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第伍章
108話 桃色の約束
しおりを挟むへなへなと地面に座り込むと、小さな手が視界を塞ごうと自分の真横に伸ばされる——その手を避けて傍観し続ける。
どろどろに溶けていく皮膚をただずっと見つめていた。胸の中で正体不明の感情が渦巻いた。
ショックだった。絶望の底に突き落とされた気分だった。
目の前が真っ暗で何も考えられない。脳を直接殴られる様な衝撃からゆったりとゆったりと後ろに引き摺られる様な気持ちの悪い感覚。
急激に血の気が引き全身の力が抜け、言うことを聞かない身体はまるで自分ものとは思えなかった。寒気が満身を謳歌する。嘲笑いながら胸中で踊り廻っている。目の前の光景を眺めることが苦であるのに、眺め続けることしか出来ない。感覚では顔を逸らしているのに眼前の風景は変わらない。脳は理解をすることを拒み、映像だけが流れ込んでくる。
「ヴァントリア……」
静かな呼びかけがあったが振り返ることが出来ない。
土色の皮膚の表面を泥水の様なものが泡を立てて吹き出る。皮膚の一部に白い歯が不揃いに貼り付いてどろどろに溶けた隙間から赤黒い血液が吹き零れた。僅かに残った睫毛が震えて今にもこぼれ落ちそうな桃色の瞳がこちらを覗いた。
「ラルフ……」
理解をしていない筈なのに、脳はどの様に指示を出したのか、堰き止めていた筈の涙が決壊しボロボロと頰を伝って落ちていく。
溶解し皮膚を焼き腐った身体がどろどろに溶けて身体を保つことが出来ず地面にヘドロの様にへばり付く。睫毛の下の空洞からピンク色の液体が零れ落ちた。
き、き、……と空洞から咽び声が漏れ、歪にひん曲がったどろどろの腕はペタペタと壁を叩く動作を繰り返す。
「なんで……なんで、なんでこんな、なんで」
脳が次第に理解をし始め——やがて涙は頬を濡らすだけでは留まらなくなった。地面を濡らし、襟元を濡らし、拭っても拭って頬を滑り落ちていく。いくら泣いても張り裂けるような胸の痛みは消えてはくれなかった。
「……ラルフ、だったのか」
涙が出る度に余計に息が詰まって苦しかった。
これと似た様な感覚を以前も味わったことがある。桃色の瞳がじっとこちらを眺めている気がして胸がかきむしられ嗚咽が込み上げる。
「君だったのか……あの時の、ご、め、ごめん……助けるって約束したのに……」
また俺は立ち去ることしか出来ないのか。
脳は理解に追いついていた。
追い付かずとも胸は痛んだのに今更気付いたって何も変わりゃしない。
こんなの、あんまりだ。何故こんなことが出来るのか。どうして初めに気付けなかったのか。いや気付いていたとしても俺にはどうしようも出来ない。
何も出来ない、情け無い悔しい。激しい憤りを虚しく感じて涙になる。相手だけでない、自分にも怒りが湧いていた。前世でもこれほどまでに怒りを感じたことなどないかもしれない。
桃色の瞳に触れようと手を伸ばすも、手はすり抜けて地面へ落ちる。両手を床についてラルフの上へ降り注ぐように自分の目から雫が落ちていた。
博士の部屋の下——45層の呪いによって腐らせた身体を必死に引きずる姿。
俺の足に縋った君の姿。美しい桃色の瞳の。
「ごめん……ごめんなさい、助けるって約束したのに——……」
子供は何も言わず隣にやってくる。
彼の肩に縋り付くように顔を埋める。驚いた様に身体をビクつかせたが拒絶はしない。
何かに縋っていないと精神が保てる気がしなかった。
「俺は、何も出来ない……ザコキャラっだから、俺は弱いから。君を守る力も何もない……っ」
小さな冷たい指先が首筋から上へゆっくりと髪を空いた。その手に安心しきって枯れ果てそうだった涙は絞り出され勢いを増す。
「どうして俺は……力がないんだ……っ、どうして守る力を持ってないんだ……っ」
目元を何度拭っても止まらない、痛いくらいに擦ってもどれだけ瞼を強く閉じようとも止みそうにない。言い知れない不安をどうにかしたくて、喉が渇き、引き締められ呼吸のしづらいこの苦しい感じをどうにかしたくて。
小さな身体に縋ろうと、もっと傍によって欲しくて腕で引き寄せる。されるがままでいてくれることがありがたかった。涙と同じく頭を撫でる手は止まらない。
「ふ、ふあ、……ああ、ああ」
小さな肩を肌で感じながら思う。
こんなにも小さい。
子供に縋って号泣なんて、俺はなんて情け無いんだろう。
.。.:✽・゜+.。.:✽・゜+.。.:✽・゜+.。.:✽・゜+.。.:✽・゜+
「——…………ごめん……」
少し冷静になり、離れようとしたが——頭を撫でていた手に引き寄せられ、まだ泣いていいと甘やかされる。恥ずかしくなったが甘えていたいのか、俺はくっ付いたままでいた。
