5 / 5
5
しおりを挟む恋心スイッチ。
恋心スイッチ。
コイゴコロスイッチ。
心のスイッチは、いつ入るか誰にもわからない。
ガラス(アクリル板)の向こうで泳いでいる誰かに出逢えたら、触れ合うことができたら、急に意識するのだろうか。
私は、アスカホテルから帰って、昼食時のピークを過ぎた暇な時間にお店の水槽を見つめてぼーっとしている。
見分けなんて当然つかないメダカの群れを、あの子とあの子がカップルになれそうかも、なんて勝手な妄想を膨らます。
「千緒ちゃん、大丈夫?」
きっと何度も言いかけては躊躇っていた店長が、ようやく勇気を出して私に声をかけてくれた。
「何がですか?」
振り返った私の視点は、既に焦点が合っていなかったらしい。
店長は、おもむろに私の額に手を当てて、それから思い切り眉を寄せて溜息をついた。
「…千緒ちゃん、今日は帰りなさい」
「どうしてですか?」
私はぼんやりしていたから、仕事になっていないと思われたんだと思った。
確かに、さっきの彼の言動が何度も何度も頭の中で再生されている。
でも店長は、ふるふると静かに頭を横に振った。
「千緒ちゃん、熱があるよ」
ちょっと言われた意味がわからなかった。
「……はい?」
*
結局、私は三日ほど寝込んだ。
風邪の兆候は一切なかったから、これはいわゆる知恵熱というやつだろうか。
「ご迷惑おかけして、すみませんでした」
三日ぶりにお店に行くと、店長はひらひらと手を振って朗らかに笑った。
「全然いいのよ、そんなこと。元気になってよかったわ」
「お店、忙しくなかったですか?」
アスカホテルでの一件が土曜日だったから、昨日の月曜日はあまだいいとしても、忙しい土曜の午後と日曜日を丸々休んでしまった。
「まぁ、それなりに忙しくはあったけど、お母さんたちが手伝ってくれたから何とかなったし」
「…すみません」
お母さんズに出逢ったら、お礼を言わなくちゃ、と思った。
それより、と店長はこれまた柊子さんが乗り移ったように、にやりと笑った。
「あの日さ、何かあったの?」
どきり、と心臓が鳴った。
「な、何かって何ですか?」
「いやぁ、おかしいなとは思ったんだけど、例の彼がさ、心配してたよ?」
「例の彼って」
「バイク便の彼に決まってるでしょ」
決まってるんですか。まぁ、確かに私が個人的に気にしている特定の人なんて彼以外いないけど。
「心配って……な、何を、ですか」
もう、しどろもどろになって、またまた熱が上がりそうな気がした。
「何って、心配してたのはそりゃ千緒ちゃんの体調だけど、何かあったんでしょ? カマをかけてみたけど、さすがに白状しなかったんだよね」
「……はぁ」
仕方なく、あの日のいきさつを話すと、店長は目を輝かせて両手の指を組んだ。
おお、マリア様! とか言いかねない姿にちょっと引く。
「素敵……何だ、やるじゃない、あのシャイボーイ!」
シャイボーイって、言い得て妙だけど、だいぶ死語じゃないですか。
と、突っ込むのも憚られるほど、店長が夢見る乙女のような表情になっている。
「いいわね、ついに千緒ちゃんにも春が…!」
「そ、そういうわけじゃ」
ないです、という言葉は空気に触れることができなかった。
何故なら。
カランコロン、と軽やかな来店音の向こうには。
やっぱりというか、出来過ぎというか。
彼が、いたから。
*
いつもなら表情だけで、微かな変化を見つけないとわからないような人が。
「あ」
と小さく声を漏らした。
それから、一瞬しまった、というように口を噤むように閉じて、目を伏せた。
これは、一見すると悪いイメージに見えかねないけど、でも多分、照れてる。
無口でシャイで掴みどころのない人だけど、よく観察してると案外表情豊かなのかも。
「あ、いつもので」
照れ隠しか私じゃなく店長を見ながら、そう告げて、いつもの席に着く。
「オッケー。じゃ、千緒ちゃん、あとは……頑張れ」
彼には大きめの声で答えて、それから私を見てわざとらしく目を見開いてにっこりと笑う。あとは任せた、じゃなくて頑張れって、知らない人が聞いたら意味がわからないよ。
でも、私は真面目に頷いてみせた。
「……はい」
いつもなら反論するところが素直に返ってきたので、店長がおや、という顔になる。
それから、どこか私の決意を感じ取ったように、今度はやさしいお母さんの顔になって、或いは恋愛の先輩としての女性の顔になって、静かに頷いてくれた。
お水とおしぼりを持って行くと、彼の方が先に口を開いた。
「体調、もういいの?」
ぼそぼそと、小さな声で。
あの日の態度が嘘みたい。
「はい。先日はありがとうございました」
「…何が?」
そう来るか。でも負けないぞ。
「私が助けていただいたと思うので…ありがとうございます、ですよ」
自覚がないわけじゃないから、そう言うと誤魔化すことにも無理があるようで、
「いや、別に何もしてないし…」
とぼそぼそと口の中で呟いた。
私はくすっと笑って、その場を離れる。ちょうど折りよく他のお客さんが会計に立った。
彼のオーダーができてテーブルに運ぶ。
「どうぞ、ごゆっくり」
「はい」
彼が帰る時に、誰もいないといいな。
彼の心のスイッチを、入れられるかどうかはわからないけど。
シャイな二人では、何か動かさないと何も始まらない。
そう、メダカの群れを隔てたアクリルの板を、外すみたいに。
あ。
彼が食事をしてる間、ふと思い立って店長に提案してみた。
「店長、あのメダカのアクリル板、そろそろ外しちゃ駄目ですか?」
ほんとにお見合い、させましょうよ。
すぐに結果が目に見えてわかるわけでは、ないだろうけれど。
店長は厨房の奥から、どうでもいいような声で、
「いいわよー。千緒ちゃんがやってくれるなら、お願ーい」
と投げやりに答える。
やってくれるならって、板を外すだけじゃないですか。
でも、それでいそいそと水槽に近づいた。早く早く。彼が食べ終わってしまう前に。
私の勇気を、奮い立たせるために。
驚かせないようにゆっくりと水槽の真ん中から板を外すと、両側のメダカがさあっと広くなった水槽を泳ぎ始めた。
メダカの表情なんてわからないけど、すっと世界が広がって自由になったような、気がした。
*
出逢いは春。
いつの間にか、季節は冬の足音を聞くようになっていた。
「ごちそうさま」
ガタンと椅子を引いて、彼が立ち上がる。
「あ、はい。ありがとうございます」
お金をもらって、お釣りを返して、それで。
「あの!」
お客さんが誰もいなくなっていて、ほっとした。
「……はい」
何でしょう、とにやりとしながら、ちょっと逃げ腰みたいな。構えた感じ。
そんな、取って食ったりしません。柊子さんじゃあるまいし、というと叱られるかな。
それは瞬きするくらい短い時間なんだけど、心臓がバクバク踊り狂っているようで。
私は彼の顔を見上げて、彼の心にあるスイッチを思い浮かべる。
それはきっと胸のどこか。
「あの、この前は本当にありがとうございました」
「いや……」
何度も言われると居心地が悪いんだろうな、とは思う。
「私が助かったのは事実なので」
漫画や小説だったら、上手に胸キュンな台詞を返せるだろうに、彼は一般社会の不器用な人なのだ。
だから。
「あの、それで」
そんな彼の心に。
「―――――――お名前、教えていただけませんか?」
――――スイッチ、オン。
*
――――さあ、恋を始めよう。
コイゴコロスイッチ・完
0
お気に入りに追加
2
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。


