ルート・オブ・アッシュの見習い魔女(王国ヴィダルの森の中)

有栖川 款

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ルート・オブ・アッシュの森

ルート・オブ・アッシュの森

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 ラシルが育ったのは、世界樹の根元ルート・オブ・アッシュの森と呼ばれている場所である。
 魔法使いの間ではそれは有名な場所なのだが、誰もどこにあるのかは知らない。
 巨大な世界樹アッシュが中央に聳え、それらを取り囲むように同様の木々が林立している。
 巨大すぎて幹がかろうじて見えるアッシュは、比較的細めの枝が下の方にあるほかは、遥か上空に葉が茂り、一見したところつるりとした木肌のみが見える殺風景な森のようだ。
 地面には巨大な根が張り出し、平らな地面を探すほうが困難なほど起伏に富んでいるが、誰も歩く者などいないから、困ることはない。
 人の気配は殆どない。
 鳥や獣の気配も、驚く程に感じられない。
 しかし、それは僅かな住人にとってはどうでもいいような瑣末なことだ。
 外敵がいない森の中は悠々自適の生活ができている。
 その森に住むのは、世界にその名を轟かせる「ルート・オブ・アッシュの魔女」リコと、その使い魔であるメンディス。そして見習い魔女のラシルのみ。
 日々の生活は穏やかで―――とは少々言い難いが、概ねのんびり、平和な森である。
 たぶん。


   * 


 ルート・オブ・アッシュの森の自宅―――というか師匠であるリコの家は、巨大な樹の上に建てられている。所謂ツリーハウスというやつだ。
 朝起きてからお昼すぎまで、午前中の修行、という名の掃除やら洗濯を終えて、ラシルはホッと一息ついたところであった。
 師匠である大魔女のリコ様は、メンディスがいないせいで部屋に引きこもっているため、鬼の居ぬ間に何とやらである。
 もっとも、ラシルの家事能力が異様に低いので時間がかかるのはいつものことだ。
 それを承知の上で、わざわざラシルに家事をやらせるのだから師匠も人が悪い。魔女だが。
 何せ、自分は家事一切を魔法で済ませるのだから、本来ならこの家には井戸もなければ竈もない。水汲みに行く必要もなければ当然掃除洗濯も必要がないのである。
 さすがに樹の上に建っている家から水を汲みに行くのは無理として、洗濯やお茶を入れるための水は師匠が水瓶に貯めてくれていて、その水は使っても使っても尽きることはないのだが。
 そんなわけで、ラシルはやっと自分のためのお茶を入れて窓辺のソファに凭れていた。お昼時だがラシルは料理を禁止されているため、仕方なくお茶を入れてパンをかじる。師匠の顔は三日ほど見ていない。
 師匠が飽きたロマンスノベルの表紙をめくりながら、もうそろそろかな、とひとりごちる。
 ここしばらく、メンディスの姿を見ていない。
 彼は時折、師匠の命でふらりと森の外へ出るらしい。何をしに行くのかはもちろんその時によるが、ラシルには知らされることもない。ラシルもまた、メンディスがどこで何をしようと気にもならないのだが。
 問題は師匠である。
 メンディスを溺愛(?)している師匠は、彼がいないと物凄く不機嫌なのである。
 酷くラシルにも八つ当たりされるので、毎回びくびくと過ごしているのだが、最近はロマンスノベルにハマって部屋に閉じこもるようになったので少し気が楽になった。
 とはいえ、メンディス不在期間が長くなると持たないので、ひやひやするのは同じことだ。早く帰ってきてくれないかな、といつも思っている。
 今回は少々長い気がする。たまたま師匠がのめり込んでいるロマンスノベルが超大作の長編だから、まだ部屋から出てくる気配はないが、そろそろ限界なのではないだろうか。
 悪い予感は当たるもので、ラシルがパンの最後の一欠片を手にした途端、師匠の部屋のドアがぎいぃっ、と不吉な音を立てた。
(ひっ…!)
 声を出さずに内心悲鳴を上げ、最後の一口を慌てて咀嚼する。ただでさえ師匠が部屋から出てこないせいで気楽な反面お腹が空いているのである。パンだけの食事には飽きたが食べられないよりはましである。
「ラシル…あんたまだいたの?」
(きたー)
 地獄の底から出てきたような声を響かせて、どんよりした空気を醸しつつ真っ黒な髪を振り乱してこちらに向かってくる、大魔女。
「メンディスは…メンディスはまだ帰ってこないの…?」
(ひゃあ――――っ!)
 文字通り家の中に雷が降るか、と身構えた瞬間。
 窓の向こうから、ばさばさばさ、と羽音が聞こえた。
(あああああ、よかったぁ……)
 ラシルが心底安堵の溜息を漏らした瞬間、開け放たれた窓辺に巨大な梟が舞い降りた。
 途端、ぱっと師匠の顔が変わる。
「メンディス!」
 その大きさに反してふわりと軽やかに舞い降りたメンディスは、そのままラシルを飛び越して部屋の中に降り立つ。
 すると。
 一瞬、ふわりとその羽毛が膨らんだように見えて、羽根と同じ色の光を身に纏う。
 それは瞬きするほどの刹那。
 そこには。
 アッシュブロンドの髪は美しい翼そのままに、どこからどう見ても人間の男性が立っていた。
 それもかなり上質である。
 背は高く、ほどよく引き締まり逞しさも兼ね備え、怜悧な印象こそ否めないが非常に整った顔立ち。そして極めつけは、低音の渋くて甘い、胸の奥まで響くような声で、帰還を告げた。
「リコ様、帰りました」
 師匠の顔が見ものだった。もっとも見ることが出来るのはメンディス以外ではラシルだけだが。
 実年齢が定かでない大魔女は、その時々によって印象が変わる。さっきまでのおどろおどろしい黒づくめ魔女(に、ラシルには見えた)が、少女のように満面の笑みを顔に張り付かせてメンディスに抱きついた。
「メンディス! お帰りなさい!」
「はい」
(いつ見てもキモい…もとい、可愛すぎて怖い)
 普段の師匠、つまりメンディスがいる時の師匠は、ラシルとそう変わらない少女に見える。一見したところ二十歳そこそこ、背格好もラシルより少し大きいくらいで小柄なことには変わりなく、ラシルよりは少しお姉さんといった印象。黒く豊かな髪は緩やかなウェーヴを描いて腰まで流れ、黒目がちな大きな瞳は新興国で流行りの美少女画のように睫毛まで豊かだ。
 そしてその小顔の造作もまた、文句なしの美少女のようなのである。
 偉大な魔女の姿としては異様でもある。力のある魔女というものは得てして高齢の女性が多いからだ。
 白磁の頬にはシミ、シワ一つなく、一体この師匠は本当は幾つなのかと考えるだに恐ろしい。
 何故なら。
 ラシルが師匠に引き取られたのは赤ん坊の時で、物心ついた時からの記憶を遡っても、彼女の姿はまったく変わっていないのである。
「しばらくあなたの顔を見れなくてさみしかったわ。お疲れ様! 今日もいい男ね!」
「ありがとうございます」
 二人再会の抱擁で感極まっているところ、ラシルは冷たい視線にならざるを得ないが、それというのも。
 そう。
 ルート・オブ・アッシュの魔女リコの使い魔である筈の「梟」のメンディスは何故か人の形になれるようで、その理由をラシルは知らない。
 梟でいる時の名残を留めているのは、その甘い低音の声と、翼や体毛と同じアッシュブロンドの髪の色ぐらいで―――そして彼はリコの前でしか人間にはならないので、ラシルは梟の姿の彼の方がずっと見慣れていた。
 そもそも、梟が人語を解し話すこと自体、既に異様だとも思うが。
(っていうか…お師匠様、ロマンスノベル好きが高じて使い魔を自分好みにカスタマイズしちゃったんじゃ…)
 もちろん魔法で、と密かに疑惑を抱いているが、それは世界魔道協会の規定からいって違反の筈なので、ラシルは気づかない振りを通している。知らないということが大事な時もある。
「遠かったでしょう? 疲れたでしょう? ゆっくり休んでお話を聞かせて頂戴」
「はい」
 言いながら二人抱き合ったまま師匠の部屋に消えていく。
(……)
(ええっと、えーと、あの、また、っていうか、やっぱり?)
 と諦めにも似た気持ちにはなるがラシルは何となく赤面して俯いた。今出てきたばかりの師匠の部屋のドアがぱたりと閉まる。
(っていうか、まだお昼なんですけど…)
 ラシルは、もぞもぞと一人座ったり立ったりを繰り返していたが、やがて自分の部屋に戻った。
 二人が師匠の部屋で何をしているのかは、正直ラシルにはよくわかってはいないのだが、何となく感じられるものはあって、純情な娘にはいろいろと目の毒耳の毒なのだ。
 だから、その後自分に大きな問題が降りかかってくるなんて思いもしなかった。
 想像さえ、できるわけがなかった。
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