猫の手でもよろしければ(冒頭試し読み&2周目)

遊森謡子

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冒頭試し読み

SAVE・5 峡谷降り口

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 ムシュク・ドストラーの身体になって、人間の時と変わったことといえば、もちろんまずは外見。それから、本能的にドストラーとして動いてしまうせいか、その動きに使う筋肉が鍛えられ始め、とうとう身体が思う通りに動くようになった。今では、二メートルくらいの高さならひとっ飛びで越えられる。夜目が利くし、音に敏感になったかな。
 生活リズムも、少し変わった。日本にいた頃は夜十二時くらいに寝て六時半とか七時に起きてたんだけど、猫の夜行性が影響してるのか、夕方寝て夜中に起きるようになった。まあ、いつでも暇なときは何となく寝ちゃうんだけど。猫だし。
 
 そんなわけで、私は夜中に目が覚めた。
 こちらでは、一日の時間は大きく三つに分かれていて、明け方から昼までが『空の刻』、昼から日没までが『地の刻』、夜は『影の刻』。今は『影の刻』の正中、つまり真夜中だ。
 灯りのない部屋の中は、静かだ。ムシュクの目に映るのは、二段ベッド――上の段は空だけど――に書き物机と椅子、壁の上の方に作り付けてある棚とその下に渡された棒。棒にはハンガーにかけたマントを吊してある。そして、締め切った鎧戸。トイレは共用だ。

 自分のプライベートな空間を持つなんて、久しぶり。お屋敷にいた頃は、食事も眠るのもアルさんの足元で、いつも一緒だったから。ああ、バルラスさんがいる夜はね、ええ、お邪魔なので庭をぶらぶらしてましたけどもね。

 静かに廊下に出ると、すぐそこの階段を上る。上り切ったところの扉のレバーを押すと、すうっと外からひんやりした風が入ってきた。
 砦の歩廊に出る。空にはうっすら雲がかかって、輪郭のぼやけた月が浮かんでいた。月は、日本から見る月と変わらない。それが何だか不思議だった。
 腰の高さの壁から下をのぞくと、裏手は十メートルくらい幅のある岩棚が砦に沿って続いていて、そこから向こうは急激に落ち込んで峡谷ダラになっている。『巨人のランタン』はこの時間までは保たないらしく、ダラは闇に沈んでいた。

 私は、ひょい、と壁を飛び越えた。二階分の高さを落下し、ほとんど音を立てずに岩棚に降り立つ。こんな芸当も、ドストラーならではだ。
「この辺だよね」
 自分の部屋の窓の前で一度立ち止まり、その上のまじない石保管庫の窓を見上げた。両方とも、夜間は内側から鎧戸をしっかり閉めてある。妖魔が入ってきたら困るからね。
 私は砦の壁に沿って少し歩き、壁の出っ張りの陰に座り込んだ。
 この辺が、私の持ち場、ってわけか。今夜妖魔がくるかはわからないけど、しばらくこの辺で気配を消していよう。

 日本に住んでいたころは、まさか自分がネズミ捕りの仕事をするなんて思いもよらなかったな。だからと言って、大して夢とかがあった訳でもないんだけど。

 私が竜巻に巻き込まれたのは、大学四年の秋だ。
 長く続いた不況、就職戦線は完全に買い手市場で、面接を受けては落とされる。それを何度も何度も繰り返すと、「自分は誰にも求められていない」ってどうしても感じてしまって。少しずつ、心が凍っていくみたいだった。
 仕事に夢を持たない娘をもどかしく思う両親に、お小言を言われれば言われるほど自分が無能のような気がして、このままじゃダメだとアパートを借りて家を出た。
 元々アルバイトはしてたから、とにかく生活費……と思って、シフトを増やした。友達と遊んでも愚痴のこぼし合いになるし、卒論はそろそろ追い込みだし、どうにか気分転換したくて、一人で趣味のトレッキングに出かけた。山ガール、なんておしゃれなもんじゃなく、単に一人が好きなだけ。
 日帰りで行ける山を歩き回り、山頂に積み石ケルンを積んで満足して、ふと「何やってんだ、私?」って我に返ったりして。今思い返しても恥ずかしいほど暗い、暗すぎる。

 とにかく卒業だけはして、あとは淡々と暮らそう、と思った。大きな変化は、探しに行かなくたって私の預かり知らぬところからやってくるものだ。天災とか、事故とか、恋愛とか(同列にするのもどうかと思うけど、そういう恋愛しかしてこなかったんだからしょうがない)。何かあったときのためにコツコツお金だけは貯めながら、大人しくやって行こう。

 そんな風に思っていたら、どうよ。
 あらゆる変化がまとめて来たかのように、異世界に来ちゃうという災難が降りかかって来た。

 ……アルさんはとても寂しがりやで、私を常に側に置きたがった。メイドさんみたいな可愛い服を着せられ、彼女の椅子の足下に侍る生活。私の中の「猫」の部分は、そんな生活もまあまあ楽だと感じていたけど、「人間」としての部分は、もやぁっ、とプライドが曇るのを感じていて。

 でも待て。
 人間としてこちらに来たところで、私に何ができる?
 何かできるような能力なんて、持ってたか?

