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冒頭試し読み
SAVE・2 峡谷の砦(1) ~ズムラディダラ
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シリンカ王国東部、ヤジナの街近郊。
強力な呪い師を多く排出するので有名な土地柄で、様々な不思議を内包する鷹揚さがあるためか、獣人も多く集まる。
ドストラーはほとんどが「イート(犬)」で、増えつつあるもののまだ少ないのが「ムシュク(猫)」。ドストラーは、獣が人間の相棒になりたいと考えて人に近づこうとした姿だ、と考えられているんだそうだ。獣人を表す「ドストラー」という言葉も、元々は「相棒」という意味なんだって。
言われてみれば私の世界でだって、犬は石器時代の昔から人間を助けてきたっていうしね。番をしたり、狩りの手伝いをしたり。猫だってネズミを捕って、結果的に人間を助けて来た。そして今は二大愛玩動物として、人間と一緒に暮らしてる。
でも、そんなドストラーの謂われ、ちょっと人間側に都合がいいような気もするな……と思ったら案の定、こちらの多くの地方ではドストラーの地位はかなり低いらしい。重要な仕事はやらせてもらえないし、はっきりと人間に隷属させられているところもある。
何を隠そう、私もこの姿でこの世界に現れてすぐ、とっつかまって檻に閉じこめられ、売り飛ばされたらしい。その辺のことは実はよく覚えてないんだけど……まあ、猫と合体するなんてとんでもない出来事の直後だったなら、しばらく朦朧としてたとしてもしょうがないよね。
意識がはっきりした時には、既に買い主の家にいて、最初に顔を合わせたのが檻を覗きこむ寝間着姿の男女だった。男性の方はバルラスさん、そして女性の方はアルさんと呼び合っていて、上流階級に所属する若夫婦らしかった。
言葉を学び始めてから知ったんだけど、私を買ったのはバルラスさんだった。若妻アルさんへの贈り物として。
『アルのおかげで、ずいぶん言葉を覚えたようだな。お前は、働かせるために買ったのだ。私の留守の間、彼女の遊び相手をし、側を離れず仕えろ』
この旦那は完全に命令口調だったし私を番犬ならぬ番猫として使えるようにするために部下を使ってめっちゃ扱いてくれてほんとコノヤロウって感じだったけどっ(ゼェハァ)、アルさんはとても優しく、私を可愛がってくれた。まあ、ムシュク・ドストラーとして、だけどね。いつも、
『チャコ、一緒にお散歩しましょ』
って。……うん、「チヤコ」と名乗ったら、言いにくかったみたいでね。「チャコ」って可愛いけど、何となく昭和のにおいのする呼び名……
それはともかくとして。
私がひどくショックだったのは、最初だけとはいえ首輪と鎖を付けられたことだ。おかげで、言葉がわからなくてもドストラーの境遇については嫌というほど思い知ったし、その後繋がれもせず衣食住も満たされている状況がとても恵まれてるんだってこともよくわかった。だから、じっくり様子を見ようと、大人しくバルラスさんの言う通りにした。
アルさんが引きこもりで、ほとんどお屋敷から出なかったので、私もずっとお屋敷で過ごした。敷地が広かったし、外に出るのは怖かったから、引きこもるくらい平気だった。
本当はすぐにでも、『別の世界からやってきて猫獣人になっちゃったんです、本当は人間なんです!』って言いたかった。でも、証拠もないのに言い張ったって信じてもらえないだろう。だって、獣人の境遇から逃れたくて言ってるんだと思われる。
まあ、例え人間の姿でも、言葉が不自由じゃ詳しいことなんか説明できないけど。
きちっと番猫の仕事をして、いつか信頼を勝ち得たら、その時に話せばいい。その頃には、奇想天外な自分の身の上を説明できるくらい、言葉もうまくなっているはずだし。
私はそれを信じて、言葉を学びながら番猫をつとめた。
そうして、もうすぐ三年が経とうかという、ある日。
私は番猫の仕事で、大きな失敗をしてしまった。
自分が情けなくて屋敷にいられなくなった私は、一人、外の世界に旅立った。
あてもなく――というわけでもなかった。
『ドストラーに厳しい地域は多いけど、私の育ったヤジナという町はそうでもなかったわ。人間と同じような仕事をしてた』
以前、アルさんからそんな話を聞いていたのだ。
その時に地図も見せてもらったので、ヤジナのだいたいの場所はわかる。他の町には極力寄らずに農家の人から直接食べ物を買わせてもらったり、野生の果物を採って食べたりしつつ、迷いながらも旅をして二週間、ようやくヤジナ近郊までたどり着いた。
さあ、一からやり直しだ。働きながら誰かの信頼を勝ち得て、その人に相談して、元の世界に――それが無理でも、せめて元の姿に戻る方法を探すんだ。この世界には呪術師がいるから、そういう人とお近づきになれればベスト。
そう思っていたのに。
どーして私、ヤジナから森を越えた先にある、こんな殺風景な荒野に来ちゃったかなあ。
「お嬢ちゃん、到着だ」
男の肩から、ちょん、と下ろされ、私は荒野にそびえ立つその建物を見上げた。
古い、石の砦だ。高さは大したことなくて二階建てだけど、横にすごく長い! まるで壁のように、ややカーブしながら南北に続いている。少し崩れている場所もあるけど、ちゃんと人が住んでいる気配がした。
「ここが、部隊の砦だ」
ザファル氏が言う。
……だから、部隊、って何。あの斧のマークはその部隊とやらのマークなの? 軍隊?
ここまで来たら……とおとなしく彼の後をついて石段を上がり、両開きの扉が開け放たれたままの玄関を入ると、そこはホールだった。真ん中に小さな鐘つき堂があって、奥には閉まった扉がある。
吹き抜けのホールの左右の壁に張り付くように、それぞれ階段があって、階段の上と下にも扉。ザファル氏は「こっちだ」と右の一階の扉を開けた。
廊下が続いている。右側には等間隔で窓が開き、荒野が見えている。左に並ぶ扉を眺めながら奥に進むと、壁が一部切れていて階段になっていた。
階段を上って二階、さらに上ると、狭い踊り場に扉があった。ザファル氏が扉を開けると、風が吹き込んできて薄青い空が見える。屋上だろう。
彼に続いて屋上に出た、その瞬間、私は息を呑んだ。
ようやく、この砦の、そしてこのあたりの土地の全貌が見えたのだ。
砦は、まるで万里の長城のように南北に長く伸びていた。屋上も歩廊とでも言うのか、長い通路のようになっている。
荒野側からは全く見えなかったけど、砦の向こう側は大きく地面が落ち込んで深い深い峡谷になっていた。
そして、そこは丸ごと――
大きな、都市だったのだ。
岩壁にいくつも張り付いた塔は、彫り込んで作ってあるらしい。
そんな塔と塔をつなぐ空中廊下や橋、何かのレール。突き出した岩棚にはオベリスクのようなものがそびえ立ち、不思議な文字が刻んである。
岩の間を縫う細い道、滑車につるされた錆の浮くゴンドラ、静かな水音をたてて流れ落ちる滝、水車。所々に緑の木々も見える。谷底は靄にかすんで見えず、谷を越えた向こう側の山は絶壁になっていて、越えるのは難しそうだ。
そして、その峡谷都市は、眠っていた。
私には、そう見えたのだ。人っ子一人見えず、ゴンドラも水車も動かない。鳥の群が靄の上をさざ波のように静かに横切り、物言わぬ風の落とした小石の音が、コーン……と反響して静けさを深めている。
この都市は、『生活』という動力を奪われて眠る、廃墟なのだ。
「呪い石を知らないなら、この都市のことも知らなかっただろ?」
声もなくその光景を眺める私に、ザファル氏は壁に斧を立てかけながらのんびりと言う。
「ズムラディダラ、と呼ばれる峡谷都市だ。かつては多くの呪術師が集まった、研究都市」
確か、アルさんのアクセサリーの中に、ズムラドっていう緑色の宝石の指輪があったような。このあたりはうっすら緑がかった岩肌だから、その名を冠した峡谷なのかもしれない。そんなことを思いながら、私は聞いてみる。
「けんきゅう?」
「まあ、呪術師たちが自分の技を磨くために、大勢集まって勉強した場所、ってことだ。しかし、『インギロージャ』以来――十三年前に謎の爆発が起こって色々あって以来、妖気の谷と化している」
『インギロージャ』……『崩壊』、かな。そう理解しつつ、聞く。
「ようき?」
「さっきチヤが狩ったトゥクヨン、目が光って口から変な煙を吐いてただろ。このあたりに住む生き物が、ダラの奥まで入り込むと、ダラの奥深くから漏れてる妖しい気を身体に少しずつ取り込んでしまうんだ。すると、そのうち変化を起こして凶暴化したり、自分の身体からも妖気を生み出すようになる」
「あれ、ヤジナの近く、いた」
「うん、取り逃がしちまってな。ちっこいの一匹だし妖気はどうってことないんだが、住民に怪我させるとまずいんで追ってた。ははは」
おいおいザファルさん。私は横目でにらみつつ、言った。
「捕まえる、仕事」
ちゃんと仕事やれよ、という意味と、私に紹介したい仕事ってそれ? という意味と。
彼はうなずく。
「俺たちシリンカ王国軍特殊部隊の仕事だ。俺は部隊の隊長」
……隊長さん、だったのか。
この砦は古い建物で、作られている位置からして昔からずっと、この峡谷を見守ってきたのだろう。そして、都市に人がいなくなった今も。
「トゥクヨンくらいの小妖魔は、取り逃がしやすいんだよな。チヤみたいな、小柄ですばしっこい奴が必要だと思ってたんだ。どうだ、スチ捕りみたいなことやって、給料もらうってのは?」
ははあ、それで私を。
でも、ネズミ捕りみたいなって、簡単に言うけどね。おたく斧持ってんじゃん、でかい妖魔も相手にするんでしょ?
「あぶない」
顔をしかめて言うと、「大丈夫だ、でかい奴は俺たち軍人が狩る」と、ザファル氏――ザファル隊長は軽く両腕を広げる。
「定期的にダラに降りていって狩るんだが、まだ子どものお前はダラの奥まで連れて行く予定はない。子どもがいきなり正規の軍人て訳にはいかないから、準軍人の立場だな。そうすると、今のところはこの砦の周辺と、せいぜいすぐ下あたりまでだけを持ち場にできる。トゥクヨンやスチくらいの大きさの奴しか登って来ねぇよ」
今のところは、ね……って、ええ? 登ってきちゃうんだ?
「この砦の中に、呪い石の保管庫があるんだけどな。その匂いにつられて、ちっこいのが登って来るんだ。石を食って、自分の中の石を大きくして強くなろうってな」
ああ、あの呪い石は、妖気にやられた動物の身体の中で発生するんだ。それを……保管?
「石、あつめてる?」
「そりゃそうだ、高く売れるからよ」
ニヤリ、とザファル隊長。
「峡谷の妖魔狩りは、俺たち特殊部隊が一手に引き受けてっから、それで得られる呪い石も俺たちのもんだ。もちろん、お嬢ちゃんにも分け前やるぜ? たっぷりな」
……なんか、マフィアのボスと話してるような気がしてきた。余裕のある言動もニヒルな笑い方も、それっぽい。
この人たち王国軍だとか言ってたから、悪者じゃないんだろうけど……いやそうとも限らないか、ほら、横領とか横流しとか軍務規定違反とか。
「それ、いいこと? わるいこと?」
「あ? おいおい、俺たちがダラの呪い石を独占してるのは、王家のお墨付きだぞっ」
ホントかー?
「じっとりした目で見んなって。そうだ、よし、証明してやる!」
ザファル隊長は、いいことを思いついた、という風にニカッと笑い、またもやひょいっと私を担ぎあげた。ぎにゃあっ!
でも、今度は荷物扱いではなく、私を肩に座らせるようにして足を支えながら言う。
「王家のお抱え呪術師が駐留してるから、会わせてやろう」
えっ。
王家の呪術師? それってつまり、「すごい」呪術師……?
