4 / 31
ルート・オブ・アッシュの森
ルート・オブ・アッシュの森
しおりを挟むラシルが育ったのは、世界樹の根元の森と呼ばれている場所である。
魔法使いの間ではそれは有名な場所なのだが、誰もどこにあるのかは知らない。
巨大な世界樹が中央に聳え、それらを取り囲むように同様の木々が林立している。
巨大すぎて幹がかろうじて見えるアッシュは、比較的細めの枝が下の方にあるほかは、遥か上空に葉が茂り、一見したところつるりとした木肌のみが見える殺風景な森のようだ。
地面には巨大な根が張り出し、平らな地面を探すほうが困難なほど起伏に富んでいるが、誰も歩く者などいないから、困ることはない。
人の気配は殆どない。
鳥や獣の気配も、驚く程に感じられない。
しかし、それは僅かな住人にとってはどうでもいいような瑣末なことだ。
外敵がいない森の中は悠々自適の生活ができている。
その森に住むのは、世界にその名を轟かせる「ルート・オブ・アッシュの魔女」リコと、その使い魔であるメンディス。そして見習い魔女のラシルのみ。
日々の生活は穏やかで―――とは少々言い難いが、概ねのんびり、平和な森である。
たぶん。
*
ルート・オブ・アッシュの森の自宅―――というか師匠であるリコの家は、巨大な樹の上に建てられている。所謂ツリーハウスというやつだ。
朝起きてからお昼すぎまで、午前中の修行、という名の掃除やら洗濯を終えて、ラシルはホッと一息ついたところであった。
師匠である大魔女のリコ様は、メンディスがいないせいで部屋に引きこもっているため、鬼の居ぬ間に何とやらである。
もっとも、ラシルの家事能力が異様に低いので時間がかかるのはいつものことだ。
それを承知の上で、わざわざラシルに家事をやらせるのだから師匠も人が悪い。魔女だが。
何せ、自分は家事一切を魔法で済ませるのだから、本来ならこの家には井戸もなければ竈もない。水汲みに行く必要もなければ当然掃除洗濯も必要がないのである。
さすがに樹の上に建っている家から水を汲みに行くのは無理として、洗濯やお茶を入れるための水は師匠が水瓶に貯めてくれていて、その水は使っても使っても尽きることはないのだが。
そんなわけで、ラシルはやっと自分のためのお茶を入れて窓辺のソファに凭れていた。お昼時だがラシルは料理を禁止されているため、仕方なくお茶を入れてパンをかじる。師匠の顔は三日ほど見ていない。
師匠が飽きたロマンスノベルの表紙をめくりながら、もうそろそろかな、とひとりごちる。
ここしばらく、メンディスの姿を見ていない。
彼は時折、師匠の命でふらりと森の外へ出るらしい。何をしに行くのかはもちろんその時によるが、ラシルには知らされることもない。ラシルもまた、メンディスがどこで何をしようと気にもならないのだが。
問題は師匠である。
メンディスを溺愛(?)している師匠は、彼がいないと物凄く不機嫌なのである。
酷くラシルにも八つ当たりされるので、毎回びくびくと過ごしているのだが、最近はロマンスノベルにハマって部屋に閉じこもるようになったので少し気が楽になった。
とはいえ、メンディス不在期間が長くなると持たないので、ひやひやするのは同じことだ。早く帰ってきてくれないかな、といつも思っている。
今回は少々長い気がする。たまたま師匠がのめり込んでいるロマンスノベルが超大作の長編だから、まだ部屋から出てくる気配はないが、そろそろ限界なのではないだろうか。
悪い予感は当たるもので、ラシルがパンの最後の一欠片を手にした途端、師匠の部屋のドアがぎいぃっ、と不吉な音を立てた。
(ひっ…!)
声を出さずに内心悲鳴を上げ、最後の一口を慌てて咀嚼する。ただでさえ師匠が部屋から出てこないせいで気楽な反面お腹が空いているのである。パンだけの食事には飽きたが食べられないよりはましである。
「ラシル…あんたまだいたの?」
(きたー)
地獄の底から出てきたような声を響かせて、どんよりした空気を醸しつつ真っ黒な髪を振り乱してこちらに向かってくる、大魔女。
「メンディスは…メンディスはまだ帰ってこないの…?」
(ひゃあ――――っ!)
文字通り家の中に雷が降るか、と身構えた瞬間。
窓の向こうから、ばさばさばさ、と羽音が聞こえた。
(あああああ、よかったぁ……)
ラシルが心底安堵の溜息を漏らした瞬間、開け放たれた窓辺に巨大な梟が舞い降りた。
途端、ぱっと師匠の顔が変わる。
「メンディス!」
その大きさに反してふわりと軽やかに舞い降りたメンディスは、そのままラシルを飛び越して部屋の中に降り立つ。
すると。
一瞬、ふわりとその羽毛が膨らんだように見えて、羽根と同じ色の光を身に纏う。
それは瞬きするほどの刹那。
そこには。
アッシュブロンドの髪は美しい翼そのままに、どこからどう見ても人間の男性が立っていた。
それもかなり上質である。
背は高く、ほどよく引き締まり逞しさも兼ね備え、怜悧な印象こそ否めないが非常に整った顔立ち。そして極めつけは、低音の渋くて甘い、胸の奥まで響くような声で、帰還を告げた。
「リコ様、帰りました」
師匠の顔が見ものだった。もっとも見ることが出来るのはメンディス以外ではラシルだけだが。
実年齢が定かでない大魔女は、その時々によって印象が変わる。さっきまでのおどろおどろしい黒づくめ魔女(に、ラシルには見えた)が、少女のように満面の笑みを顔に張り付かせてメンディスに抱きついた。
「メンディス! お帰りなさい!」
「はい」
(いつ見てもキモい…もとい、可愛すぎて怖い)
普段の師匠、つまりメンディスがいる時の師匠は、ラシルとそう変わらない少女に見える。一見したところ二十歳そこそこ、背格好もラシルより少し大きいくらいで小柄なことには変わりなく、ラシルよりは少しお姉さんといった印象。黒く豊かな髪は緩やかなウェーヴを描いて腰まで流れ、黒目がちな大きな瞳は新興国で流行りの美少女画のように睫毛まで豊かだ。
そしてその小顔の造作もまた、文句なしの美少女のようなのである。
偉大な魔女の姿としては異様でもある。力のある魔女というものは得てして高齢の女性が多いからだ。
白磁の頬にはシミ、シワ一つなく、一体この師匠は本当は幾つなのかと考えるだに恐ろしい。
何故なら。
ラシルが師匠に引き取られたのは赤ん坊の時で、物心ついた時からの記憶を遡っても、彼女の姿はまったく変わっていないのである。
「しばらくあなたの顔を見れなくてさみしかったわ。お疲れ様! 今日もいい男ね!」
「ありがとうございます」
二人再会の抱擁で感極まっているところ、ラシルは冷たい視線にならざるを得ないが、それというのも。
そう。
ルート・オブ・アッシュの魔女リコの使い魔である筈の「梟」のメンディスは何故か人の形になれるようで、その理由をラシルは知らない。
梟でいる時の名残を留めているのは、その甘い低音の声と、翼や体毛と同じアッシュブロンドの髪の色ぐらいで―――そして彼はリコの前でしか人間にはならないので、ラシルは梟の姿の彼の方がずっと見慣れていた。
そもそも、梟が人語を解し話すこと自体、既に異様だとも思うが。
(っていうか…お師匠様、ロマンスノベル好きが高じて使い魔を自分好みにカスタマイズしちゃったんじゃ…)
もちろん魔法で、と密かに疑惑を抱いているが、それは世界魔道協会の規定からいって違反の筈なので、ラシルは気づかない振りを通している。知らないということが大事な時もある。
「遠かったでしょう? 疲れたでしょう? ゆっくり休んでお話を聞かせて頂戴」
「はい」
言いながら二人抱き合ったまま師匠の部屋に消えていく。
(……)
(ええっと、えーと、あの、また、っていうか、やっぱり?)
と諦めにも似た気持ちにはなるがラシルは何となく赤面して俯いた。今出てきたばかりの師匠の部屋のドアがぱたりと閉まる。
(っていうか、まだお昼なんですけど…)
ラシルは、もぞもぞと一人座ったり立ったりを繰り返していたが、やがて自分の部屋に戻った。
二人が師匠の部屋で何をしているのかは、正直ラシルにはよくわかってはいないのだが、何となく感じられるものはあって、純情な娘にはいろいろと目の毒耳の毒なのだ。
だから、その後自分に大きな問題が降りかかってくるなんて思いもしなかった。
想像さえ、できるわけがなかった。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【コミカライズ2月28日引き下げ予定】実は白い結婚でしたの。元悪役令嬢は未亡人になったので今度こそ推しを見守りたい。
氷雨そら
恋愛
悪役令嬢だと気がついたのは、断罪直後。
私は、五十も年上の辺境伯に嫁いだのだった。
「でも、白い結婚だったのよね……」
奥様を愛していた辺境伯に、孫のように可愛がられた私は、彼の亡き後、王都へと戻ってきていた。
全ては、乙女ゲームの推しを遠くから眺めるため。
一途な年下枠ヒーローに、元悪役令嬢は溺愛される。
断罪に引き続き、私に拒否権はない……たぶん。

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?
おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました!
皆様ありがとうございます。
「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」
眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。
「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」
ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。
ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視
上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。

いっとう愚かで、惨めで、哀れな末路を辿るはずだった令嬢の矜持
空月
ファンタジー
古くからの名家、貴き血を継ぐローゼンベルグ家――その末子、一人娘として生まれたカトレア・ローゼンベルグは、幼い頃からの婚約者に婚約破棄され、遠方の別荘へと療養の名目で送られた。
その道中に惨めに死ぬはずだった未来を、突然現れた『バグ』によって回避して、ただの『カトレア』として生きていく話。
※悪役令嬢で婚約破棄物ですが、ざまぁもスッキリもありません。
※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。
記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
婚約破棄されて辺境へ追放されました。でもステータスがほぼMAXだったので平気です!スローライフを楽しむぞっ♪
naturalsoft
恋愛
シオン・スカーレット公爵令嬢は転生者であった。夢だった剣と魔法の世界に転生し、剣の鍛錬と魔法の鍛錬と勉強をずっとしており、攻略者の好感度を上げなかったため、婚約破棄されました。
「あれ?ここって乙女ゲーの世界だったの?」
まっ、いいかっ!
持ち前の能天気さとポジティブ思考で、辺境へ追放されても元気に頑張って生きてます!
どうも、死んだはずの悪役令嬢です。
西藤島 みや
ファンタジー
ある夏の夜。公爵令嬢のアシュレイは王宮殿の舞踏会で、婚約者のルディ皇子にいつも通り罵声を浴びせられていた。
皇子の罵声のせいで、男にだらしなく浪費家と思われて王宮殿の使用人どころか通っている学園でも遠巻きにされているアシュレイ。
アシュレイの誕生日だというのに、エスコートすら放棄して、皇子づきのメイドのミュシャに気を遣うよう求めてくる皇子と取り巻き達に、呆れるばかり。
「幼馴染みだかなんだかしらないけれど、もう限界だわ。あの人達に罰があたればいいのに」
こっそり呟いた瞬間、
《願いを聞き届けてあげるよ!》
何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。
「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」
義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。
今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで…
ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。
はたしてアシュレイは元に戻れるのか?
剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。
ざまあが書きたかった。それだけです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる