ。
「あー……笑った笑った。男相手のキスと愛撫だけであんななるとか、お前随分我慢してたんだな」
「……最近忙しかったからな」
嘲笑の笑いだったのか、この野郎。睨めばくすくすと笑われる。ああもう好きに笑ってくれ。
長い睫毛が震えて、あの柔らかかった唇が引き上げられる様が——とてつもなく愛おしい。子供みたいに無邪気に笑うヴァントリアを見て、ずっとこんな顔でいればいいのに、と思う。
「ああくっそ。哀れすぎて涙出てきた」
やはり嘲笑か、嘲笑だな貴様。
「はぁ……んじゃ、そろそろ回収してもらおうかな」
「え、回収?」
「ああ、お前も帰っていいよ。ほら、キスのお礼」
懐から出したものをぽいっと投げられて、咄嗟にキャッチする。掌のものを見れば、結び目を付けた膨れた白い布だった。結び目の隙間からきんぴかぴんの輝きを見てハッとする。
先刻の女性に比べると量は少ないが——これは。
「い、いらないよ金なんて!」
「男にキスされて触られて嫌だったんだろ。貰っておけ。後このことは他言するなよ。たかられたら困る」
「え……たかられるって」
「娼婦や奴隷だけじゃない、強姦魔や強盗だって多いんだ。大勢に目を付けられたら厄介だ」
なんだ、この変な違和感は。
違和感の答えを求めて彼を見つめ続ければ、ふぅ、吐息を付いて話し始める。
「知ってるだろう42層は平和に見えて随分と治安が悪い。楽しげに笑いあってる民衆を見ると腹が立つ」
王族として言っていい言葉なのか、と考えたが、ヴァントリアが目を釣り上げて苦々しく唇を噛む姿を見て、その違和感が徐々に取り払われていく。
「何故道の端に人が捨てられている環境で笑えるのか」
「…………」
「……何故女が襲われているのに見て見ぬ振りをして普通に暮らせるのか、何故身体を売るほど金に困っている人を雇ってやれないのか」
「…………っ」
「そして、何故頼れる相手のいない女子供を餌にして金や快楽を得ようとする輩を放っておくのか」
ヴァントリア、…………お前、まさか。
「腹が立って仕方がない、どうして平然としていられるのか。どうして平気で暮らせるのか、どうして助けたいと思えないのか」
「ヴァ——」
「42層だけに限ったことじゃない。43層の囚人は犯罪者だけでなく、主に反抗した奴隷達や、領地の税金を払えなかった娼婦達を捕らえて満足してやがる。人攫いや奴隷商人が許されていて何故彼らを捕まえるんだ。意味が分からない」
ヴァントリアは火がついたのか開いた口が塞がる様子はない。
「領主の毒牙に掛かっているんだ、43層は奴隷を貯める為の倉庫にされているんだ。貴族達も彼に投資している。奴は奴隷商人な上人攫い、美しい娘や見所のある子供は貴族達にもよく売れるのさ。ラルバンという人攫いの組織を筆頭に各層の名高い組織と手を組んで商売をしている。奴は貴族に用意された通行証を持っているからな、貴族の用意した場所で奴隷市場を開く。金も払ってくれて場所まで用意してくれるんだから、貴族相手なら稼ぐには奴隷市場がもってこいだ」
詳しいな、確かに。ゲームでも語られた設定だが。ここまで詳しくは描かれていなかった、ゲームではウォルズが領主を倒して奴隷を解放する。
「だが例え貴族でも王族には立て付けない。俺は王宮で無駄に使われている資産で彼等を買っている。その金も同じだ。元々は税金で搾り取ったお前達の金だ。好きに使えばいい」
奴隷を買ってたって、確かにヴァントリアは無駄金を使って嫌われた暴君の設定だったけど。奴隷や娼婦に大金を使って、地下都市の資産を……だから王族や貴族にも嫌われていて。立場も危うい……。
「だが貴族と言うのも厄介でな。たまに王宮に出入りすることがある。パーティが開かれれば王族に招待された手前参加しない訳にはいかないし、仕事で呼ばれたなら尚更だ。俺が奴隷を全て買い占めるものだから、どう扱っているか興味を持つのさ。恨みがあるから尚更弱点を見つけようとする」
ヴァントリアは嫌われ者だ。非道で、劣悪な。嫌われて当然の最低なキャラクターだ。なのになんなんだお前は、何を言ってるのか、理解できない。
「奴らが見ている手前、奴隷として扱わない訳にはいかない。細かい傷でどうにか誤魔化そうとしても勘がいい奴にはすぐバレる。だからそういう時は深い傷を負わせてしまう」
何でそんな苦しそうな顔をするんだ。
「傷を直してやってもすぐに傷付ける。そうすれば何て最低な野郎に買われたんだ、可哀想な奴隷だなと思って去っていくだけだ。しつこい奴はしつこい、例えば今俺と一緒に檻に入っている子供は奴隷として売られていて俺が買ったが、あの子は特殊な分多くの貴族に目を付けられていてな。何度も奴を奪われそうになった。だから居場所の分かる主従関係を交わし、24時間以上監視した。今は契約もないし、何をしているか分からないが。たぶん寝ているだろう。一度寝たら三日は起きないからな。俺もこうして出て来られる訳だ」
2日間じっと見ているだけだった、ゲームでウォルズにジノが話していた主従関係の内容についてのセリフと合致している。
苦しむ姿を見て楽しんでいた訳じゃない、警戒していたんだ、そいつらが帰るまで。
「それに王宮にいるよりは43層の囚人になった方が安全だ。流石に領主一人じゃ独断で囚人を出すことは許されないからな。本来なら貴族の協力であっても難しい筈だが、俺が逃げても気付けないくらいには人もいないし監視もゆるゆるだ。貴族でも見廻りでも協力者さえいれば余裕で連れ出せるさ。ただ彼らがいないと動けないから、檻の中の方が安全だ。あそこで寒さをしのぐことは大変だが、見廻りと交渉すれば毛布も得られる。実験のために重宝されているから食事も十分に取れる」
実験!? 実験について知っているのか!?
あ、いや、囚人として檻に閉じ込められてたんだから知ってるに決まって……ん? 待てよ。檻に、閉じ込められてた、だと?
あれ、確かヴァントリアって12歳の時に43層に落とされたんじゃなかったっけ?
こ、こいつが今、……ここにいるってことは、——ウォルズが侵入する前から脱獄を繰り返していたのか!?
え、でも8年間檻に閉じ込められてたんじゃ——あれ、閉じ込められているなんてゲームの設定にあったっけ。
あれ、さっき出て来れたとか何とか言ってなかったっけ?
…………だって、捕まってもすぐ脱獄出来るようなヴァントリアが、大人しく捕まってるなんて、おかしくない? 王族の証を手放そうとしなかったヴァントリアが……逃げ出さない訳が——あ。
彼の首筋に輝く銀の鎖を見て、——途轍もない喪失感と、罪悪感が襲う。
「ヴァントリア・オルテイル。君はヴァントリアだよね」
「お前……王族に対して。まあいい、どうせもう会うことはないんだ、無駄話をし過ぎたな。お前には変に素直になれる気がする……。本当に変だ。こんなこと誰にも話したことなんかなかったのに」
「君は43層に囚われて、王族の権利を剥奪された筈だ。どうして、資金なんか使えるんだ、しかも、貴族の奴隷市場なんか、知ってるんだ」
「王族の証のペンダントだよ。これを使えば王族だと証明出来る。貴族とはいえ殆どは王族の顔なんて知らないからな。名を名乗らなくても許される。稀に偉い奴が来てバレそうになるけど、階級は戻されたと言えばいい。勿論嘘だと言われるが、伝達が言っていなかったのかと問えば奴等はプライドで、こう答える。申し訳ございませんヴァントリア様。我々には伝達が多いもので。まだ聞かされておりませんでした。ってな」
「じゃあ、それを手放さないのは……」
「市場へ参加出来る上、これが有れば資金をだまし取ることだって出来る。逆にこれがなかったら俺にはなんの力もないんだ。王族の権利を剥奪されたから、助ける術がなくなってしまった。もう残ってるのはこれだけだ。俺の血と、それを証明してくれる。この、父のくれた王族の証のペンダントだけ。これが有れば何処の層にだって行ける。何処で誰が苦しんでいようと、助けに行ってやることが出来る」
彼の言葉は耳をすり抜けて行っていた、脳が理解に追いつけなかったのか、理解するのを拒んだのか。
俺は、なんてことを。なんて真似を。
見廻りの男に投げた価値のある品物を思い出す。シストが持ち去ったあのペンダントを、ヴァントリアが手放そうとしなかった意味を。
途轍もない後悔が、胸の内を貫いた。
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