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昨春~昨秋
昨春~昨秋 2
しおりを挟むそれは時間にしてみれば、ほんの数秒だったのだろうと思う。でも、少女漫画なら周りの景色が消えて、二人だけの世界になっているような、そんな光景のような錯覚を起こした。はい、すみません、オタクなもので、発想が二次元的ですが何か?
などと頭の中では面白おかしく突っ込んではみるものの、実際は思考も固まってしまうようだった。
やがて、ハッとしたように我に返った店員さんが、気まずさを一瞬で覆い隠して仕事モードの笑顔になった。
「すみません、何かお探しですか?」
ワンテンポ遅れてトク子さんも我に返り、ふるふると首を横に振った。
「い、いえ、大丈夫です!」
と言ってそそくさとその場を離れ、アルバイト情報誌などには目もくれずいつもの漫画コーナーに行き、見るともなしに見て、落ち着かなくてお店を出てしまった。本屋に来てものの数分で出るなんて日頃ではありえないことだ。
(何だったんだろう、あれ……)
どう考えても店員さんが固まる理由を思いつかなくて、頭の中がぐるぐるする。
(……もしかして、まさかとは思うけど、私に一目惚れしたとか……?)
そんな少女漫画みたいな。
しかし、さすがに自己肯定感の低さでは定評のあるトク子さん、そんな自分に都合のいい解釈を採用する勇気はさらさらなかった。
(いやいやいやいや、それはない! 断固としてない! っていうか、そんな発想してごめんなさい!)
誰に言い訳するわけでもないのに必死に否定して、別の可能性を考える。
(あ! 何か、おかしかったんだろうか、洋服にゴミがついてるとか、クリーニングのタグが付いてるとか、裏返しに着てるとか!)
と慌ててトイレに駆け込み検分する。本屋のトイレが店内ではあるが内ドアを出たところにあったので、お店の中に戻らなくてよかったので助かった。
(……よかった、どこもおかしくはなかった)
そもそもクリーニングに出すような服を着ていないので可能性の二番目は初めからないのだけれど、ゴミもついておらず、裏返しや後ろ前にも着てはいなかったので安心した。
(でも、だったらなんでだろ)
どうにも解せず、もう一つの可能性に気づいてぞっとする。
(ま、まさかと思うけど……あの店員さん、視える人で、あたしに何か……憑いてるのが見えたとか!?)
いやあああ、と声に出さずに心で叫び、悶絶する。
とにかくここを離れよう。妄想が過ぎる。
トイレを出て外側のドアを出て、小走りで本屋から遠ざかってやっと一息ついた。
(……まぁ、気のせい、気のせいだよね。自意識過剰すぎる……)
何か理由はあるかもしれないが、トク子さんとは無関係のことかもしれないのだ。そう結論づけた。
(はあ、挙動不審じゃなかったかな、またあの本屋に行きづらいな……)
もちろん書店は他にもあるのだけれど、トク子さんの自宅から一番近く、どこへ出かけても大体通り道にあるので少女の頃からの行きつけの店舗なのだ。
そして自意識過剰すぎる、と言った自分の思考を思い出して、大丈夫か、と諦めのような溜息が出た。
(たくさんいるお客さんの中で、いちいち覚えてないよね)
ああ、今日は忙しかった。自分の頭の中が。
普段は殆ど人とも接することがなく、変化にも乏しい生活をしているから、ちょっとしたことが大きな刺激になる。
トク子さんはまだちょっとドキドキする胸を押さえながら、家に帰ることを思うともやもやし始めて、それでも仕方なく帰路についた。
数日後。
そろそろ貯金が底をつく、と焦る気持ちが高まる割に一向に再就職を決められないトク子さんだったが、好きな漫画家さんの新刊が出るのでそれだけは外せないと再び書店にやってきた。
目当ての本を取って、それからいつものルーティンでぐるりと店内を回る。興味を惹かれた本や雑誌を手に取って軽くパラパラと立ち読みする。その日は他に欲しいものがなかったので、小一時間ほど『本屋』を堪能してレジに向かった。
(あ)
しまった。
たまたま、そのタイミングでレジに立っていたのは例の男性店員さんだったのだ。
(どうしよう、もうちょっと粘る?)
と思ってはみたものの、どれだけ待てば他の店員と交代するかわからないし、場合によっては交代したばかりとか、このあと数時間レジにいる可能性もある。諦めてトク子さんはレジに向かって本をカウンターに差し出した。そうそう、私のことなんて覚えてないよ。
「いらっしゃいませ」
てきぱきとバーコードを読み取ってレジを操作して、金額を提示してくれる。
ほら、全然、普通じゃないですか。
ほっとしたのか、がっかりしたのか自分でもわからずに、トク子さんは何だか勝手に傷ついたような気持になってしまった。それが被害妄想だって、わかっている。どうしてこうも感情の振り幅が大きいんだろう。店員さんには何の落ち度もないのに、一人でぐるぐると考える癖が抜けない。
お金を出して、お釣りをもらって、本を受け取って、店員さんの顔を一度もまともに見れずに帰ろうとした、その時だった。
「これ、よかったらどうぞ」
と、レジ横に置いてあった販促用? の栞を差し出して、にこりと微笑む。
「あ、ありがとうございます」
受け取って外に出て、微笑んでもらっただけでちょっと嬉しくなった自分にも気づいて、あれ、これって、あたしが一目惚れされたというより、まるであたしがあの人のことを好きになったみたいじゃない? と動揺が襲ってきた。
トク子さんは、恋愛対象は男性だと思っているけれど、実際にお付き合いをしたことはなくて、かといって二次元の男の子にそれほど夢中になるわけでもなく、でも、案外惚れっぽいところがある。子供の頃から同級生や先輩など、次々憧れては恋に恋する気分になるのだ。それは相手と向き合わなくていい、一人の世界の恋だから、それだけでときめくことができるのは簡単で楽なことだ。でも、実際に向き合って付き合いたいと思って行動するわけではないのに、ちょっとしたことで勝手に傷ついたり失恋したりする。そんな繰り返しだった。
(あああああ、また悪い癖が出ちゃったよ、やめよやめよ)
いつからか、そんな自分に気づいて、恋は諦めたのだった。人間関係は苦手すぎて煩わしい。感情が揺さぶられすぎてしんどい。友達付き合いも同じで、表面だけ合わせて距離を置いて、必要以上に親しくならないほうがいい。
(だって、どうせ、変わってるって言われるんだから)
トク子さんは、普通になりたい、普通でいたい、といつも思っている。
普通に仕事ができて、友達付き合いができて、恋愛もするなら普通に出来て、普通に、困らない人生を送れたらいい。
普通ってどういうものなのかよくわからないけれど、世間の人たちは少々悩みがあっても概ね楽しそうに見える。
トク子さんは、心から楽しいと思ったことがないのだった。
(ああ、でもこれからどうしたらいいんだろう)
仕事のことを考えると気が重くなってきて、胸が苦しくなる。あんまり悩むと鬱病とかになるのかな? でも、そこまで深刻にもなれない能天気さが駄目なのかな? 堂々巡りの思考が回る。
とぼとぼと歩きながら、もらったままきつく握りしめていた栞をしまおうとバッグを開いて、そこで初めて気づいた。
トク子さんは店員さんがサイズや形の違う栞を二枚くれたのだと思っていたのだけれど、一枚は栞じゃなかった。
『よかったら、連絡ください』
と書かれたメモと、氏名、電話番号、メールアドレス、チャットアプリのアカウントまで記載された名刺のようなものだった。
(ええええええ!?)
今度こそ、本当に動揺するトク子さんだった。
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