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2周目(後日談・番外編・その他)
ヤジナの町 ~『エミンの輪』と宿屋(ザファル視点)
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いったん砦に戻り、昼食を取ってからヤジナに向かうことになった。
トゥルガンに副隊長の遺品を見せると、彼もしばし絶句していたが、やがて言った。
「これからヤジナに行くんだろ、軍に届けて。遺族がいるはずだから」
「そうだな、わかった」
俺はそれを荷物にしまい込んだ。墓には骨もなかったはずだ、これだけでも遺族に届くといいが。発見した状況などを手紙に書いて、一緒に持って行くことにしよう。
ふと気づくと、荷物をしまう俺の手元をチヤがじっと見つめていた。
馬に乗り、チヤに手を貸して前に乗せると、俺たちはヤジナに向かって出発した。
「こうやってチヤを乗せるのも久しぶりだなぁ。バルラス卿のところで、乗馬の練習はしたのか?」
「してないです……勉強ばっかりで。乗馬、おぼえないと」
チヤはますます小さくなる。
「少しずつ教えてやる。まあ、ヤジナに行くときは誰かと一緒の方がいいから、俺が行くときは俺と乗ればいい」
「はい、ありがとう。……隊長」
「ん?」
「がっかり、した? 私、人間になっちゃって」
前を見たまま、チヤはそんなことを言った。
「ああ? 何だよ、資料室がどれだけ悲惨だったかお前も知ってるだろ。今は本当に助かってるぞ」
「でも、新しいムシュク・ドストラー、来ない。北側の探索、まだまだ進んでないなぁって、今日ダラに降りてもう一度思った。もっと、探すもの、たくさんあるはずです」
俺はその言葉を聞きながら、考える。
十三年ぶりに副隊長の遺品を見つけてから、チヤは妙に無口だった。彼女のことだ、自分がもっとダラに降りられれば、発見を待っている大事なものを早く見つけられるのに……などと思っているのだろう。
「チヤ」
俺は身を屈めて、顎を軽くチヤの頭に載せた。
「ありがとうな。ここの生まれじゃないお前も一緒に、ダラで起こった出来事を背負ってくれようとしてるんだな」
「そ、そんなすごいことと違うますっ!」
チヤは逆に困ったようで、口調を変えた。
「あー、可愛いムシュク・ドストラー、はやく来ないかな!」
「可愛いのがいいのか」
「かっこいい、でもいいです。砦にいたら、それだけで皆うれしい、きっと。もちべーしょん上がる。可愛いは正義! かっこいいも正義!」
「ふ、ふーん……」
「故郷で、どうぶつの姿になってた男の人のお話があります。お話の最後、美女に愛されて人間に戻るけど、あれも私はどうぶつのままの方がかっこ良かったー」
『ビジョトヤジュ』って言うお話、とチヤはつぶやく。
何だかよくわからんが、小さなドストラーが可愛い、というのはわかる。チヤがドストラーとして来たとき、ナフィーサなんか可愛がり方が尋常じゃなかったもんな。まあ、人のことは言えないかもしれないが。しかし……
「チヤが大人の女性になって現れた時も、何だかいい雰囲気になったと思うけどな。皆がお前を好きだったからな」
俺が言うと、チヤは「ええ?」とびっくりしたように身体をひねって俺を見た。
そして、少し赤くなってまた前を向いた。
可愛い、と思ったのは、チヤが今ムシュクだからなのか、それとも……
夕方にヤジナに入った俺たちは、宿を決めて馬を預けた。
「なあチヤ、部屋のことなんだが」
「はい」
「眠ったら、人間に戻るんだろ。でも、眠るまでは子供のドストラーだ。やっぱり心配だし、子供一人で部屋を取るのは宿の人間もいい顔はしない。悪いが、同部屋にするぞ」
「あ、はい、わかりました」
チヤはうなずいた。子どもの姿の時とはいえ、今までにも何度か俺と夜を過ごす羽目になっているので、特に抵抗はないのだろう。
しかし、目や声の調子が、納得と、諦めと、少しの照れと……色々なものを含んだ表情を持っていて、ああ、自分は以前からこういうところに「大人のチヤ」を感じ取っていたのかもしれないな、と思う。
チヤはそれから少し考えて、笑った。
「入ったときと、出るとき、私、違うひと……ヘン」
「宿代は前払いだから、裏口から出りゃいい」
俺も笑ってそう言った。
部屋に荷物を置き、いったん軍本部に向かう。副隊長の遺品を預け、遺族に届くように手続きをした。
それから、俺たちは南の路地にある『エミンの輪』に向かった。
「うわあ、チヤ久しぶりだねー!」
相変わらず愛想のいいジャンが迎えてくれ、すぐにクオラを呼ぶ。クオラも大喜びで奥から飛び出してきた。
「チヤ! ようこそ! なんで来ない!?」
「ごめん、とっても忙しかった。クオラ元気?」
二人のムシュク・ドストラーが楽しそうにしているところは、とても愛らしい。他の客まで笑顔で眺めている。ヤジナならではの雰囲気ではあるが、『可愛いは正義』、なるほどな。
料理の注文を厨房に通してから飲み物を持ってきたクオラを、チヤは引き留めた。
「あのねクオラ……私、違う仕事、することになった」
「違う仕事?」
クオラの顔が、何か予感したように不安そうになる。
「どんな? どこで?」
「軍の、違う場所の仕事。お、王都のほう。だから……ここ、来れなくなる。ごめんね」
「チヤ……」
可哀想に、クオラは尻尾を垂らし背中を丸め、見るからにしょんぼりしてしまった。チヤも全く同じ様子で、
「私もさびしい」
とうつむく。
「クオラは、文字は書けるか?」
俺は聞いた。
「少し……」
「俺に預ければ、軍を通じて手紙をチヤに届くようにしてやれるぞ」
「わ、私も書く。ね」
チヤが言うと、クオラはチヤの顔を見てようやくうなずいた。
「うん……しょうがない……がんばって、チヤ」
「クオラもね。ここの料理はとっても美味しい、大好き」
「今日もいっぱい食っていきな」
横からジャンが一品目を差し出し、チヤは笑顔で答えた。
「うん。周りのひとにもいっぱい、ここのこと教えるね」
グラスを傾けながら、俺はその様子を見ていた。
次に来るときは、事務官の彼女の姿で、かな。偶然にもチヤと同じ名前で、チヤからここのことを聞いた、と。
彼らとすぐに仲良くなったチヤだ、人間のチヤとしてもすぐに仲良くなれるだろう。
夜も更けて、チヤが少しぼうっとした様子を見せた。久しぶりにダラで活動してからヤジナに来たからか、それとも呪い札で合体した影響か……とにかく疲れているようだ。
俺たちは店を辞した。ジャンもクオラも表まで送ってくれ、チヤと軽く抱き合って別れた。
宿に戻り、湯をもらって顔や手を洗うと、チヤは衝立の陰で大きめの寝間着に着替えた。そして、
「隊長、おやすみなさい……」
と寝台にもぐり込むと、あっという間に寝息をたてだした。
ランプの灯りを小さくし、こっそり観察していると、やがてムシュクの耳がすーっと引っ込んだ。三色だった髪の毛が黒一色になり、毛布の中で身体が少し大きくなる。枕の横に出ていた手が、すらりとした女性の手になる。
たちまちこの部屋は、大人の男女の滞在する部屋になった。
あ、いや、もう一人……もう一匹。毛布の裾から、ひょっこりとチャコが顔を出した。そして、チヤの足下で丸くなる。
「……寝るか」
俺はランプの灯りを消すと、自分の寝台に潜り込んだ。
崖の上で、短刀を持って構えているドストラーがいる。
茶色の耳にふさふさとした尾、黒の軍服。壮年のドストラー。
懐かしい、副隊長だ。
崖の下から、黒い影が飛び出す。巨大なイノシシが二頭、その鋭い牙と爪で副隊長を襲う。副隊長は短刀を振り回して応戦するが、赤いものが飛び散った。
副隊長、と叫び、俺はイートの姿に変身して飛び出そうとした。が、身体が動かない。見上げると、蜘蛛の黄色い腹が見えた。いつの間にか俺の身体はこいつの糸にからめ取られている。
身体をよじって抜け出そうとしながら見回すと、俺の周りに何人もの人間が倒れている。同期の軍人たち、呪術師たち、そして子供たち……ああ、その向こうではトゥルガンまでが巨大なヨーボイに襲われて……
叫び声が聞こえた。はっ、と視線を戻すと、崖から副隊長が落ちていく。下で待ちかまえていたアソシーが、大きな口を開いた。
やめろ!
「隊長!」
はっ、と目を見開くと、心配そうな顔が見えた。
真っ暗な、宿屋の部屋。チヤが膝をついて俺の身体を揺さぶっていた。
「隊長、大丈夫?」
「あ、ああ」
声を出したとたん、自分がイートの姿になっているのに気づく。何てこった、うなされて変身するなんて。
「すまん。……チヤ、大丈夫か」
暴れて彼女に怪我をさせてはいないかと、急いで身体を起こして鼻を近づける。血のにおいはしない。
「私、平気。隊長、悪いゆめ?」
「インギロージャの夢を見た」
言うと、チヤは俺の背中の毛を撫でながら辛そうな顔をする。もしかしたら副隊長の名を口走ったかもしれないから、彼女も察しているのだろう。昼間の出来事が、きっかけになったのではないかと。
「悪いゆめ、よくみますか?」
「いや……そういえば、久しぶりだ。このところずっと見ていなかった」
俺は苦笑する。
「川に落ちたお前と二人で、ダラの底で眠った時でさえ、見なかったんだけどな」
「あのときは、隊長、私を守ってくれてたから。そのきもちが、きっと……」
うまく言葉が出ないのかチヤは黙ってしまったが、微笑んだ。
動悸が落ち着いて来る。俺はうなずき、伏せた状態から軽く身体を倒して腹をチヤに向けた。
「床は冷える、ここ座れ」
本当は、自分の寝台に戻れと言うべきだったのかもしれない。しかし、今はチヤをそばに置きたいと思ったら、自然とそう言ってしまっていた。
おとなしく俺のそばに座ったチヤは、引き続き背中の毛を撫でている。俺は尻尾を持ち上げて、彼女の腰を抱くようにした。ダラの底で、二人で眠ったときのように。
「……インギロージャから長い時間が経ったが、ずっと何も解決しないままだった。俺やトゥルガン、他にも関わった者たちの中じゃ、何も終わってなんかいなかった」
前足に頭をもたせかけながら、俺はチヤに話して聞かせる。
「でも、原因がわかって一段落したことで、区切りだけはついたってことかな。正体不明だった恐怖が、正体のある恐怖だとわかったわけだ。だから、夢を見ることも減ったんだろう。忘れることはなくても」
チヤは黙ってうなずく。
心地よい沈黙。
やがて、俺の脇腹に温かなものが寄り添った。疲れているチヤも、眠くなったのだろう。軽く俺にもたれ、撫でる手もゆっくりになっている。俺はその感覚を、黙って味わった。
チヤの手が止まり、柔らかな重みが寄りかかってきた。
顔をのぞき込むと、彼女は穏やかな表情で眠っている。長いまつげ、わずかに開いた唇、綺麗な顎の線。
ふと、思った。
――こんなのおかしいだろ、出来すぎだ。
ニルファルの術によって、無理矢理こちらに連れてこられたチヤ。人間なのにドストラーの姿になり、それでもまっすぐ生きてきた。
ダラの謎を解く手助けをしてくれ、その直後に今度は人間に。俺たちが必要としていた事務官になって部隊を再び助け、しかも今、こうして俺に寄り添ってくれている。悪夢を追い払おうとしてくれている。
あまりに俺だけに、都合が良すぎる。
神はチヤを、俺のためにこの世界に寄越したんじゃないか……そんな風に、勘違いしてしまいそうになる。
俺は、鼻面をチヤの顔に近づけた。ぺろり、と、彼女の額を舐める。「ん……」とチヤは声を漏らし、俺の毛皮に顔をすり寄せた。
どうしようもなく、愛おしい気持ちが沸き上がった。チヤが俺を、ただのおっさん上司だと思っていたとしても、俺の方はもしかしたら……
眠る彼女の顔を、飽きずに眺める。
「やばいな。こいつの言うこと、何でも聞いちまいそうだ」
こっそり、つぶやいた。
翌朝、目を覚ましたチヤは、自分が俺の寝台に一人で寝ているのに気づいて仰天したらしい。
「た、隊長っ、私何か……ご、ごめんなさい!?」
「いやすまん、寝ちまったお前をお前の寝台に戻してやりたかったんだが、イートの姿だと無理でな。俺の方が寝台を移った」
「あああああ、それもごめんなさい……!」
ひたすら恐縮するチヤを見て、罪悪感を覚える。
本当は、俺は人間になるまで起きていたのだ。そして、チヤに寄り添ったまま、腕を回して髪を梳いて――
――そこで、クドラトの言葉が脳裏をかすめた。
『砦は職場なんですから、こじれないで下さいよ』
そう、チヤが俺を何とも思っていなかったら、俺が不用意に距離を詰めるのはまずい。俺は隊長だから、砦に居づらくなったらチヤが出て行ってしまう。
「やばい」と思って、とっさに離れて寝台を移った。それが真相だ。
「まあ、あれだ。俺はチヤが幸せなら、それでいいんだ」
ははっ、と笑う俺を、「はあ?」とチヤは不思議そうに見ていたのだった。
トゥルガンに副隊長の遺品を見せると、彼もしばし絶句していたが、やがて言った。
「これからヤジナに行くんだろ、軍に届けて。遺族がいるはずだから」
「そうだな、わかった」
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馬に乗り、チヤに手を貸して前に乗せると、俺たちはヤジナに向かって出発した。
「こうやってチヤを乗せるのも久しぶりだなぁ。バルラス卿のところで、乗馬の練習はしたのか?」
「してないです……勉強ばっかりで。乗馬、おぼえないと」
チヤはますます小さくなる。
「少しずつ教えてやる。まあ、ヤジナに行くときは誰かと一緒の方がいいから、俺が行くときは俺と乗ればいい」
「はい、ありがとう。……隊長」
「ん?」
「がっかり、した? 私、人間になっちゃって」
前を見たまま、チヤはそんなことを言った。
「ああ? 何だよ、資料室がどれだけ悲惨だったかお前も知ってるだろ。今は本当に助かってるぞ」
「でも、新しいムシュク・ドストラー、来ない。北側の探索、まだまだ進んでないなぁって、今日ダラに降りてもう一度思った。もっと、探すもの、たくさんあるはずです」
俺はその言葉を聞きながら、考える。
十三年ぶりに副隊長の遺品を見つけてから、チヤは妙に無口だった。彼女のことだ、自分がもっとダラに降りられれば、発見を待っている大事なものを早く見つけられるのに……などと思っているのだろう。
「チヤ」
俺は身を屈めて、顎を軽くチヤの頭に載せた。
「ありがとうな。ここの生まれじゃないお前も一緒に、ダラで起こった出来事を背負ってくれようとしてるんだな」
「そ、そんなすごいことと違うますっ!」
チヤは逆に困ったようで、口調を変えた。
「あー、可愛いムシュク・ドストラー、はやく来ないかな!」
「可愛いのがいいのか」
「かっこいい、でもいいです。砦にいたら、それだけで皆うれしい、きっと。もちべーしょん上がる。可愛いは正義! かっこいいも正義!」
「ふ、ふーん……」
「故郷で、どうぶつの姿になってた男の人のお話があります。お話の最後、美女に愛されて人間に戻るけど、あれも私はどうぶつのままの方がかっこ良かったー」
『ビジョトヤジュ』って言うお話、とチヤはつぶやく。
何だかよくわからんが、小さなドストラーが可愛い、というのはわかる。チヤがドストラーとして来たとき、ナフィーサなんか可愛がり方が尋常じゃなかったもんな。まあ、人のことは言えないかもしれないが。しかし……
「チヤが大人の女性になって現れた時も、何だかいい雰囲気になったと思うけどな。皆がお前を好きだったからな」
俺が言うと、チヤは「ええ?」とびっくりしたように身体をひねって俺を見た。
そして、少し赤くなってまた前を向いた。