俄然興味がわいてきて、尻尾をシュピーンと後ろに伸ばしてしまいながら、私はクールに見えるようにうなずいた。
強力な呪い師を多く排出するので有名な土地柄で、様々な不思議を内包する鷹揚さがあるためか、獣人も多く集まる。
ドストラーはほとんどが「イート(犬)」で、増えつつあるもののまだ少ないのが「ムシュク(猫)」。ドストラーは、獣が人間の相棒になりたいと考えて人に近づこうとした姿だ、と考えられているんだそうだ。獣人を表す「ドストラー」という言葉も、元々は「相棒」という意味なんだって。
言われてみれば私の世界でだって、犬は石器時代の昔から人間を助けてきたっていうしね。番をしたり、狩りの手伝いをしたり。猫だってネズミを捕って、結果的に人間を助けて来た。そして今は二大愛玩動物として、人間と一緒に暮らしてる。
でも、そんなドストラーの謂われ、ちょっと人間側に都合がいいような気もするな……と思ったら案の定、こちらの多くの地方ではドストラーの地位はかなり低いらしい。重要な仕事はやらせてもらえないし、はっきりと人間に隷属させられているところもある。
何を隠そう、私もこの姿でこの世界に現れてすぐ、とっつかまって檻に閉じこめられ、売り飛ばされたらしい。その辺のことは実はよく覚えてないんだけど……まあ、猫と合体するなんてとんでもない出来事の直後だったなら、しばらく朦朧としてたとしてもしょうがないよね。
意識がはっきりした時には、既に買い主の家にいて、最初に顔を合わせたのが檻を覗きこむ寝間着姿の男女だった。男性の方はバルラスさん、そして女性の方はアルさんと呼び合っていて、上流階級に所属する若夫婦らしかった。
言葉を学び始めてから知ったんだけど、私を買ったのはバルラスさんだった。若妻アルさんへの贈り物として。
『アルのおかげで、ずいぶん言葉を覚えたようだな。お前は、働かせるために買ったのだ。私の留守の間、彼女の遊び相手をし、側を離れず仕えろ』
この旦那は完全に命令口調だったし私を番犬ならぬ番猫として使えるようにするために部下を使ってめっちゃ扱いてくれてほんとコノヤロウって感じだったけどっ(ゼェハァ)、アルさんはとても優しく、私を可愛がってくれた。まあ、ムシュク・ドストラーとして、だけどね。いつも、
『チャコ、一緒にお散歩しましょ』
って。……うん、「チヤコ」と名乗ったら、言いにくかったみたいでね。「チャコ」って可愛いけど、何となく昭和のにおいのする呼び名……
それはともかくとして。
私がひどくショックだったのは、最初だけとはいえ首輪と鎖を付けられたことだ。おかげで、言葉がわからなくてもドストラーの境遇については嫌というほど思い知ったし、その後繋がれもせず衣食住も満たされている状況がとても恵まれてるんだってこともよくわかった。だから、じっくり様子を見ようと、大人しくバルラスさんの言う通りにした。
アルさんが引きこもりで、ほとんどお屋敷から出なかったので、私もずっとお屋敷で過ごした。敷地が広かったし、外に出るのは怖かったから、引きこもるくらい平気だった。
本当はすぐにでも、『別の世界からやってきて猫獣人になっちゃったんです、本当は人間なんです!』って言いたかった。でも、証拠もないのに言い張ったって信じてもらえないだろう。だって、獣人の境遇から逃れたくて言ってるんだと思われる。
まあ、例え人間の姿でも、言葉が不自由じゃ詳しいことなんか説明できないけど。
きちっと番猫の仕事をして、いつか信頼を勝ち得たら、その時に話せばいい。その頃には、奇想天外な自分の身の上を説明できるくらい、言葉もうまくなっているはずだし。
私はそれを信じて、言葉を学びながら番猫をつとめた。
そうして、もうすぐ三年が経とうかという、ある日。
私は番猫の仕事で、大きな失敗をしてしまった。
自分が情けなくて屋敷にいられなくなった私は、一人、外の世界に旅立った。
あてもなく――というわけでもなかった。
『ドストラーに厳しい地域は多いけど、私の育ったヤジナという町はそうでもなかったわ。人間と同じような仕事をしてた』
以前、アルさんからそんな話を聞いていたのだ。
その時に地図も見せてもらったので、ヤジナのだいたいの場所はわかる。他の町には極力寄らずに農家の人から直接食べ物を買わせてもらったり、野生の果物を採って食べたりしつつ、迷いながらも旅をして二週間、ようやくヤジナ近郊までたどり着いた。
さあ、一からやり直しだ。働きながら誰かの信頼を勝ち得て、その人に相談して、元の世界に――それが無理でも、せめて元の姿に戻る方法を探すんだ。この世界には呪術師がいるから、そういう人とお近づきになれればベスト。
そう思っていたのに。
どーして私、ヤジナから森を越えた先にある、こんな殺風景な荒野に来ちゃったかなあ。
「お嬢ちゃん、到着だ」
男の肩から、ちょん、と下ろされ、私は荒野にそびえ立つその建物を見上げた。
古い、石の砦だ。高さは大したことなくて二階建てだけど、横にすごく長い! まるで壁のように、ややカーブしながら南北に続いている。少し崩れている場所もあるけど、ちゃんと人が住んでいる気配がした。
「ここが、部隊の砦だ」
ザファル氏が言う。
……だから、部隊、って何。あの斧のマークはその部隊とやらのマークなの? 軍隊?
ここまで来たら……とおとなしく彼の後をついて石段を上がり、両開きの扉が開け放たれたままの玄関を入ると、そこはホールだった。真ん中に小さな鐘つき堂があって、奥には閉まった扉がある。
吹き抜けのホールの左右の壁に張り付くように、それぞれ階段があって、階段の上と下にも扉。ザファル氏は「こっちだ」と右の一階の扉を開けた。
廊下が続いている。右側には等間隔で窓が開き、荒野が見えている。左に並ぶ扉を眺めながら奥に進むと、壁が一部切れていて階段になっていた。
階段を上って二階、さらに上ると、狭い踊り場に扉があった。ザファル氏が扉を開けると、風が吹き込んできて薄青い空が見える。屋上だろう。
彼に続いて屋上に出た、その瞬間、私は息を呑んだ。
ようやく、この砦の、そしてこのあたりの土地の全貌が見えたのだ。
砦は、まるで万里の長城のように南北に長く伸びていた。屋上も歩廊とでも言うのか、長い通路のようになっている。
荒野側からは全く見えなかったけど、砦の向こう側は大きく地面が落ち込んで深い深い峡谷になっていた。
そして、そこは丸ごと――
大きな、都市だったのだ。
岩壁にいくつも張り付いた塔は、彫り込んで作ってあるらしい。
そんな塔と塔をつなぐ空中廊下や橋、何かのレール。突き出した岩棚にはオベリスクのようなものがそびえ立ち、不思議な文字が刻んである。
岩の間を縫う細い道、滑車につるされた錆の浮くゴンドラ、静かな水音をたてて流れ落ちる滝、水車。所々に緑の木々も見える。谷底は靄にかすんで見えず、谷を越えた向こう側の山は絶壁になっていて、越えるのは難しそうだ。
そして、その峡谷都市は、眠っていた。
私には、そう見えたのだ。人っ子一人見えず、ゴンドラも水車も動かない。鳥の群が靄の上をさざ波のように静かに横切り、物言わぬ風の落とした小石の音が、コーン……と反響して静けさを深めている。
この都市は、『生活』という動力を奪われて眠る、廃墟なのだ。
「呪い石を知らないなら、この都市のことも知らなかっただろ?」
声もなくその光景を眺める私に、ザファル氏は壁に斧を立てかけながらのんびりと言う。
「ズムラディダラ、と呼ばれる峡谷都市だ。かつては多くの呪術師が集まった、研究都市」
確か、アルさんのアクセサリーの中に、ズムラドっていう緑色の宝石の指輪があったような。このあたりはうっすら緑がかった岩肌だから、その名を冠した峡谷なのかもしれない。そんなことを思いながら、私は聞いてみる。
「けんきゅう?」
「まあ、呪術師たちが自分の技を磨くために、大勢集まって勉強した場所、ってことだ。しかし、『インギロージャ』以来――十三年前に謎の爆発が起こって色々あって以来、妖気の谷と化している」
『インギロージャ』……『崩壊』、かな。そう理解しつつ、聞く。
「ようき?」
「さっきチヤが狩ったトゥクヨン、目が光って口から変な煙を吐いてただろ。このあたりに住む生き物が、ダラの奥まで入り込むと、ダラの奥深くから漏れてる妖しい気を身体に少しずつ取り込んでしまうんだ。すると、そのうち変化を起こして凶暴化したり、自分の身体からも妖気を生み出すようになる」
「あれ、ヤジナの近く、いた」
「うん、取り逃がしちまってな。ちっこいの一匹だし妖気はどうってことないんだが、住民に怪我させるとまずいんで追ってた。ははは」
おいおいザファルさん。私は横目でにらみつつ、言った。
「捕まえる、仕事」
ちゃんと仕事やれよ、という意味と、私に紹介したい仕事ってそれ? という意味と。
彼はうなずく。
「俺たちシリンカ王国軍特殊部隊の仕事だ。俺は部隊の隊長」
……隊長さん、だったのか。
この砦は古い建物で、作られている位置からして昔からずっと、この峡谷を見守ってきたのだろう。そして、都市に人がいなくなった今も。
「トゥクヨンくらいの小妖魔は、取り逃がしやすいんだよな。チヤみたいな、小柄ですばしっこい奴が必要だと思ってたんだ。どうだ、スチ捕りみたいなことやって、給料もらうってのは?」
ははあ、それで私を。
でも、ネズミ捕りみたいなって、簡単に言うけどね。おたく斧持ってんじゃん、でかい妖魔も相手にするんでしょ?
「あぶない」
顔をしかめて言うと、「大丈夫だ、でかい奴は俺たち軍人が狩る」と、ザファル氏――ザファル隊長は軽く両腕を広げる。
「定期的にダラに降りていって狩るんだが、まだ子どものお前はダラの奥まで連れて行く予定はない。子どもがいきなり正規の軍人て訳にはいかないから、準軍人の立場だな。そうすると、今のところはこの砦の周辺と、せいぜいすぐ下あたりまでだけを持ち場にできる。トゥクヨンやスチくらいの大きさの奴しか登って来ねぇよ」
今のところは、ね……って、ええ? 登ってきちゃうんだ?
「この砦の中に、呪い石の保管庫があるんだけどな。その匂いにつられて、ちっこいのが登って来るんだ。石を食って、自分の中の石を大きくして強くなろうってな」
ああ、あの呪い石は、妖気にやられた動物の身体の中で発生するんだ。それを……保管?
「石、あつめてる?」
「そりゃそうだ、高く売れるからよ」
ニヤリ、とザファル隊長。
「峡谷の妖魔狩りは、俺たち特殊部隊が一手に引き受けてっから、それで得られる呪い石も俺たちのもんだ。もちろん、お嬢ちゃんにも分け前やるぜ? たっぷりな」
……なんか、マフィアのボスと話してるような気がしてきた。余裕のある言動もニヒルな笑い方も、それっぽい。
この人たち王国軍だとか言ってたから、悪者じゃないんだろうけど……いやそうとも限らないか、ほら、横領とか横流しとか軍務規定違反とか。
「それ、いいこと? わるいこと?」
「あ? おいおい、俺たちがダラの呪い石を独占してるのは、王家のお墨付きだぞっ」
ホントかー?
「じっとりした目で見んなって。そうだ、よし、証明してやる!」
ザファル隊長は、いいことを思いついた、という風にニカッと笑い、またもやひょいっと私を担ぎあげた。ぎにゃあっ!
でも、今度は荷物扱いではなく、私を肩に座らせるようにして足を支えながら言う。
「王家のお抱え呪術師が駐留してるから、会わせてやろう」
えっ。
王家の呪術師? それってつまり、「すごい」呪術師……?
俄然興味がわいてきて、尻尾をシュピーンと後ろに伸ばしてしまいながら、私はクールに見えるようにうなずいた。
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