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恋の魔法

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「試してみる?」
 なんて言ったのは、ほんの思いつきだったんだけど。
 大げさな比喩でなく本当に、一瞬でゆでだこみたいに真っ赤になったヒロトを見て、しまった、とは思ったんだ。
「な、お、おま、ばっ、ばっかじゃねーの!?」
 捨て台詞みたいに叫んで立ち上がり、その場を逃げ出してしまったヒロト。その大声にさっきの子供たちが何事かとこっちを見てる。
「うーん、ヒロトには刺激が強すぎたかぁ……」
 やれやれ、とあたしは立ち上がってヒロトを追いかけるために歩き出した。
 きっと、チョコちゃんの病室には入れないで立ち尽くしているから。



 親友同士の二人の母親によって、それは間違いなく生まれる前からあたしたちは出逢っていた。そのままむしろ五人きょうだいみたいに仲良く大きくなる可能性もあったけど、あたしの兄であるヒカルちゃんはヒロトのお姉ちゃん、ハルカちゃんと結婚して。
 あたしも、自然にヒロトのことが好きになった。
 それはきっと、生まれる前から決まっていたみたいに、普通に、当たり前のことのように。
 なのに、何と言うかヒロトは今時珍しい純情少年で、ヒロトもきっと同じように思ってくれてると思うんだけど、なかなか白状しない。
 せっかくバレンタインの今日、チョコレートもあげたのに。
 そして思いがけず病気で倒れたヒロトのお母さん、チョコちゃんの跡を継いでパティシエになるって、手作りのチョコレートをヒロトがあたしにくれたのに。
 チョコちゃんの検査待ちの間、時間潰しに来た公園で小さい子供たちがキスしてて、それにあやかって本音を聞けるチャンス、と思ったんだけどな。
 ちょっとからかっただけで真っ赤になってしまうのはヒロトらしくて、だからこそヒロトとも言えて、そんなヒロトだからいいんだけど。そこがまた可愛いんだけど。
 でも、さすがにちょっと、じれったい。
 仕方ない、リベンジはホワイトデーだ。



「ヒナコちゃん、いらっしゃい、一ヶ月ぶりだね」
 パティスリー・ミルのドアを開けるとカランコロンと可愛い大きな鈴が鳴って、大人の男の人の声がかかる。
 声の主は、カウンターの向こうで爽やかに微笑む、チトセさん。チョコちゃんの弟でヒロトの叔父さん。でも、チョコちゃんとは十歳も離れてて独身。チトセさんのお店は今この辺りで美味しいと評判のスウィーツショップなんだけど、人気の秘密は味だけでは絶対ない、と確信を持って言えるくらい、チトセさんはいわゆるイケメンというやつだ。
「こんにちは」
 うん、目の保養目の保養、と挨拶を返して商品を見る。ヒカルちゃんもかなりイケてる、と周りのみんなは言うんだけど、ずっと見てきた兄ではいまいちピンと来ないのが正直なところ。
(あ。もしかして)
 あたしがチトセさんチトセさん、って言うから、ヒロトってばあたしがチトセさんのこと好きだと思ってる?
(有り得る)
 いや、ありえないありえない。
 有り得るって言うのは、ヒロトが思い込んでいる可能性であって、あたしから見るとチトセさんはやっぱりずっと年上の、大人の男の人だ。……さすがにオジサンとは言わないけどさ。
 妄想の海から自分を取り戻して、商品が並べられたケースに視線を戻す。こんなんだから天然とか言われちゃうんだな。
 ケースの中も、外の陳列棚も、ホワイトデー一色の品揃えだった。
 平日の放課後来たのが良かったのか、店内には比較的お客さんも少ない。チトセさんも、普段は奥の厨房でお菓子を作っているけれど、今は他のスタッフが作っているだけみたいだ。
 きょろきょろしてたのが不審だったのか、チトセさんが寄ってくる。
「ヒナコちゃん、もしかしてホワイトデーのお返し? 友達とか?」
 普通はホワイトデーっていうのは、バレンタインにチョコレートを貰った男性が女性にお返しするもんだけど、昨今の事情はバラエティに富んでいる。だから女子がホワイトデーのお菓子を買いに来たってちっとも変じゃないとは思う。チトセさんも、その辺の事情は当然わかっているだろう。
 あたしはきゅっと顔を上げて、背の高いチトセさんを見上げた。
「うん、そうなんです、欲しいものがあるんですけど」
 にっこりと微笑んだあたしに何か感じたのか、チトセさんは大きい目をくるっと動かした。
「実は……」



 何やってんだ、ヒナコの奴。
 最近、どうも行動がおかしい。
 バレンタインが過ぎても、俺たちは変わりなく過ごしていた。どっちも部活も委員会もやってないし、放課後は当たり前のように一緒に帰る。
 俺の気持ちがちっとも伝わってない、と敗北感に陥ったバレンタインだけど、どこかほっとしてる自分もいた。
 このままでいいとは、思ってないけど。
 それが、ここ数日、何故かヒナコは毎日のように、ごめんね用があるから、と言って早々に帰ってしまう。幼馴染みとはいえ、親が親友同士だったからで、家は反対方向なのだ。
 そりゃ、二、三日別行動なんて大したことじゃないとは思うけど、何か隠し事してるっぽい。
「あれ、ヒロト、一人? 嫁は?」
 同級生が面白そうに声をかける。
「……嫁じゃねーよっ!」
 そういやこいつ、アニメとか好きだっけ。何でもかんでもオタク用語使うな。
 というか、それだけ俺とヒナコがいつも一緒にいるからで、きっと同級生の多くは、俺たちが付き合ってると思ってるんだろう。
 何か、くやしい。何がって、事実じゃないことが、だ。
 それもこれも全部ヒナコが鈍いからだ、と思いかけて、考え直す。
 違ぇよな、俺が情けないからだ。
 出来がよくて要領もいい姉貴の下で野生児みたいに育った俺は、ヒナコんちの女性陣も含めて格好のいじられキャラに育った。根拠はわからないが、自覚はある。だから素直じゃなくなったのか、素直じゃないからいじられるのか、そこんところはもはや永遠の謎みたいに、鶏が先か卵が先かみたいな問題だ。
 肩を落としながら帰ると、家の玄関じゃなく、かーちゃんの店から入るのは俺の習慣だ。
 主をなくしてひっそりと静まり返った店内は、さみしい、と泣いているような気がする。早く、一人前になって、俺がいつかこの店を再開するんだって決めてから、俺は毎日気持ちを奮い立たせるために店に入る。埃一つつけないように、錆一つつけないように、掃除をして調理器具を磨く。そして時々、見よう見まねでお菓子作りを最近始めたところだ。
 いつもはここで溜息をついて、一度は家の中に入るんだけど、カーテンがかかって暗い店内の奥、何やら明かりが洩れている。
「……な、何やってんだよ、叔父貴!」
「よ、おかえりヒロト」
 厨房には、カリスマイケメンパティシエ、とか世間で言われているらしい、かーちゃんの弟、チトセが立っていた。ご丁寧に、白衣で。
「叔父貴、何やってんの? 忙しいんじゃねーのかよ、店は?」
「今日はテレビの仕事があったから、お店はスタッフに任せてきたんだよ。帰りに寄ってみたんだけど、厨房見ると何か作りたくなっちゃってさー」
 ははは、と笑う顔が営業スマイルで気に障る。帰りに寄るって、近県とはいえ、都内から来るにはどう考えても遠回りだ。
 俺がむっとしてると、不意打ちで頭を撫でられた。
「厨房、綺麗にしてるな。ヒロトが掃除してくれてるんだって? 姉さんも喜んでるよ」
 本当に不意打ちだったから、俺は突然泣きそうになって、ぐっと堪えた。
「……何、作んの?」
 かろうじて声を絞り出すと、叔父貴は気にもしない素振りでにこりと笑う。
「いや、特には決めてないんだけど、今材料見てたの。あ、そうだヒロト、これやるよ、うちの店のホワイトデー商品」
 と言うと、大きな紙袋から小分けにされたお菓子の袋が出てくる、出てくる。テレビ収録ついでに、バレンタインにもらったテレビ局のスタッフに配ってきた余りらしい。
「お前、義理でもチョコとかもらってないの? お返しに使っていいよ」
「え、マジ? 助かる」
 そういえばホワイトデーのことなんてすっかり忘れてた。いや、覚えてたけどヒナコ以外の分をすっかり忘れてた。俺はとりあえずヒナコ以外にもらったチョコの数を数えて、その分だけもらった。多分義理チョコだろうし、どうせ義理で返すなら、女の子だって高級店のものが嬉しいに違いない。……金はかかってないけど、そこはたいして小遣いももらってない一介の男子高校生、お店のブランド、ネームバリューで許してもらうしかない。
「……お前、マジでそんなにもらってんの?」
 自分でくれるって言ったくせに、眉を寄せる叔父貴が意外に大人気ない。自分だっていっぱいもらってるだろう、と思って考え直す。そういや、カリスマパティシエにバレンタインチョコを贈るような勇気ある女の人って、いるんだろうか。
「義理に決まってんだろ。……あと、もう一個あるけど」
 そう言うと、叔父貴はさすがにぴんときたみたいで、ふふんと笑った。
「ヒナコちゃんか、ヒナコちゃんにはどうすんだ?」
「何か……作ろうかと、思って」
 プロのパティシエの前でこういうことを言うのは結構勇気がいったけど、どうせ俺がパティシエを目指すってことは、ハルカ姉があちこちで吹聴してるに違いないから、きっともう叔父貴の耳にも入ってるだろう。
「教えてやろうか」
 思いがけず優しい声が聴こえて、俺は顔を上げる。
「……いいの?」
 叔父貴のお菓子教室に通おうと思ったら、一回何千円もかかる筈だ。ある意味ライバルの叔父貴とは言え、パティシエとしては尊敬もしてる。
「まぁ、可愛い甥っ子のためだからね、特別」
 棚の中からかーちゃんの白衣を出して俺に投げてくれながら、何作りたい? と聞かれた。
「……バガテール」
「……ああ、なるほど、それで冷蔵庫に苺があったのか。確かに、ヒナコちゃんのイメージに合ってるよね」
 といいつつ、必要な材料と器具を次々棚や冷蔵庫から出し始める。全部、覚えてんのかな?
「俺は手は出さないから、あとはヒロトがやりな」
 一通り、揃えたところで下準備だ。
 砂糖百二十グラム、薄力粉八十グラムはそれぞれ篩っておく。レモンの皮をすりおろす。無塩バター四十グラムは湯せんで四十五度に溶かしておく。苺二パックは洗って、飾り用の五個だけそのままで、他はへたを取っておく。オーブンの天板にパラフィン紙を敷く。オーブンを百六十度から百七十度に温める。
 それから、やっと工程に入る。
 まずはスポンジ生地作りだ。
 ボウルに卵百四十グラムと、卵黄七十グラムを入れ、軽くほぐす。そこに篩った砂糖を一度に入れて、泡立て器で軽く混ぜる。
「砂糖に卵をなじませるように」
 (きっと)必死の形相の俺に、叔父貴がそっと付け加えた。砂糖に卵をなじませるって、わかるようでわかんねぇな。
 レモンの皮のすりおろしを加えて、そのボウルを湯せんにかける。
「卵黄が多いから、お湯が熱いと固まるぞ」
 それで人肌ぐらいの温度になるまで泡立てる。
「もうそろそろいいかな」
 湯せんから外し、泡立て器でボウルの両面を大きく往復させ、すくった生地がリボンを描けるようになるまで十分泡立てる。
 篩った薄力粉を少しずつふり入れながら、木べらで練らないように合わせる。粉が全部入ったら全体に艶が出るまで手早く合わせて粉っぽさをなくす。
溶かしたバターを加え、下から上へと軽く混ぜる。
 天板に生地を一気に流し入れる。天板の隅々までカードで平らに伸ばし、百六十度から百七十度のオーブン中段で十五分から二十分、二枚天板で焼く。
 オーブンに天板を入れて、俺は大きく息をついた。
「ヒロト、もしかして何回も練習した? 思ったより手際がよくてびっくりした」
 叔父貴がまんざらお世辞でもなさそうに褒めてくれて、俺はちょっと照れる。
「……そうかな」
 焼きあがったら紙ごと天板から外す。意外にうまく焼けて、ほっとした。
「上からクリーム塗るから、出来上がりを綺麗にするために、表面の薄い皮をはがすんだよ。冷めると綺麗にはがれないから、熱いうちにはがして、網に載せて冷ますの」
「あ、はい」
 薄い皮をはがすのが結構難しくて、ここはちょっとだけ叔父貴に手を貸してもらった。
 生地が冷める間に、水百二十五ccに砂糖五十グラムを入れて煮立てて冷ましたシロップ五十ccに、キルシュワッサー二十五ccと、水百二十五ccを混ぜた液を作る。これはあとから生地にたっぷり染み込ませるんだ。で、それから生クリーム四百五十ccに砂糖三十グラム、オレンジキュラソー二十五ccにバニラエッセンスを少々入れてよく冷やしながら泡立て器で十分にホイップする。
「よし、もう生地も冷めたよ。十八センチ角二枚に切って」
 正方形に切るのって緊張するよな。切った生地それぞれにさっき作ったシロップを塗り、その内の一枚にホイップクリームを全面にまんべんなく塗る。
「じゃあ、ここ丁寧にやらないとね」
 苺を、クリームを塗った生地の上に、四隅から少しはみ出すくらいに整然と並べて、上からまたクリームを塗る。
「そこはさ、苺の凸凹があるから、その隙間を埋めるようにクリームを塗るといいよ」
 まだちょっと使い慣れないパレットナイフで何とかクリームを全体にのばすと、上にもう一枚のスポンジ生地を乗せる。
「はみ出したクリームを間に埋め込んで、ちょっと表面を平らにする重しをのせるといいんだけど……」
 叔父貴はそう言うと、まな板代わりに使ったりもする木の板を見つけて、生地の上に置くと軽く押した。
「軽くでいいんだけどね」
 そして上になったスポンジの表面にもシロップをたっぷり塗る。
「本当ならここで、ラップして一晩寝かすとクリームが落ち着くんだけど、今日はこのまま継続な」
「あ、うん」
 残ったクリームを軽く泡立てて表面に塗ると、ギザギザのカードで波型をつけていく。
「叔父貴、これ、ムズい!」
「ホイップのデコレーションと違って、失敗してもやり直せるから、何回もやり直せばいいよ」
 面白そうににやにやする叔父貴に、俺はむきになってケーキを睨む。ぐにゃっとなったら平らなカードでもう一度クリームを均し、波型をつけていく。二、三回やり直して何とかまぁまぁ見える程度にはできた。
「うん、上出来じゃないか」
 側面の綺麗じゃない部分をカットする。
「包丁を熱湯につけて暖めて切ると綺麗に切れるんだよ」
「あ、ほんとだ」
 四辺を全部切り落とすと、上下二枚のスポンジ生地の間に、綺麗な苺の断面と真っ白なクリームが現われた。
「できた……」
「まだだよ、最後の仕上げが残ってるだろ」
 飾り用の苺を中央に、へたの部分を外側に向けて五つ、放射線状に並べたら、やっとバガテールの完成だ。
「……バガテールって、情事って意味なんだけど」
 叔父貴がぼそっと呟いて、俺は仰天する。
「え、そ、そうなの!?」
 そういうことは、先に言ってくれよ!
 顔を上げた俺に、叔父貴は破顔した。
「でも、見るからにそういう感じじゃないよね、このケーキ。俺はもっと、初恋のような初々しい感じがするよ。それこそ、さっきも言ったけど、ヒナコちゃんのイメージにぴったりだと思う」
 他の家族の例に洩れず、いつもはみんなと一緒に俺をいじったりからかったりする叔父貴が、今日は妙にやさしくて、俺は何だか背中がムズムズした。でも、いい機会だから、聞いてみたかったことを口にする。
「あのさ、叔父貴はなんでパティシエになろうと思ったの?」
 俺より十五センチは高い身長を見上げて(何で俺の身内は長身のイケメンが多いんだ)まっすぐに問うと、叔父貴はちょっとびっくりした顔をして、少し照れたように話し始めた。
「うーん……それは多分、ヒロトとあまり変わんないと思うよ」
「……どういう意味?」
 意味がわからなくて問い返すと、叔父貴は隅に置いてある休憩用の椅子を引っ張り出してきて座り、もう一つの椅子を俺にも勧めた。
「魔法使いになりたかったんだよね」
「はあ?」
 いい歳した大人がそういうこと言うと何か無性に恥ずかしいんだけど。でも叔父貴は真面目な顔で俺を見る。
「姉さんが製菓学校に通ってた頃、俺はまだ小学生でさ。ある年の誕生日に、すっごく大きいバースデーケーキを作ってくれたんだよ」
「……うん」
「それまでももちろん、まぁ半分は試食係なんだろうけど、いろいろお菓子を作っては食べさせてもらってたんだけど、その時初めて、最初から最後まで作るところを見せてもらって」
 若かりし日のかーちゃんと、子供だった叔父貴の姿は今一つ想像できなくて、俺の想像の中ではハルカ姉と俺の姿に変換されてたけど、何となくイメージはできてくる。
「その時にさ、姉さんの手際とかもそうだけど、オーブンの中でみるみる膨らんでいくスポンジとか、その上にくるくる生クリームを塗ってく様子とか、細かい模様の口金の絞り出し袋から出たクリームが綺麗に形になっていくところとか、もう子供心に感動しちゃってさ」
 それは、わかる。俺もかーちゃんの姿を見て、目をきらきらさせていた子供だったから。
「それで思ったわけ、お菓子作りって魔法みたいだな、俺の姉さんは魔法使いみたいだ、ってさ」
「……俺も、魔法使いに、なれるかな」
 思わず呟いてしまった言葉に、叔父貴は一転にやり、と嫌な笑い方になった。
「今日の出来なら十分、魔法使えたんじゃない? 恋の魔法だね」
「こ、恋って……」
「だってヒナコちゃんにあげるために作ったんだろう? まぁ、今日のはヒナコちゃんからのお返しでもあるんだけど」
 最後の台詞は意味がわからない。
「何でヒナコが出てくんの」
「ヒナコちゃん、もういいんじゃない?」
 叔父貴が店の方に向かって声をかけると、そろっと厨房に顔を出したのは間違いなくヒナコだった。
「な、な、何やってんだ、ヒナコ!?」
「チトセさん、ありがとうございました」
 厨房に入ってきたヒナコは、叔父貴に腰を九十度曲げてお辞儀する。
「……どういう、ことなんだよ」
「今日の特別講習は、ヒナコちゃんからのリクエストでした」
 それだけ言うと、さあ帰ろう、と立ち上がる。
「ちゃんと言わないと伝わらないこともあるんだよ」
 叔父貴は俺の頭をぐりぐりしてから、颯爽と背を向ける。
「ケーキだけじゃなくて、言葉にも魔法はあるんだからさ」
 頑張れ、と右手をひらひらさせて、呆然としてる俺を置き去りにして店を出て行った。
「ヒロト、ごめんね勝手なことして」
 俺はまだよく意味を理解していない。
「あのね、あたしもヒロトにホワイトデーのお返しをしたかったんだけど、普通に買ってあげるのはつまんないし、あたしはお菓子作れないし、ヒロトが一番嬉しいことって何かなと思って」
「それで、叔父貴に?」
「そう、チトセさん忙しい人だから、悪いなぁとは思ったんだけど、ヒロトのためだから喜んで引き受けてくれたんだよ」
 やられた。
 まっすぐにしか考えられない俺より、ヒナコの方が一枚も二枚も上手だったというわけだ。
 俺は嬉しいのと悔しいのと、ごちゃ混ぜになった気持ちを持て余して、でもまっすぐに俺を見るヒナコを見て、気づいたんだ。
 バレンタインの時、照れくささばかりが先行して、ヒナコの気持ちがわからないなんて勝手に思い込んで。
 でも本当はそうじゃなかった。
 俺がただ一言、伝えればいいだけのことだったんだ。
「……ありがとう、ヒナコ」
「ううん、こちらこそ、ありがとうヒロト。あたしチトセさんにお願いしたけど、それがあたしのために作ってくれるケーキとは思ってなかったよ」
 そう言うと、さっき出来上がったばかりのバガテールを見る。
「すごい、可愛い! 美味しそう!」
 食べていい? と聞くヒナコに頷こうとした時、家の中からとーちゃんの声が聞こえてきた。
「おーい、ヒロト? まだお菓子作ってんのか? あれ、ヒナコちゃんいらっしゃい」
「お邪魔してます、おじさん」
「ちょうどよかった、ご飯食べていかないかい? 今日はすき焼きだよ」
「いいの? 嬉しい!」
「偉い豪華だな」
「ハルカが持ってきてくれたんだよ、スタミナつけないと父さんが倒れたらいけないからって、美優さんが気を遣ってくれたみたいで。ヒロトと二人じゃさみしいしなぁ、ヒナコちゃんいたらおじさんも嬉しいよ」
「悪かったな」
 でもまぁ、そういうことならどうせヒナコんちの肉みたいなもんだ。
「早く片付けて、上がってこいよ」
 とーちゃんはそう言うと、住居の方に戻っていく。かーちゃんが倒れてから始めた家事も、エプロン姿も結構様になってきた。
「わかった」
 そう言って、厨房に残った調理器具やボウル類を、洗ったり拭いたりして片付ける。スポンジを焼いてる間にあらかた片付けてはいたから、そんなに量はない。ヒナコも手伝ってくれた。
「じゃあ、ケーキ食後に食べようよ」
「うん……」
 そう言って大事そうにバガテールを抱えたヒナコの後ろ姿に、俺は思い切って声をかける。
 たった一言でいいんだ。
 大事に作ったケーキみたいに、魔法がかかるに違いない。
 かーちゃんの魔法が、叔父貴や俺の目を輝かせたみたいに、ほんの少しの勇気が、たった一つの言葉が、ヒナコの笑顔を輝かせるんだ。
 それを、俺は信じてなきゃいけなかったんだ。
「ヒナコ」
「何?」
 振り向いた笑顔に、叫ぶみたいになってしまった。けど。
 次の瞬間、ヒナコは笑ってくれた。眩しいくらいの、笑顔。
 ――――魔法が、かかった。





   恋の魔法・完

 
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