眼前で形の歪なモノヘと変わっていく姿が脳裏から離れない。焼け付いた匂いが、酷い死臭が鼻に付く。
「こんなの、酷すぎる……」
俺の言葉なんて聞こえる筈もなく、ヒオゥネは心底楽しそうな声音で言った。
『貴方は上層部の博士達の失敗作ですが、約束通り僕が最高傑作にしてあげましょう。僕の実験体の素材として44層に保管されていてください』
『えーずるいずるい。こんなに可愛い先輩を独り占めなんてずるいー! そうだ、最後にキスしちゃってもいい? ヒオゥネくん! 先輩とキッスキッス! 長年の夢が今ここにー!』
んーっと唇を突き出して両手を伸ばすが、ヒオゥネに首根っこを掴まれて阻止されてしまう。尖らせた唇を今度は違った理由で尖らせてヒオゥネを不服そうに睨み付けた。
『ヒオゥネくぅん、邪魔しないでくれたら嬉しいなー?』
『触れたらダメですよ。呪いたっぷり付けてるんですから』
『あああ! 先にチューしとけば良かった!』
「——けるな」
「ヴァントリア……?」
何なんだ。
何なんだこいつら、頭が逝かれてるんじゃないのか。何平気な顔してるんだ、何がチューだよ、何が最高傑作だ。
顔を上げて力の入らない足を無理やり奮い立たせる。
「——ふざけ、るな、ふざけるなこの野郎ッ!! ブン殴ってやる——ッ!! 何が、何が失敗作だ……っ、何が、最高傑作だって、ラルフは失敗作なんかじゃない……っ元から、ちゃんと……っ!!」
内側から湧き上がるような激しい怒りに身を任せ、殴り掛かろうとした——しかし、自分の拳は彼らをすり抜けていく。何度立ち向かっても、壁にも彼らにも何にもぶつかる気配は無い。身体がバランスを崩して、地面へ偶に倒れてしまうくらいだ。
くそっと、唯一殴れる地面を叩く。地面を殴りつけた拳が痛みを生じ始めて一層自分に失望した。その拳で依然流れ続ける理由の分からない頬の雫を拭う。
「苦しめたい……そんなの思いたくない、けど、けどこいつらは——何でこんなことが出来るんだ、どうして、だってここに今、ラルフは今までここで」
「だから見てはいけないと言ったんだ」
「見ても見なくても変わらないッ……ここで起きたことは現実だって、現実に干渉は出来ないって君が言ったんだっ!! 君なら干渉出来ると言っただろ、どうして俺には出来ないんだ、君と同じ力があれば、俺はラルフを救えたかもしれないのに……っ」
ヒオゥネ達は用事があると後は処理班に任せようと会話を残して去ろうとしている。
その背中なんかもうどうだって良かった、怒りで拳を振るったのに、一つもかすりやしなかった。助けることも出来なければ、憤ることも出来ない。自分の無力さと——虚しさを思い知らされるだけだ。
ラルフの傍にやって来て膝をつき謝罪の言葉を並べる。謝罪の言葉はこんなにも溢れるのかと、自分自身により心がズタズタにされていく。
『——……ゾ……ゾフ………オフ』
ひゅっ、ひゅっと風を切るような音を立てながら皮膚に空いた穴から言葉にならない声が発せられた。
『ゾフ……ド……フン……』
皮膚と溶け合い融合した筋肉の先に繋ぎとめられた綺麗な形とは呼べない丸い瞳が助けを求める瞳をしていた。
穢れを知らない澄んだ桃色の瞳が光を失い淀んでいく。
その瞳は誰かを探そうと必死に光を求めているようだった。
「…………約束は守るよ、ラルフ」
約束したんだ。
どんな手を使ってでも、君と交わした約束を果たして見せる。
「絶対に、君との約束は守ってみせるから、待っていてくれ」
桃色の瞳が震えた気がした。
ぶら下がった瞳の方だけでなく、真上を向いていた溢れんばかりの瞳がやがてこちらへ視線を向けたような気がした。
美しい澄んだ桃色の瞳にキラキラと光が反射して輝いて見えた。
『……マ、ヘフ』
何やら呟いたが。勝手に返事をされたような気がして変に安心した。
決心を胸に、弱った足をもう一度奮い立たせて地面へ垂直に立ち上がる。
「お願いだ、力を貸して」
身体ごと振り返って小さな彼に手を差し出す。
「ああ。頼まれなくたって君の為なら何だってするさ」
病的なまでに真っ白な、小さな掌が今度は恐れず伸ばされる。冷たい指先が触れて、乱れていた鼓動が落ち着いていく。
「ここから出るぞ、ヴァントリア。決して手を離してはいけない」
「うん」
彼の手に身を委ねれば、弾き出されるように背中を引かれるような感覚が起きる。
記憶の門へ行く。そして、博士もラルフも、ディオンも——みんなみんな、助けてみせる。
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