可愛い、と思ったのは、チヤが今ムシュクだからなのか、それとも……
夕方にヤジナに入った俺たちは、宿を決めて馬を預けた。
「なあチヤ、部屋のことなんだが」
「はい」
「眠ったら、人間に戻るんだろ。でも、眠るまでは子供のドストラーだ。やっぱり心配だし、子供一人で部屋を取るのは宿の人間もいい顔はしない。悪いが、同部屋にするぞ」
「あ、はい、わかりました」
チヤはうなずいた。子どもの姿の時とはいえ、今までにも何度か俺と夜を過ごす羽目になっているので、特に抵抗はないのだろう。
しかし、目や声の調子が、納得と、諦めと、少しの照れと……色々なものを含んだ表情を持っていて、ああ、自分は以前からこういうところに「大人のチヤ」を感じ取っていたのかもしれないな、と思う。
チヤはそれから少し考えて、笑った。
「入ったときと、出るとき、私、違うひと……ヘン」
「宿代は前払いだから、裏口から出りゃいい」
俺も笑ってそう言った。
部屋に荷物を置き、いったん軍本部に向かう。副隊長の遺品を預け、遺族に届くように手続きをした。
それから、俺たちは南の路地にある『エミンの輪』に向かった。
「うわあ、チヤ久しぶりだねー!」
相変わらず愛想のいいジャンが迎えてくれ、すぐにクオラを呼ぶ。クオラも大喜びで奥から飛び出してきた。
「チヤ! ようこそ! なんで来ない!?」
「ごめん、とっても忙しかった。クオラ元気?」
二人のムシュク・ドストラーが楽しそうにしているところは、とても愛らしい。他の客まで笑顔で眺めている。ヤジナならではの雰囲気ではあるが、『可愛いは正義』、なるほどな。
料理の注文を厨房に通してから飲み物を持ってきたクオラを、チヤは引き留めた。
「あのねクオラ……私、違う仕事、することになった」
「違う仕事?」
クオラの顔が、何か予感したように不安そうになる。
「どんな? どこで?」
「軍の、違う場所の仕事。お、王都のほう。だから……ここ、来れなくなる。ごめんね」
「チヤ……」
可哀想に、クオラは尻尾を垂らし背中を丸め、見るからにしょんぼりしてしまった。チヤも全く同じ様子で、
「私もさびしい」
とうつむく。
「クオラは、文字は書けるか?」
俺は聞いた。
「少し……」
「俺に預ければ、軍を通じて手紙をチヤに届くようにしてやれるぞ」
「わ、私も書く。ね」
チヤが言うと、クオラはチヤの顔を見てようやくうなずいた。
「うん……しょうがない……がんばって、チヤ」
「クオラもね。ここの料理はとっても美味しい、大好き」
「今日もいっぱい食っていきな」
横からジャンが一品目を差し出し、チヤは笑顔で答えた。
「うん。周りのひとにもいっぱい、ここのこと教えるね」
グラスを傾けながら、俺はその様子を見ていた。
次に来るときは、事務官の彼女の姿で、かな。偶然にもチヤと同じ名前で、チヤからここのことを聞いた、と。
彼らとすぐに仲良くなったチヤだ、人間のチヤとしてもすぐに仲良くなれるだろう。
夜も更けて、チヤが少しぼうっとした様子を見せた。久しぶりにダラで活動してからヤジナに来たからか、それとも呪い札で合体した影響か……とにかく疲れているようだ。
俺たちは店を辞した。ジャンもクオラも表まで送ってくれ、チヤと軽く抱き合って別れた。
宿に戻り、湯をもらって顔や手を洗うと、チヤは衝立の陰で大きめの寝間着に着替えた。そして、
「隊長、おやすみなさい……」
と寝台にもぐり込むと、あっという間に寝息をたてだした。
ランプの灯りを小さくし、こっそり観察していると、やがてムシュクの耳がすーっと引っ込んだ。三色だった髪の毛が黒一色になり、毛布の中で身体が少し大きくなる。枕の横に出ていた手が、すらりとした女性の手になる。
たちまちこの部屋は、大人の男女の滞在する部屋になった。
あ、いや、もう一人……もう一匹。毛布の裾から、ひょっこりとチャコが顔を出した。そして、チヤの足下で丸くなる。
「……寝るか」
俺はランプの灯りを消すと、自分の寝台に潜り込んだ。
崖の上で、短刀を持って構えているドストラーがいる。
茶色の耳にふさふさとした尾、黒の軍服。壮年のドストラー。
懐かしい、副隊長だ。
崖の下から、黒い影が飛び出す。巨大なイノシシが二頭、その鋭い牙と爪で副隊長を襲う。副隊長は短刀を振り回して応戦するが、赤いものが飛び散った。
副隊長、と叫び、俺はイートの姿に変身して飛び出そうとした。が、身体が動かない。見上げると、蜘蛛の黄色い腹が見えた。いつの間にか俺の身体はこいつの糸にからめ取られている。
身体をよじって抜け出そうとしながら見回すと、俺の周りに何人もの人間が倒れている。同期の軍人たち、呪術師たち、そして子供たち……ああ、その向こうではトゥルガンまでが巨大なヨーボイに襲われて……
叫び声が聞こえた。はっ、と視線を戻すと、崖から副隊長が落ちていく。下で待ちかまえていたアソシーが、大きな口を開いた。
やめろ!
「隊長!」
はっ、と目を見開くと、心配そうな顔が見えた。
真っ暗な、宿屋の部屋。チヤが膝をついて俺の身体を揺さぶっていた。
「隊長、大丈夫?」
「あ、ああ」
声を出したとたん、自分がイートの姿になっているのに気づく。何てこった、うなされて変身するなんて。
「すまん。……チヤ、大丈夫か」
暴れて彼女に怪我をさせてはいないかと、急いで身体を起こして鼻を近づける。血のにおいはしない。
「私、平気。隊長、悪いゆめ?」
「インギロージャの夢を見た」
言うと、チヤは俺の背中の毛を撫でながら辛そうな顔をする。もしかしたら副隊長の名を口走ったかもしれないから、彼女も察しているのだろう。昼間の出来事が、きっかけになったのではないかと。
「悪いゆめ、よくみますか?」
「いや……そういえば、久しぶりだ。このところずっと見ていなかった」
俺は苦笑する。
「川に落ちたお前と二人で、ダラの底で眠った時でさえ、見なかったんだけどな」
「あのときは、隊長、私を守ってくれてたから。そのきもちが、きっと……」
うまく言葉が出ないのかチヤは黙ってしまったが、微笑んだ。
動悸が落ち着いて来る。俺はうなずき、伏せた状態から軽く身体を倒して腹をチヤに向けた。
「床は冷える、ここ座れ」
本当は、自分の寝台に戻れと言うべきだったのかもしれない。しかし、今はチヤをそばに置きたいと思ったら、自然とそう言ってしまっていた。
おとなしく俺のそばに座ったチヤは、引き続き背中の毛を撫でている。俺は尻尾を持ち上げて、彼女の腰を抱くようにした。ダラの底で、二人で眠ったときのように。
「……インギロージャから長い時間が経ったが、ずっと何も解決しないままだった。俺やトゥルガン、他にも関わった者たちの中じゃ、何も終わってなんかいなかった」
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「でも、原因がわかって一段落したことで、区切りだけはついたってことかな。正体不明だった恐怖が、正体のある恐怖だとわかったわけだ。だから、夢を見ることも減ったんだろう。忘れることはなくても」
チヤは黙ってうなずく。
心地よい沈黙。
やがて、俺の脇腹に温かなものが寄り添った。疲れているチヤも、眠くなったのだろう。軽く俺にもたれ、撫でる手もゆっくりになっている。俺はその感覚を、黙って味わった。
チヤの手が止まり、柔らかな重みが寄りかかってきた。
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ふと、思った。
――こんなのおかしいだろ、出来すぎだ。
ニルファルの術によって、無理矢理こちらに連れてこられたチヤ。人間なのにドストラーの姿になり、それでもまっすぐ生きてきた。
ダラの謎を解く手助けをしてくれ、その直後に今度は人間に。俺たちが必要としていた事務官になって部隊を再び助け、しかも今、こうして俺に寄り添ってくれている。悪夢を追い払おうとしてくれている。
あまりに俺だけに、都合が良すぎる。
神はチヤを、俺のためにこの世界に寄越したんじゃないか……そんな風に、勘違いしてしまいそうになる。
俺は、鼻面をチヤの顔に近づけた。ぺろり、と、彼女の額を舐める。「ん……」とチヤは声を漏らし、俺の毛皮に顔をすり寄せた。
どうしようもなく、愛おしい気持ちが沸き上がった。チヤが俺を、ただのおっさん上司だと思っていたとしても、俺の方はもしかしたら……
眠る彼女の顔を、飽きずに眺める。
「やばいな。こいつの言うこと、何でも聞いちまいそうだ」
こっそり、つぶやいた。
翌朝、目を覚ましたチヤは、自分が俺の寝台に一人で寝ているのに気づいて仰天したらしい。
「た、隊長っ、私何か……ご、ごめんなさい!?」
「いやすまん、寝ちまったお前をお前の寝台に戻してやりたかったんだが、イートの姿だと無理でな。俺の方が寝台を移った」
「あああああ、それもごめんなさい……!」
ひたすら恐縮するチヤを見て、罪悪感を覚える。
本当は、俺は人間になるまで起きていたのだ。そして、チヤに寄り添ったまま、腕を回して髪を梳いて――
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『砦は職場なんですから、こじれないで下さいよ』
そう、チヤが俺を何とも思っていなかったら、俺が不用意に距離を詰めるのはまずい。俺は隊長だから、砦に居づらくなったらチヤが出て行ってしまう。
「やばい」と思って、とっさに離れて寝台を移った。それが真相だ。
「まあ、あれだ。俺はチヤが幸せなら、それでいいんだ」
ははっ、と笑う俺を、「はあ?」とチヤは不思議そうに見ていたのだった。
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狼の子 ~教えてもらった常識はかなり古い!?~
一片
ファンタジー
バイト帰りに何かに引っ張られた俺は、次の瞬間突然山の中に放り出された。
しかも体をピクリとも動かせない様な瀕死の状態でだ。
流石に諦めかけていたのだけど、そんな俺を白い狼が救ってくれた。
その狼は天狼という神獣で、今俺がいるのは今までいた世界とは異なる世界だという。
右も左も分からないどころか、右も左も向けなかった俺は天狼さんに魔法で癒され、ついでに色々な知識を教えてもらう。
この世界の事、生き延び方、戦う術、そして魔法。
数年後、俺は天狼さんの庇護下から離れ新しい世界へと飛び出した。
元の世界に戻ることは無理かもしれない……でも両親に連絡くらいはしておきたい。
根拠は特にないけど、魔法がある世界なんだし……連絡くらいは出来るよね?
そんな些細な目標と、天狼さん以外の神獣様へとお使いを頼まれた俺はこの世界を東奔西走することになる。
色々な仲間に出会い、ダンジョンや遺跡を探索したり、何故か謎の組織の陰謀を防いだり……。
……これは、現代では失われた強大な魔法を使い、小さな目標とお使いの為に大陸をまたにかける小市民の冒険譚!
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