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しおりを挟むまだ、恋は始まらない。
*
出逢いは春。
透明なガラスの向こう。
例えるなら水槽の中と外。
触れることもなく、語ることもなく、ただ何度も同じ場所を行ったり来たり。
気づかないまま視界に映る、さかなみたいに。
私の心の中の、ガラスの画面に。
たゆたって、さまよって、辿り着いた。
辿り着いて、刻み込まれてしまった。
時間をかけて。
ゆっくりと。
そして。
*
私が働く小さな喫茶店には、意外に大きな水槽が置いてある。
色鮮やかな熱帯魚や、いけす代わりにそのまま料理になる鮮魚などが泳いでいるわけではなく、そこでひっそりと飼われているのは目を凝らさなければ見えないような、メダカの群れだ。
さして目新しくはない、宇宙に行ったメダカの子孫、なんて張り紙もだいぶ色褪せている。
私が子供の頃はメダカの姿が少なくなったと言われていたような気がするけれど、今では結構メダカを繁殖させてるって話も聞く。まぁ、その辺の小川では見かけないのは確かかもしれない。
そんなわけで、メダカたちは今日も存在感薄く、でも空気のようにそこに存在している。
*
お店は朝9時頃から夜8時くらいまで一日中開いているけれど、私が働くのはお昼前から閉店まで。朝が苦手なのでこのくらいがちょうどいいと選んだ職場は、これまた適度に暇で、適度に忙しくて、マイペースな私にはちょうどいい。
「千緒ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
もうお昼だけど店長はいつもおはようと挨拶をするので、私もつられておはようございますと返す。きっと早朝から仕込みをする店長には朝の延長なのだ。
「今日はちょっと忙しいかも」
「車多いですよね」
ここは港へと続く街道沿いにあり、しかも近隣の店舗と共有だけど広めの駐車場があるから、観光で移動する家族連れや大型トラックなども止まりやすいらしく、そういった客層が殆どだ。店内を見ると、まだ11時前なのに結構賑わっていた。
「商売繁盛は結構だけど、あたしはコーヒーを淹れるのが専門なのになぁ」
ぶつぶつぼやく店長の顔は満更ではなさそう。
「店長のご飯、美味しいから」
そう言うともっと嬉しそうな顔になった。
まだ40代半ばの店長は、ご主人を早くに亡くしてから女手一つで二人の子供さんを育てながら、ご主人が残したお店を切り盛りしている。
確かにもともと美味しいコーヒーを淹れるお店だったのだけれど、料理上手な店長の味が人気を呼んでリピーターが意外に多い。
そういう合間にも、カランコロンと店のドアが開く音が響く。
「いらっしゃいませ!」
私がまだエプロンと三角巾代わりのバンダナをつける前だったので、店長が出てくれる。
急いでお水とおしぼりを運ぶ店長の後姿は、一応20代の私よりずっと綺麗で若い、と思う。
「柊子さん、引き止めればよかったですね?」
何となく、戻ってきた店長に肩を竦めてみせると、店長はふっと眉を寄せて、それからくるくると頭を振った。
「ダメダメ! あの子は、もっと幸せになんなきゃ駄目な子だから! こんなところにいつまでも置いといちゃ駄目なのよ」
それはまるで、自分に言い聞かせるように。
こんなところ、というのはお店を卑下した言葉ではなく、こんな一地方の小さな町、ということなのだろう。
柊子さんというのは、この間までここで私と一緒に働いてた30くらいの女性なのだけれど、美味しいコーヒーの淹れ方を店長が直伝した弟子みたいな人。いつか自分の店を持ちたいから、と武者修行(?)のため都会に出たのだ。
「…確かに、根なし草っぽかったですけどねぇ」
さばさばして明るくて可愛い人なのに男運はなかったな、と、もう懐かしく思う自分に気づいてさみしくなった。
過去はすぐに流れてしまう。
私だけが変わらないまま、同じままでいるような錯覚を起こす。
何となく湧き起こってしまう卑屈な気持ちを振り払うように、首をふるふるっと軽く振って、カウンターから店内を眺めてみる。
(あ)
見慣れた席に、見慣れた姿。
(あのひと、また来てる)
常連のお客様は顔を覚えているだけでも何人かいるんだけれど、他愛もない話をすることはあってもそれほど印象には残っていない。
でも彼は。
何となく、何となく気になっている。
例えば、いつも同じ席に座ることとか。
例えば、いつも同じメニューを頼むこととか。
お店に来てからの行動パターンが、判で押したみたいに同じだったり。
奥歯に何か挟まってて、痛いわけじゃないけど気になるような。
うーん、例えが悪すぎるね。
でも、何だかそんな感じの、不思議な感覚の人。
きっと私と同世代、20代後半から30代前半。男の人の年齢って、よくわからないけど。
街道を走るバイク便のバイクを颯爽と駆って、走り抜ける姿は清々しい。
お店に来ると必ず、
「こんにちは」
帰り際には必ず、
「ありがとう」
と、比較的シャイで無口なイメージなのに、きちんと挨拶するのが好感が持てるのは確か。
でも。
「千緒ちゃん、それは恋よ!」
と、柊子さんが声高に叫んでいたけれど、私にはそんな意識はない。
柊子さんは男運がなかったけれど、私は男の人に縁がない。
箱入りに育ったわけでもないのに、子供の頃からの引っ込み思案もあって、今までも知り合いのつてで働いてきたから、そしてそこが見事に女性ばかりの環境だったりもして。
気づいたら、一度もまともな恋愛経験がないまま、27歳独身だ。
まぁ、実年齢よりずっと幼いな、と自分でも思う。
「千緒ちゃんは、ほんとあたしと対極だよね」
いじりがいがないのか柊子さんは、いつもその言葉で締めた。
そこにはほんの少し、苛立ちと、羨望が混ざり合っていたように思う。
それは私も同じで、恋愛に奔放な柊子さんが羨ましくもあり、ハラハラしたりもした。
いつだって、人は無い物ねだりだから。
今の自分が、きっとちょうどいいのだろう。
「千緒ちゃん、レジお願い」
「はい」
走った先には彼がいて、もう少し話したい気がしながらも、結局はいつもの繰り返し。
「1,290円です」
「2,000円お預かりします」
「710円お返しです」
「ありがとうございました」
特別何か言葉を交わすわけでもないのに、酷く緊張してしまう。
彼は、愛想があるわけじゃないけど、何かいつも笑っているような、照れているような表情をしている。
「ありがとう」
そして必ず、そう言って帰る彼をまた、やっぱりいい人、と思ってしまうのだった。
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