 それに気づいてしまったら、プライドがーなんて思うこと自体、バカみたいだった。
 私なんて、いてもいなくても変わらない。きっと今頃、日本でだって、私がいなくて困ってる人なんかいない。
 それじゃ、どうして私、こっちの世界に来たんだろう? 意味もなく来たの? しかも普通の人間ですらなくなって飼われるっていう理不尽、いくらなんでもないわー。
 
 ところが、だ。
 言葉をだんだん覚えてきたある日、バルラスさんに言われて番猫訓練を始めたら、自分が人間よりずっと高い身体能力を持ってるってわかってビックリ。つい熱心に訓練したら、
『もし私が危ない目に遭っても、チャコがいれば大丈夫ね!』
ってアルさんが私を頼りにしてきて、またびっくり。
 何かを求められることが、嬉しくなってしまったのだ。

 一応人間の部分も残したまま、可愛がられ褒められて、こんな生活も悪くないと思い始めた。どうして異世界に来たのかわからなかったけど、神様が「仕事のできる大人」になろうとして疲れていた私をいったん子どもに戻してくれたのかもしれない、これは休暇なのかも……なんて、理由をつけた。理由がある方が、状況を受け入れやすかったんだよね。
 
 そうしてのんびりと、番猫の仕事をしていたのに。

 思い出に沈んでいた、その時。
 闇の中、きらりと一対の目が赤く光った。
 来たな。
 私は気配を殺しながら、そっと身体を動かす準備をした――

 ――け、結構来るんだ。
 私は軽く息を弾ませながら、自分の足下を見た。
 ネズミスチの妖魔が三匹、ウサギツネトゥクヨンの妖魔が一匹、私のナイフでとどめを刺された状態で動かなくなっている。
 片っ端から倒しちゃったけど、この後はどうすりゃいいのさ。ゲームみたいに骸が消えるわけじゃない、ここに放っておくわけには行かないよな……石、勝手に取り出していいのかな。いくつゲットしたとか、記録は? うーん、夜明けはまだ遠い、誰か起こして聞くわけにも。
 私は迷った末に、
「まあ、猫は猫らしくすればいいか」
と、小妖魔の身体を拾い上げた。

 カーン、カーン。
 朝食の鐘の音に、部屋を出て食堂に向かうと、途中でザファル隊長に会った。
「おう、チヤ、初日から仕事したんだな、ご苦労さん。あのな、お嬢ちゃん」
 隊長は困ったような顔で笑う。
「俺の部屋の前に、スチとトゥクヨンを一列に並べて置いておくのはやめてくれ」
 いや、だって、猫としては戦績アピールはしないと。ねぇ?

 朝食は、ほんのり甘い蒸しパンにチリソースみたいな感じのピリ辛ソースをつけて食べるのと、豆と野菜と干し肉の煮込みだった。
 やばい、美味しい。何なのこの深みのあるスパイス使いは! トゥルガンさんに完全に胃袋つかまれた。ここで働くのって、意外と幸せなんじゃないだろうか。
 そうそう、倒したスチやトゥクヨンをどうするのか聞いてみると、基本的にダラから来たものは石を取り出したら、ダラに返すそうだ。
「厨房の外に置いておいてくれれば、後は俺がやるよ」
 トゥルガンさんがそう言ってくれたし、食事中にふさわしい話題でもなさそうだったので、細かいことは聞かずお任せすることにした。

 食事の後、隊長に呼ばれた。
「時間が余ってる時に身体を動かしたければ、ダラに少しだけ降りて自主訓練してもいいぞ」
だって。
 ホールにはダラ側にも扉があって、夜間は妖魔が入ってこないように閉まっているけど、昼間は鍵が開いている。そこを出ると、昨夜仕事をした岩棚だ。北か南のどちらかに少し行けば、ダラへ降りる入り口として岩の切れ目があった。
「北口も南口も、しばらく降りたあたりまではでかい妖魔は上ってこない」
 隊長が言うので、一緒に南口を降りてみた。岩肌に刻まれた道はジグザグと降りていき、二十メートルほど下に大きな滑車が見える。滑車にはワイヤーでゴンドラがぶら下がっていた。
「お嬢は、このゴンドラ発着所のあたりまでにしとけ」
はいハー。これ、なにに使うか」
「往時は人間も乗ってたし、後は物資を運ぶものだな。今も使ってる。これで降りて、下の方にいる妖魔を倒して、またこれで戻ったりな」
 隊長がゴンドラの脇の小屋を示す。壊れて外れた扉から中を覗くと、ハンドルのついた手動ウィンチがあった。
 ふーん、つまりゴンドラの動く範囲は、道をショートカットできるわけだ。

「で、訓練だがな。お前はもう、狩りの基本はできてるみたいだし」
 隊長が手で示しながら言う。
「この辺の岩壁を、道を使わずに上り下りするだけで、毎日の訓練になるぞ」
 道を使わずに岩壁を上り下り、って……ああ、クライミング! 体験程度だけどやったことがある。ロープを使わないやつはボルダリングって言うんだっけ、岩の出っ張りなんかを利用して手足だけで壁を上るやつだ。今の私には猫爪があるから、人間より楽かも。
「はい。……あ?」
 視界の隅で、チカッ、と赤いものが光った。

 直後、隊長の後ろから一匹のトゥクヨンが飛び出してきた。赤い目、白い息。
 隊長はとっくに気づいていたかのように、スッと向きを変えながら長斧を構え、ブン、と振った。ドゴッ、と一撃でトゥクヨンは岩壁に縫い止められる。

 この間は取り逃がしたなんて言ってたけど、隊長みたいな鍛えられてるっぽい人がトゥクヨンに遅れをとるなんて、おかしいと思ってた。ほら、やっぱり倒そうと思えば簡単に倒せるじゃん。 
 けど……あー、なるほど……
 昨夜の夕食の時にナフィーサさんが言っていたことが、ようやく理解できた。彼女は隊長に、私がここで働けば「呪い石を粉々にしなくて済む」って言ったんだよね。
 隊長は、倒し方が、ナニだったのね。呪い石が粉々になるような倒し方をするからもったいない、と……

 じーっ、と隊長を見る私に、彼は
「ははは」
と意味不明な笑いを返したのだった。
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