好きな人がいるならちゃんと言ってよ
しがと
恋愛
高校1年生から好きだった彼に毎日のようにアピールして、2年の夏にようやく交際を始めることができた。それなのに、彼は私ではない女性が好きみたいで……。 彼目線と彼女目線の両方で話が進みます。*全4話

愛のゆくえ【完結】
春の小径
恋愛
私、あなたが好きでした
ですが、告白した私にあなたは言いました
「妹にしか思えない」
私は幼馴染みと婚約しました
それなのに、あなたはなぜ今になって私にプロポーズするのですか?
☆12時30分より1時間更新
(6月1日0時30分 完結)
こう言う話はサクッと完結してから読みたいですよね?
……違う?
とりあえず13日後ではなく13時間で完結させてみました。
他社でも公開
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】王太子殿下が幼馴染を溺愛するので、あえて応援することにしました。
かとるり
恋愛
王太子のオースティンが愛するのは婚約者のティファニーではなく、幼馴染のリアンだった。
ティファニーは何度も傷つき、一つの結論に達する。
二人が結ばれるよう、あえて応援する、と。

私の大好きな彼氏はみんなに優しい
hayama_25
恋愛
柊先輩は私の自慢の彼氏だ。
柊先輩の好きなところは、誰にでも優しく出来るところ。
そして…
柊先輩の嫌いなところは、誰にでも優しくするところ。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる